離縁を望んだ私に、旦那様の執着が始まりました

なつめ

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第13話 襲撃の夜


 雪はやんでいたが、夜は冷え込んでいた。

 空は晴れている。だが星は少なく、雲の薄い膜がかかっているせいで光が滲んでいる。道の両脇には昼のあいだに積もった雪が残り、踏み固められた部分だけが黒く光っていた。馬車の車輪が通るたび、凍った地面を削る鈍い音が夜気へ溶けていく。

 別邸への移動は、静かに進められるはずだった。

 本来ならば、昼のうちに終える予定だったのだ。だが北棟書庫の再編作業と、温室の件の後処理で時間が押し、結局出立は夕刻を過ぎた。夜道を行くことに不安がないわけではない。だが公爵家の馬車である以上、護衛もついている。これまでの経験から言えば、危険を感じるような道ではなかった。

 それでも、今夜の空気はどこか違っていた。

 レヴェティアは馬車の中で、その違和感をうまく言葉にできずにいた。

 揺れは一定だ。内張りの厚い車内は外より暖かく、膝掛けの下で足先の冷えも和らいでいる。向かいにはティルザが座り、時折ランプの火を気にして視線を上げる。車輪の音と、馬の蹄の規則正しい響き。いつもの移動と、何も変わらないはずの時間。

 なのに、胸の奥に小さな棘が残っている。

 温室の光景が、まだ消えない。

 折られた枝。踏みにじられた苗。湿った土の匂い。
 「最後まで嫌われていたのですね」と口にした自分の声。

 あのあと、ゼルフェインは何も言わずに護衛を倍にし、別邸への移動を急がせた。書庫も温室も、屋敷の中に悪意がある以上、安全ではない。ならば一度、距離を取る。判断としては正しい。だがその正しさの中に、明確な焦りが混じっているのをレヴェティアは感じていた。

 守ろうとしている。

 今さら、と言えばそれまでだ。
 だがそれでも、その意思ははっきりと伝わってくる。

 レヴェティアは視線を落とし、膝の上で指を組んだ。

 別邸へ行く。
 そこで三か月を過ごす。
 離縁は予定どおり進む。

 そのはずだ。

 そのはずなのに、ここ数日の出来事がすべて、予定という言葉の外で動いている。書簡。誤解。書庫。温室。アスヴェル。そして、ゼルフェインの変化。

 それらをどう整理すればいいのか、まだ分からない。

 だから今は、考えないことにした。

 馬車は進む。
 外は静かだ。
 夜は深く、道は白い。

 ――その静けさが、唐突に破れた。

 乾いた音。

 ぱん、と何かが弾けるような、短い衝撃音。

 同時に、馬が大きく嘶いた。

「奥様!」

 ティルザが叫ぶ。

 馬車が急に傾く。車輪が石を踏み外したような揺れ。身体が横へ流れ、レヴェティアは反射的に座席の縁を掴んだ。

 外で怒号が上がる。

「止めろ! 前だ!」

「矢だ、伏せろ!」

 矢。

 その単語が理解に届く前に、二度目の衝撃音が車体を叩いた。今度ははっきり分かる。何かが外壁に突き刺さった音。すぐ近くで、馬の蹄が乱れる。御者が手綱を強く引く気配。

 馬車が止まる。

 完全に止まる前に、もう一度大きく揺れた。

「奥様、こちらへ!」

 ティルザがレヴェティアの肩を引き、座席の陰へ伏せさせる。ランプの火が激しく揺れ、車内の影が乱れる。

 外では剣がぶつかる音がした。

 金属が擦れる、嫌な音。
 怒号。
 雪を踏み荒らす足音。

 護衛と、何かが戦っている。

 襲撃。

 その言葉がようやく形になる。

 狙われている。

 レヴェティアは息を止めた。頭が冷える。恐怖はある。だがそれより先に、理解があった。温室。書庫。手紙。全部がつながる。

 これは偶然ではない。

 意図だ。

 ――殺意。

 その認識が落ちた瞬間、車体の扉が外から叩かれた。

「奥様!」

 低く、張り詰めた声。

 ゼルフェインだった。

 次の瞬間、扉が内側へ開く。冷たい夜気が一気に流れ込む。雪と血の匂いが混ざった空気。ランプの光に照らされた彼の顔は、普段の静けさを完全に失っていた。

「出るぞ」

 短く言う。

「私の後ろに」

 その声音に迷いはない。命令だった。

 レヴェティアは一瞬だけ躊躇したが、すぐに頷いた。ティルザも動く。外へ出た瞬間、冷気が肌を刺す。雪の上に黒い影が散っている。護衛の一人が肩を押さえて膝をついているのが見えた。もう一人は剣を構え、暗がりの中の何かと距離を取っている。

 敵の姿ははっきり見えない。

 だが確かにいる。

 木立の影。道の外れ。
 こちらを見ている気配。

 その中の一つが動いた。

 低い音とともに、何かが飛ぶ。

「下がれ!」

 ゼルフェインの声と同時に、レヴェティアの身体が強く引き寄せられた。視界が一瞬で変わる。彼の腕の中へ引き込まれる形。肩と背を抱き込まれ、外套ごと身体が覆われる。

 すぐ近くで、何かが弾けた。

 矢だ。

 馬車の扉の縁へ突き刺さり、木片が散る。

 ほんの少し位置が違えば、胸を貫いていた。

 レヴェティアは息を呑んだ。

 今度こそ、はっきりと理解した。

 狙われている。
 殺そうとしている。

 ゼルフェインの腕が、さらに強くなる。

「動くな」

 低く、耳元で言う。

 その声は怒りで震えていた。だが同時に、異様なほどの集中があった。彼の視線は暗がりの一点へ固定されている。敵の位置を、正確に捉えている目だ。

「前方二名、左に回るな!」

 護衛へ指示が飛ぶ。

 同時に、彼自身も一歩踏み出す。レヴェティアを抱き寄せたまま、身体を半分盾にするように。普通ならあり得ない動きだ。公爵が自ら前へ出ることはない。だが今の彼は、それを躊躇していない。

 また、音。

 だが今度は矢ではなかった。雪を蹴る足音が遠ざかる。影が一つ、二つと森の中へ消える。護衛が追おうと動くが、

「追うな!」

 ゼルフェインが即座に制する。

「深追いするな、罠だ」

 その判断は正しい。暗がりの中へ追えば、別の伏兵に囲まれる可能性が高い。護衛たちは歯を食いしばりながらも足を止め、周囲の警戒へ戻る。

 静寂が戻る。

 さっきまでの音が嘘のように、夜はまた静かだった。だがその静けさは、もう先ほどまでのものとは違う。張り詰めている。いつまた破れるか分からない、危うい静けさ。

 レヴェティアは、自分がまだゼルフェインの腕の中にいることに気づいた。

 抱き寄せられたまま、離されていない。

 彼の腕は強く、確かだった。外套越しでも伝わる体温。速く打つ鼓動。息の浅さ。

「……公爵様」

 声をかけようとした瞬間、彼の腕がさらに強く締まった。

 拒絶ではない。
 離すつもりがない力だった。

「無事か」

 低く問う。

「……はい」

「どこも」

「大丈夫です」

 それでも腕は緩まない。

 レヴェティアは少しだけ戸惑った。人前だ。護衛もティルザもいる。今までの彼なら、こんなふうに明確に触れることはなかった。階段で支えた時でさえ、あくまで“必要な動作”だった。

 だが今は違う。

 必要以上に、離さない。

 まるで、手を離せば消えてしまうものを掴んでいるみたいに。

「閣下」

 ヴァルメトが近づく。

「負傷者は一名、命に別状はありません。矢は二本、いずれも同一の矢羽です」

「回収しろ。屋敷へ戻す」

「別邸ではなく?」

「戻す」

 ゼルフェインの声は断定的だった。

「このまま別邸へ進めば、次が来る」

 その判断に、誰も異を唱えない。

 護衛たちが素早く動き出す。馬を落ち着かせ、車輪を整え、周囲の確認を続ける。矢を回収し、倒れた者を担ぎ上げる。

 その間も、ゼルフェインの腕はレヴェティアを離さなかった。

 ようやく彼が動いたのは、馬車へ戻る時だった。だがそれでも、手を放すのではなく、肩を抱いたまま移動する形を取る。

 ティルザが一瞬、息を止める。
 護衛たちも視線を伏せる。
 それがどれほど異例のことか、誰もが理解していた。

 馬車へ乗り込む直前、レヴェティアはもう一度だけ外を見た。

 暗い森。白い道。
 そこにはもう何もいない。
 だが確かに、さっきまで“いた”。

 自分を殺そうとする意思が。

 その事実が、今さらになって身体の奥を冷やす。
 温室の枝とは違う。
 これは、命へ向けられたものだ。

 馬車の中へ戻ると、扉が閉められる。外の音が一段遠のく。だが今度は静けさが安心にはならない。いつまた破れるか分からない膜のように感じる。

 ゼルフェインは、対面の席へ座らなかった。

 レヴェティアの隣へ座る。

 そしてそのまま、肩を抱いたまま離さない。

 ティルザが一瞬、視線を揺らす。だが何も言わず、反対側へ控えた。

 馬車が動き出す。

 揺れはさっきと同じはずなのに、体感はまったく違った。腕の中に閉じ込められているような感覚。逃げ場がないという意味ではなく、守られている範囲がはっきりしてしまったような感覚。

「……公爵様」

 レヴェティアが小さく呼ぶ。

「離していただいても」

 言いかけた瞬間、腕の力がわずかに強まった。

「駄目だ」

 即答だった。

 その声には、先ほどの戦闘時と同じ温度が残っている。冷静さの奥に、むき出しの怒りと恐怖が混ざっている声。

 レヴェティアは言葉を止めた。

 こんな彼は見たことがない。

 冷静で、距離を保ち、感情を表に出さない男。
 それがゼルフェインだったはずだ。

 だが今は違う。

 明確に、取り乱している。

 そしてそれを隠していない。

「……殺す気だった」

 彼が低く呟く。

 レヴェティアの背に、その声が直接落ちる。

「書庫でも温室でもない。今度は最初から」

 言葉が途切れる。

 その先を言わなくても、意味は分かる。

 最初から“命”を狙ってきた。

 段階が変わったのだ。

 これまでは彼女の仕事や居場所を潰すものだった。
 だが今は違う。
 存在そのものを消そうとしている。

 ゼルフェインの腕が、さらに強くなる。

「……これは、離縁の問題ではない」

 その一言は、はっきりしていた。

 レヴェティアは息を止める。

 離縁。

 それは彼女が決めたことだ。
 四年の積み重ねの上で、静かに選んだ結論。

 だが今、彼はそれを別の場所へ引き上げようとしている。

「君をここから出すこと自体が危険だ」

 低く、しかし確実に言う。

「屋敷の中にも外にも、同じものがいる」

 同じもの。

 悪意。
 狙い。
 殺意。

 それが屋敷の内外にある。

 ならばこれはもう、夫婦の関係だけの話ではない。

「……守る」

 その言葉は、ほとんど唸るように出た。

 レヴェティアの胸の奥で、何かが大きく揺れる。

 守る。

 今さら、と思う気持ちは消えない。
 遅い、という感覚も消えない。
 だがそれでも、その言葉には今までと違う重さがあった。

 それは感情だけではない。

 決意だ。
 戦う意思だ。

 レヴェティアはゆっくりと目を閉じた。

 馬車の揺れ。
 彼の腕の力。
 外の冷たい空気の気配。

 全部が混ざり合って、胸の奥へ沈んでいく。

 離縁したいという気持ちは、消えていない。

 だが今この瞬間、状況はそれだけでは済まなくなっている。

 命を狙われている。

 守られなければならない。

 そして守ろうとしている男が、すぐ隣にいる。

 その現実を、どう受け止めるべきか。

 まだ、答えは出ない。

 ただ一つだけ確かなのは――

 ゼルフェインの中で、何かが決定的に変わったということだった。

 離縁は、もはや感情の問題ではない。

 これは、守るか、奪われるかの話だ。

 彼はもう、それをはっきり理解している。

 そしてその戦いの中へ、自分ごと飛び込んできた。

 腕の中の温度が、やけに強く感じられた。

 外では、また雪がちらつき始めていた。

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