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第24話 冷徹侯爵の嫉妬
薬草院から届いた次の手紙は、アデル叔母のものではなかった。
封を切る前から、紙の質が少し違うと分かった。叔母の手紙は、実用一点張りの、乾いた白い紙を使うことが多い。だが今朝届いた封書は、同じように飾り気はないものの、ほんの少しだけ厚手で、文字を書く者の癖が出やすい滑らかな紙質だった。封蝋には母方の家の小さな紋章が押されているが、その筆跡は叔母のものではない。
窓辺の椅子へ座り、リリアーナは慎重に封を切った。
春の光はまだ弱い。
白く薄い日差しが、窓越しに机の端と便箋の隅を照らしている。
侯爵邸から戻って以来、伯爵家の自室に差し込む朝の光まで少し違って見えるようになった。たぶん、自分の中で切れたものがあるのだろう。
家族という言葉に寄りかかる心が、もうない。
その代わり、自分がどこへ向かうのかを考える時間は、以前よりまっすぐになった。
便箋を開く。
整った、若い筆跡だった。
几帳面で、だが堅すぎない。
官吏の文面らしい端正さの中へ、どこか人の気配が混じっている。
――初めてお便り差し上げます。
――アデル叔母上より、リリアーナ様がこちらへお越しになる可能性があると伺いました。
――私はカイ・フォルネと申します。西丘薬草院の帳簿と周辺役所への届け出を任されております。
――到着の折、必要な宿帳、移動証明、薬草院での滞在名目について、王都側でご準備いただくべき書類を整理してお送りします。
――どうかご不安なくお越しください。こちらは王都ほど華やかではありませんが、息のしやすい土地です。
――叔母上は、あなたが必要以上に緊張して来るのではと案じておられました。
――ですので、せめて最初のご連絡だけでも、堅苦しくなりすぎぬよう努めたつもりです。
そこで一度、リリアーナは目を止めた。
息のしやすい土地。
たったそれだけの表現が、妙に胸へ沁みた。
王都では、呼吸をするにも姿勢がいる。
伯爵家でも、侯爵家でも、社交界でも。
だから「息のしやすい」という言葉が、慰めではなく、具体的な希望のように見えた。
続きを読む。
――王都から西へ入る頃は、朝晩の冷えがまだ厳しいので、厚手のショールを一枚多く。
――また、こちらの井戸水は最初、慣れぬ方には少々冷たく感じられるかもしれません。
――もし薬草の本をお持ちになるなら、湿り気を避けるため油紙で包まれることをお勧めします。
――あなたが本当にこちらへ来られるなら、私は必要な文面をすべて整えます。
――焦らず、けれど安心してお越しください。
文末には、小さくこうあった。
――追伸。叔母上の薬草茶はとても苦いので、蜂蜜を隠してお持ちになるとよろしいかもしれません。
思わず、リリアーナは小さく息を漏らした。
笑うほどではない。
だが、口元がほんの少しだけ緩む。
薬草院から届いた手紙で、こんなふうに気がゆるんだのは初めてだった。
「お嬢様?」
エマが気づいて、少しだけ首を傾げる。
「何かよいことでも」
「……少しだけ、よさそうな人みたい」
「どなたがですか」
「薬草院の帳簿を見ている方らしいわ。カイ・フォルネという人」
「まあ」
「叔母様の甥だそうよ」
「そうなのですか」
エマは手紙を読むわけにはいかないから、主人の表情だけを見ていた。
その目元が、ここ数日には珍しく少しやわらいでいるのに気づいたのだろう。
「真面目そう」
「それはよろしいですね」
「でも、ちょっとだけ軽口も叩くみたい」
「お嬢様に合うかもしれません」
「どうかしら」
「少なくとも、お父様や侯爵様よりは」
「それは比較対象が悪いわ」
そう返すと、エマが小さく笑った。
リリアーナもつられて笑う。
そのささやかなやり取りが、自分でも驚くほどありがたかった。
心が少しだけ、未来のほうを向く。
王都を離れた先に、自分を「令嬢」や「婚約者」ではなく、一人の来訪者として迎える人間がいる。
そのことが、思った以上に大きかった。
手紙を畳み、もう一度眺める。
几帳面な文字。
必要なことをきちんと並べ、その隙間にわずかな温度を落とす書き方。
こういう文を書く人は、きっと相手の息の乱れをあまり増やさない。
それだけで、少しほっとする。
*
その日の午後、カイ・フォルネ本人が王都へ来た。
予想外だった。
手紙の中に、今日か明日には王都側の役所へ寄る予定があり、もし差し支えなければ必要書類の確認に立ち寄りたい、と追記があったらしい。父は外出中、継母は人を選ぶような茶会の最中で、こういう実務的な応対には向かない。だからリリアーナが直接会うことになった。
応接間ではなく、東向きの小さな客間が使われた。
春先の白い光が柔らかく入り、壁紙の淡い色をより静かに見せる部屋だ。
侯爵家ほど整いすぎてはいない。
伯爵家らしい控えめな格式がある。
今のリリアーナには、その少しだけ肩の抜けた感じがむしろ落ち着いた。
カイ・フォルネは、思っていたより若かった。
二十代半ばほどだろうか。長身ではないが、背筋がよく、書類を扱う人間らしい無駄のなさがある。茶色がかった黒髪は短く整えられ、目元は涼しい。文官らしい端正さの中に、田舎の風を知る者のやわらかさが混じっていた。服装も上質ではあるが華美ではなく、王都の貴族男たちのような見せびらかす匂いがない。
何より、最初の一礼がよかった。
「初めてお目にかかります。カイ・フォルネと申します」
深すぎず、軽すぎず。
相手を令嬢として尊重しながら、それ以上に“これから話す相手”として自然な礼だった。
「リリアーナ・エヴェルシアです」
「叔母上から、あなたのことは少し伺っております」
「……良い意味で?」
「ええ。強情で、気丈で、でも本当はよく眠れていない方だと」
「叔母様ったら」
思わずそう返してしまった時点で、自分でも少し驚いた。
初対面の男相手に、こんなに早く肩の力が抜けるとは思わなかったからだ。
カイは微かに笑った。
「怒られそうですが、私も同感です」
「会ったばかりなのに?」
「会ったばかりだからかもしれません」
「それ、口説き文句のつもりなら点数は低いわ」
「それは残念です」
「残念がるのね」
「せっかく王都まで来たので、最初に嫌われるのは避けたいところです」
その言い方が、軽いのに不快ではなかった。
王都の男たちのように、相手を試す軽口ではない。
緊張をほどくために、少しだけ空気を緩める話し方。
そういう人なのだと、数往復で分かる。
話はすぐに本題へ移った。
滞在名目の書類。
薬草院での療養扱いにするための文面。
もし伯爵家が一月以上の滞在を渋る場合に備えた、医師名義の静養継続証明の草案。
王都を出る時の関所の通過証。
女性一人の移動ではないことを明示するための随行者名簿。
必要なものは多かったが、カイの説明は簡潔で分かりやすかった。
「王都の役所は、必要以上に立派な言葉を好みます」
「そうなの?」
「はい。中身より、もっともらしい言い回しに弱いので」
「嫌な感じ」
「ええ。でも利用しない手はありません」
「あなた、役人に向いてるのね」
「褒め言葉として受け取ります」
そのやり取りの中で、リリアーナは少しずつ気づいていった。
この人は、自分を“可哀想な令嬢”として扱わない。
かといって、伯爵家の娘として妙に仰ぎ見るわけでもない。
必要な手続きを一緒に整える相手として、きちんと会話をしてくれる。
それが新鮮だった。
自分の未来の話をしているのに、そこに花嫁や婚約者の匂いが一切しない。
ただ、行く。
暮らす。
整える。
そういう実務だけが机の上へ並ぶ。
息がしやすかった。
「薬草は本当にお好きだと伺いました」
「ええ、少しだけ」
「少しだけ、という方ほど詳しいことが多いです」
「そうかしら」
「叔母上が本を二冊持ってくるだろうと予想しておられました」
「二冊?」
「違いましたか」
「……ぴったり二冊よ」
「ほら」
「叔母様、少し怖いわ」
「ええ、たまに」
また笑ってしまう。
その時だった。
「楽しそうだな」
低い声が、部屋の入口から落ちた。
空気が変わる。
驚くほどはっきり。
リリアーナが振り向くと、セドリックが立っていた。
伯爵家へ来ると聞いてはいない。
いや、今の彼なら来てもおかしくはない。
おかしくはないのに、こうして突然現れると、やはり息が詰まる。
今日の彼は濃い灰の上着を着ていた。王都の昼間の訪問に相応しい、過不足のない装いだ。だが、立っているだけで室内の空気が少し冷えるように見えるのは相変わらずだった。
視線がまずリリアーナへ来る。
次に、机の上の書類。
そして、カイ・フォルネ。
その順番が速すぎて、意識していないほうが不自然なくらいだった。
リリアーナは小さく眉を寄せる。
「何の用?」
「用がなければ来てはいけないのか」
「少なくとも、今日は何も聞いていないわ」
「伯爵へ話があった」
「お父様は不在よ」
「知っている」
知っている。
その一言に、いつものような執拗さが滲む。
父が不在だと知っていて来た。
つまり目的は別だ。
カイがその空気を読んだらしく、すぐに立ち上がって一礼した。
「初めてお目にかかります。西丘薬草院の事務を預かっております、カイ・フォルネと申します」
「……ヴァレンティア侯爵だ」
「お噂はかねがね」
「そうか」
短い。
冷たい。
外から見れば、いつもの侯爵だ。
だがリリアーナには分かった。
これは明らかに機嫌が悪い。
驚くほど露骨だった。
カイは気づいているのかいないのか、書類を軽く整えながら言った。
「ちょうどリリアーナ様と、移動書類の確認をしていたところです」
「そうか」
「こちら側の手配は思った以上に煩雑で」
「そうだろうな」
「ですが、だいぶ整理できました」
「……」
セドリックは返事をしない。
いや、返事はする。
だが、あまりにも短い。
リリアーナは内心で少しだけ目を見開いた。
この男がここまであからさまに不機嫌を出すのを、初めて見る。
前世でも今世でも、苛立ちを押し込めて冷たさへ変えることはあった。
でも今のこれは、それよりもっと幼い。
まるで、自分の知らないところで誰かに居心地よく話されるのが気に入らない子どもみたいだ。
そう思った瞬間、少しだけ可笑しくなった。
だが同時に、やはり腹も立つ。
何その顔。
今まで感情を押し込めてばかりだったくせに、そこでそういうものを出すの。
「侯爵様も、何かご確認が?」
カイが、ごく自然な調子で問う。
うまい。
相手の冷たさをそのまま受けず、あくまで話へ引き戻そうとしている。
文官として、人の機嫌を無用に刺激しない処世なのだろう。
「ある」
セドリックは答えた。
「出立の時刻だ」
「それも先ほど話していたの」
リリアーナが言うと、彼の視線がこちらへ来る。
その目が、妙に鋭い。
「そうか」
「ええ」
「詳しく」
「どうして」
「護衛の配置を調整する必要がある」
「護衛の件なら、私が」
カイがそう口を挟みかける。
その瞬間、セドリックの目がはっきりと冷たくなった。
「あなたが?」
低い声。
静かだが、刺すようだ。
カイは少しだけ驚いた顔をしたものの、落ち着いて答える。
「はい。西側の道は、こちらの護衛より土地に慣れた者のほうが適しておりますので」
「……」
「薬草院からも二人ほど迎えを出します」
「必要ない」
「侯爵様?」
リリアーナが思わず声を挟む。
必要ない?
なぜ、そう言い切る。
セドリックはようやくこちらを見た。
「伯爵家側と侯爵家側で足りる」
「土地勘のある人がいたほうがいいわ」
「ならこちらで雇う」
「そんな」
「不慣れな男を君の近くへ置く必要はない」
その一言で、部屋の空気がぴたりと止まった。
エマが小さく息を呑んだ。
カイも今度こそ目を瞬いた。
リリアーナ自身も、一瞬何を言われたのか分からなかった。
不慣れな男。
つまり、カイのことだ。
初対面に近い相手。
薬草院側の、若い男。
そして、今この場で、自分と穏やかに話していた男。
ようやく分かった。
嫉妬しているのだ。
この男は、今、露骨に嫉妬している。
その認識が頭に浮かんだ瞬間、信じられないほど呆れた。
同時に、ひどく腹が立った。
だって、今まで一度もそんなものを表に出さなかったくせに。
こちらが独りで冷えきっていた時には、何も言わなかったくせに。
今になって、こういう子どもじみた独占欲だけ見せるなんて。
「侯爵様」
リリアーナは、なるべく平静に言った。
「カイ様は薬草院側の責任者の一人よ」
「甥だと聞いた」
「ええ。でも事務も実務も担っている」
「……」
「不慣れな男、なんて言い方は失礼だわ」
「……」
「それに」
リリアーナは少しだけ顎を引いた。
「私にとっては、ただ穏やかに話せる相手でしかないの」
その一言で、セドリックの表情がわずかに固まった。
穏やかに話せる相手。
それが自分ではないと、今、はっきり言われたのだから。
カイはさすがに居心地が悪くなったらしく、一歩だけ引いた。
「私のほうは、これで失礼したほうがよろしいでしょうか」
「そうね」
リリアーナが答えるより早く、セドリックが低く言う。
「いや」
「侯爵様」
「続けろ」
「……」
「私も同席する」
それはもはや子どもじみていた。
リリアーナは呆れて、ほんの少しだけ笑いそうになった。
同席する。
まるで自分だけ仲間外れにされたくない子どもみたいだ。
でも、可笑しいより先に、やはり腹が立つ。
「侯爵様」
「何だ」
「今、あなた、ものすごく不機嫌よ」
「そうか」
「そうか、じゃないでしょう」
思わず、声に少し熱が混じる。
「何に怒っているの」
「怒ってはいない」
「嘘」
「……」
「それに、これはあなたの立場で口を出す話ではないわ」
「君の移動の話だ」
「ええ。でも、薬草院の人と私が話しているところへ来て」
「……」
「不慣れな男を近くへ置くな、なんて」
「……」
「それ、何?」
問いを向けた瞬間、セドリックは黙った。
否定すればいいのに、できない。
それだけで答えになっている。
リリアーナは、ふうと息を吐いた。
「……本当に、子どもみたい」
「……」
「今まで何も言わなかったくせに」
「……」
「そういうのだけ出すのね」
セドリックの喉が動く。
言い返したいのではない。
自分でも自覚があるのだろう。
みっともないと。
でも、抑えきれないのだ。
だから余計に滑稽で、そして少し切ない。
カイは気まずさを隠しきれないまま、それでも礼儀正しく頭を下げた。
「リリアーナ様、必要書類は置いていきます」
「ありがとう」
「叔母上には、到着の見込みをもう一度だけ文で知らせてください」
「ええ」
「侯爵様」
最後に、カイはセドリックへも一礼した。
「ご懸念は理解いたしました。ですが、私に他意はございません」
「……」
「リリアーナ様が安心してこちらへ来られるよう、必要な準備をするだけです」
「……そうか」
それ以上の悪意は返さなかった。
だが、声音はまだ冷たい。
カイが去り、扉が閉まる。
途端に、部屋の中の空気が別の意味で重くなる。
エマが「お茶をお持ちします」と言ってすぐに下がってくれたのは、たぶん最大限の配慮だった。
残されたのは、リリアーナとセドリックだけ。
「……ねえ」
リリアーナが先に言う。
「自分で分かってる?」
「何を」
「今、ものすごく嫉妬していたこと」
「……」
やはり黙る。
その沈黙が、否定より雄弁だ。
「信じられない」
「……」
「あなたが、そういう顔をするなんて」
「……」
「しかも、今頃」
その“今頃”に、ひどく色々な意味がこもる。
前世で何も言わなかった年月。
今世でようやく表に出てくる感情。
遅すぎる独占欲。
全部だ。
セドリックはしばらく窓の外を見た。
庭は静かで、風だけが枝を揺らしている。
その沈黙が長くなりすぎたところで、ようやく低い声が落ちる。
「……あの男が」
「ええ」
「君を見ていた」
「見ていたわね」
「穏やかに話していた」
「ええ」
「君も、穏やかだった」
「……」
「それが、気に入らなかった」
あまりにも率直で、リリアーナは一瞬言葉を失った。
そこまで正直に言うの。
そんなこと、前なら絶対に認めなかったくせに。
「……本当に子どもね」
「否定しない」
「そこは否定して」
「できない」
その返答に、思わず笑いそうになる。
でも同時に、腹も立つ。
「私は、ただ話しやすかっただけよ」
「ああ」
「薬草院の話をして」
「ああ」
「書類の話をして」
「ああ」
「それだけ」
「分かっている」
「分かっていて、あんな顔をしたの?」
「……そうだ」
きっぱりしている。
そこだけは、信じられないほど率直だ。
たぶん、前世ならこれも全部、飲み込んでいたのだろう。
でも今はもう、抑えきれなくなってきている。
リリアーナは椅子へ腰を下ろした。
「呆れる」
「そうだろうな」
「だって、あなたにとって私は」
「何だ」
「侯爵夫人にはならない相手よ」
「……」
「保留のままの、面倒な相手」
「……」
「それなのに、誰かが少し穏やかに話しただけで不機嫌になるなんて」
「……」
セドリックの目が、今度ははっきりとこちらを見る。
その視線には、怒りではなく、どうしようもない苦さがある。
「面倒であることと」
「……」
「他の男に穏やかな顔を向けてほしくないことは、両立する」
その一言に、リリアーナはとうとう言葉を失った。
何て勝手な理屈だろう。
何て身勝手で、何て本音で、何て子どもじみているのだろう。
でも、その勝手さが、なぜか妙に真実味を持っているから厄介だ。
「……ひどい人」
「知っている」
「今まで感情を抑え込んでばかりだったくせに」
「……」
「そういうのは出すのね」
「抑えられなかった」
「そう」
その言い方が、少しだけ可笑しかった。
抑えられなかった。
まるで自分で自分に呆れているみたいに。
でも本当に呆れているのだろう。
侯爵家当主としては失格に近い感情の出し方だ。
なのに、彼は今、それを否定しない。
「……ねえ」
「何だ」
「嫉妬しているって、自分で認めるの?」
「今のは、そうだろう」
「だろう、じゃなくて」
「……嫉妬だ」
とうとう言った。
リリアーナは目を閉じた。
笑ってしまいそうだった。
泣くような話ではない。
でも、前世では一度も見せなかった感情を、こんなにもあけすけに認めるのが、信じられなかったから。
嫉妬。
冷徹侯爵の。
あの、黙って全部飲み込んできた男の。
自分が、ただ穏やかに話していただけで。
それが腹立たしく、可笑しく、そして少しだけ胸をくすぐる。
その最後の感覚に、自分でひどく戸惑う。
「……でも、安心して」
リリアーナはやっと言った。
「彼にとって私は、ただの来訪予定者よ」
「……」
「少なくとも、私にとってはそれ以上じゃない」
「……そうか」
「ええ」
セドリックはそこで少しだけ息を吐いた。
それが、分かりやすすぎて、また呆れる。
「今ので安心するのもどうかと思うわ」
「そうかもしれない」
「本当に」
「だが、安心した」
「正直ね」
「今は隠せない」
その言葉が、妙に静かに胸へ落ちた。
今は隠せない。
前世では隠してしまったものを、今世では隠しきれない。
それが彼にとって良いことなのか悪いことなのか、まだ分からない。
でも少なくとも、今この部屋にいるのは、前世よりずっと人間くさい男だった。
「……侯爵様」
リリアーナは少しだけ首を傾げる。
「嫉妬するのは勝手だけど」
「……」
「それで私の行き先まで管理しようとしたら、本気で怒るわよ」
「分かっている」
「本当に?」
「今のところは」
「何、その“今のところ”」
「努力する」
「努力ね」
リリアーナは、とうとう小さく笑った。
大きな笑いではない。
でも、呆れと皮肉と、ほんの少しのやわらかさが混じった笑いだった。
その笑みを見た瞬間、セドリックの目がほんの少しだけ和らぐ。
それがまた癪に障る。
「そういう顔しないで」
「何だ」
「今、ちょっと安心したでしょう」
「……」
「図星ね」
「少しだけ」
「本当に子ども」
そう言いながらも、リリアーナの胸の中は不思議に少しだけ軽かった。
彼が嫉妬した。
露骨に不機嫌になった。
それはみっともなくて、勝手で、どうしようもなく遅い感情だ。
でも、その遅さも含めて、今の彼なのだと思うしかない。
窓の外では、風が少しだけやわらいでいた。
庭木の枝先が揺れ、その向こうに、薄く春の色が滲み始めている。
薬草院へ行く準備は続く。
王都を離れる日は近い。
その前に、こうしてまた新しい感情がひとつ表へ出てきた。
冷徹侯爵の嫉妬。
それはあまりに子どもじみていて、だからこそ、前世では見えなかった彼の生身の一部のようにも思えた。
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