もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

なつめ

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第14話 地方行きの打診


 その朝は、珍しく目覚めが浅くなかった。

 ぐっすり眠れたわけではない。夜の途中で二度ほど目を覚ましたし、明け方には雨戸の向こうを渡る風の音で意識が浮いた。それでも、ここ数日にしてはましだった。寝台の上で身体を起こした時、胸の奥にいつも薄く張りついていた息苦しさが、少しだけ弱い。前夜の夜会での眩暈はまだ記憶に新しいし、セドリックの腕の強さや、耳のすぐそばへ落ちてきた低い声も、思い出そうとすればたやすく蘇る。それでも今朝の空気には、別の種類の静けさがあった。

 曇りがちな空が続いていたが、今日は雲の切れ間から淡い光が差していた。厚手のカーテンの隙間から落ちるその光は、冬の名残を含みながらも、もう完全に冬の色ではない。まだ弱く頼りないが、確かに春へ向かっている光だ。窓の外では、昨夜の風で揺られたらしい若い枝が細く震え、その枝先にごく小さな芽が見えた。

 寝台の端へ足を下ろすと、足裏に触れる床板はまだ冷たかった。だが、その冷たさすら、今はひどく現実的で悪くなかった。自分の身体がここにあると分かる程度にはっきりしている。心の中がぐらぐらと揺れている時ほど、人はこういう小さな感覚にしがみつきたくなるのかもしれない、とリリアーナはぼんやり思った。

「お嬢様」

 ノックのあと、エマが入ってきた。いつも通り、洗面用の湯と、朝一番の薄いお茶、それに小さな封書を載せた銀盆を手にしている。だが、その封書を見た瞬間、リリアーナの胸がどくりと鳴った。

 白い封筒に、控えめな紋章。母方の家の、小さな印。

「アデル叔母様から?」
「はい。今朝一番の便で」

 声が自然と低くなる。まだ完全に目覚めたわけでもない身体の中で、そこだけが急に熱を持った。

「早かったわね」
「急ぎで返してくださったようです」

 エマが盆を机へ置く。リリアーナは寝衣のまま立ち上がり、ほとんど無意識に封を取った。指先が少しだけ震える。封蝋は簡素だが丁寧に押されていて、紙にはかすかに乾いた薬草の匂いが移っていた。気のせいではないだろう。アデル叔母の手紙は時々、乾燥させた葉の匂いをわずかにまとっていた。庭で書くのか、温室のそばで封をするのか。前世から変わらないその癖が、今は胸の奥にひどくやさしく沁みた。

 便箋を開く。

 整った文字が、前の手紙よりも少しだけ急いだ筆致で並んでいる。

 リリアーナ。
 前の返事だけでは足りないと思い、詳しく書きます。
 こちらへ来るつもりが本当にあるのなら、部屋はすぐ整えられます。
 静養名目でも、薬草の手伝いでも構いません。
 長く居るつもりなら、そのための暮らし方を一緒に考えましょう。
 もし本気なら、王都を出る日取りだけでも早めに知らせなさい。
 こちらから迎えを出します。
 無理に笑って来る必要はありません。
 疲れているなら、疲れた顔のままでいらっしゃい。

 最後の一文で、胸の奥が小さく痛んだ。

 疲れた顔のままでいらっしゃい。

 そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。いや、もしかしたら初めてかもしれない。いつも自分は、整えた顔でいなければならなかった。笑って、姿勢を正して、令嬢として、婚約者として、未来の侯爵夫人として、どの場でも「大丈夫そうに」見えなければならなかった。

 疲れたままで来ていい。
 そう言われるだけで、喉の奥が熱くなる。

「お嬢様」

 エマがそっと呼んだ。たぶん、今の自分が泣きそうな顔をしているのだろう。

「……来ていい、って」
「はい」
「部屋もあるって」
「はい」
「迎えも出してくださるって」

 言葉にするほど、それが現実になる。

 夢ではない。
 ただの慰めでもない。
 具体的な話だ。

 部屋。
 迎え。
 日取り。
 暮らし方。

 そこにあるのは、あまりにも現実的な単語ばかりで、だからこそ、逆に眩しかった。これまでの自分の未来は、誰かの都合によってあらかじめ決められた言葉ばかりだった。婚約。嫁入り。侯爵夫人。社交。義務。体面。けれど今、目の前にある手紙の中には、自分で選ぶ前提の言葉が並んでいる。

「エマ」
「はい」
「私、行けるかもしれない」
「はい」
「本当に、王都を離れられるかもしれない」

 口にした瞬間、嬉しいというより、まず怖かった。現実味を帯びたからだ。空想なら、壊れてもまだ痛みは少ない。だが、こうして具体的になってしまうと、期待も、失う可能性も一気に重くなる。

 それでも、その怖さは息ができない種類のものではなかった。知らない場所へ足を踏み出す前の、震えに近い。

「お支度、なさいますか」
「ええ」

 リリアーナは深く息を吸った。紙から立つ乾いた薬草の匂いが、わずかに肺へ入る。

「もう、本格的に」

     *

 朝食の席で、父は最初、手紙の話をまともに受け取らなかった。

 いつものように新聞を開き、継母は紅茶へミルクを落とし、マリアンヌはまだ少し眠たそうな顔で果物にフォークを入れている。食卓の空気は見かけ上だけ穏やかで、だがこの家では、穏やかさがそのまま平穏を意味しないことを、リリアーナはもう知っている。

「母方の叔母のもとへ、ですって?」

 継母が笑った。カップの縁へ口を寄せたまま、いかにも軽い話のように。

「少し気分転換に、という程度ならよろしいかもしれませんね」
「いいえ」

 リリアーナは、はっきりと言った。

「気分転換ではなく、静養と手伝いを兼ねて、しばらく身を寄せたいのです」
「しばらく?」
「はい。短い滞在では意味がありませんので」
「意味がない、とは」
「王都を離れ、心身を整えたいのです」

 父の新聞が下がる。
 その目は不機嫌というより、面倒な話がまた増えたときの顔だった。

「婚約の件はまだ何も決まっていない」
「ええ」
「ならば静養も何もあるまい。お前は今、家にいればいい」
「家にいても整いません」

 そう返すと、父の眉がきつく寄った。

「何だと」
「この家にいる限り、私は“次にどう扱われるか”を考え続けるでしょう」
「リリアーナ」
「お父様、前に申し上げた通りです。この婚約がどうなるにせよ、今のまま王都にいては、わたくしはただ噂の中心に立たされるだけです」

 継母が口元を歪めた。

「噂くらいで、どれだけ大げさなの」
「大げさではありません」
「では何。侯爵様から花が届き、贈り物までいただいておきながら、傷ついていますとでも?」
「はい」

 あまりにもあっさり答えたものだから、継母が一瞬言葉を失った。
 リリアーナはそこで、逃げるように視線を逸らさなかった。

「傷ついていますわ」
「……」
「近頃の侯爵様のお振る舞いは、外から見れば結構なことに映るのでしょう」
「ならばなおさら」
「ですが私にとっては、過去の痛みを毎回思い出させるだけです」

 父が小さく舌打ちした。
 その音は、怒鳴り声よりよほど冷たく耳に残る。

「また感情の話か」
「いいえ、現実の話です」
「何が現実だ」
「王都に残れば、私は噂に利用されます。伯爵家にも、侯爵家にも、社交界にも」
「……」
「西の丘陵へ行けば、少なくとも、伯爵家の令嬢でも侯爵家の婚約者でもない時間が持てます」
「そんなものが何になる」
「私が壊れずに済みます」

 その一言で、食卓に短い沈黙が落ちた。

 マリアンヌがそっとフォークを置く。
 継母の目が細くなる。
 父だけが、表情を変えない。だがその無表情の裏に、数日前よりもわずかに慎重さが混じっているのを、リリアーナは見逃さなかった。

「叔母は受け入れを申し出てくださっています」
「書面でか」
「はい」
「迎えも出すと?」
「ええ」
「ふん」

 父は新聞を畳み、卓上へ置いた。

「名目は」
「静養です」
「それだけでは弱い」
「薬草院の手伝いもいたします」
「貴族の娘がか」
「ええ。何か問題が?」
「問題はあるだろう。外聞が」
「療養を兼ねて親族の元で過ごす娘が、周囲の役に立つ程度の手伝いをすることに、どれほどの外聞の問題がございますか」

 継母が声を上げた。

「“働く”などと取られたら恥でしょう!」
「それは恥ですか?」
「当たり前です」
「そうでしょうか」

 リリアーナは静かに問い返した。

「ただ座って噂を待つ娘より、ずっと健全だと思いますけれど」
「……」

 継母の頬がぴくりと動く。
 父はそこで、ゆっくりと腕を組んだ。

「行かせたあと、どうするつもりだ」
「まず心身を整えます」
「その後は」
「薬草院で過ごしながら考えます」
「曖昧だな」
「曖昧で結構です。少なくとも、今ここで次の縁談へ差し出されるよりは」

 父の目が冷たく光った。

「次の縁談だと?」
「違いますか?」
「……」
「お父様が私をただ王都へ置いておくとは思っておりません」
「買いかぶるな」
「買いかぶってはおりません。私は伯爵家の娘で、今や扱いの難しい娘でもある。ならば別の形で使おうとなさるでしょう」
「リリアーナ!」

 継母が鋭く名を呼んだ。
 マリアンヌは青ざめた顔で、母と姉を交互に見ている。

 リリアーナはそこで一度だけ呼吸を整え、少しだけ声を柔らかくした。

「お父様。私は、この家に恥をかかせるために申し上げているのではありません」
「……」
「今のまま王都に置くより、一度静養へ出したほうが、噂も薄まります」
「噂が薄まる?」
「ええ。侯爵様が過剰に気を配っておいでだという噂も、婚約解消の話も、いったん距離を置けば熱は下がるでしょう」
「……」
「伯爵家にとっても悪い話ではないはずです」

 ここが肝だと分かっていた。

 父にとって大事なのは、娘の心ではない。
 外聞、計算、そして家の利だ。
 ならばそこへ合わせて話すしかない。

「西へ行く期間は限定します」
「どれくらいだ」
「まずは一月ほど」
「短いな」
「短くて結構です。必要なら延ばします」
「必要とは」
「私の心身が戻らないなら」
「……」
「逆に王都の噂が収まるなら、それでもよろしいでしょう」

 父は黙り込んだ。

 これは、前とは違う種類の沈黙だった。
 娘の言葉を最初から切り捨てるためのものではない。
 どう使えるかを測っている沈黙だ。

 そして、その沈黙はリリアーナにとって悪くなかった。
 好かれていようとは思わない。
 理解されようとも思わない。
 ただ、こちらの意思と計算を、相手が無視しきれないところまで持っていければそれでいい。

 しばらくして父は言った。

「一月」
「はい」
「名目は静養」
「はい」
「婚約そのものの結論を保留にしたまま、だ」
「……」
「承服できるか」

 それは譲歩だった。
 完全な許可ではない。
 けれど拒絶でもない。

 リリアーナは自分の鼓動が少し強くなるのを感じた。
 ここで熱を見せてはいけない。
 ようやく見えた細い道だ。落ち着いて踏まなければ。

「承服いたします」

 そう答えると、継母がはっとした顔をした。

「あなた、本当に行くつもりなの」
「ええ」
「西の田舎へ?」
「薬草院がありますから」
「そんなところで何が」
「少なくとも、王都で噂の真ん中にいるよりは、呼吸ができると思います」

 父が椅子を引いた。

「必要なものをまとめろ。ただし、みっともない真似はするな」
「はい」
「王都へ戻った時に、何もかも投げ出していたようには見せるな」
「承知しております」

 その会話で、決まった。

 完全な自由ではない。
 婚約解消もまだ保留だ。
 けれど、王都を離れるための許しは、今ここで出た。

 父が立ち去り、継母もまだ何か言いたそうな顔のまま、それでも続く言葉が見つからずに席を離れた。残されたマリアンヌは、小さな声で「本当に行くのね」と呟いた。

「ええ」
「お姉様、怖くないの」
「怖いわ」
「じゃあどうして」
「怖いままでも、ここにいるよりましだと思えるから」

 そう答えると、妹は何も言えなくなったらしい。
 それ以上問いかけてこなかった。

     *

 支度は、その日の午後から始まった。

 自室へ戻るなり、リリアーナはクローゼットの前に立った。
 並んだドレスはどれも王都向けだ。夜会、茶会、表敬訪問、令嬢らしい外出。どれもこれも「見られるため」の服であって、「暮らすため」の服ではない。

「これは持っていけないわね」
「ええ」

 エマが箱を持ち、必要なものと不要なものを分けていく。
 色の濃い実用的なドレス。
 厚手のショール。
 丈夫な手袋。
 歩きやすい靴。
 母の形見のスカーフ。
 薬草の本を二冊。
 手紙箱。
 筆記具。
 最低限の装身具。

 宝石箱の中身を見下ろし、リリアーナは少しだけ指を止めた。
 真珠や小粒の石は持って行ける。だが大ぶりの首飾りや、夜会向けのきらびやかな飾りは必要ない。

 これまでの自分が大事にしてきたものと、これから必要なものが、こんなふうに違うのだと思うと、奇妙な気分になった。

「お嬢様」

 エマが、畳んだドレスを箱へ入れながら言う。

「嬉しそうでいらっしゃいます」
「そう見える?」
「少しだけ」
「……そうかもしれないわ」

 怖さはある。
 もちろんある。
 王都を離れる。その先に待つものはまだよく分からない。
 だが、こうして現実の物を仕分けていると、自分が本当にそこへ向かえるのだと実感する。
 誰かの花嫁衣装ではなく、自分の生活のための荷を作る。
 その行為そのものが、もうひとつの人生の入口みたいだった。

 箱の底へ、薬草本を二冊入れる。
 革張りの擦れた表紙。
 ページの端には、前世の自分が小さく書き込んだ印が残っていた。侯爵邸の裏庭で見た花の時期や、喉に良い煎じ方、眠れない夜に役立つ香りの配合。そういう細かな文字だ。

 その本を持ち上げた瞬間、扉の外で足音が止まった。

 ノック。

「お嬢様」

 声は家令補佐だった。

「ヴァレンティア侯爵様が、お見えでございます」

 指先から、本が滑り落ちそうになった。

「……今?」
「はい。伯爵様はご不在ですが、急ぎではない、ただお話をと」

 エマと一瞬目が合う。

 来ると思った。
 いや、本当は来ないほうがおかしいのかもしれない。
 父が静養の許しを出した以上、その話は遅かれ早かれ侯爵家へ届く。
 そして彼は、近頃ほとんど異様なほど自分の動きに敏い。

「通しておいて」
「どちらへ」
「小応接室で」
「かしこまりました」

 家令補佐が去る。
 部屋に沈黙が落ちた。

 エマが、そっと尋ねる。

「どうなさいますか」
「会うしかないでしょう」
「お荷物は」
「そのままでいいわ」

 言ってから、自分でも少し驚いた。
 隠そうという気が起きなかったのだ。
 以前なら、旅支度を見られることに抵抗があったかもしれない。
 けれど今は違う。
 隠せばそれだけ、こちらが後ろめたいみたいではないか。

 リリアーナは箱の中身を一度だけ見下ろした。
 実用的なドレス。
 薬草本。
 母のスカーフ。
 装身具はごく少ない。
 どれも王都の華やかな夜会には似つかわしくないものばかりだ。

 それが妙に頼もしく見えた。

     *

 小応接室へ入った瞬間、セドリックの視線がこちらを捉えた。

 前にも同じことを思った。
 彼の視線は近頃、以前よりずっと鋭い。
 ただ冷たいのではない。
 何かを見逃すまいとしている目だ。
 それが時に、鋭さを越えて執拗さに近づく。

「来てくれてありがとう」

 低い声。
 いつものように落ち着いている。
 けれど目だけが違う。
 彼はまず、リリアーナの顔を見て、それからほんの一瞬だけ、その背後の扉の向こうを測るように視線を流した。

 部屋に残した旅支度の箱のことを、彼はまだ見ていない。
 でも、何かが動いていると気づいている目だった。

「何の御用ですか」
「聞いた」
「何を」
「西へ行くと」

 まっすぐだった。
 遠回しな探りではない。
 だがその直截さが、逆に喉の奥を少し硬くする。

「ええ」
「本当に行くのか」
「そのつもりです」
「いつ」
「まだ日取りは詰めていません」
「詰める気はあるんだな」
「あります」

 そこで初めて、セドリックの顔から温度が引いたように見えた。
 冷たくなったというより、内側の何かがきしんでいるのを、表面の静けさで押さえ込んだ時の顔だ。

「一月ほどだと聞いた」
「話が早いのね」
「伯爵から聞いたわけではない」
「でしょうね」

 リリアーナは視線を逸らさなかった。

「静養名目です」
「静養」
「ええ」
「薬草院の手伝いもすると」
「そのつもりです」

 質問は短い。
 そのたびに彼の視線は細くなる。
 日取り。名目。期間。手伝い。
 ひとつずつ確認している。
 ただの会話というより、逃げる先の輪郭を追っているみたいだった。

 その時、扉が少しだけ開き、エマがお茶を運んできた。
 その隙間から、廊下ではなくリリアーナの部屋の方角がわずかに見えた。
 箱の角。
 畳まれた厚手のドレスの裾。
 薬草本の革表紙。

 ほんの一瞬。
 けれどセドリックの視線は、信じられないほど速くそこへ流れた。

 そして戻る。

 ただそれだけのことなのに、リリアーナの背中へ冷たいものが走った。

 見た。
 気づいた。

 彼は今、もうはっきり理解したのだ。
 ただの思いつきではない。
 手紙だけのやり取りでもない。
 本当に、自分が行く準備をしていると。

「荷もまとめ始めているのか」

 やはり、そう来た。

 声は低い。
 静かだ。
 でも、その静けさの下にあるものは、以前よりずっと濃い。

「ええ」
「……そうか」

 それだけ。
 たったそれだけなのに、その二音の中へ何が詰まっているのか分からなくて、かえって恐ろしい。

 セドリックはカップに手もつけず、ただこちらを見ていた。
 その視線の強さに、リリアーナはようやくはっきり気づいた。

 追われている。

 頭の中で、その言葉が静かに形を持つ。

 花。
 贈り物。
 人前での過剰な気遣い。
 自分の動きを知る速さ。
 日取りや名目や期間を確認する執念。
 そして今、旅支度の箱へ向けた、あの一瞬の鋭い目。

 これはもう、ただ近くなっただけではない。
 見守るでもない。
 引き止めたいだけでもない。

 追ってきている。

 自分が王都を離れようとする、その後ろを、彼はもう追い始めている。

「どうして」

 気づけば、問いが零れていた。

「どうして、そこまで」

 セドリックは答えない。
 その沈黙が、逆に雄弁だった。

「静養よ」
「分かっている」
「私は逃げるわけじゃない」
「分かっている」
「じゃあどうして、そんな目で見るの」

 低く問うと、彼の喉が小さく動く。

「……遠くなる」
「たかが西の丘陵でしょう」
「私には遠い」

 その一言に、胸の奥がひどくざわめいた。

 甘い言葉ではない。
 でも、あまりにも正直で、だからこそ危険だった。

 私には遠い。

 それは侯爵としての都合ではない。
 責任でも義務でもない。
 もっと個人的で、もっと身勝手な響きがあった。

 リリアーナは指先を強く組んだ。
 胸が少し速く打っている。
 怖い。
 でも、今はもうその正体が少し分かる。

 あの人は、私を手の届く場所から出したくないのだ。

「……そう」

 ようやくそれだけ返す。
 セドリックの視線はまだ逸れない。
 以前なら、この近さはただ冷たく息苦しかった。
 今は違う。
 近すぎる。
 そして、追ってくる。

 その事実を、リリアーナは初めてはっきり自覚した。

 自分は逃げようとしている。
 そしてあの人は、追う側に変わっている。

 その構図を理解した瞬間、胸の奥で何かが小さく軋んだ。

 怖い。
 けれど、少しだけ、別の震えも混じる。
 それが何かを今は考えたくなかった。

「私は行きます」

 リリアーナは静かに言った。

「ええ」
「止めても無駄よ」
「止めるとは言っていない」
「でも、止めたい顔をしているわ」
「……」
「そういうところが、今のあなたは正直すぎて困るの」

 セドリックは目を伏せなかった。
 ただ、苦いものを飲み込むように一瞬だけ呼吸を落とした。

「行くなとは言わない」
「そう」
「だが」
「だが?」
「私は、追う」

 部屋の空気が、しんとした。

 お茶の香りも、窓の外の風の音も、全部が一度遠くなった気がした。

 追う。

 本人が口にしなくても、もうそう見えていた。
 でも、こんなふうに、ほとんど認めるみたいに言われると、心臓が妙な音を立てる。

 怖い。
 それでも逃げたい。
 なのに、追われていると分かった瞬間に、ただの無関心よりはずっと危険な何かが、胸の奥へ灯ってしまう。

 リリアーナは目を逸らした。

「勝手になさい」
「そうする」
「……本当に困った人」

 思わず漏れたその一言に、セドリックの目がわずかに和らぐ。
 その変化を見てしまったことにも、また少し腹が立つ。

 けれどもう、認めるしかなかった。

 自分は、追われ始めている。

 花や贈り物や噂だけではない。
 視線そのものが、もう逃がさないものへ変わっている。
 だからこそ、西へ行く意味があるのだと、逆に思えた。

 王都を離れなければ、きっとこの人の近さに呑まれる。
 離れたからといって逃げ切れる保証はない。
 それでも、一度距離を取らなければ、自分の心の境界がどこにあるのか分からなくなる。

 セドリックはその後、長居はしなかった。
 お茶にもほとんど手をつけず、ただ「出立の日が決まったら教えてくれ」とだけ言った。
 リリアーナは「どうして」と返しかけてやめた。
 理由は聞かなくても分かる気がしたからだ。

 彼はきっと、その日を知りたいのだ。
 見送りたいのか、追いかけるつもりなのか、それとも別の何かなのかまでは分からない。
 だが、自分が動く日を見失いたくないのだということだけは、もう十分すぎるほど伝わっていた。

 侯爵が去ったあと、エマが静かに部屋へ戻ってくる。
 テーブルの上のカップは、まだ少し温かい。
 だが、室内の空気は妙に薄くなった気がした。

「お嬢様」

 エマが小さく呼ぶ。

「……どうなさいました」
「分かったの」
「何がでございますか」
「私、追われているんだわ」

 口にすると、その言葉は思っていた以上に現実味を持った。

「侯爵様に」
「ええ」
「……」
「前は、ただ気味が悪いだけだった。でも今はもう違う」
「はい」
「私が行こうとする先まで、あの人の視線がついてくる」

 窓の外を見る。
 雲はまだ厚い。
 でも、どこか空気が動いている。
 季節が変わる前の、落ち着かない風だ。

 行き先はできた。
 けれど、その先へ向かう道は、思ったよりずっと静かでは済みそうにない。

 それでも行く。

 その決意だけは、さっきよりもむしろ強くなっていた。

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