もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

なつめ

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第4話 婚約破棄の申し出


 その朝、リリアーナは目が覚めた瞬間に、自分がほとんど眠れていなかったことを知った。

 瞼の裏には何度も同じ光景が浮かんだ。ヴァレンティア侯爵邸の玄関ホール。灰白色の光。義母の完璧な微笑み。セドリックの蒼灰色の瞳。そして、自分を見た瞬間、彼の顔からわずかに血の気が引いた、あの一瞬。

 何度思い返しても気味が悪い。

 あの人は前世では、もっと冷たく、もっと分かりやすく遠かった。だからこそ、傷つくたびに自分を納得させられたのだ。この人はそういう人なのだと。愛を求めるほうが愚かなのだと。けれど今世の彼は違う。沈黙のままなのに、そこに沈黙以外の何かが混じっている。それが一番たちが悪かった。

 だが、いつまでもそこに心を引っかけてはいられない。

 今日、やるべきことは決まっていた。

 父に、婚約解消を正式に願い出る。

 それは昨夜のうちに決めていた。アデル叔母への手紙はもう出した。侯爵家訪問の記録も書き留めた。伯爵家とレーヴェン商会の繋がりについても、前世の記憶と今の動きが少しずつ重なり始めている。ならば、次に打つべき手は一つだ。

 家の中で、自分の意思を言葉にすること。

 反対されるに決まっている。怒鳴られるだろう。継母は泣いたふりをするかもしれない。マリアンヌは善意ぶって首を傾げるだろう。けれど、それでも言わなければならない。前世の自分は、最初の「嫌です」を飲み込んだ。だからその先、何もかもが家の都合のまま滑り落ちていった。

 今度は違う。

 リリアーナは掛布を押しのけ、床へ足を下ろした。春先の朝の冷えが、靴を履く前の足裏へしみる。窓の外はまだ薄青い。庭木の影が長く伸び、夜露の残る芝がかすかに光っていた。部屋の中には、昨日エマが小さく焚いてくれたラベンダーの残り香がある。胸いっぱいに吸い込むと、荒れていた神経が少しだけ整う気がした。

「お嬢様、お目覚めでございますか」

 ノックのあと、エマが静かに入ってくる。盆には白磁のカップと小さなポット。朝一番の薄いお茶だ。薬草を少し混ぜてあるのか、湯気の向こうにすっきりとした香りが立つ。

「ええ。起きるわ」
「お加減は」
「眠れなかっただけ。体は動くわ」
「……本日、でございますか」

 小さな声だった。だが問う意味は分かる。父へ話をするのか。今日、言うのか。

 リリアーナは頷いた。

「今日よ。先延ばしにしたら、家のほうが先に動くもの」
「旦那様は朝食後、書斎にお入りになることが多いです」
「知っているわ」
「奥様がご一緒でなければよろしいのですが」
「お母様がいたら、なおさらいいかもしれない」

 そう言うと、エマが目を丸くした。

「お一人ずつより、まとめて聞かせたほうが話が早いわ。どうせあの人たちは、私の言葉を私の前で共有するもの」
「……確かに」

 エマはまだ心配そうだったが、それ以上は何も言わず支度のための水を整え始めた。洗面用のボウルに注がれる湯の音が、朝の静けさの中で小さく響く。白い湯気が立ちのぼり、まだ冷えの残る部屋の空気をほんの少し和らげた。

 鏡の前に立つ。寝起きの顔は少し青白かったが、目だけは昨日よりはっきりしていた。蜂蜜色の髪を梳き、結い上げる。襟元の閉じた淡い青灰色のドレスを選ぶ。装飾は控えめで、けれど色味は弱すぎないもの。今日は泣きつく娘ではなく、話をしに行くのだ。甘く見られては困る。

 コルセットを締める紐が背中で引かれ、肋骨の下がきゅっと狭まる。その軽い息苦しさが、かえって覚悟を現実へ結びつける。

「きつくない?」
「大丈夫。今日くらいは、姿勢よく見えたほうがいいわ」
「お嬢様は元からお綺麗です」
「綺麗なだけじゃ足りないのよ」

 思わずそう言うと、鏡越しにエマが小さく口を結んだ。その表情が、侍女というより、こちらの事情を少しずつ理解し始めた味方のものに見える。

 朝食は一人だった。

 父も継母もまだ降りてこず、マリアンヌも珍しく遅いらしい。長い卓の端へ案内され、白いクロスの上に置かれたパンと卵料理、それに果物の煮たものを前にして、リリアーナはかえって助かった気がした。今日は誰かの機嫌を見ながら最初の一口を取る気分ではない。

 ナイフを入れる。焼きたてのパンから湯気が立ち、バターが溶ける。香りだけは幸福な朝そのものだ。だが咀嚼するたび、胃の奥がきゅっと縮む。

 この家で、自分の意志を正面から言葉にするのは初めてだ。

 前世では一度もできなかった。頼まれれば頷き、責められれば謝り、泣きたい夜も笑った。そのほうが波風が立たないと思ったからだ。だが波風を避け続けた先で、結局自分だけが深く沈んだ。

 運ばれてきた紅茶へ砂糖を少し落とし、スプーンで混ぜる。銀の触れ合う小さな音が、やけに鮮明に聞こえた。

「お嬢様」

 控えていたエマが、小声で呼ぶ。

「旦那様、奥様、食堂へ向かわれるそうです」
「そう。ちょうどいいわ」

 カップを置き、ナプキンで口元を押さえる。鼓動は速い。けれど震えは昨日ほどではない。怖いままでも、やるしかないと決めている時の体は、逆に妙な静けさを帯びるものだと初めて知った。

 父たちはほどなく姿を見せた。伯爵である父はいつものように新聞を片手に、継母は端正な笑みを貼りつけ、マリアンヌは昨夜よほど侯爵家で浮き立っていたのか、頬にまだ上機嫌の色を残している。

「おはようございます、お父様、お母様」

 リリアーナが礼をすると、父は一瞥しただけで席についた。

「起きていたか。昨日はずいぶん疲れた顔をしていたようだが」
「ええ、少し。でも本日はお話がございます」
「話?」

 継母が首を傾げた。その仕草は柔らかいが、目の奥が先に警戒を始めている。昨日の侯爵家訪問のあとで改まって話があるなどと言われれば、誰でも身構える。

「朝食の席で申し上げることではないかもしれません。ですが、皆様にご一緒に聞いていただいたほうがよろしいと思いました」
「何をもったいぶっているの」

 継母の声音が微かに冷えた。

 リリアーナは背筋を伸ばした。指先はテーブルの下で組んだままだ。白い手袋越しでも少し汗ばんでいるのが分かる。けれど声は揺らさない。

「ヴァレンティア侯爵家との婚約を、解消していただきたく存じます」

 その一言で、食堂の空気が止まった。

 父の手から新聞が滑り、卓上へばさりと落ちる。マリアンヌが息を呑み、継母はまるで聞き間違えたかのように数秒、無表情のまま固まった。

「……もう一度、言ってちょうだい」

 継母が笑顔のまま言う。その笑顔だけが怖い。頬は上がっているのに、目は全く笑っていない。

「ヴァレンティア侯爵家との婚約を解消していただきたいのです」
「何を馬鹿なことを」

 今度は父が先に声を荒げた。卓を叩くほどではなかったが、低く唸るような怒気が食堂の空気を震わせた。

「昨日何を見てきたのだ。侯爵家の屋敷の格も、あちらの態度も分かっただろう。それでもまだ子どもじみた我がままを」
「我がままではございません」
「ならば何だ」
「判断です」

 ぴたり、と父の眉が寄る。

 リリアーナはそこで初めて、自分の中の恐怖が少しだけ形を変えるのを感じた。相手を怖がる気持ちが、言葉を置くたび、わずかに距離へ変わっていく。前世の自分は、父が声を荒げるだけで委縮した。だが今は、その怒りの中身が見える。ただの支配欲と焦りだ。

「判断、だと?」
「はい。わたくしはこの婚約が、我が家にとって長期的に有利ではないと考えます」
「……何を言っているの」

 継母の声が、今度ははっきり尖った。

「あなたごときが、侯爵家との縁談を家の利益で語るの?」
「語れます。少なくとも、嫁ぐ当人ですから」
「リリアーナ」
「お母様、わたくしは真面目に申し上げています」

 その言い方が、思っていた以上に効いたらしい。継母の表情が一瞬、崩れた。リリアーナがここまで真っ直ぐに言い返すのは初めてだった。

 父は低く息を吐き、椅子の背へもたれた。その目つきが変わる。怒鳴れば黙る娘ではないと、ようやく認識したらしい。

「いいだろう。話してみろ。どう長期的に不利だという」
「ありがとうございます」

 礼を言い、リリアーナは卓上へ両手を揃えた。爪先に力を込める。ここからが本番だ。感情で押し切ってはならない。前世の記憶を、“知っている未来”ではなく、“既に見える兆候”として組み直す必要がある。

「まず、我が家は現在、レーヴェン商会と急ぎのやり取りを複数回行っておりますね」
「……なぜその名を知っている」

 父の声が低くなる。

 当たりだ。

 リリアーナは表情を変えないよう努めた。心の中では、冷えた水が一気に血管を流れたような感覚があった。前世の記憶はやはり繋がっている。

「商会の名を知ること自体に不思議はございません。家の使用人たちも口にしますもの」
「口さがない使用人を締め上げねばならんな」
「問題はそこではありません」

 リリアーナは遮った。父が顔を上げる。その目に初めて、苛立ち以外のものが混じる。娘が話を主導し始めていることへの不快と、わずかな警戒だ。

「レーヴェン商会との間で、東部の鉱山権に関する資金の穴埋めが発生しているはずです」
「……」
「さらに、春の終わりには北街道沿いの穀倉の担保設定を見直す必要が出ます」
「リリアーナ」

 継母が強い声を出した。

「何を、どこで吹き込まれたの」
「誰にも吹き込まれてはおりません」
「ではなぜそんなことを知っているの!」
「家の帳場を見たから、とでも申し上げればよろしいですか」

 半分は嘘だった。だが今ここで真実を説明できるはずがない。前世で見聞きした断片と、今世の動きを繋いでいるだけだ。けれど、その“だけ”が十分に刺さる。

 父の顔色が変わった。

 怒りで赤くなるのではない。むしろ、血の気が引くほうに近かった。

 マリアンヌが不安そうに父と母の顔を見比べる。

「お、お姉様、そんな難しいこと、急に言われても」
「難しくはないわ。要するに、この婚約は我が家が欲しいから結ばれたのでしょう。侯爵家との繋がりがあれば、商会にも融通が利く。担保の見直しも有利に運ぶ。先方に頼み事を通しやすくなる」
「……当たり前でしょう」

 継母が吐き捨てるように言った。

「貴族の婚姻とはそういうものです」
「ええ。ですから、そこを前提に申し上げています」
「何が言いたいの」
「その“頼み事”が増えれば増えるほど、ヴァレンティア侯爵家にとって我が家は厄介になります」

 食堂の空気が少し変わる。

 父は黙った。継母もすぐには返せない。リリアーナは続けた。

「侯爵家は大きい。格も権威もある。けれどだからこそ、外戚が利権目当てに集ることを嫌うはずです」
「集る、ですって」
「違いますか?」

 その問いに継母が言い返そうとした瞬間、父が片手を上げて止めた。

 リリアーナは父を見た。伯爵として家を守る男の顔だ。怒りに任せて娘を叩き潰すより先に、損得で物を考え始めた時の顔。

「続けろ」
「ありがとうございます。侯爵家は現時点では婚約に前向きに見えます。ですが、それは我が家がまだ“従順な伯爵家”だからです」
「……」
「ところが婚姻後、我が家は必ず侯爵家へ便宜を求めます。商会との関係、鉱山権、穀倉担保、その先には恐らく北方の林業権にも手を伸ばすでしょう」
「林業権……?」

 マリアンヌがぽかんと呟く。リリアーナはそちらを見ない。前世で父は確かにそこまで手を伸ばした。侯爵家の名を使えば、通常より有利な交渉ができると踏んだからだ。そしてセドリックはそれを拒み続け、そのたびに伯爵家からの圧は自分へ向かった。

『お前は何のために嫁いだ』
『一つくらい役に立ちなさい』
『可愛がられていないなら、そのぶん交渉しなさい』

 あの文面が、今も脳裏に焼きついている。

「それらを拒まれた時、我が家はどうなりますか」
「……」
「侯爵家との関係は悪化します。わたくしは板挟みになります。実家は不満を募らせ、侯爵家は煩わしさを募らせる。結果として、我が家は侯爵家の庇護も信頼も失う」
「憶測だ」

 父がようやく言った。だが声音はさきほどほど強くない。

「憶測ではございます。けれど、十分にあり得る未来です」
「どの婚姻にもあり得ることだ」
「いいえ。少なくとも、この婚約では確率が高いはずです。なぜなら我が家には既に資金面で焦りがあり、侯爵家にはそれを救える力があるから」

 そこでリリアーナは一度、言葉を切った。紅茶はもう冷えている。喉が渇いていたが、今は飲まない。ここで緩んではならない。

「お父様。率直に申し上げます」
「何だ」
「わたくしは、この婚姻が“娘の幸福”のために整えられたものだとは考えておりません」
「当然だ」

 父は吐き捨てた。

「家の婚姻とはそういうものではない」
「ええ。ですから同じ理屈でお返しします。家の婚姻ならば、感情ではなく損得で考えるべきです」
「……」
「そのうえで、この婚約は危険です」

 リリアーナは父の目をまっすぐ見返した。

「ヴァレンティア侯爵家は我が家より格が上すぎます。救われる可能性より、切り捨てられる可能性のほうが高い」
「切り捨てるだと?」
「はい。わたくしがもし向こうで歓迎されず、夫からも距離を置かれたなら、我が家が侯爵家へ要求を重ねるほど、先方は“厄介な妻の実家”として伯爵家そのものを疎みます」
「そのようなこと、まだ何も」
「昨日の訪問で十分に分かりました」

 継母がぴくりと顔を上げた。

「何が分かったというの」
「侯爵夫人はわたくしを歓迎してはおりません」
「あなたの被害妄想でしょう」
「そうかもしれません。ですが、少なくとも温かくはなかった」
「それでも侯爵様は」
「侯爵様がどうであれ、家の空気は別です」

 そこを言った瞬間、自分の中にざらりとした感覚が走る。セドリックだけが違った。その違和感を思い出すと、胸がかき乱される。けれど今はそこへ踏み込まない。踏み込めば論がぶれる。

「そして侯爵様個人の態度がどう見えようとも、それが将来にわたってわたくしを守る保証にはなりません」
「……」

 父が黙り込む。

 彼は知っているのだ。この婚約が単に名誉だけでなく、現実的な資金繰りの綱でもあることを。だからこそ反論が遅れる。娘の“感情”なら簡単に踏み潰せる。だが“家に不利だ”と切り返されると、同じ土俵で話さざるを得ない。

 継母が先に苛立った。

「馬鹿馬鹿しいわ。あなた一人が怯えたところで、我が家にとってこれ以上の縁などないのよ」
「あるいは“今は”ない、ですね」
「何ですって」
「この婚約が我が家の弱みを隠すためのものだと侯爵家に見抜かれた瞬間、こちらは永遠に頭が上がらなくなります」
「最初から上がる必要などない!」
「では、お母様は伯爵家が永遠に侯爵家の顔色を窺い、金と利権のために娘を差し出した家として扱われても構わないのですね」

 継母の喉が詰まった。

 マリアンヌが「お母様」と呼ぶ。だが彼女は娘を見る余裕もないらしい。

 父が新聞をぐしゃりと握り潰した。その音だけがやけに大きく響いた。

「リリアーナ」
「はい」
「お前は、どこまで知っている」

 その問いは、怒りではなかった。

 確かめる声だった。

 リリアーナはその変化を聞き逃さなかった。食堂の空気も変わっている。使用人たちは気配を消すように控えているが、そこにある緊張は隠しきれていない。父と継母だけではない。この家全体が初めて、自分の口から出る言葉を“ただのわがまま”ではなく“厄介な事実”として受け止め始めている。

「十分に、でございます」
「答えになっていない」
「具体的な数字までは申しません」
「なぜだ」
「わたくしの言葉が虚言でないことを、お父様ご自身が一番よくご存じだからです」

 父の目が鋭く細まった。

「脅すつもりか」
「いいえ」
「では何だ」
「交渉です」

 その一言は、自分で思っていた以上に食堂へ静かに落ちた。

 交渉。

 娘が父に向かって使うには、あまりに乾いた言葉だった。継母の表情から血の気が引き、マリアンヌは本気で怯えたように口元へ手を当てた。父だけが辛うじて顔色を保っていたが、その沈黙の長さがすべてを物語っている。

 リリアーナは続ける。

「わたくしは感情で婚約破棄を願い出ているのではありません。家のために申し上げています」
「……家のため、だと?」
「はい。この婚約は一見、伯爵家に有利です。ですが中長期的には、我が家が侯爵家へ依存し、拒絶され、信用を失う可能性が高い」
「お前の憶測にすぎぬ」
「ならば、逆に伺います。お父様は今後一切、侯爵家へ金銭、商会、担保、権利に関する便宜を求めないと誓えますか」
「それは……」

 詰まった。

 そこで初めて、マリアンヌでさえ父の顔を見た。つまり、そうなのだ。父は求めるつもりなのだ。最初から。

「誓えないのであれば、わたくしの申し上げている危険は現実的です」
「……」
「そして、その要求が重なれば重なるほど、侯爵家にとってわたくしは“厄介な妻”になります」
「そんなもの、お前が上手く立ち回れば」
「立ち回ってどうなりますか」

 今度はリリアーナが一歩も引かなかった。

「実家と夫家の間で都合よく動く女は、どちらからも信用されません」
「……」
「お父様はわたくしにそれをなさいと?」
「家の娘なら当然の」
「では、家の娘として申し上げます」

 リリアーナは深く息を吸った。肺の奥まで冷たい空気が入り、逆に頭が冴える。

「その役目は失敗します。わたくしには無理です」
「何だと」
「わたくしは、侯爵家へ便宜を願い出るたびに恥をかき、実家からはもっと役に立てと責められ、最後には両方から不要とされる」
「最後、ですって?」

 継母がそこに反応した。

 最後。あまりにも確信的な響きに、さすがに不気味さを覚えたのだろう。リリアーナは心臓が一つ強く打つのを感じた。危ない。ここで前世の記憶を未来予知のように言ってはいけない。

「そうなり得る、と申し上げております」
「あなた……」
「お父様、お母様」

 声を少しだけ落とす。怒鳴らない。静かに言ったほうが、この場では効くともう分かっていた。

「わたくしは泣いて婚約を嫌がっているのではありません。伯爵家の娘として、家の見通しの甘さを申し上げているのです」
「見通しの、甘さ」
「はい。今必要なのは、格上の侯爵家へ娘を差し込んで救ってもらうことではなく、レーヴェン商会との条件見直しと、穀倉担保の整理ではありませんか」
「……お前」
「さらに申し上げれば、侯爵家との婚姻が決まったあとに条件を緩めてもらえば、商会側にも“伯爵家は侯爵家を後ろ盾に持った”という印象を与えます。その結果、今後の交渉でますます家の財務の実情を隠しづらくなる」
「黙りなさい!」

 継母がついに声を荒げた。

 鋭い叫びに、控えていたメイドがびくりと肩を揺らす。マリアンヌは半ば泣きそうな顔で母を見る。だが父は怒鳴らなかった。むしろ、机の一点を凝視したまま沈黙している。

 効いている。

 その事実に、リリアーナの手のひらがじっとりと汗ばんだ。勝っている、という感覚ではない。ただ、初めて相手に“聞かせている”という実感があった。

「お父様」

 もう一度、呼ぶ。

「この婚約を進めるのであれば、わたくしは侯爵家で家のための交渉役を期待されるでしょう」
「……」
「ですがわたくしは、それを拒みます」
「拒む?」
「はい。向こうへ嫁いだ後に、実家の便宜のために夫家へ口を利くつもりはありません」
「何を勝手な!」
「勝手ではございません。そうでなければ、この婚約は伯爵家と侯爵家の双方にとって有害だからです」
「お前に何が分かる!」

 ようやく父が声を荒げた。だがその怒りには、先ほどまでの絶対性がない。娘が知るはずのないことを知っている、その事実への動揺が混じっている。

「分かっております。少なくとも、お父様がこの婚約に“侯爵家との繋がり以上のもの”を期待していることは」
「……」
「そして、その期待が大きいほど、婚姻後の要求も増えることも」
「リリアーナ」

 父の声音が変わる。怒鳴るよりも低く、押し潰すような声だった。

「誰に吹き込まれた」
「誰にも」
「ならばなぜ、そこまで」
「見ているからです」

 これは真実だった。

 前世を見た。実家の手紙も、父の焦りも、継母の計算も、自分が挟まれて削れていく様子も、全部。

「わたくしはずっと、この家を見ておりました」
「……」
「お父様が書斎で何通も手紙を書き直していたことも、お母様が商会の名を聞くたび顔色を変えていたことも、全部」
「……」
「それでも黙っていたのは、娘として従うべきだと思っていたからです」
「だったらなぜ今さら」
「間違っていたからです」

 その一言は、食堂の中心へまっすぐ落ちた。

 間違っていた。

 前世の自分に向けても、今ここにいる家族に向けても、同じ重さを持つ言葉だった。

「従っていれば上手くいくと思っていたのが、間違いでした」
「何を根拠に」
「根拠は申し上げた通りです。家の財務、侯爵家との格差、婚姻後に想定される便宜要求、そしてわたくし自身がその役目に向かないこと」
「向く向かないではない!」
「ええ。ですから役目として引き受けること自体が危険だと申し上げています」

 父は黙った。

 継母は今にも立ち上がりそうだったが、父がそれを片手で制した。食堂の端に立つ使用人たちは、もはや誰も視線を上げない。ただ、空気だけが張り詰めている。ナイフもフォークも一切鳴らない。外で庭師が枝を払う鋏の音だけが、遠くから時折聞こえてくる。

 その静けさの中で、父がぽつりと問う。

「仮に、お前の言う通りだとして」
「はい」
「この婚約を切ったあと、どうするつもりだ」

 それは初めての“議論としての質問”だった。

 リリアーナは胸の内で静かに息を整えた。ここだ。ここで“ただ嫌です”では終わらせない。

「すぐに別の大きな縁談を探す必要はないかと存じます」
「そんな悠長な」
「悠長ではありません。むしろ今、急いで別の格上へ繋がろうとするほうが危険です。家の焦りを市場に晒すことになります」
「……」
「まずは商会との条件整理です。次いで担保の再編。家の体裁を保つにしても、婚姻を資金繰りの止血に使うべきではございません」
「お前に、そこまで」
「分かります。少なくとも、娘を一枚差し出せば全部丸く収まると思うほど、婚姻は便利ではありません」

 父の喉が小さく動いた。

 その反応を見た瞬間、リリアーナは悟った。刺さったのだ。しかも深く。父は“娘が反抗している”のではなく、“家の隠していた計算を読まれている”と理解した。だからこそ、さっきから怒りだけでは押し切れなくなっている。

 マリアンヌが震えた声で言う。

「お姉様、そんな言い方……。お父様もお母様も、家のために」
「ええ。だからこそ、家のために言っているのよ」

 リリアーナは妹を見た。責めるつもりはなかった。まだ何も知らないのだ。この家がどうやって娘の価値を測るかも、婚姻がどう使われるかも、身をもっては知らない。

「今の私は、この婚約が伯爵家を救うとは思えない」
「でも侯爵様は」
「侯爵様個人の態度は問題ではないわ」
「どうして?」
「家と家の話だから」

 そう言い切ると、自分の胸の内で何かが少しだけ軋んだ。問題ではない、と言いながら、セドリックのあの違和感が全く無関係だとは思えていない自分がいる。だが今はそこを認めない。認めれば論が曇る。

 父がゆっくり立ち上がった。椅子の脚が床を擦る低い音に、食堂の空気がまた張る。

「……書斎へ来い、リリアーナ」
「あなた」

 継母が焦ったように声を上げる。父はそちらを見ずに言った。

「お前とマリアンヌは下がれ」
「ですが」
「下がれと言っている」

 低い一喝に、継母が口を噤む。彼女の顔には怒りよりも、はっきりとした不安が浮かんでいた。娘が知ってはいけないことを知っている。その事実が、彼女にもようやく重くのしかかったのだ。

 リリアーナは立ち上がった。膝が少しだけ強張っている。けれど足は震えない。

 父のあとについて食堂を出る。廊下はひやりとしていた。朝の光が長く床へ落ち、壁に掛かった風景画の金縁だけが鈍く光っている。後ろで継母が何か言い募る気配があったが、父は振り返らなかった。

 書斎へ入る。

 扉が閉まる。

 その瞬間、室内の空気が変わった。食堂よりもさらに濃い、紙とインクと革装丁の匂い。窓は半ば閉ざされ、暖炉の火は小さい。机の上には書簡が几帳面に積まれている。前世で何度も見た場所だ。父が一人で計算し、焦り、外へは平然を装うための部屋。

 父は机の向こうへ回らず、窓際で立ち止まった。

「……誰にも言うな」
「何をでしょう」
「白を切るな」

 振り返った顔には、もう食堂で見せていた伯爵としての余裕がなかった。そこにいるのは、娘に隠していた急所を見抜かれた男だった。

「お前がどこまで知っているかはともかく、財務の話を屋敷の外へ漏らせばどうなるか分かっているな」
「分かっております」
「ならば口をつぐめ」
「婚約を解消していただけるなら」

 父の目が見開かれた。

「取引のつもりか」
「ええ。先ほど申し上げた通り、交渉です」
「お前は……」

 父はそこまで言って言葉を切った。怒りに任せて近寄ってきたわけではない。それがすべてだった。昔なら、頬を打たれて終わっていたかもしれない。だが今、父はできない。娘を黙らせるより先に、娘が何をどこまで知っているか、そしてどこまで話せるかを恐れている。

 その沈黙を、リリアーナははっきりと見た。

 初めてだった。

 この家の空気が、自分に対して怯えたのは。

「お父様」

 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

「わたくしは家を潰したいわけではありません」
「……」
「ですが、この婚約にわたくしを使うのは、危険です」
「侯爵家との繋がりを捨てろと言うのか」
「今の形では、ということです」
「今の形?」
「娘を差し出して資金の穴を埋める形では」

 父の顔がひどく険しくなる。だが先ほどと違い、その険しさの根には怒りだけではない疲労があった。彼も分かっているのだろう。娘の言葉が全くの的外れではないことを。

「……誰に似たのだ、お前は」
「お父様にもお母様にも、でしょう」

 即座に返すと、父はしばらく呆れたように娘を見た。

 その目にあったのは、見慣れた軽視ではなかった。もっと扱いにくいものを見る目。知らぬ間に刃を持っていた娘を見る目だった。

「婚約解消は簡単ではない」
「承知しています」
「向こうが既にどれだけ準備を進めていると思っている」
「それでも申し出るべきです。今ならまだ、婚姻後の不義理より傷が浅い」
「……」
「お父様。このまま進めた先で伯爵家が侯爵家へ便宜を求め続ければ、いずれ必ず軋みます」
「必ず、と言い切るな」
「では、言い換えます。高い確率で」

 父は机の上の書簡へ視線を落とした。濃紺の封蝋。レーヴェン商会だろう。そこへ視線が落ちたこと自体が答えだった。

 リリアーナは最後の一歩を踏み込む。

「お父様」
「何だ」
「お父様が本当に家を守りたいなら、今見るべきは侯爵家ではなく、机の上のそれです」

 その瞬間、父の表情が止まった。

 自分でも分かった。今の一言は深く入った。侯爵家という巨大な外の救いではなく、足元の火種を見ろと娘に言われたのだ。誇り高い伯爵にとって、それがどれほど痛いかくらい分かる。だが痛いからこそ効く。

 長い沈黙のあと、父は低く言った。

「出ていけ」
「お父様」
「今すぐ答えは出さん」
「……」
「だが、話は聞いた。もう出ていけ」

 追い払う声だった。けれど拒絶とは少し違う。少なくとも最初のように“下らない我がまま”として切り捨てられてはいない。

 リリアーナは深く礼をした。

「ありがとうございます」
「礼を言うな」

 吐き捨てるような声音。しかしその裏にあるのは、怒りと、焦りと、娘への薄気味悪さだった。

 扉へ向かう。手をかける。その前に、背後から低い声が落ちた。

「リリアーナ」
「はい」
「……お前は、本当にどこまで見ている」

 振り返らずに答える。

「お父様が思うより、ずっとでございます」

 それだけを残して、リリアーナは書斎を出た。

     *

 廊下へ出た瞬間、張り詰めていた息がようやく抜けた。膝が少しだけ震える。けれど倒れそうではない。むしろ、体の奥に妙な熱が残っていた。

 言った。

 最後まで、飲み込まずに。

 前世では父にも継母にも、こんなふうに話せなかった。怒られるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、家のために従うのが正しいのだと思い込んでいた。けれど今日、自分の口から出た言葉は、そのどれよりも強かった。

 廊下の角で、継母が待っていた。顔色が悪い。唇だけが不自然に赤い。

「あなた、何をしたの」
「お話をしただけです」
「何を吹き込んで、旦那様をあんな顔に」
「吹き込んではおりません」
「嘘おっしゃい! あの人があんなふうに黙り込むなんて……」

 継母はそこで言葉を切った。つまり、彼女自身も見たことがないのだ。父が娘に気圧されたような沈黙を。

 リリアーナは静かに言う。

「お母様。わたくしは本気です」
「……」
「婚約解消を願っています」
「許されると思っているの」
「許されるかどうかではありません。必要だから申し上げています」
「必要?」
「ええ。家のためにも」

 継母が一歩退いた。

 本当に、ほんの半歩ほどだった。だがリリアーナは見逃さなかった。恐れたのだ。この娘はもう、感情で説得できる相手ではないと。

 それが分かった瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちる。勝った、とは思わない。ただ、もう戻れないと理解した。以前のように、従順で都合のいい娘には。

「お姉様……」

 少し離れた場所で、マリアンヌも青ざめていた。大きな瞳が不安げに揺れている。彼女に向ける言葉はまだ見つからない。今はもう、誰かを安心させる余裕はなかった。

 リリアーナは二人へ軽く一礼した。

「少し休みます」

 誰も止めなかった。

 それもまた、初めてのことだった。

 自室へ戻る。扉が閉まった瞬間、エマが駆け寄ってくる。

「お嬢様」
「大丈夫」
「……いいえ、大丈夫ではないお顔です」
「でも、終わったわ」
「どうでしたか」
「父は、私を叱れなかった」

 その事実を口にすると、自分で少し驚いた。そうだ。あの父が、最後まで怒りだけでは押し切れなかったのだ。

 エマが目を見開く。

「それは……」
「初めて、この家が私を少し怖いと思ったの」
「お嬢様」
「変ね。嬉しくはないのに、少しだけ、息がしやすいわ」

 窓辺まで歩き、カーテンを少しだけ開く。外はもう朝の青さを抜け、白い日差しが庭へ落ちている。枝先の芽はまだ小さい。けれど昨日よりも、ほんの少しだけ色づいて見えた。

 怖かった。今も怖い。もし父が強引に婚約を進めると言えば、まだ自分の力では止めきれないかもしれない。それでも今日のやり取りで、少なくとも一つ分かった。

 この家には、揺らぐ場所がある。

 父は絶対ではない。
 継母は余裕を失う。
 家の空気は変わる。
 そして自分は、黙って差し出されるだけの娘ではなくなれる。

 リリアーナは深く息を吸った。春先の光と、部屋に残るラベンダーの香りが胸へ入る。

「次は向こうね」

 ぽつりと呟くと、エマが小さく頷いた。

「はい」
「侯爵家にも、きちんと申し出なければ」
「お一人で?」
「……できれば、一人ではないほうがいいわね」

 アデル叔母から返事が来る前に動くべきか、それとも待つべきか。考えることはまだ山ほどある。けれどもう、ただ怯えているだけの時間ではない。

 机へ向かい、今日の出来事を書き留める。

 父へ婚約解消を正式に願い出る。
 資金繰り、商会、担保、利権の話をする。
 父、完全には否定できず。
 継母、動揺。
 家の空気、私を恐れ始める。

 最後の一文を書いた時、ペン先がわずかに紙を掠った。

 恐れ始める。

 それは本来、娘が家族に向けられてよい感情ではないのかもしれない。だが、この家ではずっと逆だった。娘のほうが、親の顔色と怒声を恐れ、婚姻を恐れ、見捨てられることを恐れてきた。ならば一度くらい、恐れる側が入れ替わってもいい。

 前世で何も言えなかった私が、ようやく最初の一歩を踏み出したのだから。

 リリアーナはペンを置き、窓の外を見た。

 空はまだ白い。けれど、その白さの奥に、確かに春へ向かう明るさが混じっていた。


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