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第4話 粉税、水車、そして台所の戦争
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轟音の余韻が、冷たい川面に波紋となって広がっていた。 製粉所の巨大な水車は、まるで巨人が腕をへし折られたかのように、無惨な角度で傾いていた。主軸が砕け、巨大な木製の羽根の一部が川の流れに洗われている。
「……終わった」
誰かが呟いた、絶望に染まった声。 その一言が、鉛のように重くのしかかる。
私はドレスの裾が泥で汚れるのも構わずに、川岸ギリギリまで近づいた。 冷気を含んだ飛沫が頬を打つ。 目を凝らして、折れた主軸の断面を見る。
「……バルガス」
「あ、ああ……」
後ろで立ち尽くしていた大男を呼ぶ。 彼は先ほどまでの精悍さを失い、呆然とした顔で近づいてきた。
「あそこを見て。あの一箇所だけ色が違う部分」
私は指差した。 太い樫の木で作られた主軸。その断面の大部分は荒々しく裂けているが、一箇所だけ、鋭利な刃物で深く切り込まれたような滑らかな跡があった。
「……鋸(のこ)で挽いた跡だ」
バルガスが呻くように言った。 彼の拳が、ギリギリと音を立てて握りしめられる。
「誰かが……わざと細工しやがったのか」
「ええ。時間をかけて切れ目を入れ、水車の回転による負荷で自然に折れるタイミングを計ったのでしょうね。……見事な手際だわ」
私は冷ややかな怒りを腹の底に溜めながら、冷静に分析した。 これは事故ではない。 『悪役令嬢の料理対決』で領民の心が一つになりかけた、まさにその瞬間を狙った妨害工作。 敵は、私たちが団結することを何よりも恐れている。
「ふざけやがって……! これじゃあ麦が挽けねぇ! パンが焼けねぇんだぞ!」
バルガスが吼えた。 製粉所は、領地の心臓だ。 ここで麦を粉にできなければ、領民たちの主食である黒パンを作ることができない。 ただでさえ食料不足の冬。 粉の供給が止まれば、それは『餓死』へのカウントダウンを意味する。 そして領主にとっては、『粉税』という貴重な現金収入源を断たれることになり、経済的にも破綻する。
「直せるの?」
私が尋ねると、バルガスは苦渋に満ちた顔で首を横に振った。
「俺たちは力仕事ならできるが、水車の心臓部はデリケートなんだ。歯車の噛み合わせ、軸のバランス……素人が手を出せば、余計に壊しちまう」
「専門の職人はいないの?」
「……一応、いるにはいるが」
バルガスは言い淀んだ。
「トビアス爺さんだ。この水車を設計した職人の一番弟子で、腕は確かだ。……だが」
「だが?」
「偏屈な爺さんでな。前の領主代行が修理費をケチって給金を払わなかったせいで、へそを曲げて山奥の小屋に引きこもっちまった。『二度と貴族のために仕事はしねぇ』ってな」
なるほど。 金銭トラブルに、貴族不信。 典型的な『詰み』の状況ね。
私は傾いた水車を見上げた。 このまま放置すれば、次の増水で完全に流されるだろう。 時間は待ってくれない。
「……案内してちょうだい」
私はスカートの泥を払い、バルガスに向き直った。
「そのトビアスさんのところへ」
「はぁ? 無駄だ無駄だ。あの爺さんは頑固だぞ。俺たちが行っても門前払いなんだ、貴族のお嬢ちゃんなんか行ったら、塩を撒かれるのがオチだ」
「塩なら、ちょうど不足していますから歓迎ですわ」
私は不敵に微笑んでみせた。
「それに、私には秘策があります」
「秘策?」
「ええ。へそを曲げた職人の、へそだけでなく胃袋ごと掴んで引っ張り出す秘策がね」
私は振り返り、不安そうに見守るカノンを手招きした。
「カノン、厨房に戻るわよ。……『お弁当』を作るわ」
* * *
屋敷の厨房に戻った私は、時間との勝負に挑んでいた。 トビアスという職人が住む山小屋までは、大人の足でも片道二時間はかかるという。 往復の時間と説得の手間を考えれば、出発は早ければ早いほどいい。
「セシリア様、何を……?」
カノンが不思議そうに尋ねる。 私が調理台に並べたのは、先ほどの残りの硬い黒パンではなく、屋敷の倉庫の奥底から見つけ出した『粒麦』だった。 粉にする前の、麦そのもの。 普通はこれを挽いて粉にするのだが、今回はこのまま使う。
「カノン、屋根裏部屋にある古い衣装箱の中に、青い布が入っていたはずよ。それを持ってきて。微かに香草の匂いがする布だわ」
「はい!」
カノンが走る。 その間に、私は調理を進める。
まず、粒麦をたっぷりの水に浸す。 時間が惜しいが、ここを省略すると芯が残る。 私は『火守』の魔力を応用し、水の温度を人肌程度に温めた。こうすることで吸水を早めることができる。
次に、具材の準備だ。 使うのは、塩漬けにされた豆と、昨日カノンが集めてくれた野生のクルミ。そして、ほんの少し残っていた干し肉。
干し肉は細かく刻み、鍋で炒めて脂を出す。 そこに砕いたクルミと豆を投入。 パチパチとクルミが爆ぜ、香ばしいナッツの香りが立ち昇る。 味付けは、貴重な塩を少しと……隠し味に、私の手持ちの『乾燥ハーブ』。 王都から持参したトランクの中に、ドレスの防虫剤代わりに入れていたものだ。 ローズマリーとセージ。 これを指ですり潰し、粉末にして混ぜ込む。
「これだけで、立派なご馳走の素(もと)よ」
炒めた具材からは、肉の脂とナッツのコク、ハーブの清涼感が渾然一体となった、濃厚な香りが漂っている。
吸水の終わった麦を、鍋に入れる。 炒めた具材も脂ごと投入。 水を加え、蓋をして炊き上げる。
そう、これは『炊き込み麦飯』だ。 粉食文化のこの国では馴染みがないが、粒のままの麦を食べる『粥』の進化系と言えよう。 ただし、目指すのは粥のようなドロドロではない。 粒が立っていて、携帯できる固さ。
強火で沸騰させ、弱火でじっくりと水分を飛ばす。 鍋の中で、麦が具材の旨味を吸い込みながら膨らんでいく。
十五分後。 鍋の蓋を開けると、むわっと白い湯気が上がった。 ツヤツヤと輝く茶色い麦飯。 お焦げの香ばしい匂いが食欲をそそる。
私は熱々の麦飯を木皿に移し、粗熱を取る。 そして、手を水で濡らし、塩を掌(てのひら)にまぶした。
ギュッ、ギュッ。
両手で麦飯を包み込み、三角形に握る。 そう、『おにぎり』だ。 ただし、米ではなく麦なので粘り気が少ない。 崩れないように、絶妙な力加減で握り固める。 中には、さらに味を濃くした干し肉のペーストを忍ばせてある。
「持ってきました!」
カノンが息を切らして戻ってきた。手には、くすんだ青色の布切れがある。 これこそが、私の切り札。 『封香(ふうこう)の布』だ。
かつてこの地で発達したという、香りを閉じ込めるための魔道具の一種。 今はもう作り方も失われ、ただの古布として屋敷に眠っていたものだが、私の目にはその繊維に織り込まれた魔術式が見えていた。
「ありがとう。これを小さく切って」
私は出来上がった麦のおにぎりを、葉っぱ(殺菌作用のある笹のような葉)で包み、さらにその上から『封香の布』で包んだ。 キュッと結び目を作る。
その瞬間、漂っていた美味しそうな香りが、嘘のように消えた。 完全に遮断されたのだ。
「えっ? 匂いが……消えた?」
カノンが目を丸くする。
「これが『封香』よ。香りを閉じ込めることで、時間が経っても風味が飛ばない。むしろ、中で香りが熟成されて、開けた瞬間に爆発するの」
これは、ただの弁当ではない。 時間差で相手の鼻腔を直撃する、香りの爆弾だ。 偏屈な職人の心の扉をこじ開けるための、攻城兵器(シージ・ウェポン)。
「さあ、行きましょう。山登りよ」
私はバスケットに『爆弾』を詰め込み、ブーツの紐をきつく締め直した。
* * *
道なき道を行くとは、まさにこのことだった。 案内役のバルガス――彼は結局、「お嬢ちゃんが熊に食われたら寝覚めが悪い」と言ってついてきてくれた――の後ろを必死で追いかける。
枯れ木が覆いかぶさる獣道。 雪が積もった急斜面。 冷たい風が容赦なく体力を奪っていく。 ドレスの裾は既に破れ、泥だらけになっていた。 王都の令嬢が見たら卒倒するような姿だろう。 でも、不思議と心は軽かった。 自分の足で、自分の領地を歩いているという実感。 守るべきもののために汗を流すという行為が、私の中の『悪役令嬢』としての矜持を刺激していた。
「……見えてきたぞ。あれだ」
一時間半ほど歩いたところで、バルガスが足を止めた。 視線の先、岩場の中腹にへばりつくようにして建つ、小さな丸太小屋があった。 煙突からは煙が出ていない。 人気(ひとけ)を感じさせない静けさだ。
私たちは小屋の前まで登り、呼吸を整えた。 バルガスが扉をドンドンと叩く。
「トビアスの爺さん! いるか! 俺だ、バルガスだ!」
反応はない。 風の音だけが響く。
「……死んでるんじゃねぇだろうな」
バルガスが呟き、扉に手をかけようとしたその時。
「うるせぇ!」
扉の向こうから、怒鳴り声が飛んできた。 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉が勢いよく開く。 現れたのは、白髪の蓬髪(ほうはつ)に、古木の皮のような皺だらけの顔をした小柄な老人だった。 手には大きなスパナを握りしめている。
「バルガス、てめぇか。何の用だ。俺はもう仕事はしねぇと言ったはずだぞ」
「爺さん、緊急事態なんだ。製粉所の水車がやられた。直せるのはアンタしかいねぇ」
「知ったことか!」
トビアスは唾を吐き捨てた。
「どうせ貴族のいざこざだろ? あるいは整備を怠ったツケだ。俺には関係ねぇ。帰れ!」
彼は扉を閉めようとする。 その隙間に、私はスッと足を差し込んだ。 ガッ、と重い扉が私のブーツを挟む。 激痛が走ったが、表情には出さない。
「……何だ、この女は」
トビアスが私を睨みつける。 貴族のドレスを着た女がこんな山奥にいることが、信じられない様子だ。
「初めまして、トビアスさん。現・領主代行のセシリア・ヴァレリーと申します」
私は痛む足を無視して、優雅に微笑んだ。
「領主代行だぁ? あの酔っ払い子爵の代理か。……けっ、一番信用ならねぇ人種だ。金の話なら聞かねぇぞ。どうせ『後払い』だの『出世払い』だの言うんだろ」
「いいえ。今日はお金の話をしに来たのではありません」
「なら何だ。説教か?」
「お食事をご一緒に、と思いまして」
私はバスケットを掲げた。
トビアスは呆気に取られた顔をし、すぐに鼻で笑った。
「食事だと? こんな山奥まで、貴族様の残飯を持ってきやがったか。俺は乞食じゃねぇぞ」
「残飯ではありません。あなたのために作った、特製の『職人飯』です」
私は強引に扉をこじ開け、小屋の中へと足を踏み入れた。 小屋の中は、外見以上に荒れていた。 図面や工具が散乱し、床には木屑が積もっている。 そして何より、寒い。暖炉には火が入っておらず、食べ物の気配もなかった。 彼は、食べるものもなく、ただここで頑固に意地を張っていたのだ。
「勝手に入んな!」
怒鳴るトビアスの目の前にある作業机の上に、私はバスケットを置いた。 中から、青い布で包まれた塊を取り出す。
「……なんだ、その布切れは」
「開けてみてください」
私はトビアスの手を取ろうとしたが、彼は振り払った。 仕方なく、私が自分で結び目を解く。
シュルリ。
布が解かれる。 その瞬間だった。
ボワッ!
目に見えない『香り』の塊が、小屋の中に解き放たれた。 焦げた麦の香ばしさ。 脂の乗った肉の濃厚な匂い。 ナッツの甘いコク。 そして、鼻孔をくすぐる爽やかなハーブの香り。
冷え切った小屋の空気が、一瞬にして『食堂』の空気に変わった。
「……ッ!?」
トビアスの動きが止まる。 彼の鼻が、ピクピクと動いた。 人間が本能的に抗えない、強烈な食欲への誘惑。 空腹で研ぎ澄まされていた彼の嗅覚を、その香りの暴力が蹂躙した。
中から現れたのは、葉に包まれた三角形の塊。 まだ温かい。 布が保温の役割も果たしていたのだ。
「どうぞ。……冷めないうちに」
私は葉を開いて、彼に差し出した。 茶色く輝く麦の塊。 所々に見え隠れする肉とクルミ。
トビアスは、喉をゴクリと鳴らした。 拒絶の言葉を吐こうとした口が、動かない。 手が、勝手に伸びる。 震える指先が、その三角形を掴む。 ずっしりとした重み。
彼は、我慢できずに齧り付いた。
ガブリ。
「…………!」
咀嚼する音が、静寂の中に響く。 麦の粒が、口の中でほどける。 プチプチとした食感。 噛むほどに滲み出る、炒めた肉の旨味と脂。 時折現れるクルミのカリッとした歯ごたえとコクが、味に深みを与えている。 そして中心部に到達した時、濃厚な味噌のようなペースト(煮詰めた干し肉)が舌に絡みつく。
塩気。脂気。穀物の甘み。 労働者の体が求めてやまない、完璧な栄養の塊。 冷たい山の中で食べる温かい飯が、これほどまでに美味いとは。
トビアスは無言で、夢中になって食らいついた。 一つ目を平らげると、私のバスケットから二つ目をひったくるようにして取り出し、また齧り付く。 バルガスも横で生唾を飲んでいるので、彼にも一つ渡す。
「うめぇ……! なんだこれ、ただの麦じゃねぇぞ!」
バルガスが叫ぶ。
トビアスは二つをあっという間に完食し、ようやく息をついた。 その目からは、先ほどまでの険しい敵意が消え、代わりに、久しぶりに血が通った人間のような生気が宿っていた。
「……水だ」
彼が嗄れた声で言う。 カノンが慌てて水筒を差し出す。 彼は水を一気に飲み干し、袖で口を拭った。
「……麦を、炒めたのか」
トビアスが私を見た。 その目は、職人が良い仕事を見た時の、鑑定士のような目だった。
「ええ。粒のまま脂で炒めて、旨味を閉じ込めました。冷めても味が落ちないように、少し味付けは濃いめに」
「……封香の布か。懐かしいもん使いやがる」
彼は空になった青い布を指先で愛おしそうに撫でた。
「昔、死んだ婆さんが弁当を包んでくれた布だ。……久しぶりに、思い出した」
彼の表情が、ふっと緩んだ。 頑固な仮面の下にあった、孤独な老人の顔が覗く。
「……おい、バルガス」
「あ、ああ」
「水車の主軸だ。樫の予備材はあるか」
トビアスの声が変わった。 現場を取り仕切る、棟梁の声だ。
「あ、ある! 倉庫に五年寝かせたやつが!」
「なら、今すぐ運べ。クレーンと滑車もだ。軸受けのベアリングもイカれてるはずだ、鍛冶屋を起こして叩かせろ」
彼は立ち上がり、壁にかかっていた古びた革の道具ベルトを腰に巻いた。
「爺さん、やってくれるのか!?」
「勘違いすんな。……飯の代金を払うだけだ。タダ飯は食わねぇ主義なんでな」
トビアスは私を横目で見て、ニヤリと笑った。 歯が数本欠けていたが、それはとても魅力的な、職人の笑顔だった。
「嬢ちゃん。ありゃあいい仕事だったぜ。……腹が満ちりゃ、腕も鳴るってもんだ」
「光栄ですわ、親方」
私はカーテシーで応えた。
* * *
トビアスが現場に到着すると、空気は一変した。 彼の怒号が飛び交い、男たちが手足となって動く。 死んでいた製粉所が、熱気を帯びた工事現場へと変わった。
「右舷、ワイヤー張れ! そこ、テコが甘ぇぞ!」 「へいっ、親方!」
折れた主軸の撤去作業が始まった。 日が暮れかけていたが、篝火(かがりび)を焚いて作業は続く。 私も微力ながら、お茶を配ったり、怪我人の手当をしたりして回った。 領民たちは、もう私を「邪魔な貴族」とは見なかった。 共に汗を流す「仲間」として、視線を交わしてくれるようになっていた。
作業が順調に進み、新しい主軸が運び込まれた時だった。
「おやまあ、随分と賑やかですねぇ」
場違いに軽薄な声が、夜の闇から降ってきた。 作業の手が止まる。 振り返ると、街道の方から一台の馬車が近づいてきていた。 この貧しい領地には似つかわしくない、派手な装飾が施された馬車だ。 車体には、金貨を模した商会の紋章が描かれている。
馬車の扉が開き、一人の男が降りてきた。 仕立ての良いスーツを着た、線の細い優男。 金縁の眼鏡の奥で、糸のように細い目が笑っている。 だが、その笑みは爬虫類のように冷たい。
「……誰?」
私が呟くと、バルガスが嫌悪感を隠さずに吐き捨てた。
「ミシェルだ。王都の『銀翼商会』の若旦那だよ。……親父の代から、ウチの領地の借金を管理してやがる、ハイエナだ」
ミシェルは泥濘(ぬかるみ)を避けるように大げさに歩きながら、私の方へと近づいてきた。
「初めまして、噂のセシリア様。いやあ、美しい。泥にまみれても宝石は宝石だ」
彼は私の手を取り、唇を寄せようとしたが、私はスッと手を引いた。
「ご挨拶は結構ですわ。何の用かしら? ここは今、立ち入り禁止区域よ」
「つれないなぁ。心配して来たんですよ。大切な担保物件である水車が壊れたと聞いてね」
ミシェルは眼鏡の位置を直しながら、壊れた水車を一瞥した。
「ああ、酷い有様だ。これでは修理に莫大な金がかかる。……ただでさえ返済が滞っているグランシェ子爵家に、そんな余力がおありで?」
「余計なお世話よ。修理は私たちが自力でやっているわ」
「自力? フフッ、素晴らしい精神論だ。ですがね、セシリア様」
彼は声を潜め、甘い毒を囁くように私に顔を寄せた。
「我々銀翼商会は、慈悲深い。提案があるんです。この水車の修理費、全額こちらで負担してもいい。……その代わり」
「その代わり?」
「貴女が始めたという『屋台』の権利。あれを、我が商会に譲渡していただきたい」
私は眉をひそめた。 屋台? たかがパン粥や串焼きを売るだけの小さな屋台を、王都の商会が欲しがる?
「……どういうこと?」
「貴女の料理は、金になる。私の鼻は利くんですよ。今はただの炊き出しだが、あれをシステム化して王都で展開すれば、莫大な利益を生む。そのレシピと権利、すべてを私に預けてくれれば……借金の利息を、少し待ってあげてもいい」
ミシェルの目が、商人の欲望でギラリと光った。 彼は水車の修理などどうでもいいのだ。 私の料理が持つ『価値』に、いち早く気づき、それを搾取しに来たのだ。
これは、取引ではない。 侵略だ。
私は冷ややかに笑い返した。
「お断りよ」
「……ほう?」
「私の料理は、私のもの。そして、この領民たちのためにあるものよ。あなたの金儲けの道具にするつもりはないわ」
「強情だなぁ。水車が直らなければ、領民は飢え、屋台どころではなくなるでしょうに」
「直るわ。見ていなさい」
私は背後の作業現場を指差した。 そこでは、トビアスの指揮のもと、新しい主軸がクレーンで吊り上げられようとしていた。 男たちの掛け声が、夜空に響く。 金で動いているのではない。 意地と、誇りと、そして美味い飯の記憶で動いている男たちの姿。
「……ふん、いつまで持ちますかね」
ミシェルは肩をすくめた。
「まあいいでしょう。今日のところは引き上げます。ですが、覚えておいてください。……『数字』は嘘をつきませんよ。情熱だけで腹は膨れないということを」
彼は意味深な言葉を残し、馬車へと戻っていった。 去り際に、彼は懐から小さな紙切れを取り出し、風に乗せて落としていった。
私はそれを拾い上げる。 それは、グランシェ子爵家の新たな借用書の一部だった。 そこには、見たこともない高利の条件が追記されていた。
「……本当に、性格の悪いハイエナね」
私は紙切れを握りつぶした。 水車は直るだろう。 だが、その先には、もっと巨大で冷徹な『経済』という怪物が口を開けて待っている。
「負けないわよ」
私は闇に消えていく馬車を睨みつけた。 台所の戦争は、まだ始まったばかりだ。
「……終わった」
誰かが呟いた、絶望に染まった声。 その一言が、鉛のように重くのしかかる。
私はドレスの裾が泥で汚れるのも構わずに、川岸ギリギリまで近づいた。 冷気を含んだ飛沫が頬を打つ。 目を凝らして、折れた主軸の断面を見る。
「……バルガス」
「あ、ああ……」
後ろで立ち尽くしていた大男を呼ぶ。 彼は先ほどまでの精悍さを失い、呆然とした顔で近づいてきた。
「あそこを見て。あの一箇所だけ色が違う部分」
私は指差した。 太い樫の木で作られた主軸。その断面の大部分は荒々しく裂けているが、一箇所だけ、鋭利な刃物で深く切り込まれたような滑らかな跡があった。
「……鋸(のこ)で挽いた跡だ」
バルガスが呻くように言った。 彼の拳が、ギリギリと音を立てて握りしめられる。
「誰かが……わざと細工しやがったのか」
「ええ。時間をかけて切れ目を入れ、水車の回転による負荷で自然に折れるタイミングを計ったのでしょうね。……見事な手際だわ」
私は冷ややかな怒りを腹の底に溜めながら、冷静に分析した。 これは事故ではない。 『悪役令嬢の料理対決』で領民の心が一つになりかけた、まさにその瞬間を狙った妨害工作。 敵は、私たちが団結することを何よりも恐れている。
「ふざけやがって……! これじゃあ麦が挽けねぇ! パンが焼けねぇんだぞ!」
バルガスが吼えた。 製粉所は、領地の心臓だ。 ここで麦を粉にできなければ、領民たちの主食である黒パンを作ることができない。 ただでさえ食料不足の冬。 粉の供給が止まれば、それは『餓死』へのカウントダウンを意味する。 そして領主にとっては、『粉税』という貴重な現金収入源を断たれることになり、経済的にも破綻する。
「直せるの?」
私が尋ねると、バルガスは苦渋に満ちた顔で首を横に振った。
「俺たちは力仕事ならできるが、水車の心臓部はデリケートなんだ。歯車の噛み合わせ、軸のバランス……素人が手を出せば、余計に壊しちまう」
「専門の職人はいないの?」
「……一応、いるにはいるが」
バルガスは言い淀んだ。
「トビアス爺さんだ。この水車を設計した職人の一番弟子で、腕は確かだ。……だが」
「だが?」
「偏屈な爺さんでな。前の領主代行が修理費をケチって給金を払わなかったせいで、へそを曲げて山奥の小屋に引きこもっちまった。『二度と貴族のために仕事はしねぇ』ってな」
なるほど。 金銭トラブルに、貴族不信。 典型的な『詰み』の状況ね。
私は傾いた水車を見上げた。 このまま放置すれば、次の増水で完全に流されるだろう。 時間は待ってくれない。
「……案内してちょうだい」
私はスカートの泥を払い、バルガスに向き直った。
「そのトビアスさんのところへ」
「はぁ? 無駄だ無駄だ。あの爺さんは頑固だぞ。俺たちが行っても門前払いなんだ、貴族のお嬢ちゃんなんか行ったら、塩を撒かれるのがオチだ」
「塩なら、ちょうど不足していますから歓迎ですわ」
私は不敵に微笑んでみせた。
「それに、私には秘策があります」
「秘策?」
「ええ。へそを曲げた職人の、へそだけでなく胃袋ごと掴んで引っ張り出す秘策がね」
私は振り返り、不安そうに見守るカノンを手招きした。
「カノン、厨房に戻るわよ。……『お弁当』を作るわ」
* * *
屋敷の厨房に戻った私は、時間との勝負に挑んでいた。 トビアスという職人が住む山小屋までは、大人の足でも片道二時間はかかるという。 往復の時間と説得の手間を考えれば、出発は早ければ早いほどいい。
「セシリア様、何を……?」
カノンが不思議そうに尋ねる。 私が調理台に並べたのは、先ほどの残りの硬い黒パンではなく、屋敷の倉庫の奥底から見つけ出した『粒麦』だった。 粉にする前の、麦そのもの。 普通はこれを挽いて粉にするのだが、今回はこのまま使う。
「カノン、屋根裏部屋にある古い衣装箱の中に、青い布が入っていたはずよ。それを持ってきて。微かに香草の匂いがする布だわ」
「はい!」
カノンが走る。 その間に、私は調理を進める。
まず、粒麦をたっぷりの水に浸す。 時間が惜しいが、ここを省略すると芯が残る。 私は『火守』の魔力を応用し、水の温度を人肌程度に温めた。こうすることで吸水を早めることができる。
次に、具材の準備だ。 使うのは、塩漬けにされた豆と、昨日カノンが集めてくれた野生のクルミ。そして、ほんの少し残っていた干し肉。
干し肉は細かく刻み、鍋で炒めて脂を出す。 そこに砕いたクルミと豆を投入。 パチパチとクルミが爆ぜ、香ばしいナッツの香りが立ち昇る。 味付けは、貴重な塩を少しと……隠し味に、私の手持ちの『乾燥ハーブ』。 王都から持参したトランクの中に、ドレスの防虫剤代わりに入れていたものだ。 ローズマリーとセージ。 これを指ですり潰し、粉末にして混ぜ込む。
「これだけで、立派なご馳走の素(もと)よ」
炒めた具材からは、肉の脂とナッツのコク、ハーブの清涼感が渾然一体となった、濃厚な香りが漂っている。
吸水の終わった麦を、鍋に入れる。 炒めた具材も脂ごと投入。 水を加え、蓋をして炊き上げる。
そう、これは『炊き込み麦飯』だ。 粉食文化のこの国では馴染みがないが、粒のままの麦を食べる『粥』の進化系と言えよう。 ただし、目指すのは粥のようなドロドロではない。 粒が立っていて、携帯できる固さ。
強火で沸騰させ、弱火でじっくりと水分を飛ばす。 鍋の中で、麦が具材の旨味を吸い込みながら膨らんでいく。
十五分後。 鍋の蓋を開けると、むわっと白い湯気が上がった。 ツヤツヤと輝く茶色い麦飯。 お焦げの香ばしい匂いが食欲をそそる。
私は熱々の麦飯を木皿に移し、粗熱を取る。 そして、手を水で濡らし、塩を掌(てのひら)にまぶした。
ギュッ、ギュッ。
両手で麦飯を包み込み、三角形に握る。 そう、『おにぎり』だ。 ただし、米ではなく麦なので粘り気が少ない。 崩れないように、絶妙な力加減で握り固める。 中には、さらに味を濃くした干し肉のペーストを忍ばせてある。
「持ってきました!」
カノンが息を切らして戻ってきた。手には、くすんだ青色の布切れがある。 これこそが、私の切り札。 『封香(ふうこう)の布』だ。
かつてこの地で発達したという、香りを閉じ込めるための魔道具の一種。 今はもう作り方も失われ、ただの古布として屋敷に眠っていたものだが、私の目にはその繊維に織り込まれた魔術式が見えていた。
「ありがとう。これを小さく切って」
私は出来上がった麦のおにぎりを、葉っぱ(殺菌作用のある笹のような葉)で包み、さらにその上から『封香の布』で包んだ。 キュッと結び目を作る。
その瞬間、漂っていた美味しそうな香りが、嘘のように消えた。 完全に遮断されたのだ。
「えっ? 匂いが……消えた?」
カノンが目を丸くする。
「これが『封香』よ。香りを閉じ込めることで、時間が経っても風味が飛ばない。むしろ、中で香りが熟成されて、開けた瞬間に爆発するの」
これは、ただの弁当ではない。 時間差で相手の鼻腔を直撃する、香りの爆弾だ。 偏屈な職人の心の扉をこじ開けるための、攻城兵器(シージ・ウェポン)。
「さあ、行きましょう。山登りよ」
私はバスケットに『爆弾』を詰め込み、ブーツの紐をきつく締め直した。
* * *
道なき道を行くとは、まさにこのことだった。 案内役のバルガス――彼は結局、「お嬢ちゃんが熊に食われたら寝覚めが悪い」と言ってついてきてくれた――の後ろを必死で追いかける。
枯れ木が覆いかぶさる獣道。 雪が積もった急斜面。 冷たい風が容赦なく体力を奪っていく。 ドレスの裾は既に破れ、泥だらけになっていた。 王都の令嬢が見たら卒倒するような姿だろう。 でも、不思議と心は軽かった。 自分の足で、自分の領地を歩いているという実感。 守るべきもののために汗を流すという行為が、私の中の『悪役令嬢』としての矜持を刺激していた。
「……見えてきたぞ。あれだ」
一時間半ほど歩いたところで、バルガスが足を止めた。 視線の先、岩場の中腹にへばりつくようにして建つ、小さな丸太小屋があった。 煙突からは煙が出ていない。 人気(ひとけ)を感じさせない静けさだ。
私たちは小屋の前まで登り、呼吸を整えた。 バルガスが扉をドンドンと叩く。
「トビアスの爺さん! いるか! 俺だ、バルガスだ!」
反応はない。 風の音だけが響く。
「……死んでるんじゃねぇだろうな」
バルガスが呟き、扉に手をかけようとしたその時。
「うるせぇ!」
扉の向こうから、怒鳴り声が飛んできた。 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉が勢いよく開く。 現れたのは、白髪の蓬髪(ほうはつ)に、古木の皮のような皺だらけの顔をした小柄な老人だった。 手には大きなスパナを握りしめている。
「バルガス、てめぇか。何の用だ。俺はもう仕事はしねぇと言ったはずだぞ」
「爺さん、緊急事態なんだ。製粉所の水車がやられた。直せるのはアンタしかいねぇ」
「知ったことか!」
トビアスは唾を吐き捨てた。
「どうせ貴族のいざこざだろ? あるいは整備を怠ったツケだ。俺には関係ねぇ。帰れ!」
彼は扉を閉めようとする。 その隙間に、私はスッと足を差し込んだ。 ガッ、と重い扉が私のブーツを挟む。 激痛が走ったが、表情には出さない。
「……何だ、この女は」
トビアスが私を睨みつける。 貴族のドレスを着た女がこんな山奥にいることが、信じられない様子だ。
「初めまして、トビアスさん。現・領主代行のセシリア・ヴァレリーと申します」
私は痛む足を無視して、優雅に微笑んだ。
「領主代行だぁ? あの酔っ払い子爵の代理か。……けっ、一番信用ならねぇ人種だ。金の話なら聞かねぇぞ。どうせ『後払い』だの『出世払い』だの言うんだろ」
「いいえ。今日はお金の話をしに来たのではありません」
「なら何だ。説教か?」
「お食事をご一緒に、と思いまして」
私はバスケットを掲げた。
トビアスは呆気に取られた顔をし、すぐに鼻で笑った。
「食事だと? こんな山奥まで、貴族様の残飯を持ってきやがったか。俺は乞食じゃねぇぞ」
「残飯ではありません。あなたのために作った、特製の『職人飯』です」
私は強引に扉をこじ開け、小屋の中へと足を踏み入れた。 小屋の中は、外見以上に荒れていた。 図面や工具が散乱し、床には木屑が積もっている。 そして何より、寒い。暖炉には火が入っておらず、食べ物の気配もなかった。 彼は、食べるものもなく、ただここで頑固に意地を張っていたのだ。
「勝手に入んな!」
怒鳴るトビアスの目の前にある作業机の上に、私はバスケットを置いた。 中から、青い布で包まれた塊を取り出す。
「……なんだ、その布切れは」
「開けてみてください」
私はトビアスの手を取ろうとしたが、彼は振り払った。 仕方なく、私が自分で結び目を解く。
シュルリ。
布が解かれる。 その瞬間だった。
ボワッ!
目に見えない『香り』の塊が、小屋の中に解き放たれた。 焦げた麦の香ばしさ。 脂の乗った肉の濃厚な匂い。 ナッツの甘いコク。 そして、鼻孔をくすぐる爽やかなハーブの香り。
冷え切った小屋の空気が、一瞬にして『食堂』の空気に変わった。
「……ッ!?」
トビアスの動きが止まる。 彼の鼻が、ピクピクと動いた。 人間が本能的に抗えない、強烈な食欲への誘惑。 空腹で研ぎ澄まされていた彼の嗅覚を、その香りの暴力が蹂躙した。
中から現れたのは、葉に包まれた三角形の塊。 まだ温かい。 布が保温の役割も果たしていたのだ。
「どうぞ。……冷めないうちに」
私は葉を開いて、彼に差し出した。 茶色く輝く麦の塊。 所々に見え隠れする肉とクルミ。
トビアスは、喉をゴクリと鳴らした。 拒絶の言葉を吐こうとした口が、動かない。 手が、勝手に伸びる。 震える指先が、その三角形を掴む。 ずっしりとした重み。
彼は、我慢できずに齧り付いた。
ガブリ。
「…………!」
咀嚼する音が、静寂の中に響く。 麦の粒が、口の中でほどける。 プチプチとした食感。 噛むほどに滲み出る、炒めた肉の旨味と脂。 時折現れるクルミのカリッとした歯ごたえとコクが、味に深みを与えている。 そして中心部に到達した時、濃厚な味噌のようなペースト(煮詰めた干し肉)が舌に絡みつく。
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「うめぇ……! なんだこれ、ただの麦じゃねぇぞ!」
バルガスが叫ぶ。
トビアスは二つをあっという間に完食し、ようやく息をついた。 その目からは、先ほどまでの険しい敵意が消え、代わりに、久しぶりに血が通った人間のような生気が宿っていた。
「……水だ」
彼が嗄れた声で言う。 カノンが慌てて水筒を差し出す。 彼は水を一気に飲み干し、袖で口を拭った。
「……麦を、炒めたのか」
トビアスが私を見た。 その目は、職人が良い仕事を見た時の、鑑定士のような目だった。
「ええ。粒のまま脂で炒めて、旨味を閉じ込めました。冷めても味が落ちないように、少し味付けは濃いめに」
「……封香の布か。懐かしいもん使いやがる」
彼は空になった青い布を指先で愛おしそうに撫でた。
「昔、死んだ婆さんが弁当を包んでくれた布だ。……久しぶりに、思い出した」
彼の表情が、ふっと緩んだ。 頑固な仮面の下にあった、孤独な老人の顔が覗く。
「……おい、バルガス」
「あ、ああ」
「水車の主軸だ。樫の予備材はあるか」
トビアスの声が変わった。 現場を取り仕切る、棟梁の声だ。
「あ、ある! 倉庫に五年寝かせたやつが!」
「なら、今すぐ運べ。クレーンと滑車もだ。軸受けのベアリングもイカれてるはずだ、鍛冶屋を起こして叩かせろ」
彼は立ち上がり、壁にかかっていた古びた革の道具ベルトを腰に巻いた。
「爺さん、やってくれるのか!?」
「勘違いすんな。……飯の代金を払うだけだ。タダ飯は食わねぇ主義なんでな」
トビアスは私を横目で見て、ニヤリと笑った。 歯が数本欠けていたが、それはとても魅力的な、職人の笑顔だった。
「嬢ちゃん。ありゃあいい仕事だったぜ。……腹が満ちりゃ、腕も鳴るってもんだ」
「光栄ですわ、親方」
私はカーテシーで応えた。
* * *
トビアスが現場に到着すると、空気は一変した。 彼の怒号が飛び交い、男たちが手足となって動く。 死んでいた製粉所が、熱気を帯びた工事現場へと変わった。
「右舷、ワイヤー張れ! そこ、テコが甘ぇぞ!」 「へいっ、親方!」
折れた主軸の撤去作業が始まった。 日が暮れかけていたが、篝火(かがりび)を焚いて作業は続く。 私も微力ながら、お茶を配ったり、怪我人の手当をしたりして回った。 領民たちは、もう私を「邪魔な貴族」とは見なかった。 共に汗を流す「仲間」として、視線を交わしてくれるようになっていた。
作業が順調に進み、新しい主軸が運び込まれた時だった。
「おやまあ、随分と賑やかですねぇ」
場違いに軽薄な声が、夜の闇から降ってきた。 作業の手が止まる。 振り返ると、街道の方から一台の馬車が近づいてきていた。 この貧しい領地には似つかわしくない、派手な装飾が施された馬車だ。 車体には、金貨を模した商会の紋章が描かれている。
馬車の扉が開き、一人の男が降りてきた。 仕立ての良いスーツを着た、線の細い優男。 金縁の眼鏡の奥で、糸のように細い目が笑っている。 だが、その笑みは爬虫類のように冷たい。
「……誰?」
私が呟くと、バルガスが嫌悪感を隠さずに吐き捨てた。
「ミシェルだ。王都の『銀翼商会』の若旦那だよ。……親父の代から、ウチの領地の借金を管理してやがる、ハイエナだ」
ミシェルは泥濘(ぬかるみ)を避けるように大げさに歩きながら、私の方へと近づいてきた。
「初めまして、噂のセシリア様。いやあ、美しい。泥にまみれても宝石は宝石だ」
彼は私の手を取り、唇を寄せようとしたが、私はスッと手を引いた。
「ご挨拶は結構ですわ。何の用かしら? ここは今、立ち入り禁止区域よ」
「つれないなぁ。心配して来たんですよ。大切な担保物件である水車が壊れたと聞いてね」
ミシェルは眼鏡の位置を直しながら、壊れた水車を一瞥した。
「ああ、酷い有様だ。これでは修理に莫大な金がかかる。……ただでさえ返済が滞っているグランシェ子爵家に、そんな余力がおありで?」
「余計なお世話よ。修理は私たちが自力でやっているわ」
「自力? フフッ、素晴らしい精神論だ。ですがね、セシリア様」
彼は声を潜め、甘い毒を囁くように私に顔を寄せた。
「我々銀翼商会は、慈悲深い。提案があるんです。この水車の修理費、全額こちらで負担してもいい。……その代わり」
「その代わり?」
「貴女が始めたという『屋台』の権利。あれを、我が商会に譲渡していただきたい」
私は眉をひそめた。 屋台? たかがパン粥や串焼きを売るだけの小さな屋台を、王都の商会が欲しがる?
「……どういうこと?」
「貴女の料理は、金になる。私の鼻は利くんですよ。今はただの炊き出しだが、あれをシステム化して王都で展開すれば、莫大な利益を生む。そのレシピと権利、すべてを私に預けてくれれば……借金の利息を、少し待ってあげてもいい」
ミシェルの目が、商人の欲望でギラリと光った。 彼は水車の修理などどうでもいいのだ。 私の料理が持つ『価値』に、いち早く気づき、それを搾取しに来たのだ。
これは、取引ではない。 侵略だ。
私は冷ややかに笑い返した。
「お断りよ」
「……ほう?」
「私の料理は、私のもの。そして、この領民たちのためにあるものよ。あなたの金儲けの道具にするつもりはないわ」
「強情だなぁ。水車が直らなければ、領民は飢え、屋台どころではなくなるでしょうに」
「直るわ。見ていなさい」
私は背後の作業現場を指差した。 そこでは、トビアスの指揮のもと、新しい主軸がクレーンで吊り上げられようとしていた。 男たちの掛け声が、夜空に響く。 金で動いているのではない。 意地と、誇りと、そして美味い飯の記憶で動いている男たちの姿。
「……ふん、いつまで持ちますかね」
ミシェルは肩をすくめた。
「まあいいでしょう。今日のところは引き上げます。ですが、覚えておいてください。……『数字』は嘘をつきませんよ。情熱だけで腹は膨れないということを」
彼は意味深な言葉を残し、馬車へと戻っていった。 去り際に、彼は懐から小さな紙切れを取り出し、風に乗せて落としていった。
私はそれを拾い上げる。 それは、グランシェ子爵家の新たな借用書の一部だった。 そこには、見たこともない高利の条件が追記されていた。
「……本当に、性格の悪いハイエナね」
私は紙切れを握りつぶした。 水車は直るだろう。 だが、その先には、もっと巨大で冷徹な『経済』という怪物が口を開けて待っている。
「負けないわよ」
私は闇に消えていく馬車を睨みつけた。 台所の戦争は、まだ始まったばかりだ。
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