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第37話 失わせないために
朝は、まだ来きっていなかった。
空の東の端だけが、夜の黒を薄く裂いている。夜明け前特有の、あの温度のない青白さが、王都の石畳を静かに撫でていた。鳥の声もまだ少ない。人の動きもまばらで、街は目を開ける寸前の浅い眠りに沈んでいるようだった。
その静けさの中で、侯爵邸の裏門だけが、ひどく注意深く息をしていた。
護衛は多い。
だが、見た目にはそう見えないよう配置されている。
表に出る馬車は二台。
一台は見張りの目を引くための、いかにも軽く見える箱馬車。
もう一台は少し遅れて別の門から出る、本命の書類搬送用。
さらに、その外側を、平服の者たちが距離を保って動く。
明朝の踏み込みはもう始まっている。
商会の表口へ向かった者。
婦人会の記録係へ書類を届けに行く者。
伯爵家側の出入りを見張る者。
全部が同時だ。
だからこそ、敵もまた同時に動くしかない。
そして彼らが狙うのは、金でも帳簿でもなく、リリアーナその人だと、もう分かっていた。
「最後に聞く」
裏門の影で、セドリックが低く言った。
「本当に行くのか」
「ええ」
「今からでも遅くない」
「遅いわ」
リリアーナは、薄い灰青の外套の襟を指先で整えながら答えた。
今日は華やかな装いではない。
旅用に近い、動きを邪魔しない服。
だが色だけは前世の襲撃の日と似せてある。
遠目に見れば、あの日と同じ女に見えるように。
囮。
その役目を、自分は自分で選んだ。
ただ守られるためではない。
敵に「また同じように消せる」と思わせるための役。
怖くないはずがない。
でも、もう“何も知らないまま狙われる女”として馬車へ乗るつもりもなかった。
「君が前に座る必要はない」
セドリックが言う。
今日に限って、声の低さの底にほとんど隠しきれていない緊張がある。
リリアーナはそれを見て、ほんの少しだけ息を柔らかくした。
「必要よ」
「だが」
「前世のあの夜、私がどこにいたか」
「……」
「敵はそれを繰り返すつもりなんでしょう」
「……ああ」
「なら、同じ位置にいなきゃ意味がないわ」
「……」
セドリックは答えなかった。
答えられないのだと分かる。
同じ場面へもう一度自分を置くことが、彼にとってどれほど怖いか、今のリリアーナは知っている。
だから、彼が「やめろ」と命じなかったこと自体が、すでに信頼だった。
「大丈夫よ」
そう言ってから、自分で少しだけ笑いそうになる。
大丈夫、ではない。
でも、その言葉を口にすることが、今日の自分には必要だった。
「一人で行くわけじゃないもの」
「……」
「離れて守るは、もう終わりでしょう?」
「……ああ」
その返事は低く、短く、しかし確かだった。
ローレンスが、少し離れた位置から時計を閉じる音がした。
合図だ。
動く時間。
「行くぞ」
セドリックが馬車の扉を開ける。
以前のように、ただエスコートのために手を差し出すのではない。
今は、共に乗り込むための手だ。
リリアーナは、その手を見た。
前世の終わりには、届かなかった手。
今世では、ようやく同じ方向へ伸びてくる手。
迷いはあった。
それでも、自分からその手を取った。
*
馬車の中は暗かった。
薄い朝の光は、まだカーテン越しには弱すぎる。
代わりに、向かいの小棚へ固定された小さな灯りが、室内をほんのり照らしていた。揺れに合わせて炎が細く揺れ、木の壁と革の座席へ浅い影を作っている。
リリアーナは前方の座席、窓際へ座った。
前世と同じ位置。
違うのは、その隣に今はセドリックがいることだ。
向かいではない。
遠くでもない。
肩がわずかに触れ合う距離。
前なら、その近さに息が詰まったかもしれない。
今も緊張はする。
けれど、その緊張の中に「一人ではない」という感覚がちゃんとある。
「覚えていることを、全部言え」
セドリックが低く言う。
「順番も、匂いも、違和感も」
「ええ」
「君が読む。私が動かす」
「ええ」
その短いやり取りだけで、胸の奥が少しだけ定まる。
君が読む。私が動かす。
それが今の二人の役割だ。
馬車がゆっくり動き出す。
石畳を拾う車輪の音。
革具のきしみ。
馬の鼻息。
全部が、前世の記憶を薄く呼び起こす。
だが、あの時とまったく同じではない。
違いを知っているからこそ、今は読める。
南区へ向かう道は、王都の中でも古い石壁が多い。
道幅は広くないが、荷車が通れないほどではない。
礼拝堂の裏手へ抜ける前に、一度だけゆるく曲がる。
その手前に低い倉庫壁。
さらにその先、井戸のある小さな広がり。
前世では、そこで止められた。
リリアーナは息を浅くしすぎないよう、ゆっくり吸った。
「右前方の角」
小さく言う。
「何だ」
「前より人の気配が少ない」
「……」
「少なすぎるの」
「囮は動かした」
「ええ。でも、それでも静かすぎる」
「他は」
「まだ」
セドリックの手が、膝の上で一度だけ動いた。
合図だ。
外の護衛へ、速度を変えず進めという。
馬車は止まらない。
同じ場面へ向かっていく。
逃げずに。
今度は、読んでいる側として。
最初の違和感は、音だった。
荷車の車輪は、石畳の上では独特の重い音を立てる。
だが前方の曲がり角の向こうにいるはずの荷車からは、その金属と木のこすれる鈍い響きがしない。
「停車中じゃない」
「……」
「置いてあるだけ」
「前もそうだったか」
「ええ。でも前より角度が浅い」
「浅い?」
「急に止まった形じゃないわ。最初から“見つけてほしい”置き方」
「……なるほど」
馬車が曲がる。
そして、いた。
道の真ん中ではなく、やや左へ寄せた荷車。
布をかけた荷は、雨避けの形をしているが、重みがない。
車輪は斜め。
前世より少しだけ雑だ。
焦っている。
向こうも、今日こそ仕留めなければならないと思っているから。
「荷車の下」
リリアーナは即座に言う。
「前より多い。三人はいる」
「弓は」
「右後ろ、低い位置」
「……」
「左上は囮。撃つなら右後ろが先」
その瞬間、セドリックの目が変わった。
恐れではない。
動く者の目だ。
外へ向け、短く落とす。
「右後ろを潰せ。低い位置だ」
「はっ」
護衛の返答と同時に、空気を裂く音が来た。
矢だ。
だが今度は、待っていた音だった。
窓を掠めるより早く、外側から盾が跳ね上がる。
硬い衝突音。
矢が弾かれる。
同時に、馬車の後ろ側で二つ、短い悲鳴。
「当たった」
「右後ろ、二人」
「もう一人は」
「動かない。次を待ってる」
リリアーナの声は、自分でも驚くほど冷静だった。
怖い。
もちろん怖い。
でも今は、その怖さより前に、記憶が仕事をしている。
前世のあの夜、矢は二段で来た。
最初は脅し。
二本目が本命。
そして、被害者が身を伏せたところへ、荷車下の者が一気に来る。
「来るわ」
言った瞬間、荷車の布が翻った。
中から影が飛び出す。
同時に馬車が急に止まったように見せるため、御者が手綱を強く引く。
全部、こちらの想定通りだ。
敵は“罠に嵌めている側”のつもりで飛び出してくる。
だが、本当に嵌っているのは向こうだ。
「今!」
リリアーナが声を上げる。
それは悲鳴ではない。
合図だった。
次の瞬間、両脇の石壁の上から、一斉に影が落ちた。
平服に紛れていた侯爵家側の護衛。
倉庫壁の裏手に潜ませていた兵。
さらに荷車の死角を塞ぐように回り込んでいた二人。
敵は、想定以上の人数に一瞬で足を止める。
その逡巡を、セドリックは見逃さなかった。
扉が開く。
彼が地面へ降りる。
黒い外套が短く翻る。
次の瞬間には、いちばん前へ飛び出した男の短剣を弾き、その手首を折るように捻って地へ叩き伏せていた。
前世では、彼は「間に合わなかった」側だった。
今世では違う。
今度は、始まる前から終わらせる側にいる。
リリアーナは馬車の中で震えそうになる膝を押さえ、窓の隙間から外を見た。
同じ場面だ。
礼拝堂裏。
荷車。
右後ろの低い射手。
雨上がりの泥。
でも、違う。
今度は自分が叫んでいる。
読んでいる。
動かしている。
そしてセドリックは、ただ庇うだけではなく、その声を使って敵を狩っている。
左上の囮の射手が、やはり遅れて姿を見せる。
だが既に壁上の護衛が抑えている。
荷車下の三人も、逃げ道へ走ろうとして、その先に回り込んでいた兵へ行く手を塞がれた。
「逃がすな!」
セドリックの声。
短い。
鋭い。
だが今夜のそれは、前世の怒りの焼き直しではない。
もっと冷静で、もっと確実だった。
男の一人が懐から何かを投げようとした瞬間、リリアーナは息を呑んだ。
「左手! 粉袋!」
セドリックが即座に振り向く。
剣の柄で男の手を打ち、袋が泥へ落ちる。
白い粉が広がる。
目潰し用の石灰だ。
前世でも使われた。
混乱の中で視界を奪い、悲鳴と馬の暴走を起こすための手口。
それも今度は、地面の泥へ無駄に吸われただけで終わる。
捕縛は、思ったより早く終わった。
叫び。
罵声。
短い衝突音。
そして沈黙。
最後に残ったのは、荷車の傍で地面へ押さえつけられた男が、唇を血で濡らしながらこちらを睨む顔だった。年は四十前後。粗末な外套の下に、商会筋の私兵がよく使う質のいい革胴着を隠している。
「……侯爵様」
護衛頭が低く言う。
「こいつ、レーヴェンの倉庫番頭です」
「生きてるか」
「ええ」
「なら口を割らせる」
それだけで終わるかと思った。
だが、男は地面へ押さえ込まれたまま、にやりと笑った。
嫌な笑い方だった。
敗けた者の笑いではない。
まだ、何かを握っているつもりの顔。
「一人で乗ってねえとはな」
泥の中で、男が吐き捨てる。
「だが、結局お前はあの女から目を離せねえ」
「……」
「侯爵がそこまで必死になるなら、次も狙いは簡単だ」
その言葉に、前ならセドリックはもっと冷たく凍ったかもしれない。
今夜の彼は違った。
無言のまま男へ近づく。
しかし怒りに任せて蹴るでも、斬るでもない。
ただ、男の襟首を掴み上げ、低く言った。
「次があると思うか」
その静かな声音に、男の笑いが初めて揺らぐ。
「お前たちは、前と同じ場面へ来た」
「……」
「そして今、同じ場面で負けた」
「……」
「もう二度と、同じやり方は通らない」
その言葉を、リリアーナは馬車の中で聞いた。
前世の悲劇を。
同じ場面で。
同じ手口で。
今度は上書きしたのだと、ようやく実感が胸の中へ広がっていく。
*
すべてが終わって、ようやく馬車から降りた時、足元の石畳はまだ少し湿っていた。
雨上がりの泥の匂い。
礼拝堂の白壁。
崩れかけた石垣。
前世のあの夜も、たしかこんなふうに湿っていたと思う。
だが今、目の前に転がっているのは自分ではない。
押さえ込まれているのは敵だ。
泣きそうなほど、それが現実なのだと理解するのに少し時間がかかった。
「大丈夫か」
セドリックが、今度は馬車の外からではなく、正面から問うてくる。
剣はもう鞘に戻っていた。
外套の裾に泥がついている。
頬の端へ細い土の筋がついているのに、それを拭う暇もないまま、まずこちらを見ている。
リリアーナは、ゆっくりと頷いた。
声を出すと、たぶん震えると思ったからだ。
「……リリアーナ」
「……ええ」
「怪我は」
「ないわ」
そこまで言ってから、ようやく少しだけ笑った。
「今度は、本当にない」
「……」
その一言に、セドリックの目が変わる。
前世の夜を知る者だけが、その言葉の意味を知る。
今度は、本当にない。
前はあった。
血も。
冷たさも。
取り返しのつかない傷も。
今夜は違う。
セドリックは一歩近づいた。
だが、抱きしめる前に止まる。
そこが、今の彼らしかった。
「……上書きできたか」
低い声でそう問われ、リリアーナは少しだけ目を見開いた。
上書き。
まさに、自分が心のどこかで思っていた言葉だった。
「ええ」
今度ははっきり答える。
「少しだけ」
「少し、か」
「だって、前の私が死んだことは消えないもの」
「……」
「でも、今夜は違った」
「……ああ」
「同じ場所で」
「……」
「同じ手口で」
「……」
「今度は、私がただ狙われるだけじゃなかった」
その時になって、胸の奥から熱いものが一気に上がってきた。
泣くつもりなんてなかった。
でも、違った。
生きている。
立っている。
そして、前世と同じ場面で、自分の声が役に立った。
「私」
「……」
「ちゃんと、あなたの隣で戦えたわ」
その一言を言った瞬間、涙が一筋だけ零れた。
悲しいからではない。
怖かったからだけでもない。
もっと違う種類の、止まっていたものがほどけたあとの涙だった。
セドリックは、その涙を見ても、すぐには触れなかった。
前なら、触れ方を間違えたかもしれない。
今は違う。
「……ああ」
彼は低く言う。
「君が読んだ」
「……」
「君が先に気づいた」
「……」
「私は、それに従って動けた」
「……」
「前世とは、違う」
その言葉が、胸の奥へゆっくり染みていく。
違う。
今世は、もう前世の焼き直しではない。
荷車。
矢。
石灰の袋。
右後ろの低い射手。
全部同じだった。
でも、それでも、結末は変えられるのだと、同じ場面で知った。
リリアーナは涙を拭い、少しだけ深く息を吸った。
礼拝堂の裏手の空気は冷たい。
でも、吸い込める。
前世の夜には、それができなかった。
「……爽快ね」
思わずそう零すと、セドリックが一瞬だけ目を瞬いた。
それから、口元が本当に僅かに動く。
「今、その感想か」
「だって」
「何だ」
「すごく嫌な記憶だったのよ、ここ」
「……ああ」
「でも今は、あいつらが泥まみれだもの」
「……」
「ちょっとだけ、気分がいいわ」
その言葉に、セドリックはほんのわずかに息を吐いた。
笑ったわけではない。
でも、張りつめていたものが一筋だけ緩んだのが分かる。
「それなら、よかった」
「ええ」
「まだ終わってはいない」
「分かってる」
「商会の頭も」
「ええ」
「母も」
「ええ」
「伯爵家も」
「……全部」
リリアーナは、ようやくまっすぐ前を見た。
捕らえられた男たちは馬車へ詰められていく。
護衛が周囲を固める。
夜明けは、もうすぐそこだ。
東の空が少しずつ白くなり始めている。
前世の悲劇を“同じ場面で上書きする”。
それは、ただ敵を倒したという以上の意味を持っていた。
自分が、もう前と同じ女ではないという証明だ。
守られるだけの存在ではなく。
恐怖に固まるだけの花嫁候補でもなく。
知識と記憶で敵の手を読み、声を上げ、共に戦った女。
その事実が、背筋を少しだけまっすぐにしてくれる。
「行きましょう」
リリアーナは静かに言った。
「まだ、終わってないもの」
「……ああ」
セドリックが隣へ並ぶ。
今度はもう、前みたいに「庇うための距離」ではない。
ほんの少しだけ肩が近い。
それでも、ちゃんと並ぶための距離だった。
礼拝堂の裏手を出る時、リリアーナは一度だけ振り返った。
同じ石畳。
同じ壁。
同じ湿った朝の匂い。
でも、もうそこに前世の自分はいない。
いるのは、生きて立っている今の自分だけだ。
それで十分だった。
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