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第8話 今さら夫の顔をしないで
嵐は、夜明けの少し前にようやく勢いを弱めたらしかった。
まったく止んだわけではない。けれど夜じゅう窓と屋根を叩き続けていた暴力みたいな雨音は、明け方には細く長い音へ変わっていた。風もまだ強いものの、昨日のように建物そのものを揺らすほどではない。海燕亭の古い木組みは、荒れ狂う夜をどうにか耐えきったあとで、疲れたように低く軋んでいた。
リュゼルは、その音の変化を眠れぬまま聞いていた。
結局、一晩のあいだほとんど目を閉じられなかった。浅くまどろんだ瞬間はあったかもしれないが、意識が落ちるたびに、どこかの扉が開く音や、濡れた外套の匂いが夢の中へまで入り込んできた。胸の奥の重みも、喉の熱も、いつもより少しだけ強い。なのに、つらいのは体ではなく心のほうだと、今朝はいやにはっきりしていた。
廊下の向こうにセヴリックがいる。
たったそれだけで、海辺の小さな宿の空気は昨夜からずっと落ち着かなかった。
窓の外が白み始めた頃、リュゼルはついに起き上がった。寝台の端に腰を下ろすと、身体の芯が鉛みたいに重い。頭も少しだけ熱を持っている。けれど、横になったままでいたくはなかった。じっとしていると、昨夜の「見つけた。それだけで今日はいい」という一言ばかり、まぶたの裏で反響するからだ。
その言い方が、ずっと腹立たしかった。
何も求めていないみたいな顔をして、あれではまるで、こちらが勝手に騒いでいるみたいではないか。追い詰めるつもりはないと言いながら、存在そのものが十分すぎるほどこちらを追い詰めているくせに。
そう思うたび、胸の奥に残っている別の痛みへも気づいてしまう。
怒りだけなら、もっと簡単だった。
怒って、冷たくして、帰れと言って、それで終わればよかった。けれど実際には、あの濡れた姿を見た瞬間に揺れた自分がいた。そこを見ないふりして怒るから、感情がうまくひとつにならない。
「……最悪」
誰にともなく呟き、リュゼルは立ち上がった。
小さな洗面台の水は冷たかった。両手ですくって顔を洗うと、ようやく少しだけ頭の中の熱が引く。磨き硝子に映る自分の顔は、ひどかった。目の下にうっすらと影が落ち、頬の血色は薄い。寝不足と心労と、それからたぶん微熱。青灰の瞳だけが妙に冴えて見えるのが、かえって痛々しい。
こんな顔をあの人に見せるのはいやだと思った。
思った瞬間に、何を今さらと思う。
今さら夫の前で少しでもまともに見えたいと思うこと自体が、すでに情けない。
けれど、だからといって寝起きのまま会う気にもなれなかった。リュゼルは髪を整え、地味な灰色のドレスへ着替えた。公爵夫人の装いとは比べものにならぬほど簡素なものだが、布地は清潔で、襟元も乱れていない。ここへ来てから何度も自分へ言い聞かせてきたことがある。もう誰の妻でもないつもりでいるなら、なおさら、自分の輪郭くらいは自分で保たなければならない、と。
部屋を出る前に、扉へ手をかけたまま深く息を吸う。
潮の匂い。木の匂い。昨日の雨が残した湿り気。海燕亭の朝の空気は、今日もやさしかった。やさしいからこそ、これから下へ降りて顔を合わせる相手の存在が、いっそう異物みたいに感じられる。
廊下へ出る。
階下からはすでに食器の触れ合う音が聞こえていた。マルグリットが朝食の支度をしているのだろう。ジルの笑い声も少しだけ混じる。嵐明けの朝でも、町の宿はちゃんと朝になる。それが救いでもあり、残酷でもあった。
階段を降りる途中で、リュゼルは一度だけ足を止めた。
食堂が見える位置で、そこに座る人影が目へ入ったからだ。
窓際の卓。朝の鈍い光が差し込む場所に、セヴリックは一人で座っていた。
昨夜のような濡れた姿ではない。もう乾いた服に替えている。とはいえ王都で見るような完璧に仕立てられた姿でもなく、旅用の簡素な濃紺の上着に、黒のズボン、革の長靴。上質ではあるが目立たぬ装いだ。濡れていた髪も乾いている。だが、整っていないわけではないのに、どこかいつもと違って見えた。徹夜明けの疲労だけではない、削れたみたいな硬さが顔にある。
その顔を見た瞬間、胸がまた嫌なふうに跳ねる。
どうしてそんな顔をするの。
そう問いかけたくなる自分が、まずいやと思った。
セヴリックも彼女に気づいていた。視線が上がる。鋼青の瞳がこちらを捉える。昨夜の扉口でぶつかったときのような鮮烈さはない。代わりに、朝の光の中で見るその視線はひどく静かで、逃げ場がなかった。
リュゼルはその視線を受けたまま、階段を最後まで降りた。
マルグリットがちょうど厨房から出てきて、二人のあいだの空気を一瞬で察したらしい。片手に木の盆を持ったまま、眉を上げる。
「起きたかい、エルナ」
「おはようございます」
「顔色、最低だよ」
「わかっています」
「じゃあ座ってスープ飲みな」
マルグリットはそう言いながらも、盆を一番奥の卓へ置いた。おそらくわざとだ。リュゼルをセヴリックの真向かいへ座らせないための、女将なりの気遣い。
「ありがとうございます」
礼を言い、奥の卓へ向かおうとしたところで、セヴリックが立ち上がった。
その動きだけで、リュゼルは反射的に身を固くする。
けれど彼は近づきすぎなかった。食堂の中央、二つほど卓を隔てた位置で足を止める。距離を取っているのがわかる。そのわかりやすさがまた腹立たしい。
「少しだけ話がしたい」
低い声だった。昨夜よりも掠れはないが、よく通る声でもない。周囲へ聞かせたくないことだけは伝わる。
「したくありません」
リュゼルは即座に答えた。迷わず、きっぱりと。
マルグリットがちらりとこちらを見る。止めはしない。どうするかを彼女に任せる姿勢だ。
セヴリックはその拒絶を受けて、すぐには何も言わなかった。ただ一瞬だけまぶたを伏せる。その短い沈黙が、言い訳を探している沈黙ではないことが、リュゼルにはわかってしまった。
わかってしまうことが、いちいち腹立たしい。
「朝食を取る前に」
「必要ありません」
「必要がある」
「あなたにでしょう」
「そうだ」
これもまた、あっさり認める。
リュゼルは唇を噛んだ。もっと自己弁護をするなら、責める言葉も勢いよく出せるのに。彼は妙なところで逃げない。そこだけ見れば誠実にすら見えてしまう。それが嫌だった。
マルグリットがやれやれという顔をした。
「表の風はまだ強いけど、裏庭なら少しは静かだ。そこでやんな。食堂で客の食欲をなくされると困る」
ぶっきらぼうだが、二人だけで話せる場所を与えてくれたのだろう。
「マルグリット」
リュゼルが言いかけると、女将は木匙をひらひら振った。
「嫌なら五分で戻ってきな。私はあんたの雇い主であって、夫婦喧嘩の審判じゃない」
「喧嘩では」
ない、と言おうとしてやめた。
喧嘩にもなっていない。まだ。けれどたぶん、これからするのはもっと厄介なものだ。
裏庭へ出る扉を開けると、嵐の残り香がまだ空気にあった。雨は上がっている。けれど雲は厚く、風は湿って冷たい。裏庭といっても小さな石敷きの空間で、樽と薪棚と、洗濯用の大きな桶が置かれているだけだ。昨夜の雨で石はまだ濡れていた。軒の端から雫がぽたり、ぽたりと落ちる。遠くから海鳴りが聞こえた。嵐のあとは、いつもの波音より少し低い。
リュゼルは扉のそばから離れなかった。すぐ戻れる位置にいたかった。
セヴリックもそれ以上近寄らない。数歩の距離を空けて立つ。外套は着ていないが、風に吹かれて髪の前髪がわずかに揺れた。王都の庭で見る彼より、今のほうがずっと生身の人間に見える。それがまた、困る。
先に口を開いたのはリュゼルだった。
「帰ってください」
思っていたよりも静かな声が出た。
「手紙にも書いたでしょう。探さないでくださいと」
「読んだ」
「なら、どうして来たのですか」
「会いたかった」
あまりにも迷いなく出たその答えに、リュゼルは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
会いたかった。
それだけ。
責任でも、捜索でも、体調でもなく、会いたかった。
そんな単純な言葉を、この人が使うとは思っていなかった。思わないようにしていた。だからこそ、その一言は真っ向から胸へ刺さる。
「……今さら」
ようやく出たのは、それだけだった。
「今さらそんなことを言わないでください」
声が少し揺れた。揺れたことに自分で腹が立つ。
「今さら、夫みたいな顔をしないで」
その言葉が出た瞬間、セヴリックの表情がほんのわずかに変わった。驚きというほどではない。だが、受け止めたとわかる変化だった。
リュゼルはその変化に背を押されるように続けた。
「三年です」
風が吹く。濡れた石の匂いが立つ。
「三年ものあいだ、あなたは一度だって夫らしくなかった。必要な場面では、公爵夫人としてわたくしを使ったでしょう。隣へ立たせて、笑わせて、恥をかかないように飾って、その代わり、わたくしがどんな顔をしているかなんて、ひとつも見なかった」
喉が熱い。
それでも言葉は止まらなかった。ずっと胸の底に沈めていたものが、今さら勢いを持って浮かんでくる。
「夜会で隣へ立つ妻は必要だったのでしょう。王都で、冷徹公爵にもちゃんと家の体裁があると見せるための妻は。でも、それだけです。食事の席ではほとんど目も合わせない。寝室は最初から別。具合が悪くても医師を呼ぶだけで終わり。あなたはいつだって正しかったけれど、わたくしには一度も、夫ではなかった」
セヴリックは何も言わない。
反論しない。
否定もしない。
ただ、まっすぐこちらを見て立っている。
そのことが、リュゼルの胸をさらにざらつかせた。
「それなのに」
言葉が震える。
「それなのに、今さら追ってきて、今さらそんな顔をしないでください」
「どんな顔だ」
問われて、リュゼルは息を呑んだ。
どんな顔。
どう答えればいいのだろう。
あの夜、海燕亭の扉口に立っていたときの濡れた顔。昨夜の「見つけた。それだけで今日はいい」と言ったときの、押しつけがましくない声。今朝、会いたかったと答えたときの迷いのなさ。
それら全部をまとめて何と呼べばいいのかわからない。
「……夫みたいな顔です」
結局、同じことしか言えなかった。
「心配しているみたいに。大切みたいに。そんな顔を、今さら向けないでほしいのです」
言い切った途端、自分が何を暴いてしまったのかに気づく。
大切みたいに。
そう見えているのだ。そう見えるからこそ、こんなに怒っている。まったく何も感じなければ、ただ迷惑だと思って追い返せたはずなのに。
リュゼルは視線を逸らした。これ以上見つめていたら、自分の顔にもいろいろ出そうで嫌だった。
「……遅いんです」
ぽつりと落とす。
「何もかも」
沈黙。
海鳴りだけが低く続く。
セヴリックはなおも何も言わなかった。その沈黙に、最初はさらに腹が立った。何か言いなさい。違うと言うなら違うと言えばいい。言い訳をするならするで、もっと怒りやすい形で返してくれればいい。
けれど彼は、黙ったままだ。
その黙り方に、だんだん別の意味が見えてくる。
逃げているのではない。
言い返さないのでも、都合の悪いことを飲み込んでいるのでもない。
自分に弁解の資格がないと、理解している黙り方だった。
それがわかってしまった瞬間、リュゼルはさらに腹が立った。
どうして、そういうところだけ、今になってわかりやすいのだろう。
どうして、そこだけはちゃんと受け止めるのだろう。
「……何か言ってください」
思わず口をつく。
「違うとか、そんなつもりじゃなかったとか、何でもいいから」
そうだ。何でもいいから言い返してくれればよかったのだ。そうすればもっと素直に怒れた。怒りだけで立っていられた。
けれどセヴリックは、しばらく黙ったあと、低い声で言った。
「違わない」
その一言で、心臓のあたりが重く沈む。
「……何がですか」
「お前の言ったことの大半は、事実だ」
リュゼルは思わず顔を上げた。
セヴリックの表情は静かだった。静かだが、いつもの無表情ではない。感情がないのではなく、余計なものを削っている顔だった。
「俺はお前を妻として迎えた」
彼はゆっくり言葉を選ぶように続けた。
「だが、夫として振る舞わなかった。必要な場面では公爵夫人として隣へ立たせ、必要なものは用意し、それで足りると思っていた。そうしていれば守れると考えた」
「守る?」
リュゼルは思わず笑った。笑いというには鋭すぎる息だった。
「何からですか。あなたの感情から?」
「……それもある」
あまりにもまっすぐ認めるものだから、リュゼルは一瞬言葉を失う。
「俺が情を見せれば、そこが弱みになる。そう思っていた」
「わたくしを弱みにしたくなかった、だから遠ざけたと」
「そうだ」
「勝手です」
「勝手だな」
また認める。
そのたびに、怒りの置き場が少しずつずらされていく。もっと卑怯に否定してくれたほうが、どれだけ楽だったか。
「でも」
セヴリックの声が低く落ちる。
「その結果、お前が何を考えているのか、何を怖がっているのか、何ひとつ知らないままにした。それが守ることだとは、今は思わない」
風が強く吹き、裏庭の隅に置かれた金具がかちりと鳴った。
リュゼルは唇を強く噛みしめる。
ずるい。
やはりそう思う。こんなふうに、言い逃れではない言葉を今さら持ってこられても困る。困るのに、聞いてしまう。聞けてしまう。聞きながら、どこかで「遅いけれど、嘘ではない」と理解してしまう自分がいる。
それがいちばん腹立たしい。
「……だったら」
リュゼルは絞り出すように言った。
「だったら、どうしてあのとき何も言わなかったのですか」
「離宮の夜か」
「ええ」
声が少し掠れる。
「余命を伝えた夜です。わたくしは、怖かった。たぶん、あなたが思っているよりずっと。でもあなたは、医師を呼んで、必要な指示をして、それだけでした」
あの夜の光景が、話しながらまざまざと蘇る。ランプの灯り、胸の痛み、机の上の診断書、そして低く正しい声。無理はするな。医師を呼ぶ。必要なものは整える。その一つひとつが正しいのに、何ひとつ欲しいものではなかった夜。
「わたくし、あのとき」
そこで一度、言葉が途切れた。
言ってしまっていいのだろうかと、胸のどこかがためらう。
けれど今さら、これ以上隠しても仕方がない気がした。
「抱きしめてほしかったんです」
言ってしまった瞬間、頬が熱くなる。
こんなことを、今さら。よりによってこんな裏庭で。嵐明けの冷たい風の中で。
みっともない。
けれどもう、引っ込められない。
「ひとことでもいいから、大丈夫だと言ってほしかった。怖いなら怖いと言っていいと、誰かに言ってほしかった。でもあなたは、そういうことを一つも言わなかった」
セヴリックは動かなかった。
表情も大きくは変わらない。けれど、その目の奥に初めてはっきりと痛みが走るのを、リュゼルは見た気がした。
「……言えなかった」
やがて彼はそう言った。
「なぜ」
「俺が欲しかったからだ」
またも予想外の答えだった。
リュゼルは眉を寄せる。
「意味がわかりません」
「お前を抱きしめたかった。大丈夫だと言いたかった。怖いなら俺の前で怖がればいいと、そう言いたかった」
低い声は、抑えられているのに少しも軽くなかった。
「だがそれを言ったら、もう戻れないと思った」
「戻る?」
「今までみたいには、だ」
セヴリックはわずかに息を吐く。
「一度そうしたら、俺はもう、お前を公爵夫人としてだけ扱えなくなる。そうなれば、守り方も変わる。仕事の仕方も、見せる顔も、全部変わる。それが怖かった」
リュゼルは目を見開いたまま、しばらく言葉を失った。
そんな理由。
そんな理由で、あの夜、あの瞬間を見過ごしたのか。
怒るべきなのに、怒鳴るべきなのに、胸の中では別の感情が先に広がる。呆れにも似た、どうしようもない悲しさだった。
「本当に」
唇から漏れた声は、ほとんど笑いに近かった。
「本当に、勝手な人ですね」
「そうだな」
「それで守っていたつもりだったなんて」
「そう思っていた」
「愚かです」
「愚かだ」
何を言っても、彼は否定しない。受け止める。受け止めて、そのまま自分のものとして立っている。
こんなの、ずるい。
リュゼルは思わず顔を背けた。怒りが少しずつ、別の熱に変わっていくのがわかる。怒鳴り切れない。罵り切れない。全部捨てて冷たくなるには、自分の中にまだ好きだった過去が残りすぎている。
好きだった。
いや、たぶん、今も。
そこまで思ってしまった瞬間、喉の奥がきゅっと縮む。
認めたくない。認めたら負けだとか、そんな安っぽい話ではなく、認めたら自分があまりにも惨めになるからだ。こんなに傷ついて、逃げて、死ぬ場所まで探して、それでもまだ好きだなんて、どうしようもなく惨めではないか。
「帰ってください」
もう一度言う。今度は最初よりずっと弱い声だった。
「お願いですから」
セヴリックはすぐには答えなかった。
その沈黙が長く感じられる。風が吹き、軒先の水滴が落ち、海鳴りがかすかに混じる。ノクレールの朝はもうすっかり昼へ向かっているのに、この裏庭だけ、時間が止まったみたいだった。
「帰れない」
やがて彼は言った。
強くはない。けれど、動かない声だった。
「お前を見つけた以上、帰れない」
「勝手です」
「わかっている」
「わかっていて、どうして」
「今さら夫の顔をするなと言ったな」
リュゼルの肩が小さく揺れる。
「そう言いました」
「その通りだと思う」
まただ。
また反論しない。
そのことに腹が立つのに、続きを聞いてしまう。
「だが、今さらでもそうするしかない」
セヴリックはまっすぐ彼女を見ていた。
「お前がどれだけ遅いと思っていても、俺がどれだけ資格がないとしても、それでも今からしかできない」
その言葉に、リュゼルは息を詰めた。
海鳴りが一段深く響く。
今からしかできない。
そんな当たり前のことを、まるで刃みたいに真っ直ぐ言うから困る。過去をやり直せないことも、遅すぎることも、資格がないことも、全部わかった上で、それでも今からしかできないと言われると、こちらは何をどう怒ればいいのかわからなくなる。
「……やめてください」
声が掠れた。
「何をだ」
「そういう言い方をするのを」
「どういう言い方だ」
「まるで、ちゃんと向き合うつもりみたいに」
言った瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
向き合うつもりみたいに。
そんなふうに聞こえていること自体が、すでに自分の揺れを暴いてしまっている。
「つもりではない」
セヴリックは静かに返した。
「そうする」
もう駄目だった。
怒りだけでは立っていられない。怒れば怒るほど、好きだった過去が顔を出す。好きだったから、あの三年が苦しかった。好きだったから、離宮の夜に抱きしめてほしかった。好きだったから、今さら追ってこられるのがこんなに困る。
そこまで全部、言わなくてもわかってしまう自分がいて、リュゼルはひどく疲れた。
「……本当に、嫌な人」
やっとそれだけ言うと、セヴリックはほんの少しだけ目を伏せた。
「そうだな」
リュゼルはそれ以上いられなくなった。扉のほうへ一歩下がる。冷たい取っ手が背中に近い。
「今日は、これ以上話しません」
「ああ」
「勝手にいなくなったりしないでください。宿に迷惑です」
「わかった」
「わかった、ばかり」
思わず吐き捨てるように言うと、セヴリックの口元がほんのわずかに動いた。笑ったのではない。笑う手前みたいな、ひどくかすかな動きだった。
それすら腹立たしい。
「本当に、ずるい」
今度は聞かせるつもりで呟いた。
セヴリックは何も返さなかった。
返さなかったことで、リュゼルはまた少しだけ救われたのかもしれない。ここで「何がだ」とでも返されたら、たぶん自分はもっとみっともないことを口にしていた。
扉を開けて中へ戻る。
食堂には昼の匂いが満ちていた。煮込みの湯気、焼いたパン、木の床の湿り気。マルグリットが帳場の向こうからちらりとこちらを見る。その目に問いかけはない。ただ帰ってきたか、という確認だけがある。
「スープ、冷めるよ」
それだけ言われて、リュゼルはようやく、自分がひどく空腹だったことに気づいた。
「……いただきます」
席へ着く。木匙を持つ手が少し震えていた。スープの表面に浮かぶ油が、揺れる指先のせいで小さく波立つ。
窓の外では、嵐明けの雲の向こうに薄い光が差しはじめていた。けれど胸の中はまるで晴れない。怒っている。腹が立っている。帰ってほしいと思っている。それは本当だ。
なのに同時に、今朝の会話の一つひとつが、胸の奥の死にきれなかった場所へ触れてくる。
怒り切れない。
そのことが、何より自分を惨めにした。
まだ好きだった過去がある。
いや、過去だけではないのかもしれない。
そこまで思考が進みかけて、リュゼルは慌てて匙を口へ運んだ。温かいスープが舌に触れる。魚と野菜の出汁が、冷えた喉をゆっくり落ちていく。味はするのに、心は少しも落ち着かなかった。
扉の向こう、裏庭の先に、セヴリックはまだいるのだろう。
それがわかっているだけで、海辺の小さな宿の昼は、昨日までともう同じではなかった。
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