十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第22話 妹は姉の椅子を許さない


 ミュゼリアが最初にそれを聞いたのは、春の午後の小さな茶会だった。

 オルフェルト伯爵家の南向きの客間には、白いレースのカーテン越しに柔らかな光が入っていた。卓の上には銀の茶器、砂糖菓子、蜂蜜漬けの果実、小さな焼き菓子が並べられている。すべて、ミュゼリアの好みに合わせた甘く可憐なものばかりだった。

 けれど、彼女の機嫌は朝から悪かった。

 公爵家へ押しかけた日、エルネストに言われた言葉が、耳の奥にずっと残っていたからだ。

 俺は一度も君を選んでいない。

 あの瞬間、客間の床が消えたようだった。

 自分は長い間、信じていた。エルネストは寡黙で、冷たくて、誰にでも淡い距離を置く人だから、まだ誰も選んでいないだけなのだと。彼が自分を見ないのは、自分がまだ近づききれていないからだと。

 なのに、彼は姉を選んだ。

 十一度も離縁された姉を。

 家ではいつも静かに俯き、父に命じられ、母に諭され、ミュゼリアが泣けば謝っていた姉を。

 役に立たないはずだった。

 何もできないはずだった。

 家で一番大事にされるのは、いつもミュゼリアだった。父も母も使用人たちも、ミュゼリアの涙を見ればすぐに動いた。姉はそのためにいるようなものだった。譲り、謝り、我慢するための人。

 なのに今、その姉が公爵家で椅子を与えられている。

 エルネストの隣に。

 ミュゼリアはその光景を見たわけではない。

 だが、公爵家に出入りする商人の娘から聞いたのだ。

「ヴァルクレイド公爵家では、新しい奥様をとても丁寧に扱っているそうですわ。食堂では公爵様のお隣にお席があるとか。侍女長様も、奥様のお身体が冷えないようにと細やかに気を配っていらっしゃるそうです」

 その娘は、悪気なく言った。

 むしろ羨ましげに。

「それに、奥様は帳簿仕事もお得意だとか。公爵家の帳簿の不一致を見つけられたと、父が申しておりました。とてもお静かだけれど、よく気づかれる方だと」

 ミュゼリアの指先が、茶杯の取っ手を強く握った。

 静かだけれど、よく気づく。

 それは、家では何と呼ばれていただろう。

 細かい。

 暗い。

 人の粗ばかり見る。

 ミュゼリアは微笑みを崩さないよう、必死に唇を整えた。

「まあ、お姉様が?」

 声は甘く出せた。

 茶会に来ていた令嬢たちが、興味深そうにこちらを見る。

「ええ。公爵様もずいぶん奥様を信頼なさっているとか」

 信頼。

 その言葉で、胸の奥に黒いものが垂れた。

 信頼されるのは、ミュゼリアのはずだった。

 愛されるのも。

 守られるのも。

 美しい椅子に座るのも。

 公爵夫人になるのも。

 なのに、姉がその椅子に座っている。

 家では物置部屋に置かれていた姉が。

 ミュゼリアは、白いハンカチを膝の上で握りしめた。

「お姉様は……家ではあまり何もできない方でしたのに」

 ぽつりと落とした声は、わざと小さかった。

 小さく言えば、聞いた者は自分から耳を寄せる。

 令嬢の一人が目を瞬いた。

「そうなのですか?」

 ミュゼリアは慌てたように口元を押さえる。

「いえ、悪く言うつもりではありませんの。ただ、お姉様は昔から少し……ええ、思いつめやすくて。家族にも遠慮ばかりで、何を任せてもすぐに疲れてしまう方でしたから」

 嘘ではない。

 少なくとも、そう見えるように話した。

 リゼルミアは確かに遠慮ばかりしていた。いつも疲れた顔をしていた。だが、その理由を言わなければ、聞いた者は都合よく想像する。

 ミュゼリアは目を伏せた。

「公爵家で大切にしていただいているなら、本当にありがたいことですわ。でも、私は少し心配で」

「心配?」

「お姉様は、昔から人に可哀想と思われるのが上手なのです」

 部屋の空気が、わずかに変わる。

 ミュゼリアは続けた。

「いえ、もちろん本人に悪気はないのです。けれど、十一度も離縁されて、傷ついて、子も授かれず……そういう方を見れば、お優しい殿方は放っておけなくなるでしょう?」

 誰かが小さく息を呑んだ。

 子を授かれず。

 その言葉は、社交界では非常に重い。

 ミュゼリアは悲しげに微笑んだ。

「公爵様はお優しい方ですもの。お姉様を同情で守ってくださっているのかもしれません。私は、それが心配なのです。お姉様がその優しさに縋ってしまったら、いつかまた傷つくことになりますから」

 優しさに縋る。

 同情。

 子を授かれない。

 妹の縁談を奪った。

 言葉はひとつひとつ、小さな羽根のように軽く落とされた。

 だが、羽根の芯には針がある。

 茶会が終わる頃には、ミュゼリアの望んだ形に整っていた。

 彼女は姉を心配する可憐な妹。

 姉は、十一度離縁されてもなお同情を誘い、優しい公爵を絡め取った女。

 誰もはっきりと断罪しない。

 だからこそ、噂は伸びる。

 甘い茶の香りに混じって、ミュゼリアの言葉は客間を出ていった。

 翌日には、王都の小さな仕立屋の奥で囁かれた。

「ヴァルクレイド公爵夫人は、公爵様の同情を利用しているらしい」

 その翌日には、香水商の女主人が客へ言った。

「妹君の縁談だったかもしれないのに、姉君が先に入ってしまわれたとか」

 さらにその次の日には、馬車待ちの夫人たちの間で、もっと形を変えていた。

「子も産めないと噂の方が、公爵夫人の座にしがみついているのですって」

 噂は、真実より速い。

 そして、痛みのある場所を選んで広がっていく。

 公爵家にその噂が届いたのは、慈善院の調査記録を整理していた日の午後だった。

 リゼルミアは書庫の小さな机で、ニーナからもらった黄色い花のことを思い出しながら帳面を開いていた。慈善院の件は、すでにいくつかの不正の線が見え始めていた。サルド商会の納入量が控えと実物で合わず、副院長の受領印にも不自然な箇所があるという。

 エルネストとロナンが詳しい調査を進めている。

 リゼルミアは今日は直接帳簿には触れず、昨日聞いた子どもたちの不足品を書き出していた。

 靴下。

 厚い毛布。

 石筆。

 豆。

 乾燥肉。

 卵。

 乳。

 その文字を見ていると、胸が痛む。

 だが、以前のように自分を責める痛みではなかった。

 何かを変えるために覚えておきたい痛みだった。

 そこへ、若い侍女のマリナが入ってきた。

 彼女は厨房で香草棚を案内してくれた少女ではないが、年が近く、最近リゼルミアへ少しずつ話しかけてくれるようになった侍女だった。普段は明るい顔をしているが、その日は表情が硬かった。

「奥様」

 リゼルミアは顔を上げる。

「どうしましたか」

 マリナは言いにくそうに唇を結んだ。

 その後ろから、イーリアが入ってくる。侍女長の表情は落ち着いていたが、目の奥に静かな怒りがあった。

「奥様、少しお耳に入れておくべきことがございます」

 リゼルミアの胸が、かすかに冷える。

 この声は、何かよくない報せの声だ。

「何でしょうか」

 イーリアは一瞬、言葉を選んだ。

「王都で、奥様についての噂が流れております」

 噂。

 リゼルミアの指先が冷たくなる。

 またか。

 十一度離縁された女。

 夫を満足させられない女。

 子を産めない女。

 婚家を不幸にする女。

 それらの古い言葉が、一斉に胸の底から浮かび上がってくる。

 リゼルミアは帳面を閉じた。

「どのような噂ですか」

 声は自分でも驚くほど小さかった。

 イーリアはマリナへ視線を向けた。

 マリナは胸の前で手を握り、悔しそうに言った。

「奥様が……公爵様を騙している、と。公爵様の同情を利用しているとか。妊娠もできないのに、公爵夫人の座にしがみついているとか」

 最後の方は、声が震えていた。

 リゼルミアは息を吸えなくなった。

 妊娠もできないのに。

 その言葉は、見えない刃のように身体の奥へ入ってくる。

 子を産めない。

 能無し女。

 過去の夫たちの声が蘇る。

 冷たい寝室。

 背中を向ける男。

 愛人の笑い声。

 義母のため息。

 使用人の陰口。

 そして、自分の身体に向けられた数えきれない否定。

 まだ誰にも話せていないことがある。

 流産させられたこと。

 それを打ち明けられないまま、リゼルミアは公爵家で少しずつ息をし始めていた。

 その傷へ、噂は正確に指を差し入れてくる。

 リゼルミアは胸元に手を当てた。

 痛い。

 久しぶりに、呼吸が浅くなるほど痛い。

 マリナが慌てて言う。

「あ、奥様、申し訳ございません。私、そんなことをそのまま」

「いいえ」

 リゼルミアは首を振ろうとした。

 けれど、うまく動かなかった。

「教えてくれて、ありがとうございます」

 かろうじて言えた。

 イーリアが一歩近づく。

「奥様。これは奥様が悪いことではございません」

 リゼルミアは目を伏せる。

 頭では、そう思いたい。

 でも身体は違う反応をする。

 噂が流れた。

 公爵家に迷惑をかけた。

 エルネストの名に傷がつく。

 使用人たちも嫌な思いをする。

 やはり自分がここにいるから。

 自分が公爵夫人の椅子に座っているから。

「私のせいで」

 その言葉が、唇からこぼれかけた。

 イーリアが静かに遮った。

「奥様」

 その声は優しいが、はっきりしていた。

「その続きをおっしゃる前に、深く息をなさってください」

 リゼルミアは瞬きをした。

 イーリアは、いつかのように彼女の前へ湯を置いた。いつの間に用意したのか、小さな陶器の器から白い湯気が立っている。

「お手を温めてください」

「……はい」

 リゼルミアは手を器へ近づけた。

 手袋はしていなかった。指先が冷えている。湯気が触れると、少しだけ感覚が戻ってきた。

 マリナは目に涙をためていた。

「あんな噂、嘘です。奥様が公爵様を騙すなんて、そんなことあるはずありません。奥様は、いつも……いつも、自分から何かを奪うみたいに遠慮なさるのに」

 その言葉に、リゼルミアは胸が詰まった。

 遠慮している。

 そう見えていたのか。

 マリナは続けた。

「それに、慈善院のことも、帳簿のことも、奥様が気づいてくださったんです。私たちは皆、知っています。奥様がどれだけ丁寧に、この家のことを覚えようとしてくださっているか」

 リゼルミアは顔を上げられなかった。

 胸が熱い。

 痛みとは違う熱。

 イーリアは静かに言った。

「噂の出どころは、おそらくオルフェルト家に近い茶会でございます。旦那様とロナンが確認を始めております」

「エルネスト様が」

「はい。旦那様は、奥様に聞かせる前に対処なさるおつもりでした。ですが、奥様に隠したまま屋敷内だけで動けば、かえって不安になられると思い、私からお伝えする許可をいただきました」

 隠さない。

 それも、リゼルミアを子どものように扱わないということなのだろう。

 怖いことを知らせない優しさもある。

 けれど、何も知らないまま周囲がざわめく方が、彼女にはもっと怖い。

 エルネストは、それを考えてくれた。

「私は」

 リゼルミアは小さく言った。

「また、公爵家に迷惑をかけてしまったのではないでしょうか」

「奥様」

 イーリアの声が、少しだけ強くなった。

 リゼルミアは肩を震わせる。

 だが、イーリアの顔に怒りはなかった。

「迷惑をかけているのは、噂を流した者です」

 マリナも必死に頷く。

「そうです。奥様ではありません」

「でも、その噂は私のことで」

「奥様がここにいらっしゃることを許せない方が、奥様を傷つけるために流したものです」

 イーリアは言葉を一つずつ置くように言った。

「傷つけられた側が、傷ができたことを謝る必要はございません」

 リゼルミアの目に涙が浮かぶ。

 傷つけられた側。

 自分は、そうなのだろうか。

 いつも逆だった。

 妹が泣けば、自分が傷つけた側。

 夫が不機嫌になれば、自分が足りない側。

 噂が流れれば、自分が恥を広げた側。

 だが、イーリアは違うと言う。

 マリナも違うと言う。

 その時、書庫の扉の外で低い声がした。

「入っても?」

 エルネストだった。

 リゼルミアは慌てて涙を拭こうとした。

 だが、拭く前にイーリアが静かにハンカチを差し出す。マリナも少し下がった。

「どうぞ」

 リゼルミアの声は震えていた。

 扉が開き、エルネストが入ってくる。

 彼はすぐにリゼルミアの顔を見た。泣きそうな目、冷えた指、机の上の湯、イーリアとマリナの表情。すべてを一瞬で受け取ったようだった。

 だが、彼はすぐには近づかなかった。

「聞いた?」

 リゼルミアは頷く。

「はい」

「怖かったか」

 その問いに、また胸が揺れる。

 最初に聞くのはそこなのだ。

 噂の中身でも、誰から聞いたかでも、怒っているかでもなく。

 怖かったか。

「怖いです」

 リゼルミアは正直に言った。

「公爵家に、エルネスト様に、ご迷惑を」

「迷惑ではない」

 彼は短く言った。

 いつものように。

 だが、その目はいつもより冷たかった。

 リゼルミアに向けた冷たさではない。噂を流した者へ向けた怒りだった。

「噂への対処は進めている。ロナンが出どころを確認している。茶会にいた令嬢たちの家には、必要なら正式に照会する」

 リゼルミアは顔を上げた。

「正式に、ですか」

「ええ。公爵夫人への中傷だ。社交界の戯れ話で済ませるつもりはない」

 公爵夫人。

 その言葉が、今は重く響いた。

 自分は本当に、その名で守られる位置にいるのだろうか。

 不安が顔に出たのか、エルネストは少しだけ声を和らげた。

「リゼルミア。君がどう呼ばれたかではなく、君がここで何をしてきたかを俺たちは知っている」

 リゼルミアの喉が熱くなる。

「でも、外の方々は」

「外の噂は揺れる。だが、この家の中までそれに揺らされる必要はない」

 エルネストは、イーリアとマリナを見た。

「この家の者たちは?」

 イーリアは迷いなく答えた。

「奥様を信じております」

 マリナも続ける。

「はい。奥様を疑う者などおりません」

 扉の向こうで、誰かが小さく咳払いをした。

 リゼルミアがそちらを見ると、ロナンが控えていた。いつからいたのか、彼は一歩入って深く礼をする。

「奥様。使用人たちの間で噂の内容はすでに把握しております。ですが、誰一人として奥様を疑ってはおりません」

 リゼルミアは目を見開いた。

 誰一人。

 本当に?

 そんなことがあるのだろうか。

 昔の婚家では、噂が流れれば使用人たちはすぐに信じた。いや、信じたい形に作り替えた。奥様はやはり子を産めない。奥様は旦那様に捨てられる。奥様は暗い。奥様は役に立たない。そう囁く方が楽しかったのだろう。

 ここでは違うと言う。

 ロナンは穏やかに続けた。

「奥様は帳簿の不一致を見つけ、慈善院の子どもたちの食事の異変にもお気づきになりました。厨房の者は、奥様が食材の配分を真剣に見てくださったことを知っています。衣装室の者は、奥様が繕いの手順を学ぼうとしていることを知っています。侍女たちは、奥様が何かにつけて謝りそうになりながらも、教えてくださいと言い直してくださることを知っています」

 リゼルミアの目から涙が落ちた。

 知られていた。

 そんなところまで。

 彼女が必死に少しずつ進もうとしていることを、公爵家の使用人たちは見ていた。

 笑うためではなく。

 責めるためでもなく。

 信じるために。

 イーリアが静かに言った。

「奥様は、この家の方です」

 その一言で、胸の奥が崩れた。

 この家の方。

 家。

 リゼルミアはずっと、自分の家を持てなかった。

 実家では物置部屋。

 婚家では仮の椅子。

 食卓では端。

 寝室では責められる場所。

 いつも、返される側だった。

 どこにいても、いつか出ていく者だった。

 それなのに。

 今、侍女長が言った。

 この家の方です。

 リゼルミアは唇を震わせた。

「私が……ですか」

 イーリアは深く頷く。

「はい。奥様は、このヴァルクレイド公爵家の奥様です」

 マリナも涙ぐみながら言う。

「奥様のお席も、お部屋も、お仕事も、ちゃんとここにあります」

 ロナンが穏やかに添えた。

「そして、私どもは奥様のお力を必要としております」

 必要。

 その言葉が、今度は道具としてではなく響いた。

 使い潰すためではない。

 便利だから戻せという意味でもない。

 この家の一員として、共に支える者としての必要。

 リゼルミアは、泣きながら首を振った。

「私は、まだ何も」

 エルネストが静かに言った。

「もう、たくさんしている」

 その声で、涙がさらに溢れそうになる。

「それに」

 彼は少しだけ間を置いた。

「何かをしたから、この家にいていいのではない。君が俺の妻だから、ここにいる。仕事や功績は、その上に積み重なるものだ」

 妻。

 怖かった言葉。

 でも、今は温かい。

 リゼルミアは胸元を押さえた。

 息が震える。

 だが、以前のように苦しくて息ができない震えではない。

 泣きそうで、嬉しくて、どうしていいか分からない震えだった。

「噂は」

 彼女は涙を拭きながら言った。

「消えるでしょうか」

 エルネストは嘘をつかなかった。

「すぐには消えないかもしれない」

 リゼルミアは少しだけ目を伏せる。

 けれど彼は続けた。

「だが、こちらから事実を積み上げる。慈善院の件も、公爵家の帳簿の件も、君が公爵夫人として果たしている仕事も、必要な場で明らかにする」

「私が公の場に出るのですか」

「無理には出さない」

 彼はすぐに言った。

「だが、君が望むなら、いずれ隣に立ってほしい」

 隣。

 その言葉で、リゼルミアは胸が鳴った。

 エルネストの隣。

 食堂の椅子だけではない。

 社交の場でも、仕事の場でも、公爵家として立つ場で。

 今はまだ怖い。

 でも、いつか。

 そう思った自分に、リゼルミアは驚いた。

 いつか、と思えた。

 エルネストは急かさない。

「今は、まず休む。噂の対処は俺とロナンが進める。屋敷内のことはイーリアが見てくれる」

「でも」

「君の仕事は、自分を責めないこと」

 真面目な声だった。

 リゼルミアは少し目を丸くする。

「それは、とても難しい仕事です」

「知っている」

 エルネストは目元をわずかに和らげる。

「だから、今日はそれだけで十分だ」

 十分。

 また、その言葉。

 リゼルミアは涙を拭きながら、小さく頷いた。

「はい」

 イーリアが温かい茶を用意した。

 蜂蜜入りだった。

 昨日のエルネストの茶より、ずっと適切な甘さだった。茶葉も困っていない。リゼルミアはそれを一口飲み、少しだけ息を吐いた。

 マリナが控えめに言う。

「奥様。厨房の料理長が、今夜は奥様のお好きな蜂蜜と胡桃の焼き菓子を出すそうです」

「料理長が?」

「はい。噂など食べてしまえばよろしい、と」

 イーリアが小さく咳払いをする。

「言葉は少々荒いですが、気持ちは確かです」

 リゼルミアは思わず小さく笑った。

 涙の残った顔で。

 けれど、確かに笑った。

 エルネストの目元が柔らかくなる。

 マリナはその笑顔を見て、ほっとしたように胸を押さえた。

「奥様、今、少し笑われましたね」

 リゼルミアは頬を赤くする。

「少しだけです」

「少しでも嬉しいです」

 その言葉に、また胸が温かくなった。

 その日の夕食は、いつもより少し賑やかだった。

 食堂の空気が違ったのだ。

 リゼルミアの席は、変わらずエルネストの隣にあった。白いクロス、温かいスープ、柔らかなパン、湯気の立つ茶。何も奪われていない。椅子はそこにある。

 料理長の焼き菓子は、本当に出てきた。

 蜂蜜と胡桃がたっぷり入った小さな焼き菓子で、表面は香ばしく、中はしっとりしている。少し甘めだったが、昨日の茶ほどではない。リゼルミアが「おいしいです」と言うと、壁際に控えていた侍女の一人が嬉しそうに微笑んだ。

 エルネストが低く言う。

「料理長に伝えておく」

「直接お礼を言いたいです」

 リゼルミアが言うと、エルネストは頷いた。

「きっと喜ぶ」

 食後、料理長が少し照れたように食堂の入口へ来た。

 大柄な彼女は、いつものように胸を張っていたが、リゼルミアが礼を言うと、わずかに目元を赤くした。

「奥様がしっかり召し上がってくださるなら、噂の一つや二つ、鍋で煮潰して差し上げます」

 リゼルミアは驚き、次に少し笑った。

「噂は食べられません」

「食べられないものは料理長の敵です」

 料理長はきっぱり言った。

 エルネストが隣で静かに茶を飲んでいる。

 リゼルミアは口元を押さえた。

「ありがとうございます。心強いです」

「それなら何よりでございます」

 料理長は満足そうに礼をして下がった。

 その後、寝室へ向かう頃には、リゼルミアの胸の痛みは完全には消えていなかったが、朝よりは少し軽くなっていた。

 噂はまだ外にある。

 ミュゼリアは、きっと止まらないだろう。

 姉が公爵家で大切にされていることを、妹は許さない。

 姉の椅子を許さない。

 リゼルミアは、そのことを痛いほど分かっていた。

 だが、その椅子はもう、妹の涙だけで引きずり降ろされるものではなかった。

 公爵家の食堂には、彼女の席がある。

 使用人たちは、それを知っている。

 エルネストも知っている。

 リゼルミア自身も、少しずつ知り始めている。

 寝室で、エルネストはいつものように明かりを落とした。

 リゼルミアは寝台に入り、布団を胸元まで引き上げる。長椅子にはエルネスト。暖炉の火は柔らかく、窓の外には薄い月明かりがあった。

「エルネスト様」

「はい」

「今日、イーリアが言ってくれました」

「うん」

「奥様は、この家の方です、と」

 言葉にすると、また胸が熱くなる。

 エルネストは静かに頷いた。

「その通りだ」

「私、泣きそうになりました」

「泣いてもよかった」

「少し泣きました」

「知っている」

 リゼルミアは布団の中で少し顔を赤くする。

「見ていらしたのですね」

「見すぎないようにした」

「少しは見ましたか」

「少しは」

 そのやり取りに、リゼルミアの口元がわずかに緩んだ。

「では、明日は……自分を責めない仕事を、少しだけ頑張ります」

「少しでいい」

「はい」

 リゼルミアは目を閉じた。

 噂の言葉は、まだ耳に残っている。

 公爵を騙している。

 子を産めないのに。

 公爵夫人の座にしがみついている。

 妹の縁談を奪った。

 それらは痛い。

 とても痛い。

 けれど、その痛みの隣に別の言葉がある。

 奥様は、この家の方です。

 君がここで何をしてきたかを俺たちは知っている。

 誰一人として奥様を疑ってはおりません。

 この家の奥様です。

 リゼルミアは、その言葉をひとつずつ胸の中に置いた。

 噂に削られた場所へ、温かい布を当てるように。

 完全には癒えない。

 けれど、血が流れ続けることは止められる。

「おやすみ、リゼルミア」

 エルネストの声がした。

 リゼルミアは小さく答える。

「おやすみなさい、エルネスト様」

 その夜、彼女は夢の中で食堂の椅子を見た。

 エルネストの隣にある、淡い藤灰色のクッションの椅子。

 誰かがそれを奪おうとしても、椅子はそこにあった。

 背後にはイーリアがいて、ロナンがいて、マリナがいて、料理長がいて。

 そして、エルネストが隣に立っていた。

 目覚めた時、胸はまだ少し痛かった。

 けれど、リゼルミアは最初に思った。

 私は、この家の方。

 その言葉は、朝の光の中でまだ消えずに残っていた。

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