もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません

なつめ

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第31話 実家への仕返し


 それが表へ出たのは、雨の翌々日の朝だった。

 夜のあいだに空は洗われたらしく、窓の外にはひどく薄い青が広がっていた。春先の空はまだ頼りない。晴れていても、どこか白く、冷たく、光の輪郭だけが先に来る。けれど、その朝の光は、ここ数日の曇りや湿り気をひとまず押し流したあとの、あまりに残酷なほど澄んだものだった。

 伯爵家の朝食室は、その澄んだ光をまともに受けていた。

 長い窓から射し込んだ光が白いクロスの上へ広がり、銀のポットや皿の縁を冷たく光らせる。磨き抜かれた食器はいつも通り整っているのに、空気だけが整っていなかった。使用人たちの動きは小さく、足音も最小限だが、かえってその抑え方が異様だった。誰もが、声を出せば何かが壊れると知っているみたいに息を潜めている。

 その中心にいたのは、父だった。

 新聞を広げる手が、わずかに震えている。

 紙の端が、かすかに鳴る。
 普段なら絶対に出さない種類の音だ。
 父はいつも、どれほど機嫌が悪くても、表面の形だけは崩さない男だった。
 その父の指が、今朝は新聞の紙ひとつうまく扱えていない。

 継母はまだ席についていなかった。
 いや、正確には、すぐ隣に立っているのに、椅子へ腰を下ろせずにいる。
 顔色は悪い。
 だが蒼白というより、血の気だけが薄く引いた灰色に近い。
 目元には昨夜眠れなかった跡があり、それでも無理やり髪を整え、首元へ真珠を並べているところが、かえって痛々しかった。

 マリアンヌだけが、何も分からない顔で二人を見比べていた。

「何があったの」

 妹の問いは小さかった。
 だがその声で、父が新聞をばさりとたたんだ。

「お前は黙っていなさい」

 怒鳴りはしない。
 けれど、切羽詰まった時の父の声だった。

 リリアーナはその様子を、食卓の自分の席から静かに見ていた。

 昨夜のうちに、ある程度の予感はあった。
 セドリックが「明朝には動く」とだけ言った時の声音で、それがただの商会への圧力では済まないと分かったからだ。
 商会の帳簿。
 侯爵家の寄進名目の流用。
 伯爵家の借財整理と婚姻契約を結びつけた手紙。
 全部が揃った以上、表へ出ないはずがなかった。

 ただ、いざその朝を迎えてみると、思っていた以上に静かだった。

 ざまあ、というのはもっと派手なものだと思っていたのかもしれない。
 人が集まり、怒声が飛び、帳簿が叩きつけられ、顔が歪むような。
 でも実際に壊れる時の音は、もっと小さい。
 澄みすぎた朝の光の中で、紙が鳴り、呼吸が浅くなり、椅子へ腰を下ろせないまま立ち尽くす。
 そういうふうに、静かに壊れていく。

「それを、見せなさいよ」

 継母が、無理やり落ち着いた声を作って父へ言った。

「どの程度のものなの」
「……どの程度、だと?」
「大げさに騒ぎすぎているだけかもしれないでしょう。商会の小さな諍いか何かで」
「黙れ」

 父が低く言った。

「小さな諍いで済むなら、侯爵家の法務が朝一番で動くか」
「……」

 継母の唇が、引きつる。
 侯爵家。
 その単語が、今朝ばかりは救いではなく刃にしかならない。

 リリアーナは指先でナプキンの端をなぞった。
 もう分かっている。
 きっと、商会筋の書類が回ったのだ。
 伯爵家が娘の婚姻を担保に借財整理を進めていたこと。
 実家と商会、侯爵家内部の寄進金流用が繋がっていたこと。
 そして、伯爵家がそれを「娘の幸せ」という柔らかな言葉で包んでいたこと。

 社交界は、下品な露悪よりも、“上品な顔で汚れていた”事実に厳しい。
 賭場や愛人なら、まだ笑って済ませる者もいる。
 だが、慈善と婚姻と家格を掲げながら、その裏で金と体面をやり取りしていたとなれば別だ。
 しかも娘の人生をそのまま担保にして。

「お嬢様」

 エマが、ごく小さく声をかけた。
 食卓の後ろに控えながら、主人の顔を見ている。

「……平気よ」

 そう返すと、自分の声が驚くほど静かだった。
 怒りに震えるでもない。
 泣きたくなるでもない。
 ただ、胸の奥に、ひどく冷たいものが澄んでいた。

 その時、玄関ホールのほうで、慌ただしい足音がした。

 使用人が一人、顔色を変えて入ってくる。

「旦那様」
「何だ」
「クラウディア侯爵夫人様からのお使いが」
「通せ」
「……その、面会ではなく、お言葉だけを」
「何だ」

 使用人はためらった。
 そして、ほんの少し目を伏せて言う。

「本日の茶会は、急病のためお取りやめとのことです」
「……」

 継母の顔から、さらに色が落ちた。

 クラウディア侯爵夫人。
 昨日までなら、継母が“親しい友人”と呼びたがった相手だ。
 その茶会が、急病を理由に取りやめられる。
 それ自体はよくある断り文句だ。
 だが、今日この朝に、それが届く意味を、この部屋の誰もが理解していた。

 切られたのだ。

 しかも、穏やかで、上品な形で。

「……一件だけよ」

 継母が、ほとんど自分へ言い聞かせるみたいに言う。

「たまたまよ」
「たまたまなものか」

 父の声は低く重い。
 その時、さらに別の使用人が駆け込んできた。

「旦那様、エヴァンス商会の番頭が」
「今度は何だ」
「本日中に、先月分の利払いについてご相談を、と」
「……相談?」
「はい。先方は“契約の前提が揺らいだ以上、支払い形態の見直しが必要”と」

 それで終わりではない。

 門番からの取り次ぎ。
 婦人会からの“しばらく寄進の受付を見合わせたい”という書状。
 小さな舞踏会の招待取り消し。
 先延ばしにしていた仕立て屋からの“先約優先”の断り。
 全部が同じ朝に、一斉に来た。

 ひどく静かだ。
 だが、逃げ場がない。

 昨日まで、この家は伯爵家だった。
 格も体面も、まだかろうじて保っていた。
 今日の朝、その体面だけが一斉に引き剥がされた。

 社交界から切り捨てられる、とはこういうことなのだと、リリアーナはどこか冷静に思った。

 誰も怒鳴らない。
 誰も正面から「あなた方とは今後付き合えません」とは言わない。
 ただ、茶会が取りやめになり、招待が消え、商会が条件を変え、婦人会が距離を置く。
 そうやって、今日まで当然のように流れていた水だけが、いきなり止まる。

 その時になって初めて、人は自分がどれほど多くの“当然”に支えられていたかを知る。

 父は立ち上がった。
 椅子が床を擦る。
 その音が、やけに大きく響く。

「馬車を出せ」
「どちらへ」
「レーヴェン商会だ」
「でも」
「今すぐだ!」

 その怒声に、マリアンヌがびくりと肩を震わせた。

 継母は父の腕を掴む。

「やめて。今、出向いたらかえって惨めだわ」
「惨めも何もあるか!」
「あるわよ! 侯爵家が動いているのなら、今こちらが飛び込むのは“負けを認める”ようなものだもの!」
「ではどうする」
「……」

 継母の目が、ゆっくりとリリアーナへ向いた。

 その視線を受けた瞬間、リリアーナは胸の内で、ああと静かに思った。

 来る。

 泣きついてくる。
 自分たちが切り捨てた娘へ。
 都合が悪くなった今になって。

「リリアーナ」

 継母の声は、今まで聞いたことのないほど柔らかかった。
 気味が悪いくらいに。

「あなた、侯爵様と今もお話しできるのでしょう」
「……」
「少し行き違いがあっただけだと、そう伝えなさい」
「お母様」
「家と家のことですもの。女一人が頑なになる必要はないわ」
「頑な」
「そうよ。あなたも分かるでしょう? ここで意地を張っても、誰も幸せにならない」
「幸せ」

 その言葉を、リリアーナは静かに繰り返した。

 継母はうなずく。

「そう。あなたのためでもあるのよ」
「私の?」
「もちろんよ。こんな騒ぎになれば、あなたの評判だって傷つくわ」
「……」
「侯爵家と穏便に話を戻し、婚約の形だけでも保っておけば」
「お母様」

 リリアーナはそこで、継母の言葉を遮った。

 声は大きくない。
 でも、それだけで継母は口を閉じた。
 前世ならありえなかったことだ。
 自分がこの人の言葉を途中で止めるなんて。

「まだ、そういう言い方をするのね」
「何を」
「私のため、って」
「だってそうでしょう?」
「いいえ」

 リリアーナはゆっくりと立ち上がった。

 窓から差す朝の光は、少しもやわらかくなっていない。
 むしろ、時間が経つほど部屋の中の色を冷たく照らし出していく。

「これは私のためじゃないわ」
「リリアーナ」
「お父様も、お母様も」
「……」
「最初から、私の幸せなんて一度も見ていなかった」
「今はそんなことを言っている場合じゃ」
「今だから言うのよ」

 父が苛立たしげに睨む。

「感情的になるな」
「感情的?」

 リリアーナは、そこでほんの少しだけ笑った。
 乾いた、静かな笑いだ。

「あなたたちは、今になって私に何を求めてるの?」
「家族としての助けだ」
「家族」
「そうだ」
「……よく言えるわね」

 その一言で、父の顔が強張る。
 でも、もう怖くない。
 この人が怒っても、今の自分が失うものはないからだ。

「あなたたちは、私が泣いていた時、一度も振り返らなかった」

 部屋の空気が止まる。

 誰も動かない。
 マリアンヌだけが、はっとしたようにリリアーナを見た。

「熱を出した朝も」
「……」
「夜会から戻って、何も食べられない日も」
「……」
「侯爵家で一人だった時も」
「……」
「あなたたちは、私に“家のため”と言うだけで」
「……」
「一度も振り返らなかった」

 その一言一言が、もう涙にはならない。
 ただ静かに、相手の顔へ落ちていく。

「今になって、家族?」
「リリアーナ、それは」
「都合が悪くなったから、でしょう」
「違う!」
「違わないわ」

 今度は父が、はっきりと声を荒げた。

「お前は伯爵家の娘だ!」
「そうやって言うのも、便利ね」
「何だと」
「使いたい時だけ娘」
「……」
「侯爵家へ置いて金を引き出す時も娘」
「……」
「泣きついて取りなしてほしい時も娘」
「……」
「でも、私が泣いていた時は」

 リリアーナはそこで、父と継母の顔を交互に見た。

「一度も、娘じゃなかったでしょう」

 継母の目に、初めて本当の焦りが浮かんだ。

「そんなこと」
「言わないで、ではないわよ」
「……」
「事実でしょう」

 リリアーナは机の上に置かれた、今朝届いた断りの書状を一枚手に取った。
 クラウディア侯爵夫人からの茶会取り消し。
 上品な文面。
 だが、中身は切断だ。

「あなたたちが今失っているのは、私じゃない」
「……」
「体面よ」
「……」
「金よ」
「……」
「だから慌ててるの」

 父が一歩踏み出した。

「黙れ」
「黙りません」
「お前は」
「私は、もうこの家のためには動かない」

 はっきりと言う。
 その声は自分でも驚くほど静かだった。

「侯爵家へ口添えもしない」
「……」
「商会へ取りなしもしない」
「……」
「社交界へ噂を揉み消しもしない」
「……」
「なぜなら、私はもう、あなたたちの娘として使われるつもりがないから」

 継母が息を呑む。
 父の顔は硬い。
 だが二人とも、もう反論できないことは分かっている。

 証拠は出た。
 不正も、横流しも、娘の婚姻を利用した契約も。
 社交界はもう動いた。
 そして今、二人が縋れる相手は自分しかいない。
 だからこそ、その自分がはっきり拒めば、それで終わる。

「……お姉様」

 小さな声で、マリアンヌが呼んだ。

 リリアーナはそちらを見た。
 妹の顔は白い。
 彼女がどこまで知っていたのかは分からない。
 あるいは、本当に何も知らなかったのかもしれない。

「あなたも」
「……」
「この家に残るなら、よく見ていて」
「……」
「家族という言葉が、どう使われるのか」
「……」
「そして、自分が使われる側に回った時」
「……」
「誰が振り返るのかを」

 マリアンヌは泣きそうな顔で唇を引き結んだ。
 けれど、今ここで妹にまで優しくする気にはなれなかった。
 優しくしてしまえば、また“お姉様なら”が始まる。
 それはもう、終わりにしなければならない。

 父が低く唸るように言う。

「後悔するぞ」
「しないわ」
「家を失えば」
「家なら」
「……」
「とっくに、失っていたもの」

 その言葉が落ちたあと、朝食室は完全に静まり返った。

 外では鳥が一羽鳴いた。
 晴れた朝らしい、甲高く短い声。
 それがこの室内だけ別の季節に取り残されているみたいで、妙におかしかった。

 リリアーナは、手にしていた書状を机へ戻した。

「さようなら、お父様、お母様」

 その呼び方に、もう意味はない。
 でも、最後だからこそ、あえてそう言う。

「これ以上、私に泣きつかないで」
「……」
「あなたたちは、私が泣いていた時、一度も振り返らなかった」
「……」
「だから私も、もう振り返らない」

 言い切る。

 誰も、引き止めなかった。
 引き止められなかったのだろう。
 あるいは、もう引き止めても無駄だと分かったのか。

 リリアーナは踵を返した。
 エマがすぐ後ろにつく。
 廊下へ出ると、朝の冷えた空気が頬へ触れた。
 部屋の中の淀みとは違う、外へ続く冷たさだった。

 歩きながら、胸の奥が少しだけ痛む。
 情がないわけではない。
 生まれ育った家だ。
 小さな頃の記憶だってある。
 だから、何も感じないほど冷たくはなれない。

 でも、その痛みは、足を止めるほどのものではなかった。

 むしろ、ようやく切るべきものを切ったあとの、まっすぐな痛みだった。

 だが、それで終わりではなかった。

 自室へ戻りかけたところで、背後から足音が追ってきた。
 絨毯を踏む乱れた音。
 この家で、父と継母がこんなふうに取り乱した足音を立てるのは珍しい。
 だから、振り返らなくても分かった。

「待ちなさい!」

 継母の声だった。
 高く、かすかに掠れている。
 怒鳴っているのではない。
 泣きそうなのだ。

 リリアーナは足を止めた。
 止めたのは、情が残っていたからではない。
 最後に、きちんと終わらせるためだ。

 振り返る。

 継母は廊下の半ばで胸を上下させていた。
 父もすぐ後ろにいる。
 さきほどまでの“伯爵”と“伯爵夫人”の顔はもう半ば崩れていて、代わりに、足元から床が抜けるのを初めて知った人間の怯えがむき出しになっていた。

「本当に、このまま行くつもり?」
「ええ」
「話し合いましょう」
「今さら?」
「今だからよ!」

 継母は一歩、また一歩と近づいてくる。
 真珠の首飾りが細く鳴る。
 手袋をした手は強く握られ、白くなっていた。

「あなたにだって分かるでしょう? 家が崩れたら、あなたにだって傷がつくのよ」
「もう傷はついているわ」
「そんな言い方をしても何も」
「何も変わらない?」
「……」
「変わるわ」

 リリアーナは静かに言った。

「少なくとも、私はもう、あなたたちの都合で黙りはしない」
「リリアーナ」

 今度は父が口を開く。
 低く抑えた声。
 だが、その抑え方が逆に切羽詰まっている。

「侯爵家へだけは話をしてくれ」
「嫌です」
「お前が言えば、まだ穏便に」
「穏便に?」
「そうだ」
「誰にとって」
「……家にとってだ」
「ほら」

 リリアーナは乾いた笑いをひとつだけ落とした。

「結局それでしょう」
「それの何が悪い」
「私にとっては全部よ」

 父の眉間に、深い皺が刻まれる。
 継母は唇を震わせながら、今度は声を落とした。

「お願いよ」

 その一言に、廊下の空気が少しだけ変わる。
 伯爵夫人が、娘に“お願い”と口にする。
 それ自体が、もう崩壊の証みたいなものだった。

「私たちだって、ここまでになるとは思わなかったの」
「……」
「少し借りを整理して、侯爵家との縁で落ち着かせて、それで」
「それで?」
「家を守りたかっただけなのよ」
「家を」
「そうよ。あなたの居場所でもあるのよ」

 その言葉に、今度こそリリアーナははっきり笑った。

「居場所?」

 笑いはすぐ消えた。
 代わりに、声だけがひどく冷たくなる。

「私の居場所が、ここにあったなら」
「……」
「どうして私は、泣く時いつも一人だったの」

 継母の口が、開きかけて止まる。

「どうして熱を出した朝、あなたは私の部屋へ一度も来なかったの」
「……」
「どうして侯爵家から戻るたび、“家のために我慢しなさい”しか言わなかったの」
「……」
「どうして私が痩せていくのを見ても、“見苦しいから食べなさい”としか言わなかったの」

 ひとつずつ、静かに置いていく。
 責めるためだけではない。
 これは確認だ。
 この人たちが、本当に一度も振り返らなかったのだと、自分の耳でもう一度確かめるための。

「あなたたちは、私の痛みを一度も居場所だと思わなかった」
「リリアーナ……」
「だから私は、もうこの家を居場所だとも思わない」

 父が、苛立ちを飲み込み損ねたように一歩前へ出る。
 だが、もうその圧は効かなかった。

「お前は冷たい」
「そうかもしれませんね」
「家族を見捨てる気か」
「見捨てたのは、先にそちらでしょう」

 その返答に、父の顔から言葉が消えた。

 継母は目元を濡らしている。
 泣くのだ、と、どこか冷めた気持ちで思う。
 でも、その涙にもう心は動かない。
 彼女が泣くところを初めて見る気がした。
 けれど、自分が泣いていた時、この人はいつも“泣くなら顔を整えてからにしなさい”と言う側だった。

 だから、今さらその涙に意味はない。

「エマ」
「はい」
「部屋へ戻りましょう」

 主人の声に、エマがすぐ一歩前へ出る。
 その動きが、今のリリアーナにとってどれほど救いかを、両親はたぶん一生分からない。

「待ちなさい!」

 継母が最後に叫ぶ。

「せめて、侯爵様にだけは!」
「嫌です」
「どうしてそこまで」
「あなたたちは、私が泣いていた時、一度も振り返らなかったから」

 今度は、はっきりと。
 逃げ場のない形で言う。

「その事実だけで、もう十分よ」

 それが本当の最後だった。

 リリアーナはもう振り返らずに歩き出した。
 背後で継母が何か言った。父も低く叱責する声を出した。
 だが、どちらも、雨のあとの廊下へ細く溶けていくだけだった。

 廊下の先、窓の外では、雲の向こうから本格的な光が差し始めていた。
 白かった空に、ようやく薄い青が混じる。
 遅い春は、やはり少しずつ来ている。

 伯爵家のざまぁは、怒鳴り声や土下座の形ではなく、静かに、確実に始まったばかりだった。
 そしてその始まりを、自分はもう、涙ではなく自分の足で通り抜けたのだと、リリアーナは静かに理解した。

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