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第2話 白い結婚四年目
その日、私室へ戻ったレヴェティアを迎えたのは、しんと冷えた空気と、いつもと変わらぬ整いすぎた静けさだった。
小食堂から東翼までの長い廊下を歩いているあいだ、彼女は一度も振り返らなかった。背後に残してきた食堂の扉の向こうで、ゼルフェインがどんな顔をしていたのか。卓上に置かれた離縁状をまだ見つめているのか、それともすでに執務室へ向かって冷静に何かを指示し始めたのか。考えようとしなかった。考えれば、また足が鈍る。
部屋へ入ると、暖炉の火は少し弱まっていた。朝のうちにティルザが十分に薪をくべてくれたはずなのに、扉の開閉で熱が逃げたのか、それとも冬の寒気そのものが、今日に限って妙に強く感じられるのか分からない。薄藤色のドレスの上からでも、指先と肩口に冷たさが触れていた。
ティルザがすぐに外套を持って近づく。
「奥様」
「大丈夫よ。少し座るだけ」
そう言って、レヴェティアは窓際の長椅子へ腰を下ろした。
座った途端、力が抜ける。
立っているあいだはきちんと保たれていた背筋が、ひどく静かに、けれど自分でも分かるほど緩んだ。膝の上へ両手を重ねる。薬指には、さっき外してまたはめ直した指輪がある。冷たい。馴染んでいるはずの輪なのに、今日だけは妙に硬い感触を持ってそこにあった。
ティルザは主人の顔をのぞき込み、何かを言いかけてやめた。それから、黙ったまま暖炉の火を少し強め、茶の支度を始める。茶葉を温めたポットへ落とし、湯を注ぐ音が静かに響く。湯気が上がり、今度は少し甘みのある香りが広がった。蜂蜜と乾燥花を少し混ぜたのだろう。ティルザは、レヴェティアが心を強く使った時ほど、やさしい香りの茶を選ぶ。
「……公爵様は、何と」
問いかけは慎重だった。
レヴェティアは少し遅れて瞬きをする。
「三日、時間がほしいと」
「三日」
「ええ。法務の整理を確認して、そのあと改めて話すそうよ」
ティルザの手が止まる。
「離縁を拒まれたのですか」
「まだそこまでは言われていないわ。ただ、今日の話で終わりにはしない、と」
自分で口にしてみると、その言葉の輪郭がようやくはっきりしてくる。
終わりにはしない。
なぜ、と思う気持ちはある。だが、それを真正面から考え始めるのは危険だった。今日までの彼を知っている。必要なことは告げる。責務は果たす。だが感情は見せない。その彼が、離縁状を差し出された朝に初めて揺れたからといって、それが何を意味するのか、レヴェティアにはまだ判断がつかなかった。
同情かもしれない。責任感かもしれない。公爵家の体面かもしれない。
あるいは、彼の中に彼自身も知らなかった何かがあったのかもしれない。
そこまで考えて、レヴェティアはすぐに思考を止めた。
それは一番危険な考えだ。希望に似ている。希望は甘い顔をして戻ってきて、最後にいちばん深く人を傷つける。
「奥様」
差し出された茶杯を受け取る。温かい。両手で包み込むように持つと、凍えていた指先がじわじわほどけていく。
「少しお休みください。書庫へ行かれるのは昼からでも」
「いいえ。行くわ」
「ですが」
「今、止まると、たぶんだめなの」
茶杯の縁を見つめたまま、レヴェティアは言う。
「動いていたほうがいいの。考えすぎずにすむから」
その本音に、ティルザは何も返さなかった。ただ短く頭を下げ、そっと側へ控えた。
静けさの中、暖炉の火が小さく爆ぜる。
窓の外では、朝の白い光が少しずつ強くなり始めていた。霜をまとっていた薔薇廊の手すりが鈍く輝き、遠くの森の輪郭まで見えるようになってくる。こんなにも冬らしい、晴れた朝だった。四年前、ここへ嫁いできた日も、同じように寒かったのをレヴェティアは思い出した。
雪ではなかった。空は曇っていて、光が薄く、風だけが冷たかった。
あの日のことは、不思議なほど細部まで覚えている。
馬車の窓に曇りが張りついて、指で触れるとすぐに消えて、また息で白くなること。花嫁衣装の裾がいつもより重かったこと。指先に緊張の汗をかいて、白い手袋の内側が少しだけ湿っていたこと。王都から北域へ向かうにつれて空気が変わり、鼻の奥がつんと痛くなるほど乾いていたこと。
そして、クルヴェルク公爵邸の正門前で馬車が止まった時、迎えに立っていたゼルフェインが、誰よりも整った顔をしていたこと。
冷たい、という印象ではなかった。
ただ、とても遠い人だと思った。
その日、彼は黒の正装に銀の肩章をつけ、冬の空気の中で微動だにせず立っていた。背が高く、肩幅があり、顔立ちは端正で、灰青と青緑の境目のような瞳がひどく静かだった。視線を向けられると、見つめられているのに何も暴かれない奇妙な感覚があった。温度がないわけではない。ただ簡単には手が届かない場所にしまわれているような、そんな眼差し。
彼は馬車から降りたレヴェティアへ手を差し伸べた。
白い手袋越しのその手は大きく、骨張っていて、少しだけ冷たかった。だが握る力は強すぎず弱すぎず、花嫁を迎えるにふさわしい礼節を備えていた。あの時のレヴェティアは、それだけで少し安心したのだ。
この人は不器用でも、きっと誠実なのだろう、と。
誠実なら、きっといつか届く。
届かなかった。
その事実を知るまでに、一年近くかかった。
レヴェティアは茶をひとくち飲み、瞼を閉じる。
香りのやわらかさが、記憶の輪郭まで少しだけ曖昧にしてくれたらよかったのに、そうはならない。むしろ今日に限って、四年間のことがまるで薄い硝子越しに見るように一つずつ鮮明だった。
結婚した夜のことも、よく覚えている。
祝宴を終え、儀礼を終え、慣れない重さの髪飾りと首飾りを外して、侍女たちに寝室の支度を整えられたあと、レヴェティアは一人で寝台の端に座っていた。花嫁のために整えられた部屋は豪奢で、天蓋の薄布には金糸の刺繍、寝台脇の燭台には新しい蝋燭が灯され、窓辺には冬薔薇が生けられていた。香油の甘い匂いが少しきつくて、白粉を落としたあとの肌が薄く熱を持っていた。
待っていた。
いつまで待てばいいのかも分からないまま。
廊下を行き交う足音が次第に減り、遠くで扉が閉まる音がして、屋敷の気配がゆっくり夜の静けさへ沈んでいく。蝋燭の火が揺れ、壁にかかる影が長く伸びた。自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえる。指先が冷えて、何度も手のひらをこすり合わせた。
深夜もだいぶ過ぎた頃、ようやく扉が叩かれた。
心臓が大きく跳ねた。けれど入ってきたのはゼルフェインではなく、老執事ヴァルメトだった。
「公爵様より、お言葉を預かっております」
その時のヴァルメトの声音まで覚えている。丁寧で、揺らぎがなく、長年使い慣れた礼儀そのものの声。
「本日はお疲れも深いでしょう。どうか、ゆるりとお休みくださいとのことです。なお、公爵様は西翼の執務室にて夜務を続けられますので、無理にお待ちいただくには及ばないとも」
レヴェティアは一瞬だけ意味を理解できなかった。
今夜は来ない、ということなのだと分かったのは、ヴァルメトが一礼したあと、扉のほうへ半歩下がった時だった。まるで最初から疑問もなく、そういう夜であったかのように。
「……そう、ですか」
それしか言えなかった。
「はい。暖炉の火は朝まで絶やさぬよう申しつけております。何か必要なものがあれば、夜番へ」
「分かりました。ありがとうございます」
完璧な返答だったと思う。声も震えなかった。花嫁としての品位を損なうこともなかった。そうしてヴァルメトが去ったあと、レヴェティアはしばらく寝台の上で身じろぎもできなかった。
来ない。
その事実は思った以上に静かで、だからこそ残酷だった。
怒るほどの理由もない。責める言葉もない。体調が悪いのかもしれない。政務が立て込んでいるのかもしれない。北域公爵は多忙だ。そう自分へ言い聞かせれば、納得はできる。だが納得できることと、傷つかないことは別だった。
翌朝、朝食の席で彼は何事もなかったように現れた。
夜務が長引いたことへの短い詫びと、昨夜は疲れもあっただろうから休ませるほうがよいと判断したという説明。それは確かに筋が通っていた。冷たくはなかった。むしろ気遣いですらあるように聞こえた。
だからレヴェティアは、ここでもまだ思ったのだ。
この人はそういう人なのだ、と。
不器用なだけ。急がないだけ。きっと少しずつ夫婦になっていける。
その夜も、彼は来なかった。
三日目も、来なかった。
五日目に、レヴェティアはようやく「これは偶然ではない」と理解した。
理解した時の痛みは、最初の夜よりずっと鈍く、深く、逃げ場がなかった。偶然や多忙なら待てる。だが選ばれてそうされているのだと分かった途端、待つことそのものが惨めになる。
それでも彼女は、すぐに諦めたわけではない。
むしろ最初の一年、レヴェティアは自分でも驚くほどよく頑張った。
朝食の席では天候や領地の話題を選んだ。北域の冬の厳しさについて本を読み、このあたりで栽培される穀物や果実の名を覚えた。料理人へ頼んで、公爵の好みに合う献立をそっと探った。執務室へ無遠慮に踏み込まないよう気を配りながら、けれど食事を抜きがちな彼のために軽食を回させたこともある。
手紙も書いた。
一通目は、結婚から十日ほど経った頃だった。
お忙しい中で十分なご挨拶もできておりませんので、せめて文にて失礼いたします、と始めた。屋敷へ迎え入れてくれた礼と、北域の冬の空気の美しさ、それから食卓に出た白身魚の料理がとても美味しかったこと。取り立てて深い話ではない。だが、夫婦のあいだに最初に交わすには柔らかく、悪くない手紙だったと思う。
返事は来なかった。
忙しいのだろうと思った。そういう文のやり取りに慣れていないのかもしれない、とも思った。だから気にせず、二通目を書いた。今度は庭園のことを書いた。東の温室に冬越しの苗がいくつかあり、うまく育てば春先に白薔薇が咲くかもしれないこと。自分は花に詳しいわけではないが、もし公爵様がご興味をお持ちなら一緒にご覧いただければ嬉しいということ。
返事は来なかった。
三通目には、少しだけ困りごとを書いた。屋敷の使用人の采配について、判断に迷うところがあり、お時間のある時にご指示をいただければ助かると。これはもう、夫婦の親愛というより、屋敷の主人と女主人の間で当然交わされるべき内容だった。
返事は来なかった。
四通目から、少しずつ文面が変わっていった。
今日の北風は強く、窓辺の花器が倒れそうでした。
昼餐に出た燻製肉は、私には少し塩が強すぎました。公爵様はああした味付けをお好みでしょうか。
西翼へ行く回廊の灯りが夜更けには足りず、侍女たちが困っております。
明日の夜会の衣装について、北域の習わしに沿っているか自信がありません。
書く内容が増えるたび、返事がないことが目立った。
それでもレヴェティアは、最初の一年の終わりまでは書き続けた。返事が来なくても、せめて読んではもらえているのだと信じたかったからだ。言葉は届いている、その上で彼は多忙なのだと。そうでなければ、自分は何に向かって話しかけているのか分からなくなる。
その年の冬、王都で開かれた新年の夜会で、レヴェティアは初めて「完璧な夫婦」を演じる苦しさを知った。
王都本宮の大広間は、北域の冷えた空気とは別種のきらびやかさに満ちていた。数えきれぬほどの燭台、磨き抜かれた床、金糸銀糸の刺繍が波打つ礼服、甘い香油と花の匂い、笑い声の重なり。そこでは誰もが他人の幸福と不幸を見ている。言葉では祝福しながら、視線の端で値踏みし、噂を拾い、関係の綻びを探している。
その夜のゼルフェインは、見事だった。
エスコートに一分の隙もない。歩幅を合わせ、必要なところで手を差し出し、会話の流れの中で自然に妻を紹介し、踊りも申し分なくこなした。彼は人前では完璧な夫だった。レヴェティアが少しでも足をもつれさせそうになると、腰の支えに回った手にわずかに力が入る。大広間の中央で視線が集まるなか、彼は一度だけ低く「呼吸を合わせろ」と囁いた。その声の近さに、レヴェティアは胸が熱くなるのを止められなかった。
この人は、私を見ている。
そう思ってしまった。
舞踏の最中、彼の手袋越しの手は熱を持っているように感じられた。肩へ触れる指は正確で、回転のたびに衣擦れの音が耳元をかすめる。彼の整った横顔の近くで、燭火が金色の線となって揺れる。彼女はその一夜だけで、いくつもの期待をしてしまった。
けれど屋敷へ戻り、馬車から降り、広間の前で人払いが済んだ途端、ゼルフェインは自然な動きで一歩距離を取った。
「今夜は疲れただろう。もう休め」
それだけだった。
夜会の熱も、手の温度も、音楽の名残も、その一言で急に遠のいた。彼女がまだ何か言いたそうにしていても、彼は気づかないふりをしたのか、本当に気づかなかったのか、静かに西翼の執務室へ去っていった。
残された回廊で、レヴェティアはしばらく動けなかった。
さっきまで感じていた腰の支えも、掌の熱も、全部、公の場で夫婦に見せるための所作でしかなかったのだとようやく思い知ったからだ。自分が勝手に意味を持たせてしまっただけ。彼にとっては責務の一部にすぎない。そう分かった瞬間、夜会で浴びた視線の一つひとつが、ひどく滑稽なものに思えた。
あれほど理想の夫婦に見えていたのに。
屋敷へ戻れば、扉一枚ぶん離れた他人だった。
白い結婚。
誰かが最初にその言葉を口にしたのは、二年目の春だったと思う。
露骨にそう言われたわけではない。けれど、侍女たちの囁きや、訪問してきた遠縁の婦人たちの笑みの隙間には、たしかにその意味があった。継嗣の話題になるたび一瞬だけ空気がよどみ、レヴェティアが微笑んで受け流すと、そのたびに「あら、まだお若いものね」と、何も知らぬ顔で言われる。
知らないのは向こうだ。
知らないくせに、責めるのはいつも妻の側だった。
ゼルフェインはその場にいれば何気ない一言で流れを変えたが、場にいなければ彼女が一人で受けるしかない。義務を果たせぬ公爵夫人。飾り物の妻。北域公爵に子をなせぬ女。
最初の頃、レヴェティアはそれでも否定しなかった。できなかった。自分から「白い結婚です」と言うことは夫の名誉を傷つけるし、夫婦の事情を外へ出すことは慎みを欠くように思えた。だから黙って耐えた。言葉を飲み込み、表情だけ整えた。
耐えることは、最初は美徳のように見える。だが長く続くと、それはただの消耗になる。
三年目の夏、彼女はある夜、書きかけの手紙を破いた。
その日の昼、使用人頭から帳簿の一部について相談され、レヴェティアは女主人として妥当な指示を出した。ところが翌日にはその指示が無視され、別の采配が下されていた。理由を尋ねると、使用人頭は困った顔で「公爵様より直接のお考えがあるようで」と答えた。ゼルフェインへ確認すると、彼は短く「余計な負担をかけるなと言った」とだけ返した。
負担。
その一言が、思った以上に胸を抉った。
彼女は役に立ちたいのではなかったのか。公爵夫人として、この屋敷の一部になりたいのではなかったのか。それなのに彼の中で、自分はただ負担を避けるべき相手として扱われていたのだとしたら。
その夜、レヴェティアは机へ向かい、久しぶりに長い手紙を書いた。怒りではなく、説明を求める文だった。自分は何をすべきで、どこまで踏み込んでよいのか、もし迷惑であるなら明確に言ってほしい、と。最後のほうは、ほとんど懇願に近かった。
だが途中で筆が止まった。
どうして私は、こんなふうにお願いしなければならないのだろう。
その問いが、唐突に胸へ浮かんだ。
自分は公爵夫人だ。客人ではない。物乞いでもない。夫婦として迎えられたはずの女だ。それなのに何かを求めるたび、許可を乞うような文を重ねなければならない。相手の機嫌と都合を先回りし、自分の願いを小さくして、柔らかな言葉で包んで、やっと渡せる。しかも返事は来ない。
その事実が、急に惨めでたまらなくなった。
レヴェティアはその手紙を破いた。破いたあと、紙片を暖炉へ投げ入れた。火はすぐに端から食いつき、文字を黒く縮れさせて飲み込んでいく。その様子を見つめながら、彼女は初めて、自分の中で何かが静かに死んだのを感じた。
あの夜以来、彼女は夫へ私的な手紙を書かなくなった。
必要なことは口頭で。どうしても文に残すべきものだけは、家令を通して事務的に。
それでも完全に諦めきれたわけではなかったから厄介だ。人は本当に望まなくなれば、もっと楽になる。レヴェティアはそうなれなかった。朝食の席で視線が合えば少しだけ胸が揺れたし、夜会で彼のエスコートが完璧であるほど、あとで自分を戒める必要があった。
だから四年は長かった。
希望が尽きたようで尽きず、尽きないようで確実に擦り減っていく四年だった。
「奥様」
ティルザの声で、レヴェティアは記憶から引き戻された。
「そろそろ、着替えをなさいますか。書庫は北棟ですから、今のお召しものでは冷えます」
「そうね……そうするわ」
立ち上がると、足元が少しだけ頼りなかった。長椅子に座っていた時間はそれほど長くないはずなのに、四年分のことを思い返しただけで、身体がひどく重くなる。
ティルザはすぐに冬用の室内着と厚手のショールを用意した。着替えのあいだ、彼女は余計なことを言わない。衣擦れの音と、留め具をはめる小さな金属音だけが続く。その沈黙がありがたかった。
書庫へ向かう途中、回廊の窓から見える中庭には、薄い陽射しが差していた。雪は少しだけ溶け始め、石畳の継ぎ目に細い水の筋ができている。侍女たちが二人、洗濯物を抱えて足早に横切り、庭師見習いの少年が凍った噴水の縁をこつこつと叩いている。屋敷は今日もいつもどおり動いていた。レヴェティアが離縁状を差し出そうが、差し出すまいが、日々の仕事は続く。
北棟の書庫は、冬になると冷える。
厚い石壁に囲まれ、窓も小さい。古い革装丁と紙と埃、それに僅かな湿り気が混じった匂いが、扉を開けた瞬間に流れてきた。レヴェティアはこの匂いが嫌いではない。むしろ、屋敷のどの部屋より落ち着くとさえ思っている。ここでは言葉が無視されない。本の中の文字は、開けばきちんとそこにあり、読めば意味を返してくれるからだ。
中央の長机の上には、昨日まで彼女が整理していた台帳が置かれていた。北域の租税記録と、古い境界協定の写し。端に積まれたままの羊皮紙には、彼女の細い筆跡で小さな付箋がついている。
レヴェティアはそっとそれへ触れた。
ここだけは、四年のあいだ無駄ではなかったと思える場所だった。誰にも褒められなくても、功績として表に出なくても、自分の手で整えたものが確かにある。乱れた書架、行方の分からなかった目録、読めなくなりかけていた古い文書。それらを少しずつ拾い、読み、繋ぎ直していく作業は、誰とも心を通わせられない日々の中で唯一、自分の存在を確かめられる時間だった。
クルヴェルク公爵夫人である前に、レヴェティア・オルゼニアでいられる場所。
だからこそ、ここを離れる前に最後まで見届けたかった。
棚のあいだを歩きながら、彼女はふと立ち止まる。西側の最上段、手の届きにくい場所にしまわれた地誌の束。その一冊だけが、少しだけ前へ出ていた。見覚えのある癖だ。ゼルフェインは資料を取る時、元の位置へ完全には戻さない。ほんの指二本ぶんほど前へ出したままにする。
昨日まで、ここへ来たのだろうか。
その事実だけで胸が小さくざわめく自分に、レヴェティアは苦笑した。
離縁状を出した朝に、まだそんなことで心が動く。四年は人を強くするのではなく、ただ頑固にするのかもしれない。染みついた感情は、簡単には剥がれない。
彼女は踏み台を引き寄せ、地誌の束を取り出した。革表紙の乾いた手触り。指先に少し埃がつく。頁をめくると、北域の地形図と、古い軍道の記録が挟まっていた。余白に、ごく小さく整った筆跡がある。ゼルフェインの書き込みだ。必要最小限の補注。数字と場所の確認。余分な感想は一切ない。
この人は、こういう人だ。
必要なことだけを書く。必要なことだけを言う。無駄を削ぎ落としすぎて、たぶん大事なものまで削ってしまうほどに。
「……だからといって、許されるわけではないけれど」
声に出すと、書庫の静けさの中で思いのほかはっきり響いた。
誰に聞かせるでもない独り言だった。けれどその一言で、少しだけ胸の位置が定まる。そうだ。彼が不器用であれ、寡黙であれ、誠実であろうとしたのだとしても、それで四年の空白がなかったことにはならない。レヴェティアが何度も言葉を送り、待ち、傷つき、ようやく離縁に至った事実は消えない。
納得してほしい。
読者にではなく、自分自身にそう思った。
私は十分頑張ったのだと。
途中で投げ出したわけではないのだと。
少し待てば変わるかもしれない、今度こそ届くかもしれないと信じて、ちゃんと何度も手を伸ばしたのだと。
その手を取られなかったから、離れるのだ。
レヴェティアは本を閉じ、元の位置へ戻した。
書庫の窓の外では、午後へ向かう光が少しだけ白さを減らし始めていた。冬の日は短い。何かを待っているとすぐに暮れる。四年もそうだった。待っているうちに季節が過ぎ、また雪が降り、また春が来て、そのたびに自分の心のどこかだけが少しずつ痩せていった。
もう待たない。
今日の朝、離縁状を差し出したことで、それだけはようやく決めた。
机へ戻り、台帳を開く。黒インクの文字列が視界に入る。呼吸を整え、ペン先を紙へ置く。書庫の冷たい空気の中で、インクの匂いがわずかに立った。窓の外を風が撫で、細い枝が擦れる音がする。
その時、扉の向こうで足音が止まった。
規則正しく、迷いのない足取り。
ティルザではない。侍女の軽い足音ではなく、使用人のそれとも違う。屋敷の中でこの歩き方をする人を、レヴェティアはよく知っている。知りすぎるほど知っている。
背中が強張る。
扉はすぐには開かなかった。開く前の一拍が、かえって長い。向こう側に立つ相手も、入るべきかどうか一瞬だけ迷ったのかもしれない。その想像だけで、心臓がひどく静かに速くなる。
やがて、控えめなノックが二度、響いた。
四年間、ほとんど踏み込んでこなかったこの書庫の扉を、彼が叩いている。
レヴェティアはペンを置いた。指先に少しだけインクがつく。暖かかったはずの茶はもう冷めている。書庫の空気は相変わらず冷たいのに、喉の奥だけがひどく乾いていた。
「……どうぞ」
自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえた。
扉が、ゆっくり開く。
そこに立っていたのは、やはりゼルフェインだった。
朝の食堂で見た時よりも、わずかに硬い表情をしている。整っているのに、どこかだけが崩れかけているような顔。視線はまずレヴェティアではなく、彼女の前に広げられた台帳と、書庫の棚と、積み上げられた資料へ向かった。そしてようやく、彼は妻を見た。
その眼差しの中にあったものを、レヴェティアはまだ正確に名づけられない。
ただ、それが無関心ではないことだけは、もう分かってしまった。
だからこそ苦しいのだと、彼女は痛いほど知っていた。
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