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第16話 悪役令嬢の再審
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ガタゴトと車輪が石畳を叩く音が、私の眠りを浅く揺り動かした。 目を開けると、鉄格子の嵌められた小窓から、見慣れた、しかし今は酷く遠く感じる景色が流れていた。
高く聳える尖塔。 整然と並ぶ煉瓦造りの商店。 色とりどりのドレスを纏って歩く貴婦人たち。 そして、その中心に鎮座する、白亜の王宮。
王都アウレル。 かつて私が「社交界の華」として君臨し、そして「悪役令嬢」として追放された場所。 数ヶ月ぶりの帰還は、凱旋ではなく、手錠をかけられた囚人としてのものだった。
「……懐かしい景色ですこと」
私は皮肉っぽく呟き、手錠の鎖をチャリと鳴らした。 向かいの席に座っている聖職者の女性――聖女マリアンヌの側近であるシスター・エレン――が、眉をひそめて私を睨んだ。
「罪人の分際で、随分と余裕ですね。セシリア様」
「罪人かどうかを決めるのは、これからの査問会でしょう? まだ私は『容疑者』に過ぎませんわ」
「ふん。王太后陛下がお呼びになったのです。有罪は確定したも同然。……貴女が辺境でコソコソとやっていた悪事は、すべて聖女様がお見通しです」
エレンは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。 彼女の言う「悪事」とは、屋台で民を救ったことか、不正な帳簿を暴こうとしたことか。 どちらにせよ、彼女たちのフィルターを通せば、私の行動はすべて「悪あがき」や「陰謀」に変換されてしまうのだろう。
「……到着しました」
馬車が重々しい音を立てて停止した。 場所は王宮の正門ではなく、裏手にある「北の塔」の前だった。 そこは、身分のある罪人を一時的に収容するための、通称『反省の塔』。
「降りなさい」
騎士に促され、私は馬車を降りた。 冷たい石造りの塔が見下ろしている。 かつて、私はこの塔を遠くから眺め、「あんな場所には一生縁がないわ」と笑っていたものだ。 人生とは、本当に皮肉なものね。
「セシリア!」
不意に、遠くから私の名前を呼ぶ声がした。 振り返ると、王宮の庭園の方角、鉄柵の向こうに、数人の貴族令嬢たちが立っていた。 かつて私を取り巻き、私が追放された瞬間に掌を返した「友人」たちだ。
「見て、あの姿! 泥だらけのドレスよ!」 「まあ、なんて惨めな。辺境で野垂れ死んだと思っていましたのに」 「やはり悪事は露見するのね。オホホホ!」
扇子で口元を隠し、嘲笑する彼女たち。 そのドレスは最新の流行で、宝石がキラキラと輝いている。 対して私は、領地での激務と旅の疲れでボロボロになったドレスを着ている。 髪も結い直せていない。 爪には、厨房の煤が染み込んでいる。
以前の私なら、恥ずかしさで顔を覆っていただろう。 プライドがズタズタに引き裂かれ、その場で泣き崩れていたかもしれない。
でも。
私は彼女たちに向かって、ニッコリと微笑んでみせた。 余裕を持って。 優雅に。 まるで、舞踏会の中心にいるかのように。
「ごきげんよう、皆様。……相変わらず、退屈なお喋りに花を咲かせていらっしゃるのね」
「な……っ!?」
令嬢たちが息を呑む。 私の瞳には、彼女たちが期待した「惨めさ」も「卑屈さ」もなかった。 あるのは、北の厳しい大地で培った、揺るぎない自信と強さだけ。
「私は忙しいので、これで失礼いたしますわ。……皆様も、宝石の輝きだけでなく、ご自分の内面も磨かれたほうがよろしいかと存じます」
私は踵を返し、堂々と塔への階段を登った。 背後で「なによ、あの子!」「強がりよ!」という金切り声が聞こえたが、それは私の耳には届かない雑音(ノイズ)でしかなかった。
私のドレスは汚れている。 でも、この汚れは、レオンと共に領地を守り、アーネストと共に不正と戦い、そして領民たちと共に鍋を囲んだ勲章だ。 あなたたちの着飾ったドレスよりも、よほど価値がある。
「……行くわよ」
私は騎士に先導され、冷たい石の廊下を歩いていった。
* * *
通されたのは、塔の最上階にある一室だった。 家具は硬いベッドと、小さな机、そして暖炉があるだけの殺風景な部屋だ。 窓には頑丈な鉄格子。 ここから見えるのは、灰色の空だけ。
「査問会は明日の正午から行われる。それまではここで待機だ」
騎士はそう言い捨て、扉を閉めた。 ガチャン、と重い鍵の音が響く。 完全な隔離。
「……さて」
私は部屋の中を見回した。 寒い。暖炉には火が入っていない。 私は部屋の隅にあった薪――おそらく何ヶ月も放置されていた湿気た薪――を拾い上げ、暖炉に組んだ。
「火守(ひもり)」
指先から魔力を送る。 パチパチ……。 湿った薪が、嫌がりながらも火を受け入れる。 領地での経験がなければ、この程度の火起こしにも苦労していただろう。
炎が安定すると、少しだけ人心地ついた。 椅子に座り、目を閉じる。
レオンは大丈夫だろうか。 カノンやバルガスたちは、商隊とうまくやっているだろうか。 そして……アーネスト。 彼は今、どこにいるのだろう。 王都にいるはずだ。 私が捕まったことを知っているだろうか。 助けに来てくれるだろうか。
「……信じるしかないわね」
私は首を振り、弱気を追い払った。 彼との契約はまだ終わっていない。 彼が戻る場所を守る。 それが私の役目だ。
コンコン。
扉がノックされた。 小窓が開き、そこから盆が差し入れられた。 夕食だ。
「……毒見は済んでいる。さっさと食え」
見張りの兵士が無愛想に言った。 私は盆を受け取り、机に置いた。
そこにあったのは、冷え切った野菜スープと、石のように硬い黒パン、そして水差し。 いわゆる「囚人食」だ。 スープには油が浮いて白く固まり、パンは叩けば音がしそうだ。
「……ふふっ」
私は思わず笑ってしまった。 グランシェ領に行った初日のことを思い出したからだ。 あの時も、これと同じような……いいえ、もっと酷い食材を見て、絶望したっけ。
「これくらい、どうってことないわ」
私は立ち上がった。 このまま食べる? まさか。 悪役令嬢セシリア・ヴァレリーは、どんな環境でも食事を妥協しない。 与えられたものが最悪なら、それを最高に変えるだけだ。
私は小窓から兵士に声をかけた。
「ねえ、そこのあなた」
「……なんだ。文句なら聞かんぞ」
「文句ではありません。……お願いがあるの。厨房から、塩と、ミルクと、卵を一つずつ持ってきてくれないかしら? あと、フライパンも」
「はぁ? 何を言ってるんだ。ここはレストランじゃないぞ」
「分かっているわ。でも……このままでは喉を通らないの。私が餓死して、明日の査問会に出られなくなったら、あなたの責任問題になるわよ?」
私は鉄格子の隙間から、彼をじっと見つめた。 社交界で磨いた「お願い」の視線。 そして、袖の下代わりに、ドレスの裏地に隠していた小さな宝石(ボタン)を一つ、隙間から渡した。
「……これで、お願い」
兵士は宝石を見て、喉を鳴らした。 安月給の兵士にとって、それは数ヶ月分の給金に相当する。
「……ちっ、面倒な女だ。誰にも言うなよ」
兵士は宝石を懐に入れ、姿を消した。 しばらくして、彼は言われた通りの食材と道具を、こっそりと差し入れてくれた。 賄賂政治。 汚い手だが、使えるものは使う。
「ありがとう」
私は道具を揃え、暖炉の前で腕まくりをした。 作る料理は決まっている。 硬くなったパンと、冷めたスープを蘇らせる魔法の料理。 『パン・ペルデュ・サレ(塩味のフレンチトースト)』だ。
まず、冷めたスープをフライパンに移し、暖炉の火にかける。 スープの油が溶け、温まってくる。 これをボウル(代わりの洗面器だが、綺麗に洗った)に移し、卵とミルクを加えて混ぜ合わせる。 スープの塩気と野菜の旨味が、卵液に溶け込む。
そこに、石のように硬い黒パンを浸す。 じっくりと。 パンの中の気泡が、旨味たっぷりの卵液を吸い込んでいく。 カチカチだったパンが、スポンジのように柔らかく、重くなっていく。
「……まるで、私ね」
かつての私は、プライドだけで固められた、カチカチのパンだった。 でも、領地での経験や、人々の優しさ、アーネストの厳しさを吸い込んで、今はこんなにも柔らかく、そして強くなった。
パンが十分に液を吸ったら、フライパンにバター(これも少しだけもらった)を溶かす。 パンを並べる。
ジュワァァァ……。
いい音。 そして、香ばしい香り。 バターと卵、そしてスープに含まれていた野菜の香りが立ち昇る。 冷たく無機質な石の塔の中に、温かな「生活」の匂いが満ちていく。
両面をこんがりと焼き上げる。 表面はカリッと、中はプリンのようにトロトロに。
「出来上がり」
私は皿に盛り付けた。 ナイフを入れると、湯気と共に中から熱々の卵液が溢れ出す。 一口食べる。
「……ん!」
美味しい。 硬くて味気ないはずの黒パンが、極上のご馳走に変わっている。 スープの塩気が絶妙なアクセントになり、ミルクの甘みを引き立てている。 口の中でとろける食感。 温かさが、胃袋から全身へと広がっていく。
これは、ただの食事ではない。 「再生」の味だ。 一度は捨てられ、価値がないとされたものが、手間と愛情を加えることで、再び輝きを取り戻す。 今の私そのものだ。
私は一人、塔の中で食事を楽しんだ。 明日、どんな断罪が待っていようと、今の私は満たされている。 この温かさが私の中にある限り、私は決して折れない。
* * *
翌日。正午。 重い扉が開かれ、数人の騎士が入ってきた。
「時間だ。出ろ」
手錠をかけられ、私は連行された。 向かう先は、王宮の大広間『審判の間』。
長い廊下を歩く。 すれ違う貴族や官僚たちが、好奇と軽蔑の混じった視線を向けてくる。 「あれが悪役令嬢か」「随分と落ちぶれたな」「今日で終わりだろう」
私は背筋を伸ばし、前だけを見て歩いた。 かつてはこの視線が怖かった。 でも今は、彼らが哀れに見える。 彼らは知らないのだ。 自分で火を起こし、料理を作り、食べる喜びを。 誰かのために必死になることの尊さを。
大広間の扉が開く。 眩いばかりの光。 シャンデリアの輝き。 真紅の絨毯。 そして、正面の玉座には、この国の最高権力者たちが並んでいた。
中央に、威厳ある老婦人。王太后陛下。 その右に、私の元婚約者である王太子セオドア。 左には、宰相と……ハミルトン伯爵。
そして、証言台の近くには、聖女マリアンヌとその取り巻きたちが、悲劇のヒロインのような顔をして立っていた。
「……被告人、セシリア・ヴァレリー。前へ」
宰相の低い声が響く。 私は静かに進み出て、優雅にカーテシーをした。 手錠がチャリと鳴る音が、静寂を切り裂く。
「面を上げよ」
王太后の声は、年齢を感じさせないほど張りがあり、鋭かった。 私が顔を上げると、彼女は値踏みするように私を見た。
「セシリア。そなたには数々の嫌疑がかけられている。……辺境での違法な商行為、公金横領、そして……王家から派遣された監察官を不当に篭絡し、職務を妨害した罪だ」
「事実無根ですわ、陛下」
私は凛とした声で答えた。
「私は領地を救うために屋台を開き、領民と共に汗を流しました。横領などしていません。そしてアーネスト様は……篭絡などされるような柔な方ではありません」
「嘘よ!」
聖女マリアンヌが叫んだ。 彼女は涙ぐんだ瞳で王太子に縋り付いた。
「セオドア様……私、見たんです。セシリア様が、怪しげな魔術を使ってアーネスト様を操っているところを! あの方の料理には、人を惑わす薬が入っているのです!」
「なんだと?」
王太子セオドアが私を睨みつけた。
「セシリア、貴様……まだ懲りずにそんな真似を! マリアンヌを虐めただけでは飽き足らず、今度は監察官まで毒牙にかけるとは!」
「料理は魔法ですが、魔術ではありませんわ。……人を幸せにする魔法です」
「黙れ! その減らず口が気に入らん!」
王太子が机を叩いた。
「ハミルトン伯爵、証拠はあるのか?」
話を振られたハミルトン伯爵――小太りで、脂ぎった顔をした男――が、ニヤリと笑って進み出た。
「はい、殿下。こちらに」
彼が差し出したのは、あのミシェルが偽造した帳簿の写しと、私がサインしたとされる借用書だった。
「これらはすべて、銀翼商会が管理していた正規の帳簿です。……セシリア嬢が、領地の復興資金を自身の贅沢のために使い込んだ記録が、克明に記されております」
「なんと嘆かわしい……」
会場の貴族たちがざわつく。 「やはりな」「追放されても変わらない」「処刑すべきだ」
「さらに」
ハミルトン伯爵は続けた。
「監察官アーネスト・カレル氏は、彼女のこの不正を知りながら、黙認しました。……あるいは、共犯関係にあるのかもしれません。現に彼は、監査の途中で職務を放棄し、行方をくらませております」
「逃亡したのか?」
「おそらく。……罪の発覚を恐れて」
嘘だ。 全部、嘘だ。 アーネストは逃げてなどいない。 彼は戦っている。
「……アーネスト様は逃げてはいません!」
私は声を張り上げた。
「彼は不正を暴くために、証拠を持って王都へ向かったのです! ハミルトン伯爵、あなたが裏で行っている塩の密売と、横領の証拠を!」
「な、何を馬鹿な……!」
ハミルトン伯爵が狼狽える。 その反応が、図星であることを如実に物語っていた。
「証拠? そんなもの、どこにあると言うのだ?」
「彼が持っています。必ず、ここへ来ます!」
「ハッ、来ないさ」
伯爵は意地悪く笑った。
「王都へ向かう街道で、不運な事故に遭ったという報告も聞いている。……山賊にでも襲われたのではないかな?」
心臓が止まりそうになった。 事故? 山賊? 彼が放った刺客のことか。 アーネストは……無事なの?
「さあ、判決を下しましょう」
王太子が立ち上がった。
「セシリア・ヴァレリー。貴様を国家反逆罪および公金横領の罪で、死刑……あるいは、北の鉱山での終身刑に処す!」
絶望的な判決。 会場から拍手が起こるかと思われた、その時。
バンッ!!
大広間の扉が、轟音と共に開かれた。
「――待った!」
響き渡る声。 そこに立っていたのは、アーネスト……ではなかった。
「……誰だ?」
王太子が不機嫌そうに尋ねる。 逆光の中、現れたのは、質素な服を着た数人の男たちだった。 先頭に立つのは、大柄な男。 バルガスだ。 そしてその後ろには、トムや、製粉所の職人たち、さらにはあの商隊のリーダーまでいる。
「な、何だ貴様らは! ここは神聖な審判の間だぞ!」
衛兵が止めようとするが、バルガスは止まらなかった。 彼は私の元まで大股で歩み寄り、片膝をついた。
「……間に合ったか」
「バルガス!? どうしてここに……」
「レオン様に行けって言われたんだ。『セシリアを守れるのは、お前たちの声だけだ』ってな」
バルガスは懐から、一枚の巨大な羊皮紙を取り出した。 それを広げ、王太后に見せるように掲げた。
「これは……!」
会場がどよめく。 その羊皮紙には、びっしりと、数百、数千の署名が書かれていた。 拙い文字。汚れた指紋。 子供の字もあれば、震える老人の字もある。 グランシェ子爵領の領民たち、そして街道を利用した商人たちの署名だ。
『セシリア様は、俺たちの恩人だ』 『彼女の料理が、俺たちを救った』 『悪役令嬢なんかじゃない、彼女は俺たちの希望だ』
添えられた言葉の一つ一つが、私の胸を打つ。
「王太后陛下!」
バルガスが叫んだ。
「俺たちは学のない平民です。難しいことは分かりません。でも、誰が本当のことを言っていて、誰が嘘つきかは分かります!」
彼はハミルトン伯爵を指差した。
「この豚野郎は、俺たちの街道を封鎖し、塩を奪い、倉庫を焼きました! 俺たちを殺そうとしました!」
「ぶ、無礼な! 衛兵、摘み出せ!」
伯爵が叫ぶが、バルガスは引かない。
「でも、セシリア様は! 自分のドレスを汚して、俺たちのために飯を作ってくれました! 凍えそうな夜に、温かいスープをくれました! ……そんな人が、金を盗むはずがねぇ!」
「そうだ!」 「セシリア様は無実だ!」
後ろに控える商人も声を上げた。
「あっしも証言します! ハミルトン家の兵士が、不当に街道を塞いでいるのを見ました! それを追い払ったのは、セシリア様と監察官殿です!」
民衆の声。 それは、貴族社会の論理(ロジック)の外にある、生の感情の爆発だった。 計算高いハミルトン伯爵も、感情的な王太子も、この予想外の事態に言葉を失っている。
「……静粛に」
王太后が杖で床を突いた。 彼女の視線が、署名の束と、私、そしてハミルトン伯爵を行き来する。
「民の声は届いた。……だが、証拠が必要だ。ハミルトン伯爵の不正を証明する、確たる証拠が」
「証拠なら、ここにあります」
凛とした声が、再び扉の方から響いた。
今度こそ。 待ちわびた声。
扉の向こうから、冷気を纏って現れたのは、泥だらけのコートを羽織り、しかしその瞳に不屈の光を宿した男。
アーネスト・カレルだった。
「アーネスト様……!」
「遅くなってすまない」
彼は私の横を通り過ぎる時、小さく囁いた。
「……少し、手間取ったものでな」
彼のコートには、数ヶ所の切り裂かれた跡と、赤黒いシミがあった。 激戦を潜り抜けてきた証だ。 彼は怪我をしている。でも、倒れてはいない。
アーネストは王太后の御前に進み出て、跪いた。 そして、懐から分厚い書類の束と、一つの水晶玉を取り出した。
「監察官アーネスト・カレル、只今帰還いたしました。……ハミルトン伯爵家および銀翼商会による、大規模な不正蓄財、公金横領、および……殺人未遂の決定的証拠を持参して」
「なっ……!?」
ハミルトン伯爵の顔色が、一瞬で土気色に変わった。
「その書類は……燃やしたはずだ! 刺客が……!」
「ああ、襲われたよ。五回ほどな」
アーネストは淡々と言った。
「だが、残念ながら彼らは『氷漬け』にさせてもらった。……今は王都の憲兵隊に突き出してある。彼らの自白も、この水晶玉に記録済みだ」
彼は水晶玉を掲げた。 そこに映し出されたのは、ミシェルと、ハミルトン家の私兵長が、襲撃計画を相談している映像と音声だった。 『倉庫を焼け』『監察官を消せ』『罪は全てセシリアになすりつけろ』。 言い逃れのできない、動かぬ証拠。
「……これは」
王太后の表情が厳しくなった。 彼女はハミルトン伯爵を睨みつけた。
「伯爵。……申し開きはあるか?」
「あ、いや、これは……捏造です! 映像など、いくらでも……」
「往生際が悪いぞ」
アーネストが立ち上がった。 彼は冷徹に、伯爵を見下ろした。
「数字は嘘をつかない。……貴様の裏帳簿と、王家の出納記録を照合した結果、一万枚以上の金貨が不正に流用されていることが判明した。その金で、貴様はこの国の塩市場を独占し、私腹を肥やしていたのだ」
彼は私の方を向き、手錠を指差した。
「そして、その罪を隠すために、無実の令嬢をスケープゴートにした。……万死に値する愚行だ」
アーネストが杖を振ると、私の手錠がパキンと音を立てて砕け散った。 魔法による解錠。 自由になった両手を、彼がそっと包み込んだ。
「……待たせたな、セシリア」
「いいえ。……信じていましたわ」
私は涙をこらえて微笑んだ。
会場の空気は一変していた。 軽蔑の視線は、今やハミルトン伯爵と、顔面蒼白の聖女マリアンヌに向けられていた。 真実は白日の下に晒されたのだ。
「……連れて行け」
王太后が静かに、しかし絶対的な命令を下した。 衛兵たちがハミルトン伯爵とミシェル(いつの間にか会場の隅にいた)を取り押さえる。
「違う! 私は……!」 「お離しください!」
彼らの叫び声が遠ざかっていく。 悪は去った。 残ったのは、呆然とする王太子と、震える聖女。
そして、勝者である私たち。
「セシリア・ヴァレリー」
王太后が私を呼んだ。
「そなたの嫌疑は晴れた。……そして、そなたの領地での働き、民の声、しかと届いた。見事であった」
「恐悦至極に存じます」
私は深く頭を下げた。
「そなたには、褒美を取らせよう。何か望みはあるか?」
褒美。 ドレス? 宝石? 地位? いいえ、そんなものはもういらない。
私は顔を上げ、アーネストを見た。 そして、バルガスたち領民を見た。
「……一つだけ、お願いがございます」
私は言った。
「私の領地……グランシェ子爵領に、もう一度、冬越しのための『塩』を。……そして、彼らと共に帰る許可をいただきたく存じます」
「……塩、か」
王太后は驚いたように目を見開き、そして優しく微笑んだ。
「よかろう。王家の備蓄庫より、最高級の塩と、麦を与える。……そなたの『祝宴』のために」
祝宴。 そう、私たちはまだ、本当の勝利の宴を挙げていない。
私はアーネストの手を握りしめた。 彼の手は、傷だらけだったけれど、とても温かかった。
「……帰りましょう、アーネスト様。レオン様と、みんなが待つ場所へ」
「ああ。……帰ろう」
再審は終わった。 悪役令嬢は、無実の罪を晴らし、それ以上のものを手に入れた。 それは、信頼できる仲間と、愛する人。 そして、何よりも大切な『自分の居場所』だった。
高く聳える尖塔。 整然と並ぶ煉瓦造りの商店。 色とりどりのドレスを纏って歩く貴婦人たち。 そして、その中心に鎮座する、白亜の王宮。
王都アウレル。 かつて私が「社交界の華」として君臨し、そして「悪役令嬢」として追放された場所。 数ヶ月ぶりの帰還は、凱旋ではなく、手錠をかけられた囚人としてのものだった。
「……懐かしい景色ですこと」
私は皮肉っぽく呟き、手錠の鎖をチャリと鳴らした。 向かいの席に座っている聖職者の女性――聖女マリアンヌの側近であるシスター・エレン――が、眉をひそめて私を睨んだ。
「罪人の分際で、随分と余裕ですね。セシリア様」
「罪人かどうかを決めるのは、これからの査問会でしょう? まだ私は『容疑者』に過ぎませんわ」
「ふん。王太后陛下がお呼びになったのです。有罪は確定したも同然。……貴女が辺境でコソコソとやっていた悪事は、すべて聖女様がお見通しです」
エレンは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。 彼女の言う「悪事」とは、屋台で民を救ったことか、不正な帳簿を暴こうとしたことか。 どちらにせよ、彼女たちのフィルターを通せば、私の行動はすべて「悪あがき」や「陰謀」に変換されてしまうのだろう。
「……到着しました」
馬車が重々しい音を立てて停止した。 場所は王宮の正門ではなく、裏手にある「北の塔」の前だった。 そこは、身分のある罪人を一時的に収容するための、通称『反省の塔』。
「降りなさい」
騎士に促され、私は馬車を降りた。 冷たい石造りの塔が見下ろしている。 かつて、私はこの塔を遠くから眺め、「あんな場所には一生縁がないわ」と笑っていたものだ。 人生とは、本当に皮肉なものね。
「セシリア!」
不意に、遠くから私の名前を呼ぶ声がした。 振り返ると、王宮の庭園の方角、鉄柵の向こうに、数人の貴族令嬢たちが立っていた。 かつて私を取り巻き、私が追放された瞬間に掌を返した「友人」たちだ。
「見て、あの姿! 泥だらけのドレスよ!」 「まあ、なんて惨めな。辺境で野垂れ死んだと思っていましたのに」 「やはり悪事は露見するのね。オホホホ!」
扇子で口元を隠し、嘲笑する彼女たち。 そのドレスは最新の流行で、宝石がキラキラと輝いている。 対して私は、領地での激務と旅の疲れでボロボロになったドレスを着ている。 髪も結い直せていない。 爪には、厨房の煤が染み込んでいる。
以前の私なら、恥ずかしさで顔を覆っていただろう。 プライドがズタズタに引き裂かれ、その場で泣き崩れていたかもしれない。
でも。
私は彼女たちに向かって、ニッコリと微笑んでみせた。 余裕を持って。 優雅に。 まるで、舞踏会の中心にいるかのように。
「ごきげんよう、皆様。……相変わらず、退屈なお喋りに花を咲かせていらっしゃるのね」
「な……っ!?」
令嬢たちが息を呑む。 私の瞳には、彼女たちが期待した「惨めさ」も「卑屈さ」もなかった。 あるのは、北の厳しい大地で培った、揺るぎない自信と強さだけ。
「私は忙しいので、これで失礼いたしますわ。……皆様も、宝石の輝きだけでなく、ご自分の内面も磨かれたほうがよろしいかと存じます」
私は踵を返し、堂々と塔への階段を登った。 背後で「なによ、あの子!」「強がりよ!」という金切り声が聞こえたが、それは私の耳には届かない雑音(ノイズ)でしかなかった。
私のドレスは汚れている。 でも、この汚れは、レオンと共に領地を守り、アーネストと共に不正と戦い、そして領民たちと共に鍋を囲んだ勲章だ。 あなたたちの着飾ったドレスよりも、よほど価値がある。
「……行くわよ」
私は騎士に先導され、冷たい石の廊下を歩いていった。
* * *
通されたのは、塔の最上階にある一室だった。 家具は硬いベッドと、小さな机、そして暖炉があるだけの殺風景な部屋だ。 窓には頑丈な鉄格子。 ここから見えるのは、灰色の空だけ。
「査問会は明日の正午から行われる。それまではここで待機だ」
騎士はそう言い捨て、扉を閉めた。 ガチャン、と重い鍵の音が響く。 完全な隔離。
「……さて」
私は部屋の中を見回した。 寒い。暖炉には火が入っていない。 私は部屋の隅にあった薪――おそらく何ヶ月も放置されていた湿気た薪――を拾い上げ、暖炉に組んだ。
「火守(ひもり)」
指先から魔力を送る。 パチパチ……。 湿った薪が、嫌がりながらも火を受け入れる。 領地での経験がなければ、この程度の火起こしにも苦労していただろう。
炎が安定すると、少しだけ人心地ついた。 椅子に座り、目を閉じる。
レオンは大丈夫だろうか。 カノンやバルガスたちは、商隊とうまくやっているだろうか。 そして……アーネスト。 彼は今、どこにいるのだろう。 王都にいるはずだ。 私が捕まったことを知っているだろうか。 助けに来てくれるだろうか。
「……信じるしかないわね」
私は首を振り、弱気を追い払った。 彼との契約はまだ終わっていない。 彼が戻る場所を守る。 それが私の役目だ。
コンコン。
扉がノックされた。 小窓が開き、そこから盆が差し入れられた。 夕食だ。
「……毒見は済んでいる。さっさと食え」
見張りの兵士が無愛想に言った。 私は盆を受け取り、机に置いた。
そこにあったのは、冷え切った野菜スープと、石のように硬い黒パン、そして水差し。 いわゆる「囚人食」だ。 スープには油が浮いて白く固まり、パンは叩けば音がしそうだ。
「……ふふっ」
私は思わず笑ってしまった。 グランシェ領に行った初日のことを思い出したからだ。 あの時も、これと同じような……いいえ、もっと酷い食材を見て、絶望したっけ。
「これくらい、どうってことないわ」
私は立ち上がった。 このまま食べる? まさか。 悪役令嬢セシリア・ヴァレリーは、どんな環境でも食事を妥協しない。 与えられたものが最悪なら、それを最高に変えるだけだ。
私は小窓から兵士に声をかけた。
「ねえ、そこのあなた」
「……なんだ。文句なら聞かんぞ」
「文句ではありません。……お願いがあるの。厨房から、塩と、ミルクと、卵を一つずつ持ってきてくれないかしら? あと、フライパンも」
「はぁ? 何を言ってるんだ。ここはレストランじゃないぞ」
「分かっているわ。でも……このままでは喉を通らないの。私が餓死して、明日の査問会に出られなくなったら、あなたの責任問題になるわよ?」
私は鉄格子の隙間から、彼をじっと見つめた。 社交界で磨いた「お願い」の視線。 そして、袖の下代わりに、ドレスの裏地に隠していた小さな宝石(ボタン)を一つ、隙間から渡した。
「……これで、お願い」
兵士は宝石を見て、喉を鳴らした。 安月給の兵士にとって、それは数ヶ月分の給金に相当する。
「……ちっ、面倒な女だ。誰にも言うなよ」
兵士は宝石を懐に入れ、姿を消した。 しばらくして、彼は言われた通りの食材と道具を、こっそりと差し入れてくれた。 賄賂政治。 汚い手だが、使えるものは使う。
「ありがとう」
私は道具を揃え、暖炉の前で腕まくりをした。 作る料理は決まっている。 硬くなったパンと、冷めたスープを蘇らせる魔法の料理。 『パン・ペルデュ・サレ(塩味のフレンチトースト)』だ。
まず、冷めたスープをフライパンに移し、暖炉の火にかける。 スープの油が溶け、温まってくる。 これをボウル(代わりの洗面器だが、綺麗に洗った)に移し、卵とミルクを加えて混ぜ合わせる。 スープの塩気と野菜の旨味が、卵液に溶け込む。
そこに、石のように硬い黒パンを浸す。 じっくりと。 パンの中の気泡が、旨味たっぷりの卵液を吸い込んでいく。 カチカチだったパンが、スポンジのように柔らかく、重くなっていく。
「……まるで、私ね」
かつての私は、プライドだけで固められた、カチカチのパンだった。 でも、領地での経験や、人々の優しさ、アーネストの厳しさを吸い込んで、今はこんなにも柔らかく、そして強くなった。
パンが十分に液を吸ったら、フライパンにバター(これも少しだけもらった)を溶かす。 パンを並べる。
ジュワァァァ……。
いい音。 そして、香ばしい香り。 バターと卵、そしてスープに含まれていた野菜の香りが立ち昇る。 冷たく無機質な石の塔の中に、温かな「生活」の匂いが満ちていく。
両面をこんがりと焼き上げる。 表面はカリッと、中はプリンのようにトロトロに。
「出来上がり」
私は皿に盛り付けた。 ナイフを入れると、湯気と共に中から熱々の卵液が溢れ出す。 一口食べる。
「……ん!」
美味しい。 硬くて味気ないはずの黒パンが、極上のご馳走に変わっている。 スープの塩気が絶妙なアクセントになり、ミルクの甘みを引き立てている。 口の中でとろける食感。 温かさが、胃袋から全身へと広がっていく。
これは、ただの食事ではない。 「再生」の味だ。 一度は捨てられ、価値がないとされたものが、手間と愛情を加えることで、再び輝きを取り戻す。 今の私そのものだ。
私は一人、塔の中で食事を楽しんだ。 明日、どんな断罪が待っていようと、今の私は満たされている。 この温かさが私の中にある限り、私は決して折れない。
* * *
翌日。正午。 重い扉が開かれ、数人の騎士が入ってきた。
「時間だ。出ろ」
手錠をかけられ、私は連行された。 向かう先は、王宮の大広間『審判の間』。
長い廊下を歩く。 すれ違う貴族や官僚たちが、好奇と軽蔑の混じった視線を向けてくる。 「あれが悪役令嬢か」「随分と落ちぶれたな」「今日で終わりだろう」
私は背筋を伸ばし、前だけを見て歩いた。 かつてはこの視線が怖かった。 でも今は、彼らが哀れに見える。 彼らは知らないのだ。 自分で火を起こし、料理を作り、食べる喜びを。 誰かのために必死になることの尊さを。
大広間の扉が開く。 眩いばかりの光。 シャンデリアの輝き。 真紅の絨毯。 そして、正面の玉座には、この国の最高権力者たちが並んでいた。
中央に、威厳ある老婦人。王太后陛下。 その右に、私の元婚約者である王太子セオドア。 左には、宰相と……ハミルトン伯爵。
そして、証言台の近くには、聖女マリアンヌとその取り巻きたちが、悲劇のヒロインのような顔をして立っていた。
「……被告人、セシリア・ヴァレリー。前へ」
宰相の低い声が響く。 私は静かに進み出て、優雅にカーテシーをした。 手錠がチャリと鳴る音が、静寂を切り裂く。
「面を上げよ」
王太后の声は、年齢を感じさせないほど張りがあり、鋭かった。 私が顔を上げると、彼女は値踏みするように私を見た。
「セシリア。そなたには数々の嫌疑がかけられている。……辺境での違法な商行為、公金横領、そして……王家から派遣された監察官を不当に篭絡し、職務を妨害した罪だ」
「事実無根ですわ、陛下」
私は凛とした声で答えた。
「私は領地を救うために屋台を開き、領民と共に汗を流しました。横領などしていません。そしてアーネスト様は……篭絡などされるような柔な方ではありません」
「嘘よ!」
聖女マリアンヌが叫んだ。 彼女は涙ぐんだ瞳で王太子に縋り付いた。
「セオドア様……私、見たんです。セシリア様が、怪しげな魔術を使ってアーネスト様を操っているところを! あの方の料理には、人を惑わす薬が入っているのです!」
「なんだと?」
王太子セオドアが私を睨みつけた。
「セシリア、貴様……まだ懲りずにそんな真似を! マリアンヌを虐めただけでは飽き足らず、今度は監察官まで毒牙にかけるとは!」
「料理は魔法ですが、魔術ではありませんわ。……人を幸せにする魔法です」
「黙れ! その減らず口が気に入らん!」
王太子が机を叩いた。
「ハミルトン伯爵、証拠はあるのか?」
話を振られたハミルトン伯爵――小太りで、脂ぎった顔をした男――が、ニヤリと笑って進み出た。
「はい、殿下。こちらに」
彼が差し出したのは、あのミシェルが偽造した帳簿の写しと、私がサインしたとされる借用書だった。
「これらはすべて、銀翼商会が管理していた正規の帳簿です。……セシリア嬢が、領地の復興資金を自身の贅沢のために使い込んだ記録が、克明に記されております」
「なんと嘆かわしい……」
会場の貴族たちがざわつく。 「やはりな」「追放されても変わらない」「処刑すべきだ」
「さらに」
ハミルトン伯爵は続けた。
「監察官アーネスト・カレル氏は、彼女のこの不正を知りながら、黙認しました。……あるいは、共犯関係にあるのかもしれません。現に彼は、監査の途中で職務を放棄し、行方をくらませております」
「逃亡したのか?」
「おそらく。……罪の発覚を恐れて」
嘘だ。 全部、嘘だ。 アーネストは逃げてなどいない。 彼は戦っている。
「……アーネスト様は逃げてはいません!」
私は声を張り上げた。
「彼は不正を暴くために、証拠を持って王都へ向かったのです! ハミルトン伯爵、あなたが裏で行っている塩の密売と、横領の証拠を!」
「な、何を馬鹿な……!」
ハミルトン伯爵が狼狽える。 その反応が、図星であることを如実に物語っていた。
「証拠? そんなもの、どこにあると言うのだ?」
「彼が持っています。必ず、ここへ来ます!」
「ハッ、来ないさ」
伯爵は意地悪く笑った。
「王都へ向かう街道で、不運な事故に遭ったという報告も聞いている。……山賊にでも襲われたのではないかな?」
心臓が止まりそうになった。 事故? 山賊? 彼が放った刺客のことか。 アーネストは……無事なの?
「さあ、判決を下しましょう」
王太子が立ち上がった。
「セシリア・ヴァレリー。貴様を国家反逆罪および公金横領の罪で、死刑……あるいは、北の鉱山での終身刑に処す!」
絶望的な判決。 会場から拍手が起こるかと思われた、その時。
バンッ!!
大広間の扉が、轟音と共に開かれた。
「――待った!」
響き渡る声。 そこに立っていたのは、アーネスト……ではなかった。
「……誰だ?」
王太子が不機嫌そうに尋ねる。 逆光の中、現れたのは、質素な服を着た数人の男たちだった。 先頭に立つのは、大柄な男。 バルガスだ。 そしてその後ろには、トムや、製粉所の職人たち、さらにはあの商隊のリーダーまでいる。
「な、何だ貴様らは! ここは神聖な審判の間だぞ!」
衛兵が止めようとするが、バルガスは止まらなかった。 彼は私の元まで大股で歩み寄り、片膝をついた。
「……間に合ったか」
「バルガス!? どうしてここに……」
「レオン様に行けって言われたんだ。『セシリアを守れるのは、お前たちの声だけだ』ってな」
バルガスは懐から、一枚の巨大な羊皮紙を取り出した。 それを広げ、王太后に見せるように掲げた。
「これは……!」
会場がどよめく。 その羊皮紙には、びっしりと、数百、数千の署名が書かれていた。 拙い文字。汚れた指紋。 子供の字もあれば、震える老人の字もある。 グランシェ子爵領の領民たち、そして街道を利用した商人たちの署名だ。
『セシリア様は、俺たちの恩人だ』 『彼女の料理が、俺たちを救った』 『悪役令嬢なんかじゃない、彼女は俺たちの希望だ』
添えられた言葉の一つ一つが、私の胸を打つ。
「王太后陛下!」
バルガスが叫んだ。
「俺たちは学のない平民です。難しいことは分かりません。でも、誰が本当のことを言っていて、誰が嘘つきかは分かります!」
彼はハミルトン伯爵を指差した。
「この豚野郎は、俺たちの街道を封鎖し、塩を奪い、倉庫を焼きました! 俺たちを殺そうとしました!」
「ぶ、無礼な! 衛兵、摘み出せ!」
伯爵が叫ぶが、バルガスは引かない。
「でも、セシリア様は! 自分のドレスを汚して、俺たちのために飯を作ってくれました! 凍えそうな夜に、温かいスープをくれました! ……そんな人が、金を盗むはずがねぇ!」
「そうだ!」 「セシリア様は無実だ!」
後ろに控える商人も声を上げた。
「あっしも証言します! ハミルトン家の兵士が、不当に街道を塞いでいるのを見ました! それを追い払ったのは、セシリア様と監察官殿です!」
民衆の声。 それは、貴族社会の論理(ロジック)の外にある、生の感情の爆発だった。 計算高いハミルトン伯爵も、感情的な王太子も、この予想外の事態に言葉を失っている。
「……静粛に」
王太后が杖で床を突いた。 彼女の視線が、署名の束と、私、そしてハミルトン伯爵を行き来する。
「民の声は届いた。……だが、証拠が必要だ。ハミルトン伯爵の不正を証明する、確たる証拠が」
「証拠なら、ここにあります」
凛とした声が、再び扉の方から響いた。
今度こそ。 待ちわびた声。
扉の向こうから、冷気を纏って現れたのは、泥だらけのコートを羽織り、しかしその瞳に不屈の光を宿した男。
アーネスト・カレルだった。
「アーネスト様……!」
「遅くなってすまない」
彼は私の横を通り過ぎる時、小さく囁いた。
「……少し、手間取ったものでな」
彼のコートには、数ヶ所の切り裂かれた跡と、赤黒いシミがあった。 激戦を潜り抜けてきた証だ。 彼は怪我をしている。でも、倒れてはいない。
アーネストは王太后の御前に進み出て、跪いた。 そして、懐から分厚い書類の束と、一つの水晶玉を取り出した。
「監察官アーネスト・カレル、只今帰還いたしました。……ハミルトン伯爵家および銀翼商会による、大規模な不正蓄財、公金横領、および……殺人未遂の決定的証拠を持参して」
「なっ……!?」
ハミルトン伯爵の顔色が、一瞬で土気色に変わった。
「その書類は……燃やしたはずだ! 刺客が……!」
「ああ、襲われたよ。五回ほどな」
アーネストは淡々と言った。
「だが、残念ながら彼らは『氷漬け』にさせてもらった。……今は王都の憲兵隊に突き出してある。彼らの自白も、この水晶玉に記録済みだ」
彼は水晶玉を掲げた。 そこに映し出されたのは、ミシェルと、ハミルトン家の私兵長が、襲撃計画を相談している映像と音声だった。 『倉庫を焼け』『監察官を消せ』『罪は全てセシリアになすりつけろ』。 言い逃れのできない、動かぬ証拠。
「……これは」
王太后の表情が厳しくなった。 彼女はハミルトン伯爵を睨みつけた。
「伯爵。……申し開きはあるか?」
「あ、いや、これは……捏造です! 映像など、いくらでも……」
「往生際が悪いぞ」
アーネストが立ち上がった。 彼は冷徹に、伯爵を見下ろした。
「数字は嘘をつかない。……貴様の裏帳簿と、王家の出納記録を照合した結果、一万枚以上の金貨が不正に流用されていることが判明した。その金で、貴様はこの国の塩市場を独占し、私腹を肥やしていたのだ」
彼は私の方を向き、手錠を指差した。
「そして、その罪を隠すために、無実の令嬢をスケープゴートにした。……万死に値する愚行だ」
アーネストが杖を振ると、私の手錠がパキンと音を立てて砕け散った。 魔法による解錠。 自由になった両手を、彼がそっと包み込んだ。
「……待たせたな、セシリア」
「いいえ。……信じていましたわ」
私は涙をこらえて微笑んだ。
会場の空気は一変していた。 軽蔑の視線は、今やハミルトン伯爵と、顔面蒼白の聖女マリアンヌに向けられていた。 真実は白日の下に晒されたのだ。
「……連れて行け」
王太后が静かに、しかし絶対的な命令を下した。 衛兵たちがハミルトン伯爵とミシェル(いつの間にか会場の隅にいた)を取り押さえる。
「違う! 私は……!」 「お離しください!」
彼らの叫び声が遠ざかっていく。 悪は去った。 残ったのは、呆然とする王太子と、震える聖女。
そして、勝者である私たち。
「セシリア・ヴァレリー」
王太后が私を呼んだ。
「そなたの嫌疑は晴れた。……そして、そなたの領地での働き、民の声、しかと届いた。見事であった」
「恐悦至極に存じます」
私は深く頭を下げた。
「そなたには、褒美を取らせよう。何か望みはあるか?」
褒美。 ドレス? 宝石? 地位? いいえ、そんなものはもういらない。
私は顔を上げ、アーネストを見た。 そして、バルガスたち領民を見た。
「……一つだけ、お願いがございます」
私は言った。
「私の領地……グランシェ子爵領に、もう一度、冬越しのための『塩』を。……そして、彼らと共に帰る許可をいただきたく存じます」
「……塩、か」
王太后は驚いたように目を見開き、そして優しく微笑んだ。
「よかろう。王家の備蓄庫より、最高級の塩と、麦を与える。……そなたの『祝宴』のために」
祝宴。 そう、私たちはまだ、本当の勝利の宴を挙げていない。
私はアーネストの手を握りしめた。 彼の手は、傷だらけだったけれど、とても温かかった。
「……帰りましょう、アーネスト様。レオン様と、みんなが待つ場所へ」
「ああ。……帰ろう」
再審は終わった。 悪役令嬢は、無実の罪を晴らし、それ以上のものを手に入れた。 それは、信頼できる仲間と、愛する人。 そして、何よりも大切な『自分の居場所』だった。
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