もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

なつめ

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第15話 逃がさないと言わない男


 西の丘陵地へ向かうための支度は、始めてしまえば意外なほど現実的だった。

 夢のような話ではない。
 逃避でもない。
 箱を一つずつ埋めていくうちに、それはただの「移動」と「生活」の問題へ形を変えていく。

 どのドレスを持って行くか。
 薬草の本は二冊で足りるか。
 筆記具は多めにいるか。
 夜は冷えるだろうから、厚手のショールは何枚必要か。
 雨の日用の靴は新しくしたほうがいいか。

 リリアーナは自室の床へ半ば広げた箱の前にしゃがみ込み、畳んだ衣類の束をひとつ持ち上げては、また置いた。窓の外は晴れているわけではないが、昨日までのような重たい曇天ではない。薄い雲の向こうに日があるのが分かる。春の途中の、まだ心許ない明るさだ。差し込む光は淡く、箱の金具を鈍く照らしていた。

 床の上には、王都に残すものと持って行くものが分けられている。

 夜会用の華やかなドレス。
 伯爵家の令嬢として「相応しく」見えるための飾り。
 必要以上に白い手袋。
 見られるために整えられたものたち。

 それらは、今の自分にはひどく遠く見えた。

 一方で、持って行こうと決めたものは、どれも妙に手へ馴染む。動きやすい昼用のドレス、上質だが丈夫なエプロン代わりにもなりそうな上掛け、厚手の靴下、筆記具、薬草の本。必要なものを選ぶ作業は、驚くほど心を落ち着かせる。何が「役に立つか」という尺度で物を見られることが、こんなにも楽だとは思わなかった。

「こちらはどうなさいますか」

 エマが、細い革の手帳を一冊持っている。
 侯爵邸の庭で見つけた薬草の時期や、効いた煎じ方、眠れない夜に試した香りの配合などを、前世の終わり近くに書き留めていた小さな手帳だ。

 リリアーナはそれを見て少しだけ指を止めた。

「……持って行くわ」
「はい」

 手帳を受け取り、しばらく表紙を撫でる。柔らかな革は角が少し擦れていて、自分がどれだけ何度も開いたかが分かる。侯爵夫人としての生活の中で、唯一と言っていいほど、自分のために積み重ねたものだった。

 その時、廊下で慌ただしい足音が止まった。

 ノックの音が、いつもより少しだけ固い。

「お嬢様」

 家令補佐の声だった。

「ヴァレンティア侯爵様より、お使いではなく……ご本人が」
「……また?」

 思わず口から出る。
 最近、そればかりだ。

 花。
 贈り物。
 顔を見に来る理由。
 自分の動きを知る速さ。
 そして、視線の鋭さ。

 前世で一度も“追ってくる側”にならなかった男が、今世ではあまりにもあからさまだ。
 それが滑稽で、腹立たしくて、時々どうしようもなく苦しい。

「どちらへお通ししているの」
「書斎前の小客間でございます」
「お父様は?」
「外出先に」
「お母様は」
「……同席をと仰いましたが、侯爵様が“必要ない”と」

 必要ない。

 その二文字に、リリアーナは小さく眉を寄せた。
 近頃のセドリックは、人を押しのける時だけ妙に率直だ。
 肝心な本音は言わないくせに。

「お嬢様」

 エマが、主人の顔色を探るように呼ぶ。

「どうなさいますか」
「会うしかないでしょう」
「お荷物は」
「そのままでいいわ」

 少しだけ考えてから、リリアーナはそう答えた。

 隠す必要はない。
 もう彼は気づいている。
 自分が本気で西へ行こうとしていることも、それがただの気まぐれではないことも。

 むしろ、箱や本や畳まれたドレスがここにあること自体、今の自分の意思の証だ。前世のように、誰かに与えられた未来へ黙って押し込められている女ではないと示してくれる。

 リリアーナは立ち上がり、スカートの皺を整えた。今日のドレスは灰青色のシンプルなものだ。社交用というより家の中で客に会うための落ち着いた仕立てで、袖口にだけ細い刺繍が入っている。髪も高く結い上げず、後ろでやわらかくまとめてあるだけ。つまり、これから夜会に出る令嬢の装いではない。王都を離れる準備を進める女の、今の現実に近い姿だった。

 鏡の前で一度だけ自分を見る。

 青白さはまだ残る。
 だが、前のような不安定さだけではない。
 行き先を知った人間の顔だ。

「エマ」
「はい」
「扉の向こうで待っていて」
「もちろんです」
「絶対に、完全な二人きりにはしないで」
「承知しております」

 その返事に小さく頷き、リリアーナは部屋を出た。

     *

 小客間へ入ると、セドリックは立ったまま窓辺にいた。

 今日は礼装ではなく、濃い色の上着に控えめなタイという、侯爵家当主として人前へ出ても違和感のない程度の簡素な装いだった。だが簡素な装いは、かえって彼の体躯や姿勢の隙のなさを際立たせる。窓の外から差し込む白い光が横顔に触れ、頬のあたりをより冷たく見せていた。

 扉が閉まる音で振り返る。
 視線は、いつものように最初に顔へ来た。
 それから一瞬だけ、こちらの袖口、靴、手に何も持っていないことを確認するように落ちる。
 まるで出立の兆しを一つでも見逃したくないみたいだ。

 その視線の鋭さに、リリアーナはもう驚かなかった。

「何の御用ですか」

 挨拶もそこそこにそう問うと、セドリックはすぐには答えず、窓辺の小卓へ置いてあった書類を取り上げた。数枚の紙を束ねたものだ。王都近郊の地図と、行程表のように見える。

 嫌な予感がした。

「西の丘陵への道について、確認してきた」
「……確認?」

 リリアーナは、わずかに目を細めた。

「どういう意味です」
「伯爵家は正規の護衛を何人つけるつもりだ」
「まだそこまでは」
「少なすぎる」

 話が早すぎて、一瞬ついていけない。

 セドリックは書類を机へ置いた。そこには西へ向かう主要街道と、その途中の宿場、治安の悪い区間、夜営に向かない地帯まで印がつけられているらしかった。まるで戦地へ出る部隊に渡す資料のような緻密さだ。

「春先の西街道は、表面上は穏やかに見えても荷馬車狙いの賊が増える」
「……」
「雨が続けば丘陵手前の土道がぬかるみ、馬車が取られる」
「……」
「加えて今は昼夜の寒暖差が大きい。体調が不安定な者が長旅をするには向かない」
「……」

 一気に言い切ってから、彼はようやく息をついた。

「向こうの薬草院には医師が常駐していないだろう」
「そこまで調べたの」
「当然だ」
「当然」

 リリアーナはそこで、思わず笑いそうになった。

 可笑しいのだ。
 あまりにも可笑しい。

 行くな、とたった一言言えば済む話を、この男は言えない。
 代わりに、道が悪いだの、気候が悪いだの、賊がいるだの、医師が足りないだの、まるで領地調査の報告みたいに並べ立ててくる。

 笑ってはいけない。
 笑えば、きっと彼は本気なのだから。
 でも、その不器用さが、ひどく滑稽で、少しだけ哀れでもあった。

「侯爵様」

 リリアーナはやっとのことで口元を引き締めた。

「それで?」
「……何」
「危ない、寒い、道が悪い、医師が少ない」
「そうだ」
「だから何だと仰りたいのですか」

 セドリックは一瞬、沈黙した。

 こういう時だ。
 こういう時に、彼は決定的な言葉を飲み込む。

 行くな。
 離れるな。
 私の見えないところへ行くな。

 たぶん、彼の喉元にはそういう言葉が上っている。
 でもそれを、彼は言えない。

 だから代わりに、条件や安全や段取りへ話をずらす。

「西へ行くにしても、もっと条件を整えろ」
「条件?」
「護衛を増やせ。宿場も選び直せ。医師が巡回する時期と重なるよう日取りをずらすべきだ」
「……」
「向こうの薬草院にこだわる必要があるのか」
「どういう意味です」
「王都近郊にも、静養に向いた別荘は幾つもある」
「侯爵家の別荘、という話ですか」
「必要なら用意する」

 そこで、リリアーナは本当に笑いそうになった。
 喉の奥までせり上がる笑いを、どうにか押さえる。
 同時に、腹の底がじわじわと熱くなっていく。

 そうじゃないでしょう。

 私は、管理しやすい場所へ置いてほしいわけじゃない。
 快適な籠を差し出してほしいわけでもない。
 王都の近くの安全な別荘へ囲われるくらいなら、西の小さな薬草院のほうがよほど息ができる。

「それはつまり」

 リリアーナはゆっくりと言った。

「王都から出るなら、あなたの手の届く範囲にいろ、ということですか」
「違う」
「では何」
「安全の話だ」
「安全」

 その言葉を繰り返した瞬間、笑いそうだった気持ちはすっと冷えた。

 安全。
 前世でも、彼はたぶんそう考えていたのだろう。
 危険から守るため。
 表に出しすぎないため。
 狙われないように。
 でもその“安全”の名のもとで、自分はずっと孤独だった。

 だから、今こうして同じ匂いのする言葉を聞くと、胸の奥の古い傷がすぐに目を覚ます。

「また、それですか」
「また?」
「ええ。あなたはいつもそう」

 リリアーナは椅子へ座ることもせず、そのまま立った姿勢で彼を見た。
 高い位置から見下ろしたいわけではない。
 ただ、今は座ってしまうと力が抜けそうだった。

「危ないから。寒いから。無理だから。条件が悪いから」
「実際に悪い」
「そうでしょうね」
「……」
「でも、それを並べて、あなたは何をしたいの?」

 セドリックの視線が少し揺れる。
 その揺れを見るたびに、あと少しで本音が出るのではないかと、胸のどこかが勝手に身構えてしまう。
 嫌なのに。
 期待なんてしたくないのに。

「私は」
「行ってほしくないのなら、そう言えばいいでしょう」

 言ってしまってから、部屋の空気が少しだけきつく張った。

 暖炉の火が小さく鳴る。
 窓の外で枝が風に擦れる。
 それだけが妙に大きく聞こえた。

 セドリックは一歩も動かなかった。
 だが、その沈黙の中で、彼の喉が小さく上下する。

「……言えば、聞くのか」
「いいえ」

 リリアーナは即答した。

 それが余計に可笑しくて、そして切ない。
 彼は言えない。
 自分は聞かない。
 それなのに、今こうして同じ部屋で、まるで答えがどこかにあるみたいな顔をして向き合っている。

「でも、少なくとも分かるわ」
「何が」
「あなたが何を思っているのか」

 その一言で、彼の目がはっきりと細くなった。
 怒りではない。
 むしろ、見抜かれた人間の一瞬の防御反応に近い。

 リリアーナはそこで初めて椅子へ座った。
 腰を下ろすと、少しだけ体が冷えていることに気づく。
 両手を膝の上へ置き、指先を組んだ。

「今のあなたは、条件ばかり並べる」
「実際に条件の話をしている」
「ええ。でも、欲しいのはそれじゃないの」
「……」
「私が欲しいのは、管理じゃない」

 はっきり言う。
 そこを曖昧にしたら、また同じになる気がした。

「道がどうとか、護衛がどうとか、医師がどうとか」
「必要なことだ」
「必要でしょうね。でも、それで私が残ると思っているなら、やっぱりあなたは分かっていないわ」

 セドリックは返さない。
 返せないのかもしれない。

「私は、安全な場所へ置かれたいわけじゃない」
「……」
「あなたの目の届く範囲に収められたいわけでもない」
「……」
「欲しいのは、そういう管理された安心じゃないの」

 自分でも、その言葉がどこから来るのか少し分からなかった。
 前世の記憶。
 謝罪。
 眩暈の夜。
 全部が混ざっているのだろう。

「王都の近くの別荘なんて、きっと静かで、暖かくて、医師も呼べて、何不自由ないのでしょうね」
「そうだ」
「でもそれは、私のためじゃない」
「違う」
「違わないわ」

 そこでようやく、リリアーナは小さく笑ってしまった。
 愉快だからではない。
 あまりに不器用で、あまりに本音を言わないからだ。

「あなた、自分でも分かっているでしょう」
「何を」
「私を手の届くところへ置いておきたいだけだって」

 セドリックの沈黙が、今度ははっきり重くなった。

 それだけで十分だった。
 否定できないのだ。

「でもそれは、私の望みじゃない」
「……」
「私が欲しいのは、あなたに管理される生活じゃないのよ」
「……」
「欲しいのは、本音よ」

 その一言は、部屋の中で驚くほど静かに落ちた。

 本音。
 その言葉に、セドリックの目が動いた。
 微かに、けれど見逃しようがないほど。

 リリアーナは続けた。

「行くなと言いたいなら、そう言えばいい」
「……」
「行かないでほしいなら、そう言えばいい」
「……」
「なのにあなたは、危険だの、道が悪いだの、別荘を用意するだの、そういう話ばかりする」

 胸の奥が熱い。
 怒っている。
 でも完全な怒りだけではない。
 あと少しで別の何かに触れそうなのに、いつもそこで外側の理屈へ逃げられる、そのもどかしさもある。

「そういうところが、本当に腹が立つの」
「……」
「昔もそうだった」
「リリアーナ」
「肝心なところだけ、絶対に言わないのね」

 その言葉に、セドリックは初めて視線を落とした。

 落とす、という小さな動きが、かえって大きく見えた。
 彼はいつも相手をまっすぐ見る。
 それを逸らすのは、本当に核心に触れられた時だけだ。

 しばらくして、低い声が落ちる。

「……行ってほしくない」

 リリアーナは一瞬、呼吸を忘れた。

 言った。
 あまりにも遅く、あまりにも低く。
 けれど今、彼は確かに言った。

 行ってほしくない。

 嬉しいわけではない。
 救われるわけでもない。
 でも、胸のどこかが確かに揺れる。

 だからこそ、次の言葉を間違えてはいけないと分かる。

「そう」

 それだけを返した。
 声は思ったより静かだった。

「じゃあ、どうしてもっと早く言えないの」
「……」
「どうして最初から、それを言えないまま、危険とか条件とか、そういう話へ逃げるの」

 セドリックは答えなかった。
 答えられないのだろう。
 彼の中にも理屈はあるのかもしれない。
 守るため。
 失いたくないから。
 自分の手の届かないところが怖いから。
 でも、どれもまだ、本音のままでは出てこない。

「今の私は、そういう不器用な引き止め方をされても戻れないわ」
「……分かっている」
「分かってないから来たんでしょう」
「……」
「安全を並べれば説得できると思ったなら、それは管理よ」
「思ってはいない」
「じゃあ何」
「……理由を探していた」

 その返答に、今度はリリアーナのほうが黙った。

「理由?」
「行くなとだけ言えば、君は余計に離れる」
「そうでしょうね」
「だから、別の形で止められないか考えた」

 低い声。
 正直で、ひどく不器用だ。
 それを聞いて、また少しだけ笑いそうになる。
 本当に、この人は侯爵であるくせに、こういうところだけ驚くほど不器用だ。

「それで、道が悪いから?」
「……」
「医師が少ないから?」
「……実際にそうだ」
「分かってるわ」

 リリアーナは眉を寄せた。

「分かってる。だから余計に腹が立つの」
「どうして」
「本当のことを言わないくせに、嘘じゃない理屈だけはきっちり並べるから」

 それが、この人のずるさだ。
 完全な嘘はつかない。
 でも、本当に言うべきことからはずれる。
 だから責めきれない。
 責めきれないから余計に苦しい。

「行くなって言えばいい。
 離れてほしくないって言えばいい。
 私を見えるところに置いておきたいって、そう言えばいい」
「……」
「そうじゃないと、私はまた、あなたが何を考えているのか分からないまま、条件だけ与えられる」

 前世みたいに。
 その言葉は飲み込んだ。
 言わなくても、きっと彼には伝わった。

 セドリックの目が、深く沈む。
 今にも何かを言いそうで、でもまだ足りない。
 この人の中で、言葉はいつも肝心な一歩手前で重くなる。

 長い沈黙のあと、彼はようやく言った。

「……離れてほしくない」
「……」
「手の届かないところへ行かれるのが、嫌だ」

 その声音は低く、整っていた。
 叫びではない。
 懇願でもない。
 でも、たぶん今の彼にできる最大限の本音だった。

 リリアーナはしばらく返事ができなかった。

 それを聞きたかったのかと問われれば、単純にはうなずけない。
 だが少なくとも、条件の羅列よりはずっと胸に届く。
 届いてしまう。
 それが悔しい。

「……それでも行くわ」

 やっとそれだけ言うと、セドリックは目を伏せなかった。
 ただ、微かに息を落としただけだった。

「そうだろうな」
「ええ」
「分かっていた」
「だったら、最初からそう言えばよかったのよ」
「……そうかもしれない」

 そうかもしれない。
 この人にしては驚くほど素直な認め方だった。

 けれど、それで何かが解決するわけではない。
 溝はまだそこにある。
 前世の十年。
 今世の焦り。
 謝罪では埋まらない空白。
 近づきすぎる優しさ。
 全部が二人の間に横たわっている。

「私は行く」
「ああ」
「でも、あなたが今、ちゃんと言ったことは覚えておくわ」
「……」
「管理よりは、少しましだから」

 そこで、ほんの少しだけ、彼の口元が緩みかけた気がした。
 微笑みと呼ぶほどではない。
 ただ、ひどく張り詰めていたものが一筋だけ緩んだみたいな変化。

 それを見てしまって、リリアーナはまた少しだけ腹が立つ。
 こんな小さな反応ひとつで、空気の冷たさが変わるのだから。

「でも」

 念を押すように言う。

「欲しいのは管理じゃないし、監視でもない。
 私が必要としていたのは、昔も今も、そういうことじゃない」
「……分かっている」
「本当に?」
「今は、前より」
「ずいぶん低い基準ね」
「そうだな」

 その返しが、妙に正直で、また可笑しい。
 可笑しいのに、簡単には笑えない。
 笑ったら、許す側へ寄ってしまいそうだから。

 リリアーナは立ち上がった。
 会話は終わりだと、体のほうが先に決めたようだった。

「支度があるの」
「ああ」
「持って行くものも、置いて行くものも」
「……」
「だから、もう戻るわ」

 セドリックも立ち上がる。
 手を伸ばしそうで、伸ばさない。
 そこにあるためらいを、リリアーナはもう読み取れるようになっていた。

「日取りが決まったら」
「知らせる必要はないわ」
「必要がある」
「どうして」
「……追うからだ」

 それはまるで冗談のような言い方ではなかった。
 低く、静かで、少しも飾りのない声音。

 胸がまたざわめく。
 やめてほしい。
 でも、少しだけ笑ってしまいそうになる。
 不器用すぎて、まっすぐすぎて、腹が立つのに。

「本当に、困った人」
「知っている」
「知っているなら、少しはましになって」
「努力はする」
「見ものね」

 そんなふうに言いながら、リリアーナは扉へ向かった。
 手をかける寸前、振り返る。

 セドリックはその場に立ったまま、こちらを見ていた。
 もう道が悪いとも、護衛が足りないとも、別荘がどうとも言わない。
 代わりに、黙ったまま、行ってほしくないという顔をしている。

 ようやく本音を見せた男。
 それでもなお不器用なままの男。

「……昔の私に欲しかったのは、それよ」

 ぽつりと零す。
 彼の目が、僅かに揺れる。

「管理でも、快適な檻でもなくて。
 離れないでほしいとか、そういう不格好な言葉だったの」

 それだけ告げて、今度こそ扉を開けた。

 廊下にはエマが立っている。
 部屋の外の空気は少し冷たい。
 でも、さっきまでの小客間よりは、呼吸がしやすかった。

 リリアーナは歩き出す。
 胸の中は静かではない。
 腹は立っている。
 少し笑いそうにもなる。
 そして、ほんの少しだけ切ない。

 欲しかったのは管理ではなく、本音。
 そう言えたことで、溝が埋まったわけではない。
 むしろ、どこが埋まらないのかが、前よりはっきりしただけだ。

 それでも、前よりはましなのかもしれない。

 少なくとも今は、彼が「行くな」と言えない男なのではなく、言えなさすぎて理屈ばかり並べる男だと分かったのだから。
 分かったところで腹立たしいことに変わりはないけれど、その腹立たしさの形が見えるだけ、昔よりはずっと息ができた。

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