もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

なつめ

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第5話 失うはずのなかった駒


 婚約破棄の噂は、三日で屋敷じゅうを巡った。

 誰かが意図して流したのか、ただ使用人たちの囁きが勝手に膨らんだだけなのか、リリアーナには判別がつかなかった。だが少なくとも、父が書斎で娘と長く話し込んだこと、継母が珍しく昼の茶会を断ったこと、マリアンヌが食堂で妙におとなしかったこと、その三つが揃えば、伯爵家の中で何かが起きたのだと察するには十分だったのだろう。

 朝、廊下を歩けば会釈の角度がほんの少し深くなる。
 昼、食堂で水差しを持つ手がわずかに慎重になる。
 夜、扉の向こうで足音が止まっている気配がする。

 露骨な変化ではない。だが、確かにあった。

 人は、自分が「ただ従うもの」だと思っていた相手が牙を持っていると知った瞬間、見方を変える。

 それを、リリアーナは今、肌で感じていた。

 重たい曇り空の午後だった。窓ガラスの向こうで、庭木の枝が低い風に揺れている。春は近いはずなのに、空気はまだ冬を忘れきれない。エマが淹れてくれた紅茶も、少し置けばすぐに表面の熱を失った。

 机の上には、これまで書き留めた紙が並んでいる。

 ヴァレンティア侯爵邸訪問の記録。
 父とのやり取り。
 レーヴェン商会。
 穀倉担保。
 侯爵家に嫁いだあとの実家からの便宜要求。
 義母の言葉。
 社交界の嘲笑。

 前世では、どれもその都度胸を傷つけるだけの出来事だった。だが今は違う。全部が未来を変えるための材料になる。紙の上へ並べられた文字は冷たい。けれど、その冷たさがかえって彼女の気持ちを保たせていた。悲鳴のような感情は、文字にしてしまえば輪郭を持つ。輪郭を持てば、対処ができる。

「お嬢様」

 エマが小さく呼んだ。

「アデル様からの返書は、まだ本日は」
「分かっているわ。そんなにすぐ来るはずないもの」
「……はい」

 そう言いながらも、二人とも少しだけ落胆していた。

 叔母からの返事が欲しかった。話を聞いてもらえる相手、自分の考えを“気まぐれ”ではなく“意思”として受け止めてくれる相手、その存在が今は何より欲しい。だが手紙は距離を飛び越えてすぐ戻ってくるものではない。

 それまでの間に、伯爵家のほうが何かを仕掛けてくる可能性は十分にある。

 父は婚約解消を即答しなかった。
 だが、前のように頭ごなしに否定もしなかった。
 あの沈黙は、怒りではなく計算だった。

 つまり今、父は考えている。娘を押し切るか、言葉をなだめて丸め込むか、それとも侯爵家側の反応を見てから決めるか。いずれにせよ、自分にとって有利な形を探しているはずだった。

 その時、階下で何か大きな音がした。

 がたん、と。扉か、家具か。普段なら屋敷の中では聞かない種類の、少し乱暴な音。

 リリアーナとエマが同時に顔を上げる。

 間を置かず、廊下を急ぐ足音が近づいてきた。女中ではない。靴音が重い。男性の、それも慌てた執事か下男の足取りだ。ノックはやや乱れ、すぐに控えめな声が続く。

「お嬢様、失礼いたします」
「どうぞ」

 入ってきたのは、家令補佐の中年の男だった。普段はもっと整然とした物腰の人物だが、今は呼吸がわずかに乱れ、顔色まで変わっている。

「どうなさったの」
「ヴァレンティア侯爵様が、お見えでございます」

 一瞬、部屋の空気が音を失った。

 窓の外の風の音すら、遠のいたような気がした。

「……誰が?」
「ヴァレンティア侯爵、セドリック・ヴァレンティア侯爵様が、ただいま玄関に」
「侯爵様ご本人が?」

 エマが思わず声を上げる。男は強く頷いた。

「はい。事前の使いもなく、急ぎでとのことです」

 リリアーナの指先から、熱が引いていく。

 来た。

 前世なら来なかった人が、また、自ら。

 婚約前の伯爵家へ。しかも事前の打診もなく、急ぎで。

 その意味を考えた瞬間、胸の奥で何かが冷たく固まった。婚約破棄の噂を聞きつけたのだ。早すぎるほど早く。父が外へ漏らしたのか、継母か、あるいは屋敷の使用人たちの口から回ったのかは分からない。だが噂は、侯爵家へ届いた。そしてセドリックは、わざわざ自ら足を運んだ。

 前世なら、止めることすらしなかった男が。

「旦那様が、応接間へと」
「……ええ。すぐ行きます」

 家令補佐が一礼して下がる。扉が閉まると同時に、エマが振り返った。

「お嬢様」
「分かってる」
「どうなさいますか」
「行くしかないでしょう」

 声は思ったより冷静だった。だが胸の中は荒れていた。鼓動が速い。喉が乾く。あの人が自ら来た。その事実が、理性の整えた線をまた乱そうとする。

 どうして来たの。

 何をしに。

 止めに?
 確かめに?
 あるいは、ただ侯爵家の外聞のために?

 前世なら、婚約相手が何を考えようと、何を怖がろうと、彼は動かなかった。そういう人だった。だからこそ最後の涙が異物だったのに、今世では異物のほうが先に現れる。

「お嬢様、顔色が」
「いいの。鏡を」

 差し出された鏡の中の自分は、確かに青白かった。だが逃げたい色ではない。戦いの前の色だ、と無理やり思うことにする。

 髪を手早く整える。襟元を直す。袖口の皺を払う。装いを整えるたび、少しずつ呼吸が戻ってくる。これは恋人との面会ではない。婚約解消を願い出た女と、その噂を聞きつけて現れた男の対峙だ。そこを間違えてはならない。

「エマ」
「はい」
「一緒に来なくていいわ。廊下で待っていて」
「ですが」
「大丈夫。……たぶん、父も母もいるもの」

 それは安心材料にはならないはずなのに、口にすると少しだけ現実味が出る。少なくとも二人きりではない。そう思いたかった。

 けれど、階下へ向かう途中で、その期待は別の形で裏切られた。

 応接間へ近づくにつれ、屋敷の空気が妙に張っているのが分かったのだ。使用人たちは気配を消すように壁際へ下がり、皆一様に落ち着かない目をしている。侯爵家当主が突然来訪した、それだけでも十分な衝撃なのだろう。だがそれだけではない。誰もが知っているのだ。この数日、伯爵家の中で婚約解消の気配が燻っていたことを。だからこそ、今この来訪が何を意味するかを、漠然とでも感じ取っている。

 応接間の前で一度立ち止まる。

 扉の向こうからは、会話らしい会話は聞こえなかった。ただ、時折父の低い声と、継母の取り繕ったような柔らかい声音が断片的に漏れる。セドリックの声は、聞こえない。沈黙しているのか、あるいは短くしか答えていないのか。

 ノックをしようとした時、ちょうど内側から扉が開いた。出てきたのはマリアンヌだった。頬が少し赤く、目は落ち着かない。

「お姉様……」
「どうしたの」
「お父様が、あなたを」

 そこで妹は言葉を切り、唇を噛んだ。怯えている。侯爵家の圧にではなく、この場に流れる大人たちの緊張に。

「呼ばれたのね」
「ええ」
「なら入るわ」

 マリアンヌは道を開けた。何か言いたそうだったが、結局何も言わない。あるいは言えないのだ。婚約破棄を口にした姉が、今や家の中でただの姉ではなく、場の均衡を崩す存在になってしまったと、薄々気づいているのかもしれない。

 リリアーナは一度だけ息を整え、応接間へ入った。

     *

 室内は、静かすぎるほど静かだった。

 暖炉の火は入っている。薪の弾ける小さな音もする。香りのよい紅茶も運ばれていて、卓上には菓子皿まで整えられていた。見た目だけなら、急な来客を完璧に迎え入れた伯爵家の応接そのものだ。

 けれど、その整い方の上に乗っている空気は、まるで薄い氷の板のようだった。

 父はソファの端に座り、表情を無理やり平静へ留めている。継母はその隣で笑みを貼りつけているが、指先が膝の上でわずかに強張っていた。対面の一人掛けには、セドリックがいた。

 黒の礼装のまま、背筋を一分の狂いもなく伸ばして。

 こちらを見た瞬間、彼の顔は動かなかった。少なくとも表面上は。けれど、その瞳だけが、あまりにも静かに、そして深く揺れた。探していたものをようやく見つけた人間のように。安堵しかけて、それを即座に押し殺したように。

 また、その目だ。

 痛みを飲み込んだ目。

 リリアーナの胸に、鋭い苛立ちが走る。

 やめて。
 そんなふうに見ないで。
 私はその眼差しを知らないし、知るつもりもない。

「リリアーナ、こちらへ」

 父が低く言った。命令の形だが、普段の絶対性は薄い。セドリックがいるからではない。この場では自分の一言一言がどう響くか、父自身にも読み切れないのだろう。

 リリアーナは父の隣には座らず、少し離れた単独の椅子を選んだ。それだけで、継母の眉がぴくりと動いた。婚約者との話し合いの場で、家族の庇護の中へ収まらない。その小さな距離の取り方すら、今は意味を持つ。

「急なお呼び立て、申し訳ございません、侯爵様」

 まずそう言うと、セドリックは短く首を振った。

「呼び立てたのはこちらだ。急に来た」

 低く、抑えた声。

 前世なら、こういう場で彼はもっと事務的だった。“忙しい中時間を取らせてすまない”の一言で済ませるか、あるいはそれすら言わない。けれど今の声には、わずかながら本当に申し訳なく思っている響きがあった。

 それを感じ取ってしまう自分が嫌だった。

 父が咳払いをした。

「侯爵様は、少々気になる噂を耳にされたそうだ」
「噂」

 リリアーナが繰り返すと、継母がすぐに柔らかく笑う。

「困ったものよね。屋敷の中のことが、どこでどう膨らむのか」
「膨らんだ、ですか」
「ええ。あなたも軽率なことを言ったから誤解されたのよ」

 軽率。

 その言葉に返しかけた時、セドリックが静かに口を開いた。

「誤解ではないのではないか」

 室内の空気が、微かに軋む。

 父が表情を引き締める。継母の笑顔がわずかに硬くなる。

「侯爵様」
「私は噂を確認しに来た」

 彼の視線はリリアーナから動かない。

「君が婚約解消を望んでいると聞いた」

 その問いはまっすぐだった。回りくどくない。言い逃れを許さない代わりに、取り繕いもさせない声音。

 前世では、彼は一度もこうして真正面から確認しなかった。結婚後の自分がどれほど無理をしていても、どれほど心を削っていても、真正面から「どうした」と問われた記憶はほとんどない。だからこそ今の問いは、救いではなく、むしろ警戒心を掻き立てた。

 どうして今さら、そんなふうに聞くの。

 聞く資格があるような顔をしないで。

「……はい」

 リリアーナは、はっきりと答えた。

「わたくしは婚約解消を望んでおります」
「リリアーナ!」
「お父様」

 父の制止を、彼女は静かに遮った。

「侯爵様ご本人がお確かめになっているのですから、曖昧にお答えするほうが失礼でしょう」
「しかし」
「よろしいのです」

 その一言は父へではなく、セドリックへ向けて言った。あなたが知りたいなら、聞かせる。だがその代わり、聞いたものを誤魔化すな。そういう意味を込めて。

 セドリックは黙ったまま彼女を見つめている。あまりにも静かで、その沈黙が逆に重い。

「理由を聞いてもいいか」

 その問いに、継母がすぐさま口を挟もうとした。

「侯爵様、若い娘の一時の不安で」
「本人に聞いている」

 低い声が、継母の言葉を切った。

 怒鳴りもしない、顔色も変えない。ただそれだけで、相手の言葉を床へ落とすような声音だった。継母は唇を閉じたが、その表情はこわばったままだった。

 リリアーナは、膝の上で手袋越しに指を組んだ。白い革の下で指先が少し冷たい。けれど声は震えなかった。

「理由は一つではありません」
「聞こう」
「わたくしは、この婚約が双方の家にとって最善とは思えません」
「双方の家」

 セドリックがその言葉を繰り返す。響きに、かすかな違和感が混じった。彼が聞きたいのはそこではないのだと分かる。だがリリアーナはあえてそこから外さなかった。

「はい。伯爵家は侯爵家との縁に多くを期待しすぎています。婚姻後、その期待は必ずわたくしを通して侯爵家へ向けられます」
「……」
「一方で、侯爵家にとってはそれが煩わしい負担になるでしょう」
「それは誰の判断だ」
「わたくしの判断です」

 セドリックの視線が少しだけ沈んだ。

 その反応の意味を考えたくなかった。だからリリアーナは続ける。

「加えて、侯爵夫人との相性にも不安がございます」
「リリアーナ!」

 今度は継母が悲鳴のように名を呼んだ。だがもう止まらない。止まるつもりもない。

「昨日の訪問で十分に理解しました。わたくしはあの屋敷に歓迎されてはおりません」
「そんなことは」
「お母様。わたくしは自分が見聞きしたことを申し上げています」

 継母の顔が強張る。父も苦い顔をした。だがセドリックだけは動かなかった。ただ、静かに彼女の言葉を受け止めている。

「……それだけか」

 しばしの沈黙のあと、彼が言った。

 それだけか。

 その問いに、胸の奥がざらりと逆立つ。

 それだけでは足りない、とでも?
 もっと本当のことを言えと?
 あなた自身のことを言えと?

 だが、そこへ踏み込むのは危険だった。彼が前世と違うのは分かる。けれど、その違いの意味を知るのはまだ怖い。知ってしまえば、また心が揺れる。だから論理だけで押し切るつもりでいたのに、彼はその外側を見ようとしてくる。

「十分ではございませんか」

 リリアーナは冷たく返した。

「婚約解消を願う理由としては」
「私は、君の言葉を聞いている」
「申し上げています」
「違う」

 その一音だけが、ひどく静かに、そして深く落ちた。

 父も継母も息を詰める。セドリックはいつも通りの顔だ。けれど瞳の底だけが、押し殺した熱で暗い。

「家の話ではなく、君自身の理由を聞いている」
「……」
「君が何を嫌がっているのかを」

 胸が、強く打った。

 やめて。

 それを聞かないで。
 聞かれたら、前世の十年が喉元までせり上がってしまう。

 でも、逃げるのも違う。

 彼は今、侯爵家の体裁ではなく、自分の意思を問うている。前世で一度も真正面から与えられなかった問いを、今さら。今さら、こんなところで。

 腹が立つ。
 ひどく、腹が立つ。

 リリアーナはゆっくり顔を上げた。翡翠の瞳をまっすぐに向ける。セドリックの蒼灰色の目は逃げなかった。だからこそ、彼女も逃げなかった。

「……愛のない結婚は結構です」

 言葉にした瞬間、応接間の空気が完全に止まった。

 暖炉の火が、小さくはぜる。
 遠くで風が窓を撫でる。
 それだけがやけに大きく聞こえる。

 父が何か言おうとして、結局言葉にならなかった。継母の唇が半開きのまま固まる。マリアンヌが扉の近くで息を呑んだ気配がする。使用人たちは気配を消しているはずなのに、その全員が一斉に耳を澄ませたのが分かるほどだった。

 言ってしまった。

 だが後悔はなかった。

 これが、一番真ん中にある理由だったからだ。

 家がどうとか、利権がどうとか、相性がどうとか、それらは全部本当だ。けれど一番深いところにあるのは、もっと単純で、もっと切実なことだった。

 私はもう、愛されない結婚の中で生きていきたくない。

 十年、一人で目を覚ました。
 一人で身支度を整えた。
 一人で食卓につき、一人で熱を下げ、一人で社交界の嘲笑に耐えた。
 豪奢な寝室も、整った屋敷も、義務としての敬意も、何も自分を救わなかった。

 その全部が、今この短い一言の裏に詰まっている。

 セドリックの顔は、表面上ほとんど変わらなかった。

 だが彼の指先だけが、膝の上で一度だけ強く閉じた。黒手袋の革がきしむかすかな音が、リリアーナには聞こえた気がした。喉仏が上下し、視線がほんの一瞬だけ落ちる。初めてだ。彼の沈黙が、沈黙としてではなく、“衝撃を受けた人間の反応”に見えたのは。

「……愛がないと、君はそう思っているのか」

 低い。掠れてすらいない。けれど、完璧に整えた声音の下で、何かがきしんでいるのが分かる。

 リリアーナはそこで笑いそうになった。もちろん楽しくてではない。あまりに遅すぎる問いに、泣きたくなる代わりに笑いが込み上げたのだ。

「思っている、ではなく、そう見えるのでしょう」
「……」
「婚約前の今でさえ、このような有様ですもの。婚姻後に変わると期待するほど、わたくしは愚かではありません」

 前世の私は愚かだったけれど、と心の中で続ける。

 セドリックの視線が、今度ははっきりと痛みを帯びた。その目を見た瞬間、胸の奥の古い傷がずきりと疼く。こんな目をする男ではなかったくせに。何も伝えず、何も示さず、自分だけが耐えればいいと思っていた男のくせに。どうして今さらそんな顔を。

 だからこそ、もっと冷たく言わなければならない。

「侯爵様」

 リリアーナは声を整えた。

「わたくしは、名ばかりの婚約や義務の上にある結婚を望んでおりません」
「……」
「必要な敬意だけを与えられ、心は不要とされる暮らしなら、最初から要りません」
「リリアーナ!」

 ついに父が強く名を呼んだ。だがもう遅い。言葉は出てしまったし、引っ込めるつもりもない。

「お父様、侯爵様ご本人の前です」
「だからこそだ! 何という言い草を」
「本音でございます」
「本音であれば何を言ってもいいわけではない!」
「ならば嘘を申し上げればよろしいのですか」

 その返しに、父が言葉を失う。

 継母が慌てて取り繕おうと身を乗り出した。

「侯爵様、どうかお気を悪くなさらないでくださいませ。この子は少し神経が過敏になっているだけで」
「過敏ではありません」

 今度はセドリックが継母を遮った。

 静かだが、一切の余地がない声だった。継母がぴたりと黙る。

「彼女は、はっきり言っている」
「ですが」
「聞こえている」

 その短い応酬だけで、室内の主導権が完全に彼へ移った。

 父ですら、すぐには口を挟めない。侯爵家当主という格の差もある。だがそれ以上に、今のセドリックの静けさには、人の言葉を封じる何かがあった。

 彼は再びリリアーナを見た。

「君がそう望むなら、理由を無視して進める気はない」
「侯爵様」

 父の声音に焦りが混じる。そりゃそうだろう。ここで本人が引けば、この縁談は崩れるかもしれない。

「娘の未熟な感情でご判断なさらず」
「未熟かどうかは私が決める」

 セドリックは父を見ずに言った。

「……少なくとも、軽い言葉ではない」
「しかし」
「伯爵」

 そこで初めて、彼はゆっくりと父へ視線を向けた。

 その目の冷たさに、リリアーナですら息を止めた。

「彼女が婚約を望まないと口にした以上、理由を聞くのは当然だ」
「それは」
「貴家の都合より先に」

 低く、しかし寸分も揺らがない声音だった。

 父の顔色が変わる。怒りではなく、押し返される側の色だ。継母は扇も持っていないのに、扇を握りしめているような手つきで膝の上のドレスを掴んでいた。

 リリアーナはその光景を、どこか遠い気分で見ていた。

 止めるために来たのだ、この人は。

 少なくとも、放ってはおけなかったのだ。

 前世なら止めることすらしなかった男が。
 父の都合より先に、こちらの意思を問うている。

 その事実は、嬉しくなどなかった。ただただ、気味が悪く、危険で、そして少しだけ胸を乱した。

「……理由はもう申し上げました」

 リリアーナは自分の声を聞いた。ちゃんと冷たい。震えてはいない。

「愛のない結婚は結構です」
「それは、誰に向けた言葉だ」

 まただ。

 また、そこを聞く。

 家でもなく、形式でもなく、そのもっと内側を。彼自身のことを。

 どうしてそこまで踏み込んでくるの。前世で一度も踏み込んでこなかったくせに。

 腹の底がじりじりと熱くなる。怒りだ。混乱の中にある、はっきりした怒り。

「侯爵様ご自身に、と受け取ってくださって結構です」
「……」
「少なくともわたくしには、そう見えておりますので」

 セドリックが言葉を失う。

 それは本当に短い一瞬だった。だがリリアーナは見た。彼の瞳に走った、痛みとも後悔ともつかない揺れを。まるで、自分が一番触れられたくない場所を、こちらが何も知らずに抉ったかのような顔。

 でも知らない。

 知るはずがない。

 知ろうとも思わない。

 あなたが今どんな顔をしていようと、前世の私は独りだったのだから。

「……そうか」

 ようやく落ちた声は、普段よりほんの少しだけ低かった。沈んでいるのに崩れない。崩したくても崩せない人間の声だった。

「分かった」
「侯爵様!?」

 父が立ち上がりかける。セドリックは片手でそれを制した。

「今、この場で結論を出すつもりはない」
「ですが」
「ただ、彼女の意思は確認した」
「婚約は」
「私から後日、改めて話をする」

 それが誰に向けられた言葉なのか、微妙だった。伯爵家に、という意味でもあり、リリアーナへ、という含みもある。曖昧であることがむしろ不安を煽る。

 セドリックは立ち上がった。黒い衣の裾がわずかに揺れる。その動作一つで応接間の空気がまた変わる。終わりに向かう気配だ。なのに、何一つ終わっていない。

「本日は失礼する」

 父と継母が慌てて立つ。礼を整えようとするその動きは、内心の狼狽を隠しきれていなかった。

 リリアーナも立ち上がった。礼をしようとした、その瞬間。

「リリアーナ」

 名を呼ばれて顔を上げる。

 セドリックは数歩先で足を止めていた。表情はいつものように整っている。だが、その瞳だけが違う。玄関先でも、侯爵家の応接間でも見た、あの痛みを呑み込んだような目。それが今は、もっと濃く、もっと静かに沈んでいる。

「君の言葉は聞いた」

 低い声だった。

「だが、私はまだ終わらせるつもりはない」

 胸が強く打つ。

 何それ、と言い返したくなる。

 終わらせるつもりはない?
 誰のために?
 どうして?
 前世では、始まる時ですら手を伸ばさなかったくせに。

 けれどそのどれも口にはならなかった。ただ、冷えた怒りだけが形を持つ。

「それは、侯爵様のご自由ではございません」
「そうだな」

 意外なほどあっさりと彼は言った。

「だから、君にも自由に言ってもらう」

 その答えが、また意味を持ちすぎていて嫌だった。まるで今まで奪っていたものを返そうとするような言い方。そんなもの、今さら差し出されたって困るだけなのに。

 セドリックはそれ以上何も言わず、踵を返した。父と継母が慌てて見送りに続く。扉の向こうで足音が遠ざかっていく。応接間に残されたのは、火の音と、ひどく張り詰めた沈黙だけだった。

     *

 扉が閉まってからもしばらく、リリアーナは動けなかった。

 立ったまま、ただ暖炉の火を見つめる。橙の火は小さく揺れているのに、部屋の中は少しも温まった気がしない。むしろ、彼がいた時よりも冷えているようだった。

 エマがそっと入ってきて、遠慮がちに声をかける。

「お嬢様」
「……大丈夫」

 そう言ったものの、自分でも大丈夫ではないと分かっていた。膝の裏が薄く震えている。喉は乾いているのに、何も飲み込みたくない。

 愛のない結婚は結構です。

 あの言葉を自分で口にした感触が、まだ唇の内側に残っている。すっきりしたはずなのに、胸の奥は逆にざわついていた。なぜなら、その言葉を受けたセドリックの顔が、思っていたよりもずっと――傷ついた人間の顔に見えてしまったからだ。

 違う。

 そうではない、と頭の中で何度も言う。

 あれは傷ついた顔ではない。
 ただ予想外だっただけ。
 あるいは侯爵家当主としての外聞に関わる話だから、不愉快だっただけ。

 そう思わなければならない。でなければ、自分の言葉で彼を傷つけたみたいではないか。そしてそんなふうに考え始めたら、前世の自分が受けた傷まで曖昧になる。

「お水をお持ちします」
「……ええ」

 エマがグラスを差し出す。冷たい水が喉を通り、ようやく呼吸が少し戻る。

「侯爵様……お怒りでは、なかったように見えました」
「怒る人ではないわ」
「ですが」
「それが一番、分からないのよ」

 ぽつりと零すと、エマは黙った。

 そう、一番分からないのだ。怒ってくれたほうがどれほど楽か。拒絶されたほうがどれほど整理しやすいか。なのに彼は、怒らず、責めず、こちらの言葉を聞いた。そのうえで終わらせるつもりはないと言った。

 まるで、失うはずのなかったものを取り戻そうとする人間みたいに。

 その比喩が浮かんだ瞬間、リリアーナはぎゅっと目を閉じた。いやだ。そんなふうに意味づけたくない。彼が自分を“失うはずのなかった駒”のように見ているのだとしたら、それはそれで腹立たしい。愛ではなく、喪失でもなく、ただ手元から零れるものを惜しんでいるだけかもしれないのだから。

 駒でも、妻でも、名ばかりの婚約者でも、もういらない。

 私は、そういう扱いを受けるために戻ってきたんじゃない。

 リリアーナはゆっくり目を開けた。

「エマ」
「はい」
「今日のことも全部書き留めるわ」
「はい」
「一言一句、忘れたくないもの」
「……侯爵様のお言葉も?」
「ええ」

 机へ向かう。椅子に腰を下ろすと、まだ手に少し力が入らない。けれどペンを持つ。インクを含ませ、紙へ向ける。

 侯爵、婚約破棄の噂を聞き、伯爵家へ自ら来訪。
 前世なら止めることすらしなかった男が、確認に来る。
 本人から理由を問われる。
 「愛のない結婚は結構です」と明言。
 侯爵、怒らず。終わらせるつもりはないと発言。

 そこまで書いて、ペン先が止まる。

 終わらせるつもりはない。

 その言葉の意味を考えないようにするほど、逆に言葉が重く沈む。なぜ終わらせたくないのか。侯爵家の体面のためか、自分の都合のためか、それとももっと別の理由か。

 知りたくない。

 でも、きっとこのままでは済まない。

 今日、はっきり分かった。
 この婚約は、もう家の思惑だけで進む話ではなくなっている。
 セドリック本人が、前世ではあり得なかったほど深く関わり始めている。

 それが何より危険だった。

 リリアーナは最後に一行付け足した。

 侯爵の違和感、増大。心を開かないこと。

 その文字を見つめながら、彼女は静かに息を吐く。

 窓の外では、曇り空の下で枝が揺れていた。まだ春には遠い風が、ガラスの向こうで乾いた音を立てる。

 その音を聞きながら、リリアーナは胸の奥で改めて誓った。

 たとえあの人が追ってきても。
 たとえ前世と違う目でこちらを見ても。
 たとえ婚約破棄の噂一つで自ら足を運ぶほど、今世の彼が何かを失いたくないと思っていたとしても。

 私は、あの沈黙の中へ戻らない。

 そう思うのに、最後に瞼の裏へ残ったのは、怒りでも呆れでもなく、こちらの「愛のない結婚は結構です」を真正面から受けた時の、セドリックのあまりにも静かな顔だった。


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