冤罪で処刑された悪女ですが、死に戻ったらループ前の記憶を持つ王太子殿下が必死に機嫌を取ってきます。もう遅いですが?

六角

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第12話:地下からの使者

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 重力に身を任せ、私は闇の中へと滑り落ちた。

 短い浮遊感の後、ドサリと柔らかい何かに受け止められた。  土の感触。  藁と、腐葉土の匂い。

「っと、危ねえ。お姫様、怪我はないか?」

 先ほどの少年の声が耳元でした。  彼は私の体を受け止めてくれたようだ。  暗闇で目は慣れないが、上を見上げると、天井の四角い穴から、離宮の部屋の明かりが薄ぼんやりと漏れているのが見えた。

 あそこは、もう別の世界だ。  光と、狂気と、束縛の世界。  私は今、境界線を越えたのだ。

「……ええ、大丈夫よ。ありがとう」

 私は立ち上がり、ドレスについた土を払った。  といっても、真っ黒な喪服のようなワンピースだ。汚れなど目立たないし、気にもならない。  むしろ、この土の匂いが、王太子の移り香を消してくれているようで心地よかった。

「へへ、あんた肝が据わってるな。普通の令嬢なら、こんなカビ臭い穴に落ちたら悲鳴の一つも上げるところだぜ」

 少年は感心したように口笛を吹いた。  彼は懐から小さなランプを取り出し、火を灯した。  ゆらり、と頼りないオレンジ色の光が、周囲を照らし出す。

 そこは、人がようやく一人通れるほどの狭い石造りの通路だった。  壁は湿って黒ずみ、所々に蜘蛛の巣が張っている。  足元には、何かの骨のような白い破片が散らばっている。

「ここは昔、上の離宮で拷問死した罪人の死体を、こっそり運び出すために使われていた『ダストシュート』の終着点さ」

 少年は悪びれもせず解説した。

「王族は綺麗なものしか見たくねえからな。汚い死体はこうして地下に捨てて、なかったことにしてたんだ。……皮肉なもんだよな。その『ゴミ捨て場』が、今はあんたの唯一の逃げ道ってわけだ」

「ええ、本当に。……ゴミ捨て場万歳だわ」

 私は心からそう思った。  王太子が「完璧な密室」だと信じていた牢獄の床下に、彼が忌み嫌う「死の通り道」が口を開けていたなんて。  これ以上の痛快な皮肉はない。

「さあ、行こうぜ。旦那様が首を長くして待ってる」

 少年が先導し、私たちは狭い通路を歩き出した。  天井が低く、頭をぶつけそうだ。  地面はぬかるんでいて、歩くたびにジュルリと音がする。  私の靴はすぐに泥まみれになったが、足取りは羽が生えたように軽かった。

 一歩進むごとに、王太子との距離が開いていく。  一歩進むごとに、自由が近づいてくる。

 十分ほど歩いただろうか。  不意に、視界が開けた。

 狭い通路を抜けた先には、巨大な空間が広がっていた。  地下聖堂だ。  古い石柱が並び、ドーム状の天井を支えている。  壁には無数の窪みがあり、そこには数えきれないほどの遺骨が安置されていた。

 王都の地下に、これほど広大な死者の街(ネクロポリス)が広がっていたなんて。

 そして。  その空間の中央に、青白い光を放つランタンを持った、一人の影が佇んでいた。

「……遅かったな」

 静かな、鈴を転がすようなバリトンボイス。  闇に溶け込む漆黒のコート。  シルヴィオ・D・ベルンシュタイン公爵。

 彼はランタンを掲げ、泥だらけになって現れた私を見て、安堵したように息を吐いた。

「シルヴィオ様!」

 私は駆け出した。  貴族の令嬢らしく優雅に歩くことなど忘れて、ただ彼のもとへ走った。    勢いあまって、彼の胸に飛び込む。  冷たい。  彼の体は、地下の空気のようにひんやりとしていて、硬かった。  その冷たさに触れた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は彼のコートを握りしめて泣き崩れた。

「……怖かった……っ、もう、駄目かと……!」

 軟禁された時の絶望。  王太子の狂気じみた目。  一生ここから出られないかもしれないという恐怖。  それらが一気に溢れ出した。

 シルヴィオ公爵は、何も言わずに私を受け止めてくれた。  彼の手が、私の背中をゆっくりと、一定のリズムで叩く。  あやすように。あるいは、怯える小動物を落ち着かせるように。

「よくやった。……あの男の手から、よく逃げ仰せた」

 彼の声は優しかった。  王太子のような熱情的な優しさではない。  深海のような、静謐な優しさだ。

「まさか、離宮に閉じ込められるとはな。私の読みが甘かった。すまない」

「いいえ……来てくれて、ありがとうございます。あの男の子が、助けてくれました」

 私が涙声で言うと、案内役の少年――墓守の一人が、照れくさそうに鼻をこすった。

「へへ、仕事っすから。……じゃ、俺は見張りに行ってきます。王太子の軍隊が嗅ぎ回ってるかもしれねえ」

 少年は気を利かせて、闇の奥へと消えていった。

 二人きりになった静寂の聖堂。  周囲を取り囲むのは、何千、何万という死者たちの視線(骨)だけ。  でも、怖くはない。  彼らは私の味方だ。この沈黙こそが、私を守る盾なのだから。

「……怪我はないか? どこか痛むところは?」

 シルヴィオ公爵が、私の顔を覗き込んだ。  彼の冷たい指が、私の頬についた泥をそっと拭う。

「平気です。ただ、少し……疲れました」

「そうだろう。……その服、よく似合っている」

 彼は私の黒いワンピースを見て、目を細めた。

「王太子の贈った赤いドレスを捨てて、喪服を選んだか。やはり貴女は、私の見込んだ通りの女性だ」

「ええ。今の私は、世間的には行方不明者。いずれ死者として扱われる身ですもの。これが正装ですわ」

 私が少しおどけて見せると、彼は小さく笑った。

「その通りだ。ようこそ、こちらの世界へ。私のヴィオレッタ」

 彼が「私の」と言ってくれるたびに、胸の奥が温かくなる。  これは恋なのだろうか。それとも、共犯者としての連帯感なのだろうか。  名前をつける必要などない。  ただ、この冷たい手のひらの中にいたい。それだけで十分だった。

「さて、感動の再会も束の間だ。ここも長くはいられない」

 シルヴィオ公爵は表情を引き締め、ランタンを持ち直した。

「王太子は今頃、貴女が消えたことに気づいて発狂している頃だろう。離宮の床を剥がして、ここへ追ってくる可能性もゼロではない」

「……あの人なら、やりかねません」

 素手で床板を引き剥がし、獣のように吠えながら追いかけてくる王太子の姿が容易に想像できた。   「急ごう。この地下墓地(カタコンベ)は迷路のように張り巡らされている。私以外に全貌を把握している者はいない。ここを抜けて、私の領地へ向かう」

「領地へ?」

「ああ。私の屋敷は包囲されているが、霊園の裏手から脱出するルートがある。そこから馬車を用意してある」

 シルヴィオ公爵が手を差し出した。

「行こう。今夜は長い夜になるぞ。……ついて来れるか?」

「ええ。どこまででも」

 私は彼の手をしっかりと握り返した。

 私たちは歩き出した。  広大な地下迷宮。  足音だけが反響する、永遠に続くかのような石の回廊。

 道中、シルヴィオ公爵はポツリポツリと語ってくれた。  この地下墓地が、かつての王朝時代に作られたこと。  疫病が流行った時、戦争があった時、無数の遺体がここに運び込まれ、ベルンシュタイン家が代々それを弔ってきたこと。  王宮の光の裏側には、常にこの巨大な闇が存在し、それを支えてきたのが彼の一族であること。

「王太子は光ばかりを見ている。だが、光があれば必ず影ができる。その影を無視して、国など治められるものか」

 彼の言葉には、王家への静かな怒りと、職務への誇りが滲んでいた。

「私は影だ。誰に賞賛されることもない。だが、貴女だけは……その影の中に安らぎを見出してくれた」

 彼は歩きながら、繋いだ手に少しだけ力を込めた。

「それが、どれほど嬉しかったか。……貴女にはわかるまい」

 不器用な告白だった。  彼は私を救っているつもりかもしれないが、私もまた、彼を救っていたのかもしれない。  「死神」と忌み嫌われ、孤独に生きてきた彼にとって、その世界を肯定してくれる存在がどれほど貴重だったか。

 私たちは互いに欠けた部分を補い合うパズルのピースのようだ。  凸と凹。  光と影。  生と死。

 地下道を進むにつれ、空気の流れが変わった。  微かに、外の風の匂いがする。

「出口は近い」

 シルヴィオ公爵が言った。

 しかし、その時だった。  遥か後方、私たちが来た道の方角から、微かな振動が伝わってきた。

 ドォン……!

 遠雷のような音。  いや、違う。  何かを破壊した音だ。

「……気づかれたか」

 シルヴィオ公爵が足を止めて振り返った。  その灰色の瞳が、鋭く細められる。

「あの馬鹿王子め。床板を剥がすどころか、爆破魔法で床ごと吹き飛ばしたようだな」

「え……!?」

 常軌を逸している。  王宮の一部を、自分の婚約者が消えたという理由だけで爆破するなんて。

「急ぐぞ、ヴィオレッタ。追手が来る。死者たちの眠りを妨げる無礼者どもがな」

 シルヴィオ公爵は私を抱き寄せるようにして、歩く速度を上げた。

 逃走劇は、まだ終わらない。  むしろ、ここからが本番だ。  地上では、怒り狂った「太陽」が、私たちを焼き尽くそうと待ち構えているのだから。
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