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第27話 十年分の花
それが届いたのは、昼の光がいちばん淡くなる頃だった。
春は近づいているはずなのに、その日の空は白く薄く曇っていた。陽はある。けれど、あたたかいと呼ぶにはまだ足りない。窓の外では、庭の若い枝が風に吹かれて小さく震え、そのたびに硬い芽の先がかすかに光を返す。伯爵家の自室は静かで、暖炉の火も今日は小さい。赤く沈んだ炭が、音もなく熱だけを残している。
リリアーナは窓辺の机に向かい、アデル叔母から届いた薬草院の書類へ目を通していた。
西へ向かう日取りは、もうかなり現実味を帯びていた。関所へ出す通行証、療養名目の証明文、随行者の名簿、持ち込む荷の簡易目録。紙の上へ並ぶそれらの文字はどれも実務的で、感傷の入り込む隙がない。けれど、その無機質さが今のリリアーナにはありがたかった。夢ではないと分かるからだ。王都を離れることが、ただの逃げ道ではなく、自分の足で選ぶ現実なのだと。
羽根ペンの先で、必要な項目へ小さく印をつける。
厚手のショール、二枚。
薬草の本、二冊。
母のスカーフ。
胃に負担の少ない保存食。
夜の冷えに備える湯たんぽ。
そういう細かなものを考えている時間は、不思議と心が静かだった。侯爵夫人になるとかならないとか、誰が自分を愛していたとか、そういう重たい言葉から少しだけ離れられる。生きていくために必要なものだけを選ぶ、その単純さがありがたかった。
ノックの音は、控えめだった。
「お嬢様」
入ってきたエマの手には、銀の盆がある。
その上に載っていたものを見た瞬間、リリアーナは思わず目を瞬いた。
花だった。
だが、いつものような薄紙に包まれた花束ではない。大袈裟に結われたリボンも、贈答用らしい飾り紙もない。茶色い薄手の紙で、実用的に、ほどけない程度にだけ包まれている。その簡素さが、かえって目を引いた。
「……また?」
反射的にそう言ったものの、いつもの“また”とは少し響きが違っていた。
エマもそれに気づいたのか、少しだけ首を傾げながら答える。
「侯爵様より、でございます」
「ええ、そうでしょうね」
「ですが……」
彼女は盆を机へ置き、少しだけ困ったように笑った。
「今回は、少し違います」
リリアーナは手を伸ばした。
紙越しにも分かるほど、花束は軽かった。豪奢な薔薇も、首をもたげる百合も、香りの強い夜の花もない。紙をほどいていくと、中から現れたのは、どれも春の入口に咲く、控えめな花ばかりだった。
薄いクリーム色の小さな水仙。
白に近い淡い野薔薇の枝。
青灰色の小花をつけたリナリア。
それに、まだ咲き切っていない白いスイートピーが数本。
どれも侯爵家の温室で無理に咲かせたような見事な花ではない。庭の端や、裏手の小さな区画で、季節の始まりにひっそり咲くものばかりだ。香りも強くない。顔を近づけてようやく、青い匂いと、少しだけ甘い匂いが混じる程度。
その取り合わせを見た瞬間、胸の奥がかすかに揺れた。
前世で、自分が好きだった花だ。
誰かへはっきり伝えた覚えはない。
けれど、侯爵邸の裏庭を歩く時、いつも足が止まった花たちだった。豪奢な表庭の薔薇ではなく、薬草区画の脇や、小さな石垣のそばで、風に揺れる季節の花。目立たないけれど、庭師が時々そっと束ねて侍女へ渡し、侍女が「お部屋へ少しだけ飾りましょうか」と持ってきてくれたことがある。
十年のあいだ、一度も、彼からは贈られなかった花。
でも、好きだった花。
リリアーナはしばらく何も言えなかった。
花束を持つ手だけが、ほんの少し熱を持つ。
泣きそうになる、と思った時には、もう喉の奥がじんと熱かった。
「お嬢様」
エマが小さく呼ぶ。
心配しているのだろう。
けれど、今のこれは悲しいだけではない。
むしろ、悲しいからこそ簡単に言葉にできない。
「……ずるいわね」
ようやくそう言うと、エマは何も返さなかった。
返せるはずもない。
ずるい。
豪奢な花ではなく。
目立つ贈り物でもなく。
自分が昔、ひっそり好きだった花ばかりを、こんなにも不器用に束ねて寄越すなんて。
まるで、「知っていた」と花の形で言われたみたいだった。
前世で何も贈らなかったくせに。
でも、見てはいたのだと。
そのことが苦しくて、どうしようもなく切ない。
「手紙は?」
掠れた声でそう聞くと、エマが盆の隅から小さな紙片を取り上げた。
「ございます」
渡される。
紙は、ごく小さい。
短い文しか書けない大きさだ。
まるで言い訳の余地を最初からなくすように。
そこに書かれていたのは、たった二行だった。
――前世で一度も渡せなかった。
――今さらだと分かっている。
リリアーナは目を閉じた。
ああ、と思う。
やっぱり、そういうことを書く。
飾らず、短く、逃げ場もなく。
それが今の彼だ。
前世で一度も渡せなかった。
それを、自分でも分かっている。
十年分の空白を。
何も贈らず、何も言わず、何も渡さなかった時間を。
そして、その今さらさを。
「お嬢様」
「……ええ」
「どうなさいますか」
「どう、って?」
「お返しになるか、それとも」
リリアーナは目を開けた。
花束は机の上で、相変わらず静かにそこにある。
白。
淡いクリーム。
青灰。
派手さはなく、ただ季節の匂いだけがある。
「花に罪はないわ」
気づけば、そう言っていた。
前にも、似たことを思った。
花に罪はない。
気持ちを押しつけられるのは苦しい。
でも、その苦しさを花へ向ける気にはなれない。
むしろ、こういう花だからこそ、余計に。
「受け取る」
「はい」
「でも……」
そこで言葉が止まる。
花束に指先で触れる。
水仙の花弁は冷たく、薄い。
指先へわずかに春の青い匂いが移る。
「心まで渡すわけじゃない」
小さくそう言うと、エマは静かに頷いた。
「もちろんでございます」
その答えが、妙にありがたかった。
*
午後、セドリックは自分で来た。
来るだろうと思っていた。
花だけ寄越して終わるような男では、今はもうない。
以前なら、贈り物で代わりにしたかもしれない。
気持ちを形だけ置いて、言葉から逃げたかもしれない。
でも今の彼は、それでは終われないと知っている。
通されたのは、伯爵家の西向きの小さな居間だった。
夕方に近い光が入る部屋で、窓辺のレース越しに薄い金色が床へ落ちている。暖炉には火が入り、燃える音は静かだ。花束は、エマが白い陶器の花瓶へ活けて窓辺に置いていた。そこにあるだけで、部屋の空気がほんの少しだけ変わる。華やかではない。だが、光の色が少しやわらぐ。
セドリックが部屋へ入ってきた時、その花へまず視線が行くのを、リリアーナは見逃さなかった。
ほんの一瞬だけ。
だが、その一瞬に、受け取ったのかと問うような色があった。
情けないくらい、分かりやすい。
「受け取ったのね」
彼が低く言う。
「花に罪はないもの」
「……そうか」
それだけで、彼の肩からほんの少し力が抜けたように見えた。
そんな反応をするのかと、少しだけ驚く。
花ひとつ受け取られただけで。
「でも」
リリアーナは先に釘を刺した。
「勘違いしないで」
「……」
「受け取ったのは花よ」
「分かっている」
「本当に?」
「今は」
今は。
その二音が、相変わらず彼らしい。
全部分かったような顔はしないくせに、どこかで希望は捨てていない。
そういうところが、本当に厄介だと思う。
リリアーナは椅子へ腰を下ろしたまま、花瓶のほうを見た。
「どうして、これにしたの」
「……」
「豪奢な薔薇でもなく」
「君は好まない」
「……」
「香りの強い百合でもなく」
「苦手だった」
「……」
「だから、これにした」
短い答え。
でも、その短さの中へ、見ていた時間が詰まっている。
「見ていたのね」
「……ああ」
「前世で」
「そうだ」
「一度も、何も言わなかったのに」
「……」
沈黙。
その沈黙に、今さら腹を立てる気にはなれなかった。
立ててもいい。
でも、この花束を前にすると、怒りだけでは少し足りない。
「庭の裏手の小さい花ばかり」
「君がよく足を止めていた」
「……」
「薬草区画の脇で」
「……」
「その時の顔が、好きだった」
リリアーナは思わず顔を上げた。
さらりと、とんでもないことを言う。
いや、さらりとではない。
たぶん、ものすごく勇気を振り絞っているのだろう。
でも声音が低く整っているせいで、余計にたちが悪い。
「やめて」
「……」
「そういうことを、今言わないで」
「だが」
「今、そういう話をされたら」
喉の奥が熱くなる。
泣くつもりなんてない。
でも、昔の自分が好きだった花を、「その時の顔が好きだった」なんて言われたら、胸の奥の柔らかいところが否応なく揺れる。
「今、そういうことを言われたら、困るの」
セドリックは一瞬だけ目を閉じた。
その顔に、ああまた間違えたのか、という種類の苦さが走る。
「……すまない」
「謝ってほしいんじゃない」
「分かっている」
「分かってないわ」
「……そうかもしれない」
その認め方が、前より少しだけ素直で、余計に困る。
リリアーナは花束から目を逸らした。
見ていると、やはり泣きそうになる。
花そのものが悪いのではない。
ただ、この花は、あまりにも静かに十年分の不在を連れてくる。
「前世で、一度もくれなかった」
「……ああ」
「一度でも、こんなふうに」
「……」
「私が好きだった花を束ねて」
「……」
「“君に似合うと思った”とか、そういう言葉でもなく」
「……」
「ただ、好きだっただろうって渡してくれていたら」
そこで、言葉が少しだけ詰まった。
想像してしまったからだ。
前世の自分へ、この花束が一度でも差し出されていたら。
あの白い寝室で。
食べられなかった朝のあとで。
夜会の帰りの次の日にでも。
そんな些細なタイミングで、ただこれを渡されていたら。
たぶん、自分の生き方は少し違っていた。
「……知っていたら、生き方が変わっていた」
思わず、前にも口にした言葉が零れる。
今度は嗚咽ではない。
もっと静かで、だからこそ痛い響きだった。
セドリックの表情が、ゆっくりと強張る。
その一言が今も彼にとって刃であることは、もう分かっていた。
「……ああ」
「でも」
「……」
「今さらでしょう」
リリアーナはようやく花から目を離し、まっすぐ彼を見た。
「これを受け取ったからって」
「……」
「私の心まで、あなたへ渡せると思わないで」
「思わない」
「本当に?」
「……願いたくはなる」
「正直ね」
「隠しても仕方がない」
その言い方に、少しだけ可笑しさが混じる。
昔なら、こういう本音は絶対に出てこなかった。
今はもう、出てしまう。
出るたびに、こちらの心をかき乱す。
「願うのは自由よ」
「……」
「でも、私はまだ無理」
「分かっている」
「花は受け取った」
「……ああ」
「でも、それだけ」
言い切る。
そこを曖昧にすると、自分が危ない。
「花に罪はない」
「……」
「そして、これを選んだあなたの気持ちが、前より少し分かってしまうのも事実」
「……」
「でも、それで私が全部を忘れるわけじゃない」
「忘れろとは言わない」
「言われたら怒るわ」
「そうだろうな」
ほんの少しだけ、空気がゆるむ。
けれど、甘くはならない。
セドリックは花瓶のほうを見たまま、低く言った。
「前世で渡さなかったものは、他にも多い」
「そうね」
「言わなかったことも」
「ええ」
「その全部を、今の君に押しつけるつもりはない」
「……」
「だが、何も渡さないままでもいられなかった」
その言葉は、思っていたより静かに胸へ落ちた。
何も渡さないままでもいられなかった。
それが花だったのだろう。
愛の証明というには控えめすぎる。
赦しを乞うには軽すぎる。
でも、十年分の空白へ、ようやくひとつ置けるもの。
リリアーナは目を伏せた。
「……泣きそうになる」
「……」
「でも、泣いたからって、許すわけじゃない」
その言葉に、セドリックはゆっくり頷いた。
「分かっている」
「花を受け取ることと」
「……」
「あなたを受け入れることは、別よ」
「……ああ」
「そのくらい、ちゃんと分けるわ」
「君はそうするだろうな」
「何、その言い方」
「強いと思った」
「前世より?」
「……ああ」
その答えに、少しだけ胸の奥が熱くなる。
褒められたいわけではない。
でも、前世とは違う自分を、自分でも少しだけ信じたいとは思っていた。
「強くならざるを得なかったのよ」
「そうだな」
「あなたたちのせいで」
「……否定しない」
その潔さが、今は少しだけありがたい。
言い訳されるよりずっといい。
部屋の中は静かだった。
花瓶の花は、窓から入る夕方前の光を受けて、控えめに揺れている。
豪奢ではない。
でも、そこにあるだけで目が行く。
十年分の花。
そう思った瞬間、胸の奥がまた少しだけ痛んだ。
「……置いていって」
リリアーナは言った。
「持って帰れとは言わないのね」
「花に罪はないもの」
「……ああ」
「でも、毎日これを見て、簡単に優しくなれるとも思わないで」
「思わない」
「本当に?」
「……願いたくはなるが」
「それ、さっきも聞いたわ」
「変わっていない」
それが少しだけ可笑しくて、リリアーナはほんの僅かに口元を緩めた。
その小さな変化を、セドリックはたぶん見逃さなかった。
でも、それについて何も言わない。
そこだけは、昔より少しだけ賢くなったのかもしれない。
「今日はもう帰って」
「……ああ」
「花は、ありがとう」
「……」
その礼に、セドリックの目が一瞬だけ動いた。
受け取られたのだと、本当に今、実感した顔だった。
「心はまだ渡せないけれど」
「……」
「花は受け取るわ」
それが今の、自分に言える精一杯だった。
セドリックは深く頷き、静かに立ち上がった。
扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返る。
「リリアーナ」
「何」
「その花は」
「ええ」
「十年遅い」
「知ってる」
「……ああ」
それだけ言って、彼は出ていった。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、暖炉の熱と、夕方前の淡い光と、窓辺の花瓶に揺れる季節の花だけだった。
リリアーナはしばらくその場を動けなかった。
泣くつもりなんてない。
でも、やっぱり目の奥が少しだけ熱い。
花に罪はない。
でも、花が連れてくる記憶には、どうしようもなく痛いものがある。
それでも、受け取った。
心までは渡さないと決めたまま。
それが今の自分にできる、ぎりぎりの受け取り方だった。
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