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第8話:王太子の嫉妬と暴走
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公爵邸での夢のような時間から戻り、私が自邸の玄関をくぐった瞬間だった。
空気が、重い。 屋敷中の空気が、鉛のように張り詰めていた。 出迎えるはずの侍女たちの姿がない。執事もいない。 ただ、広間の奥から、猛獣の唸り声のような足音が近づいてくる。
カツ、カツ、カツ、カツ!
その足音のリズムだけで、私は胃の中のものが逆流しそうになった。 間違いない。 「太陽」が、降臨している。
「――帰ったか、ヴィオレッタ」
階段の上から、低く抑圧された声が降ってきた。 見上げると、そこには王太子アレクサンダー殿下が仁王立ちしていた。 いつもの輝くような笑顔はない。 その美貌は歪み、青い瞳には暗い嫉妬の炎が揺らめいている。
「……殿下。なぜ、このような時間に?」
私が努めて冷静に問いかけると、殿下は階段を駆け下りてきた。 一歩ごとに床がきしむほどの勢いだ。
「なぜ、だと? よくも抜け抜けと言えたものだな! 僕がどれほど心配したと思っている!」
彼は私の目の前まで詰め寄ると、両手で私の肩をガシリと掴んだ。 痛い。骨がきしむ。
「どこへ行っていた?」
「……父の許可を得て、少し外出を」
「嘘をつくな!!」
殿下の怒号が、鼓膜を劈いた。 唾が飛ぶほどの距離で、彼は私を睨みつける。
「報告は入っているんだ! 君があの『黒の館』へ入っていくところを見た者がいる! ベルンシュタイン公爵……あの死神の巣窟へ行ったというのは本当か!?」
(……早いわね)
私は心の中で舌打ちした。 さすがは王家の諜報網だ。あるいは、殿下が私の行動を監視するために密偵を放っているのか。 どちらにせよ、否定しても無駄だろう。
「……ええ、参りましたわ」
私は認めた。
「あの男と何をしていた!? まさか、不埒なことはしていないだろうな!?」
「お墓のカタログを見ておりました」
「は?」
殿下は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「か、カタログ? 墓の?」
「ええ。最新の棺桶のデザインについて、有意義な意見交換をしておりましたの」
「ふ、ふざけるなッ!!」
殿下は激昂し、私を突き飛ばさんばかりに揺さぶった。
「君は騙されているんだ! あいつはそうやって、純真な令嬢を死の思想で洗脳しているんだ! カルト宗教の手口そのものじゃないか!」
違う。 洗脳されているのではない。私が望んで、その思想に救いを求めているのだ。 けれど、この男には一生理解できないだろう。
「ヴィオレッタ、君は病んでいる。あの断頭台のショックで心が弱っているところへ、あの死神がつけ込んだんだ。許せない……許せないぞシルヴィオ!」
殿下はギリギリと歯ぎしりをした。
「行くぞ、ヴィオレッタ!」
「へ? どこへ……」
「王宮だ! あの男を呼び出し、問い詰めてやる! 僕の目の前で、彼との関係を断ち切らせてやる!」
殿下は私の手首を掴み、引きずるようにして屋敷の外へと連れ出した。 待機していた王家の馬車に押し込まれる。 最悪だ。 一番恐れていた事態が起ころうとしている。 私のサンクチュアリが、この暴走機関車によって踏み荒らされようとしている。
王宮、謁見の間。 とはいっても、公式な謁見ではなく、王太子が私的に使用している執務室だ。 重苦しい空気の中、私はソファに座らされていた。 殿下は部屋の中を熊のように歩き回り、イライラと貧乏ゆすりを繰り返している。
やがて、扉がノックされた。
「入れ」
殿下の不機嫌な声に応えて、重い扉が開く。 現れたのは、夜の静寂を纏った男。 シルヴィオ・D・ベルンシュタイン公爵。
彼は呼び出しを受けたというのに、少しも慌てた様子がなかった。 漆黒の礼服一式。表情のない白い顔。 その姿が現れただけで、部屋の室温が二、三度下がった気がした。
「お呼びでしょうか、殿下」
シルヴィオ公爵は流れるような動作で礼をした。 その視線が、一瞬だけ私に向けられる。 大丈夫か、と問うような、静かな視線。 私は膝の上で握りしめた拳を、少しだけ緩めた。彼がいるだけで、呼吸が楽になる。
「よくも抜け抜けと顔を出せたものだな、死体あさり」
殿下はいきなり侮蔑の言葉を投げつけた。 開口一番がそれか。品位の欠片もない。
「私の婚約者に、何の用だ? たぶらかしたのか? それとも、何か怪しい薬でも盛ったのか?」
殿下はシルヴィオ公爵に詰め寄り、その胸ぐらを掴まんばかりの勢いで威圧した。 しかし、シルヴィオ公爵は眉一つ動かさない。
「たぶらかす、とは心外ですな。私はただ、彼女が望むものを提供したまでです」
「望むものだと? ヴィオレッタが死神ごときを望むはずがない! 彼女は未来の王妃だ! 光り輝く太陽の隣に立つべき女性だ!」
「……太陽、ですか」
シルヴィオ公爵は、ふっと自嘲気味に鼻を鳴らした。
「殿下。貴方の光は、強すぎる」
「何?」
「花は、適度な日光と水があれば育ちます。しかし、真夏の直射日光を二十四時間当て続ければどうなるか、ご存知ですか?」
シルヴィオ公爵の灰色の瞳が、冷ややかに殿下を射抜いた。
「枯れるのですよ。干からびて、死ぬのです」
殿下の顔が赤く染まる。
「貴方は彼女を生かそうとして、その実、殺している。彼女の心を焼き尽くし、水分を奪い、ドライフラワーにしようとしているのは、貴方の方だ」
よく言った。 私は心の中で喝采を送った。 そうだ、その通りだ。私は今、愛という名の熱波に焼かれて、カラカラに乾いている。
「黙れッ!!」
図星を突かれた殿下が激昂した。 彼は腰に佩いた剣の柄に手をかけた。
「貴様に何がわかる! 俺とヴィオレッタの絆は、時をも超えたんだ! 俺は一度失った彼女を取り戻すために、神に祈り、時間を遡った! この奇跡こそが正義だ! 俺の愛こそが絶対だ!」
「時間を戻した……?」
シルヴィオ公爵が怪訝そうに眉をひそめた。 当然だ。そんな話、信じられるはずがない。 だが、彼はすぐに何かを納得したように頷いた。
「なるほど。道理で、彼女の魂が体に馴染んでいないわけだ。……貴方は、死すべき運命を無理やり捻じ曲げたのですね」
「うるさい、うるさい! 説教など聞きたくない!」
殿下は子供のように喚いた。
「シルヴィオ公爵、貴様は危険だ。俺のヴィオレッタに『死』という毒を吹き込む害虫だ。今日限りで、貴様を葬儀卿の任から解く!」
その言葉に、私は息を飲んだ。 葬儀卿は、建国以来ベルンシュタイン家が担ってきた神聖な役職だ。 それを、私怨だけで剥奪するなど。
「……本気ですか」
「ああ本気だ! 王族の墓所の管理権限も没収する! 貴様の屋敷も取り壊し、更地にしてやる! そうすればヴィオレッタも、行き場を失って俺の元へ戻ってくるだろう!」
なんて、卑劣な。 私の逃げ場を物理的に消滅させる気だ。 この男は、私の心を閉じ込めるためなら、国の歴史ある制度さえも破壊するのか。
「おやめください、殿下!」
私はたまらず叫んだ。
「シルヴィオ様には何の非もございません! 私が勝手に押しかけたのです! 彼を罰するなら、私を罰してください!」
「ヴィオレッタ、君は操られているんだ! 黙って見ていろ、俺がその悪夢を断ち切ってやる!」
殿下は聞く耳を持たない。 彼は机の上のベルを乱暴に鳴らし、近衛兵を呼ぼうとした。
その時。
「……ふ」
場違いな笑い声が漏れた。 シルヴィオ公爵だ。 彼は、怒り狂う王太子を前にして、静かに、しかし冷徹に笑っていた。
「愚かな」
「何だと?」
「葬儀卿を解任する? 結構です。どうぞご自由に」
彼は肩をすくめた。
「しかし殿下。死者を冒涜する者は、死者に足をすくわれますよ。私の屋敷には、歴代の王族や英雄たちの遺骨が眠っている。彼らの安眠を守ってきたのが誰か、お忘れか?」
「脅しか? 幽霊など怖くもないわ!」
「幽霊ではありません。……『遺恨』です」
シルヴィオ公爵の声が、地を這うような低音に変わった。
「私が役目を解かれれば、墓守たちも全員引き上げます。そうなれば、誰が地下墓地(カタコンベ)の『蓋』を押さえるのですか? 王宮の地下深くに封印された、古い時代の『澱み』が溢れ出しても知りませんよ」
殿下の顔が引きつった。 王宮の地下に広がるカタコンベの伝説は、王族ならばおとぎ話として聞かされているはずだ。
「は、はったりだ! そんなもの、聖女リリアに浄化させればいい!」
「おや。あの聖女に、死者の怨念を鎮める力がおありで? 生者の傷を癒やすのと、死者の無念を晴らすのは、全く別の理(ことわり)ですが」
シルヴィオ公爵は、まるで出来の悪い生徒を見る教師のような目で殿下を一瞥した。
「まあ、良いでしょう。解任の命令書が届けば、私は大人しく引き下がります。……ヴィオレッタ嬢」
彼は不意に私に向き直った。
「私の屋敷がなくなる前に、もう一度、いらっしゃい。極上の紅茶(ただの水)を用意して待っています」
そう言い残すと、彼は踵を返し、扉を開けて出て行った。 近衛兵が駆けつけてくるのと入れ違いに。 彼は最後まで優雅で、不遜で、そして圧倒的に「大人」だった。
後に残されたのは、顔を真っ赤にして震える王太子と、絶望に沈む私だけ。
「……見たか、ヴィオレッタ! あいつは逃げたぞ! 俺の勝ちだ!」
殿下は虚勢を張って叫んだ。
「すぐに手続きを進める! 明日にはあいつの屋敷を封鎖だ! これでもう、君を惑わす邪魔者はいない!」
勝った? いいえ、貴方は今、決定的な敗北をしたのです。 私の心の中で、貴方は「愛する人」から「明確な敵」へと変わりました。
私は冷たい目で、勝ち誇る王太子を見つめた。 奪うなら、奪えばいい。 屋敷を壊し、墓地を封鎖し、私のサンクチュアリを奪うがいい。 そうすればするほど、私の心は貴方から離れ、闇の底へと潜っていくだけだ。
私は心の中で誓った。 どんな手を使ってでも、シルヴィオ様の元へ行く。 たとえそれが、王家への反逆になったとしても。 たとえ、この身を滅ぼすことになったとしても。
太陽が照りつけるほど、影は濃くなる。 殿下の嫉妬は、私とシルヴィオ様の共犯関係を、より強固なものにする燃料でしかなかった。
空気が、重い。 屋敷中の空気が、鉛のように張り詰めていた。 出迎えるはずの侍女たちの姿がない。執事もいない。 ただ、広間の奥から、猛獣の唸り声のような足音が近づいてくる。
カツ、カツ、カツ、カツ!
その足音のリズムだけで、私は胃の中のものが逆流しそうになった。 間違いない。 「太陽」が、降臨している。
「――帰ったか、ヴィオレッタ」
階段の上から、低く抑圧された声が降ってきた。 見上げると、そこには王太子アレクサンダー殿下が仁王立ちしていた。 いつもの輝くような笑顔はない。 その美貌は歪み、青い瞳には暗い嫉妬の炎が揺らめいている。
「……殿下。なぜ、このような時間に?」
私が努めて冷静に問いかけると、殿下は階段を駆け下りてきた。 一歩ごとに床がきしむほどの勢いだ。
「なぜ、だと? よくも抜け抜けと言えたものだな! 僕がどれほど心配したと思っている!」
彼は私の目の前まで詰め寄ると、両手で私の肩をガシリと掴んだ。 痛い。骨がきしむ。
「どこへ行っていた?」
「……父の許可を得て、少し外出を」
「嘘をつくな!!」
殿下の怒号が、鼓膜を劈いた。 唾が飛ぶほどの距離で、彼は私を睨みつける。
「報告は入っているんだ! 君があの『黒の館』へ入っていくところを見た者がいる! ベルンシュタイン公爵……あの死神の巣窟へ行ったというのは本当か!?」
(……早いわね)
私は心の中で舌打ちした。 さすがは王家の諜報網だ。あるいは、殿下が私の行動を監視するために密偵を放っているのか。 どちらにせよ、否定しても無駄だろう。
「……ええ、参りましたわ」
私は認めた。
「あの男と何をしていた!? まさか、不埒なことはしていないだろうな!?」
「お墓のカタログを見ておりました」
「は?」
殿下は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「か、カタログ? 墓の?」
「ええ。最新の棺桶のデザインについて、有意義な意見交換をしておりましたの」
「ふ、ふざけるなッ!!」
殿下は激昂し、私を突き飛ばさんばかりに揺さぶった。
「君は騙されているんだ! あいつはそうやって、純真な令嬢を死の思想で洗脳しているんだ! カルト宗教の手口そのものじゃないか!」
違う。 洗脳されているのではない。私が望んで、その思想に救いを求めているのだ。 けれど、この男には一生理解できないだろう。
「ヴィオレッタ、君は病んでいる。あの断頭台のショックで心が弱っているところへ、あの死神がつけ込んだんだ。許せない……許せないぞシルヴィオ!」
殿下はギリギリと歯ぎしりをした。
「行くぞ、ヴィオレッタ!」
「へ? どこへ……」
「王宮だ! あの男を呼び出し、問い詰めてやる! 僕の目の前で、彼との関係を断ち切らせてやる!」
殿下は私の手首を掴み、引きずるようにして屋敷の外へと連れ出した。 待機していた王家の馬車に押し込まれる。 最悪だ。 一番恐れていた事態が起ころうとしている。 私のサンクチュアリが、この暴走機関車によって踏み荒らされようとしている。
王宮、謁見の間。 とはいっても、公式な謁見ではなく、王太子が私的に使用している執務室だ。 重苦しい空気の中、私はソファに座らされていた。 殿下は部屋の中を熊のように歩き回り、イライラと貧乏ゆすりを繰り返している。
やがて、扉がノックされた。
「入れ」
殿下の不機嫌な声に応えて、重い扉が開く。 現れたのは、夜の静寂を纏った男。 シルヴィオ・D・ベルンシュタイン公爵。
彼は呼び出しを受けたというのに、少しも慌てた様子がなかった。 漆黒の礼服一式。表情のない白い顔。 その姿が現れただけで、部屋の室温が二、三度下がった気がした。
「お呼びでしょうか、殿下」
シルヴィオ公爵は流れるような動作で礼をした。 その視線が、一瞬だけ私に向けられる。 大丈夫か、と問うような、静かな視線。 私は膝の上で握りしめた拳を、少しだけ緩めた。彼がいるだけで、呼吸が楽になる。
「よくも抜け抜けと顔を出せたものだな、死体あさり」
殿下はいきなり侮蔑の言葉を投げつけた。 開口一番がそれか。品位の欠片もない。
「私の婚約者に、何の用だ? たぶらかしたのか? それとも、何か怪しい薬でも盛ったのか?」
殿下はシルヴィオ公爵に詰め寄り、その胸ぐらを掴まんばかりの勢いで威圧した。 しかし、シルヴィオ公爵は眉一つ動かさない。
「たぶらかす、とは心外ですな。私はただ、彼女が望むものを提供したまでです」
「望むものだと? ヴィオレッタが死神ごときを望むはずがない! 彼女は未来の王妃だ! 光り輝く太陽の隣に立つべき女性だ!」
「……太陽、ですか」
シルヴィオ公爵は、ふっと自嘲気味に鼻を鳴らした。
「殿下。貴方の光は、強すぎる」
「何?」
「花は、適度な日光と水があれば育ちます。しかし、真夏の直射日光を二十四時間当て続ければどうなるか、ご存知ですか?」
シルヴィオ公爵の灰色の瞳が、冷ややかに殿下を射抜いた。
「枯れるのですよ。干からびて、死ぬのです」
殿下の顔が赤く染まる。
「貴方は彼女を生かそうとして、その実、殺している。彼女の心を焼き尽くし、水分を奪い、ドライフラワーにしようとしているのは、貴方の方だ」
よく言った。 私は心の中で喝采を送った。 そうだ、その通りだ。私は今、愛という名の熱波に焼かれて、カラカラに乾いている。
「黙れッ!!」
図星を突かれた殿下が激昂した。 彼は腰に佩いた剣の柄に手をかけた。
「貴様に何がわかる! 俺とヴィオレッタの絆は、時をも超えたんだ! 俺は一度失った彼女を取り戻すために、神に祈り、時間を遡った! この奇跡こそが正義だ! 俺の愛こそが絶対だ!」
「時間を戻した……?」
シルヴィオ公爵が怪訝そうに眉をひそめた。 当然だ。そんな話、信じられるはずがない。 だが、彼はすぐに何かを納得したように頷いた。
「なるほど。道理で、彼女の魂が体に馴染んでいないわけだ。……貴方は、死すべき運命を無理やり捻じ曲げたのですね」
「うるさい、うるさい! 説教など聞きたくない!」
殿下は子供のように喚いた。
「シルヴィオ公爵、貴様は危険だ。俺のヴィオレッタに『死』という毒を吹き込む害虫だ。今日限りで、貴様を葬儀卿の任から解く!」
その言葉に、私は息を飲んだ。 葬儀卿は、建国以来ベルンシュタイン家が担ってきた神聖な役職だ。 それを、私怨だけで剥奪するなど。
「……本気ですか」
「ああ本気だ! 王族の墓所の管理権限も没収する! 貴様の屋敷も取り壊し、更地にしてやる! そうすればヴィオレッタも、行き場を失って俺の元へ戻ってくるだろう!」
なんて、卑劣な。 私の逃げ場を物理的に消滅させる気だ。 この男は、私の心を閉じ込めるためなら、国の歴史ある制度さえも破壊するのか。
「おやめください、殿下!」
私はたまらず叫んだ。
「シルヴィオ様には何の非もございません! 私が勝手に押しかけたのです! 彼を罰するなら、私を罰してください!」
「ヴィオレッタ、君は操られているんだ! 黙って見ていろ、俺がその悪夢を断ち切ってやる!」
殿下は聞く耳を持たない。 彼は机の上のベルを乱暴に鳴らし、近衛兵を呼ぼうとした。
その時。
「……ふ」
場違いな笑い声が漏れた。 シルヴィオ公爵だ。 彼は、怒り狂う王太子を前にして、静かに、しかし冷徹に笑っていた。
「愚かな」
「何だと?」
「葬儀卿を解任する? 結構です。どうぞご自由に」
彼は肩をすくめた。
「しかし殿下。死者を冒涜する者は、死者に足をすくわれますよ。私の屋敷には、歴代の王族や英雄たちの遺骨が眠っている。彼らの安眠を守ってきたのが誰か、お忘れか?」
「脅しか? 幽霊など怖くもないわ!」
「幽霊ではありません。……『遺恨』です」
シルヴィオ公爵の声が、地を這うような低音に変わった。
「私が役目を解かれれば、墓守たちも全員引き上げます。そうなれば、誰が地下墓地(カタコンベ)の『蓋』を押さえるのですか? 王宮の地下深くに封印された、古い時代の『澱み』が溢れ出しても知りませんよ」
殿下の顔が引きつった。 王宮の地下に広がるカタコンベの伝説は、王族ならばおとぎ話として聞かされているはずだ。
「は、はったりだ! そんなもの、聖女リリアに浄化させればいい!」
「おや。あの聖女に、死者の怨念を鎮める力がおありで? 生者の傷を癒やすのと、死者の無念を晴らすのは、全く別の理(ことわり)ですが」
シルヴィオ公爵は、まるで出来の悪い生徒を見る教師のような目で殿下を一瞥した。
「まあ、良いでしょう。解任の命令書が届けば、私は大人しく引き下がります。……ヴィオレッタ嬢」
彼は不意に私に向き直った。
「私の屋敷がなくなる前に、もう一度、いらっしゃい。極上の紅茶(ただの水)を用意して待っています」
そう言い残すと、彼は踵を返し、扉を開けて出て行った。 近衛兵が駆けつけてくるのと入れ違いに。 彼は最後まで優雅で、不遜で、そして圧倒的に「大人」だった。
後に残されたのは、顔を真っ赤にして震える王太子と、絶望に沈む私だけ。
「……見たか、ヴィオレッタ! あいつは逃げたぞ! 俺の勝ちだ!」
殿下は虚勢を張って叫んだ。
「すぐに手続きを進める! 明日にはあいつの屋敷を封鎖だ! これでもう、君を惑わす邪魔者はいない!」
勝った? いいえ、貴方は今、決定的な敗北をしたのです。 私の心の中で、貴方は「愛する人」から「明確な敵」へと変わりました。
私は冷たい目で、勝ち誇る王太子を見つめた。 奪うなら、奪えばいい。 屋敷を壊し、墓地を封鎖し、私のサンクチュアリを奪うがいい。 そうすればするほど、私の心は貴方から離れ、闇の底へと潜っていくだけだ。
私は心の中で誓った。 どんな手を使ってでも、シルヴィオ様の元へ行く。 たとえそれが、王家への反逆になったとしても。 たとえ、この身を滅ぼすことになったとしても。
太陽が照りつけるほど、影は濃くなる。 殿下の嫉妬は、私とシルヴィオ様の共犯関係を、より強固なものにする燃料でしかなかった。
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