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第20話 王妃位返上願い
去ると決めた者ほど、最後の礼を丁寧に尽くすことがある。
それは未練の裏返しではない。むしろ逆だ。もう相手に何も求めないと決めたからこそ、自分が残していくものの形だけは崩したくないのだ。泣きわめいて壊すのでもなく、怒りに任せて傷を撒き散らすのでもなく、最後の最後まで不足なく整えて、誰にも大きな混乱を残さぬように去る。その静かな几帳面さは、時にどんな糾弾より残酷になる。
その朝、東翼の窓の外には、まだ冬の色が薄く残っていた。
空は晴れている。だが春の明るさではない。高く透き通った青の下に、冷えた光だけが王宮の屋根や石畳を照らしている。庭園の隅には解け残った雪が小さく白くこびりつき、その周囲の土だけが水を含んで黒く沈んでいた。裸木の枝先には、芽吹きとも枯れ残りともつかぬ小さな膨らみがあり、季節がどちらへ倒れるのかまだ決めかねているように見える。
セレスティアは、その光の差し込む私室で、机に向かっていた。
朝食前だ。湯気の立つ白湯が手元にあり、卓上灯はまだ落とされずにいる。東翼の侍女たちはもう起きて動いているはずだが、この時間の私室には、まだ一日の雑音が完全には流れ込んでいない。暖炉の火は小さく、薪の赤い芯がときおり淡く明るむ。紙の匂い、蝋の匂い、朝の冷たい光。そういうものだけが、静かに部屋の輪郭を作っている。
机の上には、白く上質な紙が三枚重ねられていた。
一枚は下書き。
一枚は清書用。
もう一枚は、文言を最後まで迷った時のための予備。
セレスティアは何度も書いては止め、止めては視線を上げていた。決して感情に任せて乱れたわけではない。ただ、この文書だけは、ほんの僅かな言い回しの違いがそのまま意味の差になると分かっていたからだ。
離縁願いではない。
それを最初から決めていた。
離縁はあまりに直接的で、あまりに個人的だ。王と王妃の婚姻は、ただの夫婦の問題では終わらない。そこへ「離縁」という語を置いた瞬間、話は夫婦間の破綻として大きく燃え広がる。王の体面は傷つく。宮廷は騒ぐ。貴族たちは勝手な物語を作る。民の間へも尾ひれがつく。
だから、違う形を取る。
王妃位返上願い。
王妃という公的役目から、自発的に退くという形。その上で、婚姻そのものについては王の判断へ委ねる。王の名誉を損なわず、国の混乱を最小限に抑え、あくまで「王妃としての力不足と静養の必要」を理由に、自分が下がる。
それが、もっとも美しく、もっとも傷を小さく見せる去り方だった。
そして、その美しさの裏にある本当の痛みを、王だけが知っていればいいと、セレスティアは思っていた。
「お目覚めでございますか」
イゼルナの声が扉の向こうからする。
「ええ」
返事をすると、彼女はいつもの速度で入ってきた。白湯の差し替えと、朝の洗面の支度。だが一歩入っただけで、机の上の紙に気づいたのだろう。イゼルナの目が、ほんのわずかに深くなる。
「……お書きになるのですね」
「ええ」
「今日」
「今日のうちに形にしたいの」
イゼルナはすぐには近づかなかった。主人の背後へまわり、窓のカーテンを少しだけ開ける。朝の白い光が、紙の上へ斜めに落ちる。字はまだ途中だ。だが、その書き出しだけで内容は十分に察せられたはずだ。
『恐れながら申し上げます。私、セレスティア・ヴァレニエは、王妃位の任を返上し……』
それ以上読まなくても分かる。これはもう、一時の感情ではない。整えに整えた末の決意だ。
「止めた方がよろしいと申し上げれば」
イゼルナが低く言う。
「止まるおつもりは」
「ないわ」
セレスティアははっきりと答えた。声は静かだが、揺れはない。
「むしろ、今ここで書かなければ、また別のことに心が引かれるでしょう」
「……」
「だから、先に形へするの」
形へする。
紙に書き、印を押し、文書として成立させる。
そうしてしまえば、もう「感情の波」ではなく、「現実の意志」になる。
イゼルナはそれをよく知っている顔だった。彼女はしばらく黙り、やがて主人の背後へそっと茶を置く。
「でしたら、少なくとも文言だけは最善に」
「ええ」
「誰にも騒がせぬ形で」
「そのための書き方をするつもりよ」
イゼルナは一礼して、余計なことは言わなかった。止めたい気持ちがないわけではないだろう。だが、ここまで静かに整えられた決意を、言葉ひとつで崩せるとも思っていないのだ。
セレスティアは再び紙へ視線を落とした。
文面は、驚くほど冷静に組み上がっていく。
まず、自身の体調不安と継続的な職務遂行への不安。
次に、王妃として必要な役目を果たし続けるには、心身の静養が避けられないこと。
その上で、王と王宮、ならびに国政へ不要な負担をかけぬため、自ら王妃位返上を願い出ること。
婚姻関係については王のご判断へ従うこと。
返上が認められるまでの間は、一切の引き継ぎを責任をもって整えること。
どこにも、感情は書かれない。
愛されなかったことも。
作られた王妃だったことも。
遅れて始まった執着も。
何も。
ただ、役目を降りるに足る理路だけが整えられている。
それが自分の最後の優しさなのだと、セレスティアはどこかで思っていた。王を、大きくは傷つけない。国も、混乱させない。噂も最小限にする。最後まで王妃らしく去る。そこまでやれば、もう十分だろう、と。
だがその「十分」が、かえって王にとってどれほど息苦しいものになるかを、まだ彼女自身は知らない。
午前の公務は、驚くほど普通に流れた。
施療院からの報告。学舎への返答。侍女配置の最終確認。誰も王妃がその内側で何を書き終えたかなど知らない。セレスティアもそれを微塵も表へ出さない。笑う時は笑い、必要な指示は短く、美しく出す。
「この帳簿は西棟へ上げる前にもう一度照合を」
「はい、王妃殿下」
「東の丘への布送りは三日後で。まだ朝晩は冷えますもの」
「承知いたしました」
「副筆頭の印の扱いも、今日中に文言を揃えておいて」
「かしこまりました」
完璧だった。むしろ、これまで以上に。
去ると決めた者ほど、最後の仕事が美しくなる。まるで自分がいなくなる未来に、乱れの種だけは一つも置いていかぬように。
昼を少し過ぎた頃、文書は最終の清書へ入った。
上質な紙の上を羽根ペンが滑る。墨の色は深く、筆致は穏やかで乱れがない。一字一字が整い、読み手にいらぬ感情を抱かせぬよう、均等に置かれていく。侯爵家で習い、王妃となってからさらに磨かれた字だ。王宮で最も美しい筆跡の一つと評されるその字で、王妃位返上願いが綴られていく。
内容は冷たいほど端正だった。
感傷はない。恨みもない。誰かを責める含みも一切ない。自分の不足と、王宮への負担を理由に、自発的に退く。そう読むしかない文だ。王がこれを受け取れば、外向きには「聡明な王妃が、国を思って職を退こうとしている」ようにすら映るだろう。
完璧すぎる。
それゆえに、残酷だった。
清書が終わると、セレスティアはしばらくその紙を見つめていた。墨はまだ完全には乾いていない。窓の外から入る白い午後の光が、紙の縁を淡く照らす。自分の書いたものなのに、もう半分、他人が整えた公文みたいに見える。
「殿下」
イゼルナがそっと声をかける。
「印を」
「ええ」
王妃印。
その一語だけで、胸の奥が少しだけ痛む。印は重い。物理的にも意味としても。王妃の名で何かを成立させる最後の証だ。それをこの文書へ押せば、いよいよ戻れないところへ踏み出すことになる。
書記官が呼ばれた。まだ若いが手の堅い男で、王妃印の扱いには特に慎重だ。彼は文書の内容を知らぬまま、いつも通りの手順で印箱を卓上へ運んだ。赤い布。白木の箱。内側に鎮座する王妃印。金属の冷たい光。見慣れているのに、今日に限ってやけに遠く見える。
「こちらへ」
書記官が低く言う。手順そのものは何も変わらない。印箱を開き、朱を整え、文書の所定位置へ布を敷く。王妃が押印する。その一連の流れに、感情は入り込まない。
セレスティアは印を取った。
重い。
いつも通りの重さなのに、今日だけは妙に指へ沈む。
一拍だけ目を閉じ、それから、文書の末尾へ静かに押した。
朱が紙へ載る。
王妃の印。
鮮やかで、揺れがなく、非の打ちどころがない。
それで終わりだった。
王妃位返上願いは、ただの考えではなく、印を持つ文書になった。
書記官が一礼して下がる。部屋に残るのは、セレスティアとイゼルナだけだ。暖炉の火が小さく鳴り、午後の光が少しずつ傾き始めている。
イゼルナはしばらく何も言わなかった。言えなかったのだろう。主人の手で押されたその印が、あまりにも静かで、あまりにも決定的で、どんな言葉も安くなりそうだった。
「……本当に」
ようやく出た声は、かすかに掠れていた。
「本当に、出されるのですね」
「ええ」
「今日」
「今日のうちに」
セレスティアは文書を封へ入れる。白い封紙。宛名は簡潔に、『国王陛下御前』。誰が見ても、正式な打診文書だと分かる体裁。
「大騒ぎになる前に、先にお渡しした方がいいでしょう」
「直接」
「ええ。人の手をあまり多く介したくないの」
「……」
イゼルナは、そこでひどく辛そうな顔をした。
「殿下は最後まで、誰も傷つけぬようになさるのですね」
「それが私の役目でしたから」
「もう、そうではございません」
「そうでなくても」
セレスティアは微笑んだ。とても柔らかく。だがその柔らかさの中に、もう戻らぬ決意がきれいに沈んでいる。
「最後くらいは、美しく終わりたいの」
その言葉に、イゼルナはもう返す言葉を持たなかった。
王が西棟の私的な談話室へ戻るのは、夕刻から晩餐までの短い時間だけだ。公務と公務のあいだ、わずかに書類を整理し、身を休めるための部屋。セレスティアは、その時間を見計らって動いた。
夕暮れの王宮は、いつも静かで、少しだけ人の心を弱くする。窓の外はもう薄い群青に沈み、灯りが回廊の壁へ淡く映る。暖炉の火が各部屋で焚かれ始め、薪の匂いが空気に増えていく。昼のざわめきがひと段落し、夜の喧噪がまだ届かない。そういう、曖昧な時間だった。
談話室の前で、侍従が礼を取る。
「王妃殿下」
「陛下はいらっしゃる?」
「はい」
「取り次ぎを」
「かしこまりました」
ほんの短いやりとりの後、扉が開かれる。
部屋の中は暖かかった。低い灯り、静かな暖炉、小さな卓。リグヴァルドは長椅子の脇で書簡を見ていたらしい。顔を上げた瞬間、セレスティアの姿を見ると、ほんのわずかに目の色が変わった。ここ数日、彼は彼女が自分の前へ立つだけで、何かを警戒するようになっている。
「どうした」
王が問う。
セレスティアは中へ入り、扉が閉まるのを待った。部屋には二人きり。今は侍従も側近もいない。暖炉の火だけが穏やかに燃え、外の群青が窓の外に薄く残っている。
「お時間をいただきたく」
「……何だ」
王の声に、微かな身構えがある。最近の彼は、セレスティアが何かを差し出すたび、それが自分の予想より深い意味を持っているのではないかと警戒しているように見えた。
セレスティアは一歩進み、封書を両手で差し出した。
「こちらを」
リグヴァルドの視線が封へ落ちる。白い封紙。整った宛名。王妃の正式印。
ほんの一瞬、彼の顔が読めないほど無表情になる。その無表情が、かえって嫌な予感を際立たせた。王は封を受け取る。指先が紙の厚みを測る。軽い。だが、その軽さの中に何か重いものが詰まっていることを、彼ももう察したのだろう。
「これは」
「打診書でございます」
静かに答える。
「何の」
問われた瞬間、セレスティアはほんの一拍だけ間を置いた。昔なら、王の沈黙を心地よくするために置いた半拍。今は違う。言葉の刃先を曇らせず、まっすぐ相手へ届くよう整えるための間だ。
「王妃位返上の」
その一言で、部屋の空気が完全に変わった。
暖炉の火は同じように燃えている。外の群青も変わらない。なのに、その一語が落ちた瞬間、目には見えない何かが部屋じゅうをぴんと張りつめさせる。
リグヴァルドは即座には封を開かなかった。開ければ内容が確定する。今はまだ、言葉だけの段階だ。けれどその躊躇いが、かえって事態の深刻さを露わにする。
「……何だと」
「王妃位返上の打診書です」
セレスティアは繰り返した。声は少しも揺れない。
「離縁ではございません。あくまで、王妃の位と役目を返上したいという願いを、先にお伝えするものです」
「なぜそんな」
「文面に整えております」
王はそこで封を切った。指先に無駄な震えはない。だがその動きの硬さは、見ていて分かった。封から紙を取り出し、目を落とす。部屋の灯りは穏やかだが、読むには十分だ。
王の視線が、行頭から末尾へ静かに下りていく。
王妃としての職務継続に対する懸念。
心身の静養の必要。
国政と王の体面を損なわぬための自発的辞退。
婚姻そのものについては王のご裁可へ従うこと。
返上までの引き継ぎと、王宮内外の整理を責任を持って行うこと。
完璧な文書だった。
自分を一切の被害者にせず、王を一切の加害者にしない。国に混乱を与えるどころか、むしろ「賢明な王妃の自主的な退き方」として処理できるよう、隅々まで計算されている。王の体面も、王家の威信も、宮廷の噂も、民への波紋も、すべて最小限で済むように。
最後まで傷つけないように去ろうとしている。
その優しさが、リグヴァルドには恐ろしく残酷だった。
「……お前は」
紙から目を離さぬまま、ようやく声が落ちる。
「ここまで整えたのか」
「はい」
「私に恥をかかせぬように」
「王に、不要な傷をつけるべきではありません」
「……」
「国も、混乱させたくはありませんので」
その言い方が、あまりにも静かだった。
責めていない。怒ってもいない。王を守ろうとしている。それが分かる。分かるからこそ、リグヴァルドは息が詰まりそうになる。ここまできれいに逃げ道を作られると、むしろ自分の方が追い詰められる。
もし彼女が泣いて離縁を叫んでいたなら、まだよかったのかもしれない。感情として受け止め、王として押し返すことも、時間を置いて宥めることもできただろう。だが今、目の前にあるのは完成された文書だ。理路と礼と優しさだけでできた、美しすぎる去り方。
こんなものを突き返せば、自分の方が醜い。
「セレスティア」
王はようやく顔を上げる。
「本気か」
「はい」
「感情的になっているのではなく」
「ええ」
「この形が最善だと」
「そう考えております」
淀みがない。あまりにも。
リグヴァルドは文書を持つ手に力を込めた。紙が僅かに鳴る。最善。たしかにそうだろう。この文書は、王妃が王と国へ最後まで礼を尽くして去るための、もっとも美しい形だ。だがその美しさが、今はひどく苛立たしい。いや、苛立たしいのではない。怖いのだ。ここまで整えられてしまうと、本当に彼女は去るつもりなのだと認めざるをえないから。
「お前は、俺に」
問いが途中で詰まる。
何を問いたい。
まだ止めてほしいと思っているのか。
最後まで王として優しく退こうとしているのか。
それとも、もう何も残っていないのか。
セレスティアはその詰まりを見た。見ても、もう助け舟は出さない。
「陛下の体面を損ないたくないのです」
彼女はあくまで穏やかに言う。
「私が感情に任せて王妃位を投げれば、傷つくのは私だけでは済みません」
「……」
「離縁という形を取れば、王家の名誉にも影が差すでしょう」
「……」
「ですので、王妃位返上の打診に留めます。判断はすべて、陛下へお委ねいたします」
委ねる。
王の裁量を尊重する。
その言い方の一つひとつが、文句のつけようのない礼節でできている。
王の胸の内では、焦燥がはっきりした形を取り始めていた。
遅れて始まった食事。
贈り物。
私的な時間。
執着。
愛ではないでしょう、と言われた夜。
過去の女を訪ねても何も救われないと知った朝。
そして今、最後まで傷つけまいとして提出される王妃位返上願い。
どこから見ても、自分が遅かった。
彼女は王を責めない。
責めないまま、最も美しい形で去ろうとしている。
その優しさが、かえってどこにも逃げ場を作ってくれない。
「そんなものを」
王の声が少しだけ低くなる。
「簡単に受け取れると思うのか」
「簡単ではないでしょう」
セレスティアははっきりと言った。
「ですから、打診という形にいたしました」
「形の問題ではない」
「ええ」
「なら、どうして」
「これ以上ここに留まる方が、私には不誠実だからです」
その一言が、王の胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。
不誠実。
「私はもう、王妃として必要な顔はできます」
セレスティアは続ける。
「必要な言葉も置けます。社交も、公務も、帳簿も、最後まで不足なく整えられるでしょう」
「……」
「けれど、その先にあるものを、もう陛下へ差し出すことはできません」
「……」
「それで王妃の位に留まるのは、あまりに空虚です」
空虚。その一語で、王は文書から目を逸らせなくなる。
彼女は何も壊さず、何も奪わずに去る。けれどその理由は、王妃としての役目が足りないからではない。王が今さらようやく差し出そうとしているものにも、もう応えられないからだ。役目だけは果たせる。果たせるからこそ、そこに人としての熱がないまま留まる方が不誠実だと、彼女は言う。
それは王を責める言葉ではない。だが責められるより重かった。
「俺は」
リグヴァルドは言う。喉がひどく乾いているのに、声は出さなければならない。
「認めていない」
「はい」
「こんなものを」
「承知しております」
セレスティアは少しも動じない。
「ですから、打診に留めました。陛下が受理なさらぬのであれば、私はそれに従います」
「……」
「ただ、私の意志としてはお伝えしておかなければならないと思いましたので」
完璧すぎる。
断られても従う。
受理されなくても反抗しない。
王の判断を立てる。
自分の意志だけは、静かに差し出す。
こんな去り方をされて、どうして王が平静でいられる。
「お前は優しすぎる」
思わず漏れた言葉だった。
セレスティアはその一言に、ほんの一瞬だけ目を細めた。悲しそうでもなく、嬉しそうでもなく、ただ少し疲れたように。
「そうでしょうか」
とても静かな声だ。
「最後に騒がずに済む方法を選んでいるだけです」
「それが優しさだと分からないと思うのか」
「分かっていただかなくても結構です」
柔らかく返される。だが、その柔らかさがまた刃だ。
「私がここで離縁を叫べば、陛下も国も傷つくでしょう」
「……」
「それはしたくないのです」
「なぜだ」
「なぜ、とは」
「お前は」
王は言葉を探す。探しながら、自分がどれほど追いつめられているかに気づいている。彼女は去ろうとしているのに、なお自分を傷つけぬよう整えている。その優しさに甘える形で彼女を留めるのは、あまりに卑怯だ。だが、その卑怯さすら今の自分には持ちうる手段の一つに見えてしまう。
「なぜそこまで、俺を」
傷つけまいとする。
そう言いたかったのだろう。
セレスティアは一瞬だけ、視線を落とした。暖炉の火がその睫毛の影を揺らす。返ってきた声は、これまででいちばん静かだった。
「……長く、そうしてきましたから」
その言葉に、王は一瞬だけ何も言えなくなる。
長く。
そうしてきた。
王の顔色を見て、場を整え、負担を減らし、傷を最小限にしてきた。王妃として。妻として。聞き分けよく、静かに。
その積み重ねの果てに、最後の去り方まで「傷つけないように」が選ばれている。
ならばそれは優しさであり、同時に、自分が彼女へそういう形しか取らせてこなかった証でもある。
リグヴァルドは初めて、手元の文書を見下ろしながら、これがただの打診書ではなく、自分たちの結婚の総決算に近いものだと理解する。王妃が最後まで騒がず、美しく、完璧に去ろうとする。その美しさそのものが、自分の遅さと浅さを暴いている。
彼女は最後まで王妃だった。
だからこそ、もう妻ではいられないと言っている。
その構図の残酷さに、王は遅れて息苦しさを覚える。
「……受け取れない」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
セレスティアは驚かない。たぶん、そう言われるだろうと思っていたのだろう。
「はい」
「今すぐには、認められない」
「承知しております」
「そんな顔で」
思わず言う。
そんな顔で。
まるで予想していたように。
まるで、それでも自分の役目は果たしたと言うように。
セレスティアはわずかに首を傾けた。
「私は打診をお渡ししただけです」
「……」
「受理なさるかどうかは、陛下のご判断でしょう」
完全に正しい。
完全に礼に則っている。
そしてその正しさが、王をどこまでも追い詰める。
叫んでくれればよかったのかもしれない。
怒ってくれれば。
責めてくれれば。
だが彼女はそうしない。最後まで傷を最小限に抑え、王へ判断の形だけを残す。だからこそ、その判断の重さは全部王の側へ落ちる。
「……下がれ」
絞るように言った。その声の中に怒りはない。ただ、これ以上この場に立たれていると、自分の呼吸の置き場がなくなるという苦しさだけがある。
「はい、陛下」
セレスティアは一礼した。
その礼もまた完璧だった。寸分の狂いもなく、美しく、静かで、もう何も求めない者の礼だった。
彼女が扉へ向かう。裾がかすかに鳴る。暖炉の明かりがその後ろ姿を一瞬だけ温める。けれど、その背へ王は何も届かせられない。
扉が開き、外の冷たい空気が流れ込む。セレスティアは振り返らない。そのまま静かに部屋を出ていく。
扉が閉まる。
部屋には、暖炉の火と、王妃位返上願いと、王だけが残された。
リグヴァルドはしばらく動けなかった。
文書を持つ指先が、ほんのわずかに冷えている。
暖炉の火は近いのに、どうしてこんなに寒いのか分からない。
彼女は最後まで自分を傷つけないように去ろうとしている。
その優しさが、王にとっては何より苛烈だった。
もし離縁を叫ばれたなら、王として怒ることも押し返すこともできただろう。けれどこれは違う。体面を守り、国を乱さず、すべての引き継ぎを整えた上で、美しく降りるという打診。王が拒めば、拒む側の理屈と責任を全部背負わされる。受け入れれば、彼女は完璧な王妃のまま去る。
どちらを選んでも、自分の遅さが露わになる。
完璧すぎる去り方だった。
そしてその完璧さこそが、王をいちばん深く追い詰めていた。
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※この作品は、読んでいただいた皆さまのおかげで書籍化することができました。
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これまで応援いただき、本当にありがとうございました。
レジーナのサイトで番外編が読めますので、そちらものぞいていただけると嬉しいです。
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