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第31話 追いかける者の資格
追いかける者には、資格がいる。
ただ好きだと気づいたから。失いたくないと怯えたから。手の中から零れ落ちそうになったから。そういう理由だけで追いかけるのは、たぶんまだ自分のためだ。相手の人生を、自分の欲しさで引き戻そうとしているにすぎない。
誰かを本当に追いかけるというのは、その人に選び直してもらえるような人間になることなのだろう。追いつくことではなく、信じてもよいと思われる場所まで、自分の生き方を変えることなのだろう。
東の丘に、やわらかい雨が降っていた。
春に近づいたはずの空は薄い灰を広げ、遠くの森も庭の生垣も、少しだけ輪郭をにじませている。大粒ではない。霧に似た細かな雨が、温室の硝子を白く曇らせ、土の匂いを濃くしていた。池の水面は静かで、雨粒だけが小さな輪をいくつも作っては消していく。残雪はもうほとんど見えず、そのかわり黒かった地面のあちこちに、若い緑の尖りが点のように顔を出していた。
離宮へ移ってからの日々は、王宮とはまるで違う速さで流れている。
朝の支度も、帳簿を開く順番も、昼の茶に何を添えるかも、誰かの目のためではなく、自分の感覚で決めることが増えた。そうなったからといって、急に自由を使いこなせるわけではない。むしろ最初は、自分が何を望むのかすら分からなかった。けれど少しずつ、土に触れ、温室の苗を見て、庭師の話を聞き、今日はこの色の衣が着たいと思ってみる。その積み重ねが、離宮での生活をただの別居ではなく、たしかな再生へ変え始めていた。
その午後、セレスティアは温室の奥で、北側の棚へ移した薬草の鉢を見ていた。
庭師に教えられた通り、寒さの残る棚へはいちばん丈夫なものだけを置く。南面の光が足りぬぶん、水はほんの少し控えめに。葉の色が沈み始めたら、無理に肥料を足さず、まず土の湿りを見る。そうした小さな理屈を、自分の手で確かめながら覚えていくのが、今は不思議と嫌ではなかった。
「殿下」
イゼルナの声が、温室の扉の外から静かに届く。
「お客様です」
「……陛下?」
「はい」
セレスティアは土のついた指先を布で拭い、少しだけ目を伏せた。
最近のリグヴァルドは、東の丘へ来る時、以前とは違う空気をまとっている。王としての命令も、戻れという圧も、露骨な執着も、前ほど前面へ出さなくなった。その変化が本物かどうかは、まだ簡単には言えない。けれど少なくとも、彼が自分の都合だけで言葉を選ぶ段階から、一歩ずつ抜け出そうとしていることは分かっていた。
「どちらに」
「玄関ではなく、庭の東屋へ」
「……そう」
温室の外へ出ると、雨はまだ細く降っていた。東屋といっても、離宮のそれは大きくはない。白い石の柱と、雨を避けるための低い屋根だけの簡素な造りだ。庭と池を見下ろす位置にあり、晴れた日ならそこで茶も飲めるのだろう。今日は薄い雨の帳が周囲を包んでいるせいで、かえってそこだけが外の世界から切り取られたように見えた。
リグヴァルドは、東屋の奥に立っていた。
王の紋章は見えない。護衛もここまでは入れていないのだろう。濃い灰の外套は雨を吸って少し色を深くし、その下の衣も驚くほど簡素だった。顔色は以前よりいくらか悪い。眠れていない影が目の下に薄く残り、ここ数日、きちんと食べているのかとさえ思うほど頬がわずかに削げて見えた。だが、その疲れは以前のような混乱や焦燥のそれではなかった。何かを抱えたまま、それでも逃げずに立ち続けてきた人間の疲れに見えた。
「いらしていたのね」
セレスティアが言うと、リグヴァルドは短くうなずいた。
「ああ」
「今日は、お一人で?」
「門前に近衛は残した」
「ここへは」
「連れてこなかった」
それだけで、今日の訪問の意味は分かる気がした。
王としてではなく、一人の男として来たかった。そういうことなのだろう。言葉にしなくても伝わるほど、彼の立ち方は前よりずっと人間に近かった。
「中へお通しした方が」
「いや」
リグヴァルドが静かに首を振る。
「お前が雨を嫌わないなら、ここで話したい」
「私は構いません」
「そうか」
東屋の中には木の長椅子が一つだけあり、二人は少し距離を空けてそこへ座った。外の雨は細いまま続いている。屋根を打つ音はやわらかく、池の水へ落ちる粒の音だけがわずかに近い。庭師が少し前に置いていったのか、隅の小卓には種袋が二つ、まだ封を切らぬまま重ねてあった。薄い黄色の花と、淡い青の小花。セレスティアが温室で迷っていたものだ。
リグヴァルドはそれに一瞬目をやったが、何も訊かなかった。昔の彼なら、会話の糸口にするために何か言ったかもしれない。今は違う。言葉を飾らず、本当に必要なことだけを持ってきた顔をしている。
「今日は」
先に口を開いたのは、彼だった。
「戻ってほしいと言いに来たわけではない」
「ええ」
セレスティアは静かに答える。驚きはない。前回の彼の言葉から、今日ここへ来るならそういう姿勢で来るのだろうとは、どこかで分かっていた。
「許してほしいとも言わない」
「……」
「お前に、今すぐ何かを返してほしいとも」
「……」
雨音が、二人のあいだの沈黙へ細く入り込む。
それは取り繕いのない言葉だった。結論を求めないと、まず最初に切る。その切り方に、彼なりの覚悟が見えた。
「では、何を」
セレスティアが問うと、リグヴァルドは一度だけ深く息を吐いた。
「約束をしに来た」
「約束?」
「ああ」
彼はまっすぐ前を見たまま言う。庭の向こう、細い雨に濡れた池の面を。
「俺は、お前を取り戻そうとしていた」
「……」
「言葉を探し、食事に誘い、贈り物をし、謝り」
「……」
「どれも必要ではあったと思う」
「ええ」
「だが、どこかでまだ“俺のところへ戻す”という発想があった」
「……」
セレスティアは、その言葉に何も足さない。
そうだったのだろう。彼自身が今こうして認めるなら、もうそこへ余計な補足を置く必要はない。
「それでは駄目だと」
リグヴァルドは続ける。
「ようやく分かった」
「……」
「お前は物ではない。失いかけたから手を伸ばし、惜しくなったから戻せと言える相手ではない」
「……」
「だから、俺はもう“戻ってほしい”を先に置かない」
「……」
細い雨が、屋根の端から一筋ずつ落ちていく。東屋の外は淡い灰で満ちていて、時間の流れまで少しゆるくなったようだった。
「俺は」
王は言った。いや、もうその瞬間の彼は、王というよりリグヴァルドだった。
「もう一度信じてもらえるように生きる」
「……」
「信じろとは言わない」
「……」
「信じてもらえるかもしれないと思えるところまで、自分の側を変える」
「……」
「その資格があると思えるようになるまでは、お前に何も求めない」
資格。
その言葉を、セレスティアは静かに胸の中で繰り返した。
王は本来、資格を与える側の人間だ。人を選び、裁可し、位を与え、役目を定める側。その男が今、自分にはまだ資格がないと認めた上で、それを得るために生きると言っている。
それはたしかに、今までの彼にはなかった姿勢だった。
「具体的には」
セレスティアは問うた。
問うことができた自分に、少しだけ驚く。
昔なら、その言葉だけで胸が揺れすぎて、先を訊くより先に意味を足してしまったかもしれない。今は違う。聞かなければならないところを、ちゃんと聞ける。
「どのように生きると」
「……」
リグヴァルドは少しだけ目を伏せた。問いを責めとは受け取っていない顔だった。むしろ、その先を自分の言葉で言わなければ、また何も変わらないと知っている者の顔だった。
「まず」
彼は低く言う。
「お前がいなくても回るようにした王宮を、ただ回るだけの場所にしない」
「……」
「東翼の夜番も、印も、報告順も、所領管理も」
「……」
「お前がいなくなって露わになった綻びを、今度は俺の目で見る」
「……」
「お前にやらせていた細部を、便利だからまた別の女へ押しつける気はない」
セレスティアはその言葉に、ごくわずかに眉を寄せた。
別の女へ押しつける気はない。
それは王妃という役目そのものの扱いに関わることだ。
王は続ける。
「王妃教育についても、手を入れた」
「……」
「王の好みに沿うよう整える類の指針は、全部外させる」
「……」
「将来どういう形になろうと、二度と同じことが起きないように」
「……」
その一つひとつは、口先だけならいくらでも言えることだ。
だが、彼の声には今日、妙な静けさがあった。
褒められようとしていない。
評価を取りに来ていない。
ただ、それが自分の責任だと思ったから言っている。
その温度が、セレスティアには分かった。
「それから」
リグヴァルドは続ける。
「感情を持たぬ王の方が正しいと思っていた」
「……」
「だが、それで人を都合よく切り分けてきた」
「……」
「もうそれをしない」
「……」
「少なくとも、そうしないよう自分で見る」
「……」
「苦しいことも、不快なことも、都合の悪いものも、“今は要らない”と片づける癖を」
セレスティアはそこで、初めて少しだけ息を止めた。
エルミラが言っていた言葉が、ふいに蘇ったからだ。
あなたは誰かを愛する前に、人を都合よく切り分けてきた。
今、彼はようやくその癖を、自分で自分のものとして引き受けようとしている。
「それを」
セレスティアは慎重に言う。
「私に見せるために?」
「違う」
即答だった。
「そう見えるだろうとは思った」
「……」
「だが、お前に見せるためだけに変えるのなら、それはまた取り繕いだ」
「……」
「俺がこれからも王である以上、直さなければならない」
「……」
「そして、もし」
そこで初めて、彼の声にわずかな熱が混じる。
熱といっても、押しつけるようなものではない。
痛みの奥からどうにか絞り出された、人間の体温に近いものだった。
「もし、いつか」
「……」
「お前がもう一度、俺を見てもいいと思ってくれる日が来るのなら」
「……」
「その時に、昔と同じ男のままでいたくない」
セレスティアは、答えなかった。
答えられないのだ。
未来のことなど分からない。
自分がもう一度彼を見る日が来るのかも。
信じられるのかも。
愛がどこへ行くのかも。
何ひとつ。
それでも、その言葉は胸のどこかへ静かに置かれた。
重くはない。
けれど軽くもない。
まだ形を持たぬ種のように、小さく、しかし確かに。
「……陛下」
セレスティアは、少し迷ってからそう呼んだ。
まだ名前では呼べない。
けれど、昔のように「王」という役目だけを見ている呼び方でも、もう少し違う気がしていた。
「そのお言葉は」
「……」
「私に答えを急がせないためのものですね」
「そうだ」
「それは」
一度、庭へ目を向ける。
雨は少しずつ弱くなっている。
池の輪はまばらになり、低い花の芽の先にだけ水滴が残っていた。
「ありがたいと思います」
王はそこで初めて、ほんの僅かに目を細めた。安堵とも、驚きともつかない色だった。
「けれど」
セレスティアは続ける。
ここで線を曖昧にしたくはなかった。
「私はまだ、陛下を信じているわけではありません」
「分かっている」
「許したわけでも」
「ああ」
「戻る気持ちがあるとも言えない」
「……それも分かっている」
返答は静かだった。
痛んでいないわけではない。
だがその痛みを、彼は今、押し返さない。
「ただ」
セレスティアは少しだけ言いよどんだ。
今日の彼は、たしかに少し違って見える。
王としての正しさや立場の強さではなく、自分の醜さや遅さを抱えたまま、それでも前へ進もうとしている一人の男として。
その見え方は、もう否定できなかった。
「今日の陛下は」
「……」
「追いかける者の資格を、初めて自分で問うておられるように見えます」
その言葉に、リグヴァルドはすぐには返せなかった。
たぶん彼の中でも、それはようやく触れられた痛い場所なのだろう。これまでは、追いかけるなら追いつくことばかり考えていた。戻ってきてほしい。隣にいてほしい。失いたくない。そういう「結論」だけを。だが今は違う。追いかけるに足る人間かどうか、自分の側へ問いが返っている。
「……そうだな」
やがて、彼は低く言った。
「今さらだが」
「ええ」
「今さらでも」
「はい」
「そこを間違えたくない」
雨が、そこでようやく止んだ。
庭はまだ濡れている。雲は切れかけ、薄い光が水を含んだ土へぼんやりと落ち始める。春はいつもこうして、冬を完全には追い払わぬまま、少しずつ庭の色を変えていくのかもしれない。
セレスティアは、その濡れた庭と、王の横顔と、卓の上に置かれた種袋を順番に見た。
黄色い花。
淡い青の花。
まだどこへ植えるか決めていない種。
信じることも、戻ることも、まだ決めていない。
だが、今ここで「待たせてほしい」とも「もう来ないで」とも、すぐには言えない自分がいる。
それは迷いというより、むしろ初めて、相手を人として見始めたからこその余白なのかもしれなかった。
「……見ています」
セレスティアは、小さくそう言った。
王が目を上げる。
「すぐに何かを返すわけではないけれど」
「……」
「陛下がどう生きるのかは」
「……」
「見ています」
それは約束ではない。
期待でもない。
けれど拒絶でもなかった。
リグヴァルドは、その短い言葉を受け止めて、ゆっくりとうなずいた。
「それで十分だ」
「……」
「今は」
風がもう一度だけ通り、東屋の柱に絡む細い枝を揺らした。雲の切れ目から、薄い夕方の光が少しだけ池へ落ちる。濡れた庭は静かで、世界はすぐには何も変わらない。けれど、種はまだ土へ下りていないのに、もう季節の中へ置かれ始めているようだった。
セレスティアは、自分の胸の奥にも同じような感覚があるのを知る。
劇的な和解でも、恋の再燃でもない。
ただ、否定しきらないまま相手の生き方を見てもいいと思えた、小さな余白。
それだけだ。
それだけなのに、以前の自分なら持てなかった余白だった。
王はやがて立ち上がった。今日はそれ以上を望まないのだろう。
命令も、懇願も、触れることすらしない。
ただ、来た時と同じように簡素な身なりのまま、一人の男としてそこに立つ。
「帰る」
「ええ」
「また来ても」
一瞬だけ言葉を切って、自分で整え直す。
「いや」
「……」
「来る前に、使いを出す」
セレスティアはその言い換えに、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
勝手に踏み込まず、先に相手の都合を問う。
そういう小さな変化を、昔の彼はしなかった。
「そうしてください」
「ああ」
彼は一礼する。王の礼ではなく、奇妙なほど簡素な、人としての礼に近かった。
セレスティアもまた、静かに頭を下げる。
まだ距離はある。
けれど、その距離の上へ初めて、誤魔化しの少ない言葉が置かれた。
追いかける者の資格。
それはたぶん、誰かを手に入れる力ではなく、選ばれなくてもなお、誠実に生き続ける覚悟のことなのだろう。
その輪郭を、セレスティアは今日、ようやく少しだけ自分の目で見た気がした。
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