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第28話 子供の泣き声が怖い
慈善院へ再び向かう日は、よく晴れていた。
数日前まで続いていた雨が嘘のように、王都の空は淡く澄んでいる。馬車の窓から差し込む光は柔らかく、石畳の水たまりはほとんど乾いていた。街路の店先では、パン屋が焼き上がったばかりの丸パンを籠に並べ、花売りの少女が色とりどりの小花を束ねている。春の匂いが、雨で洗われた街の上に薄く広がっていた。
リゼルミアは、馬車の中で膝の上に手を重ねていた。
真珠灰色の手袋をはめている。胸元には小さな薄紫のリボン飾り。鍵束は今日は持っていない。慈善事業資料室の鍵は、出発前に書庫の机の上へ置いてきた。代わりに、小さな帳面と鉛筆を持っている。
慈善院の食事改善を確認するための視察だった。
サルド商会と副院長の不正は、まだ完全に片づいていない。けれど、エルネストとロナンの調査によって、食材の一部が納入前に抜かれ、帳簿上だけ正しい量が記載されていたことはほぼ確実になっていた。副院長はすでに職務を停止され、厨房の食材納入は公爵家指定の商会へ戻されている。
今日は、改善後の最初の昼食を見る。
子どもたちのスープが、本当に薄くなくなったか。
毛布や靴下の不足はどうか。
院内の者たちが過度に萎縮していないか。
リゼルミアは、自分の帳面に確認する項目を書いていた。
子どもの顔色。
昼食の量。
パンの厚さ。
豆と根菜の数。
赤ん坊用の乳の記録。
最後の項目を書いたところで、鉛筆の先が少し止まった。
赤ん坊用の乳。
慈善院には、まだ歩けない幼い子も何人かいると聞いていた。前回の視察では学習室や食堂、寝室を中心に見たため、赤ん坊たちの部屋までは十分に見ていない。今回は、そこも確認する予定に入っている。
リゼルミアは、帳面の文字を見つめた。
赤ん坊。
その単語を見ただけで、胸の奥に小さな針が触れる。
だが、彼女はすぐに帳面を閉じた。
大丈夫。
慈善院の仕事だ。
子どもたちのために必要な確認だ。
自分の心が少しざわつくからといって、逃げてよい仕事ではない。
馬車の向かいではなく、少し斜めの席にエルネストが座っていた。彼はリゼルミアの手元を見て、それから顔色を確かめるように視線を上げた。
「疲れていないか」
「大丈夫です」
いつもの言葉が、少し早く出た。
エルネストは一瞬だけ黙る。
リゼルミアは自分の返事の早さに気づき、手袋の中で指を握った。
「……まだ、疲れてはいません」
言い直すと、彼の目元が少しだけ和らいだ。
「それならいい。途中で疲れたら言って」
「はい」
エルネストは、それ以上は追及しなかった。
それがありがたくて、少し苦しかった。
慈善院に着くと、門の前には院長が待っていた。
前回よりも顔色は悪い。副院長の件で責任を感じているのだろう。けれど、目は前より少しだけ澄んでいた。事実を隠すための忙しない揺れがなくなっている。
「公爵閣下、奥様。本日もお越しいただき、ありがとうございます」
院長は深く礼をした。
リゼルミアも礼を返す。
「子どもたちの様子を見せていただきます」
「はい。どうぞ、何なりとご確認ください」
その声には、前回のような硬さはあるが、敵意はなかった。
むしろ、見てもらいたいという疲れた覚悟のようなものがある。
玄関を入ると、慈善院の空気は前より少し温かかった。
石造りの廊下は相変わらず冷えやすいが、暖炉の火が増やされている。子どもたちの服も、何人かは新しい靴下を履いていた。まだ全員に行き渡っているわけではないが、足元の布の厚みが違うだけで、表情が少し柔らかい。
リゼルミアは帳面に書き込む。
靴下。一部配布済み。追加確認。
寝室へ行くと、新しい毛布が何枚か入っていた。厚手ではないが、以前の痩せた毛布よりずっとましだった。年長の女の子が、毛布の角を嬉しそうに撫でている。
「暖かいですか」
リゼルミアが尋ねると、女の子は緊張しながら頷いた。
「はい。夜、足が冷たくありませんでした」
その一言に、胸がじんわり温まる。
足が冷たくない夜。
それがどれほど人を安心させるか、リゼルミアはよく知っていた。
次に食堂へ向かった。
昼食の準備が始まっている。廊下に漂う匂いは、前回とは明らかに違っていた。
根菜の甘い匂い。
豆を煮た丸い香り。
ほんの少しの肉の旨み。
湯気の中に力がある。
リゼルミアは食堂へ入った瞬間、思わず息を吸った。
大鍋の中には、前回よりずっと濃いスープが煮えていた。薄い黄色ではなく、根菜と豆が溶け出した温かな色。小さく切られた肉も見える。子どもたちの器へよそわれる量も、以前より少し多かった。パンも、前回の薄い一切れより厚い。
ニーナが列に並んでいた。
栗色の髪を二つに結んだ、小さな女の子。リゼルミアへ黄色い花をくれた子だ。彼女は器を受け取ると、前回より目を大きくして中身を見た。
「豆、いっぱい」
小さな声。
隣の男の子が頷く。
「肉もある」
子どもたちは大声で喜ばない。
まだ遠慮があるのだろう。
だが、食卓についた時の背中が違う。パンを細かくちぎって水分でふやかすのではなく、スープと一緒にきちんと食べている。豆を最後まで残していた男の子も、今日は何粒も豆をすくって口に運んでいた。
リゼルミアの喉が熱くなる。
よかった。
本当に、よかった。
まだ完全ではない。
でも、今日のスープは薄くない。
彼女は帳面に書いた。
昼食改善。具材あり。豆、根菜、肉。パン厚み改善。子どもの食べ方に変化あり。
書いている途中で、手が少し震えた。
けれど、それは怖さだけではなかった。
エルネストが隣で低く言う。
「気づいてくれてよかった」
リゼルミアは顔を上げた。
彼は大鍋を見ていた。
子どもたちの器を。
そして、リゼルミアの帳面を。
「奥様のおかげです」
院長が静かに言った。
リゼルミアは慌てて首を振りかけた。
自分だけの手柄ではない。
エルネストが動き、ロナンが調査し、公爵家の使用人たちが支援品を整えたからだ。
だが、否定しすぎる前に、リゼルミアは小さく息を整えた。
「皆様が、すぐに動いてくださったからです」
そう答えるのが精いっぱいだった。
院長は深く頭を下げた。
「それでも、最初にお気づきになったのは奥様です」
その言葉を、リゼルミアは今度は完全には拒まなかった。
受け取るのは、まだ少し怖い。
けれど、子どもたちの濃いスープを見れば、自分が気づいたことが無駄ではなかったと分かる。
自分の目を少し信じる。
そう、エルネストに言われたことを思い出した。
食堂を出たあと、院長は少し迷うようにして言った。
「もしよろしければ、この後、乳児室もご覧になりますか。前回はご案内が行き届きませんでしたので」
乳児室。
リゼルミアの胸が、すっと冷えた。
帳面にも書いてある。
確認する項目だ。
赤ん坊用の乳の記録。
小さな毛布。
寝台。
必要な支援。
行くべきだ。
行かなければ。
「はい」
声は出た。
少し固かったが、誰もそれに気づかなかったのかもしれない。
いや、エルネストだけは気づいた。
リゼルミアの隣で、彼の視線がわずかに変わる。
「無理なら、後日にしてもいい」
低い声だった。
院長が少し驚いたように二人を見る。
リゼルミアは慌てて首を振った。
「大丈夫です」
また、早く出た。
その言葉に、自分で少し傷つく。
でも、今は言い直せなかった。
乳児室へ向かう廊下は、食堂とは別の棟へ続いていた。窓が小さく、外の光は少し弱い。壁には小さな布の飾りがかけられている。子どもたちが作ったものだろう。布で縫った鳥、太陽、花。縫い目は不揃いだが、温かかった。
廊下の奥から、かすかな声が聞こえた。
高い。
細い。
まだ言葉にならない声。
赤ん坊の泣き声だった。
リゼルミアの足が止まった。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬で、身体の中のすべてが固まった。
泣き声は小さかった。
お腹が空いたのか、眠いのか、誰かに抱いてほしいのか。赤ん坊らしい、途切れ途切れの泣き声。廊下の奥で、世話係の女性があやす声も聞こえる。
「大丈夫よ、すぐ乳を温めるわね」
優しい声。
何も怖いものはないはずだった。
それなのに。
リゼルミアの耳の中で、その泣き声は別の音に変わった。
聞いたことがないはずの声。
聞けなかったはずの声。
それなのに、胸の奥でずっと鳴っていた声。
生まれなかった子の泣き声。
そんなもの、あるはずがない。
分かっている。
分かっているのに、身体がそう受け取ってしまう。
胸が締めつけられる。
腹の奥が、突然冷たく痛んだ。
リゼルミアは無意識にお腹へ手を当てそうになり、途中で止めた。
ここは廊下だ。
慈善院だ。
エルネストがいる。
院長がいる。
ロナンもいる。
そんな場所で、そんな仕草をしてはいけない。
だが、足が動かない。
泣き声がまた聞こえた。
小さく、弱く、必死な声。
リゼルミアの視界が白く滲む。
階段。
薄青の糸。
夜中の針。
小さな布。
腹の奥の痛み。
血の匂い。
義母の声。
そんなに簡単に駄目になるなら。
どうせ弱い子だったのよ。
息ができない。
「奥様?」
院長の声が遠く聞こえた。
ロナンがすぐに足を止める気配。
「顔色が」
誰かがそう言った。
リゼルミアは、無理に唇を動かした。
「……大丈夫です」
声が自分のものではないようだった。
薄く、遠い。
「少し、立ちくらみが」
嘘ではない。
実際、目の前が揺れている。
院長が慌てる。
「お部屋をご用意します。すぐに椅子を」
「いえ、本当に」
大丈夫です。
また言おうとした。
しかし、エルネストの声が静かに割って入った。
「休ませます」
短い言葉だった。
院長がすぐに頷く。
「こちらへ。隣に小さな応接室がございます」
エルネストはリゼルミアに触れなかった。
まず、彼女の顔を見る。
「歩けるか」
リゼルミアは頷こうとした。
けれど、首が思うように動かない。
泣き声がまた聞こえる。
今度は少し強く。
赤ん坊が呼吸を吸い、泣く。
そのたびに、リゼルミアの腹の奥が痛む気がした。
空っぽのはずなのに。
何もないはずなのに。
痛みだけが残っている。
エルネストの目が、深く静まった。
彼は周囲へ言った。
「少し離れてください」
声は穏やかだが、従わざるを得ない響きがあった。
院長とロナンが距離を取る。
エルネストは、改めてリゼルミアへ向き直る。
「リゼルミア。ここから隣の部屋まで歩く。俺の腕を使ってもいい。使わなくてもいい」
腕を差し出される。
掴むかどうかは、彼女が決める。
リゼルミアは震える手を伸ばした。
袖口を掴むだけ。
強くは握れない。
エルネストは、それ以上触れずに歩き出した。
一歩。
もう一歩。
廊下が長い。
赤ん坊の泣き声は、背後でまだ続いている。
世話係の女性があやす声もする。
悪い音ではない。
生きている声だ。
赤ん坊が生きて、泣いている声。
なのに、それがリゼルミアの中では、失ったものの輪郭になって刺さる。
応接室へ入ると、泣き声は少し遠くなった。
扉が閉まる。
音が薄くなる。
それだけで、リゼルミアは椅子に崩れるように座った。
院長が水を用意しようとするが、エルネストが静かに言った。
「人を減らしてください。ロナンだけ残る」
「かしこまりました」
院長は深く頭を下げて下がった。
部屋には、リゼルミア、エルネスト、少し離れたロナンだけが残る。
ロナンは視線を落とし、存在感を薄くしていた。必要なら動くが、聞き出そうとはしない。公爵家の使用人たちは、そういう距離の取り方を覚えてくれている。
リゼルミアは椅子に座ったまま、両手を膝に置いていた。
手袋の指先が震えている。
心臓が速い。
喉が乾く。
身体の中心が冷たい。
エルネストは正面ではなく、少し斜めの椅子へ座った。
馬車の中と同じ距離。
「水を飲めるか」
リゼルミアは頷いた。
ロナンがすぐに水を差し出す。
リゼルミアは杯を受け取ったが、手が震えて水面が揺れた。
エルネストは手を出さなかった。
ただ、杯の下へ小さな布を敷くようロナンに目配せした。こぼれても大丈夫なように。
その気遣いで、少しだけ息ができる。
水を一口飲む。
冷たい水が喉を通る。
それでも、胸のざわめきは消えなかった。
「体調不良として、今日の視察はここで終える」
エルネストが言った。
リゼルミアは反射的に顔を上げた。
「いえ、乳児室をまだ」
「今日は見ない」
「でも、確認しなければ」
「別の日にする」
彼の声は静かだったが、譲らない響きがあった。
リゼルミアは唇を噛む。
また迷惑をかけている。
仕事を途中で投げ出す。
赤ん坊の泣き声くらいで動けなくなるなんて。
大丈夫です、と言わなければ。
言え。
いつものように。
「大丈夫です」
リゼルミアは言った。
声が震えた。
「本当に、少し驚いただけで。ご迷惑を」
「大丈夫には見えない」
エルネストは、静かに遮った。
リゼルミアの胸が痛む。
「でも」
「疲労だけではない顔をしている」
その言葉で、息が止まった。
エルネストは、真っ直ぐ見ていた。
問い詰める目ではない。
けれど、見逃さない目だった。
「言わなくていい」
彼はすぐに続けた。
「ただ、今の君に乳児室を見るのは無理だ。俺はそう判断した」
リゼルミアの唇が震える。
言わなくていい。
でも、見抜かれている。
ただの疲労ではない。
ただの立ちくらみではない。
エルネストだけは、彼女の顔の奥にあるものへ気づいている。
それが怖くて。
それが少しだけ救いだった。
「私は」
声が出る。
でも、その先が続かない。
言えない。
あの布のことも、まだ言えていない。
小箱にしまった端切れ。
薄青の糸。
産着になれなかった布。
それが昨日から、心の奥で静かに蓋を開けようとしている。
そこへ、赤ん坊の泣き声が落ちた。
今は無理だ。
言えない。
リゼルミアは首を振った。
「何でもありません」
嘘だった。
言った瞬間、自分でも分かった。
エルネストも分かっただろう。
それでも彼は、責めなかった。
「分かった」
分かった、と言った。
信じた、ではなく。
今はそう言うしかないのだと分かった、という声だった。
「帰ろう」
リゼルミアの胸が震える。
「でも、慈善院の方々に」
「俺が説明する。体調不良で十分だ」
「それでは」
「君が今、何を話したくないのかを、他人へ説明する必要はない」
その言葉で、リゼルミアは目を伏せた。
何を話したくないのか。
その存在だけは認めてくれる。
けれど、内容を聞かないでいてくれる。
苦しい。
優しい。
そして、どうしようもなく逃げ場がある。
エルネストはロナンへ指示を出した。
「院長へ伝えて。乳児室の記録は写しをもらう。確認は後日、俺とロナンで先に行う。リゼルミアは今日は帰る」
「かしこまりました」
ロナンは静かに礼をして出ていった。
扉が閉まる。
応接室には、二人だけが残る。
遠くで、また赤ん坊の泣き声が聞こえた。
さっきより小さい。
それでも、リゼルミアの肩がびくりと震えた。
エルネストはその反応を見た。
見たが、何も言わなかった。
ただ、少しだけ窓の方へ視線を移し、彼女が見られ続けていると感じないようにした。
それがまた、胸に沁みる。
「帰れますか」
リゼルミアは小さく頷いた。
「はい」
「馬車まで、俺の腕を使う?」
今度は、少し迷った。
だが、もう強がる力はほとんど残っていなかった。
「……使います」
言えた。
エルネストはすぐに立ち上がり、腕を差し出した。
リゼルミアはその袖を掴んだ。
掌ではなく、袖。
それでも、支えになった。
慈善院の玄関へ向かう間、院長は何も尋ねなかった。エルネストがすでに話してくれたのだろう。彼女は心配そうに頭を下げ、リゼルミアへ「どうぞお大事になさってくださいませ」とだけ言った。
リゼルミアは礼を返した。
声は出なかった。
馬車に乗り込む時、遠くからニーナの声が聞こえた。
「奥様、また来てね」
リゼルミアは振り返る。
ニーナが食堂の扉の陰から手を振っていた。
その手は小さい。
無事に昼食を食べたあとだからか、前より顔色が少し良い。
リゼルミアは何とか手を振り返した。
赤ん坊の泣き声は怖かった。
けれど、子どもたちのことを嫌いになったわけではない。
むしろ、守りたいと思うから、痛むのかもしれない。
馬車が動き出す。
慈善院が遠ざかる。
リゼルミアは座席に深く腰を沈め、目を閉じた。
エルネストは何も聞かない。
ただ、車内の膝掛けを彼女の方へ少し押しやる。
リゼルミアはそれを受け取り、膝にかけた。
手が震えている。
お腹の奥が、まだ痛い気がする。
実際には、痛みなどないはずだ。
そこには何もない。
空っぽ。
ずっと前から。
けれど、空っぽの場所にだけ残る痛みがある。
誰にも見えない痛み。
言葉にすれば、また責められると思っている痛み。
リゼルミアは馬車の中で、そっとお腹に手を当てそうになった。
だが、エルネストがいることを思い出して止めた。
その手は膝の上へ戻る。
エルネストは気づいていたかもしれない。
でも、何も言わなかった。
公爵家へ戻ると、イーリアがすぐに出迎えた。
エルネストから先に使者が走ったのだろう。彼女は驚かず、しかし心配を隠さず、リゼルミアの外套を受け取った。
「奥様、お部屋へ。温かいお茶と、横になれる支度を整えてございます」
リゼルミアは頷いた。
「ありがとうございます」
声はまだ小さい。
私室へ戻ると、暖炉には火が入っていた。机の上の春白花は新しく生け替えられている。雨の日ではないのに、部屋は静かだった。厚手のカーテンが少し引かれ、光が柔らかく落ちるように調整されていた。
リゼルミアは長椅子に座った。
イーリアが蜂蜜入りの茶を置く。
蜂蜜はひと匙。
砂糖はなし。
茶杯から立つ湯気を見て、少しだけ喉が緩む。
エルネストは部屋の入口近くに立っていた。
「休んで。俺は書庫にいる。呼べば来る」
リゼルミアは顔を上げる。
行ってしまうのかと思って、少し胸が不安になった。
けれど、いてほしいと言うにはまだ弱すぎた。
エルネストはその迷いに気づいたようだった。
「ここにいた方がいい?」
問いかけ。
リゼルミアは、茶杯を両手で包んだ。
言いたい。
いてほしい。
でも、何も話せないのに引き止めるのは、わがままではないか。
彼に仕事がある。
慈善院の調査もある。
こんな理由も言えない体調不良の自分のそばにいさせるのは。
「大丈夫です」
また言ってしまった。
エルネストは、少しだけ目を細めた。
責める目ではない。
ただ、その言葉の奥を見ている目。
「分かった」
彼はそう言った。
胸が少し沈む。
けれど、彼は続けた。
「扉の外にいる。書類を持ってくる。呼ばなくても、必要なら声が届く」
リゼルミアは目を見開く。
「扉の外に?」
「中にいるのが負担なら、外にいる」
なんて人なのだろう。
近すぎず、遠すぎず。
逃げ道を塞がず、孤独にも置かない。
リゼルミアは、茶杯を持ったまま小さく頷いた。
「……それなら、安心します」
「そうする」
エルネストはイーリアへ目配せし、外から書類を持ってこさせた。
そして本当に、私室の扉の外に椅子を置き、そこで書類を読み始めた。
扉は少しだけ開いている。
姿は見えない。
けれど、紙をめくる音がかすかに聞こえる。
その音が、リゼルミアの呼吸を少し落ち着かせた。
彼女は長椅子に横になった。
眠れるかと思ったが、眠れなかった。
目を閉じると、泣き声が聞こえる気がする。
慈善院の廊下。
乳児室の扉。
まだ言葉にならない声。
生きている赤ん坊の泣き声。
それが、彼女の中では聞けなかったはずの声に変わる。
リゼルミアは目を開けた。
天井を見つめる。
胸が苦しい。
彼女はそっと身体を丸めた。
手が、自然にお腹へ向かう。
今度は止められなかった。
夜着ではなく、昼のドレスの上から。
腹のあたりに手を当てる。
何もない。
そこには何もない。
分かっている。
ずっと前から、そこは空っぽだ。
それなのに、痛みだけが残っている気がする。
身体の奥に、小さな空白の形をした痛みがある。
リゼルミアは唇を噛んだ。
声を出したら、扉の外のエルネストに聞こえる。
泣いていると気づかれる。
それでも、涙がこぼれた。
なぜ、今日の赤ん坊は泣けるのだろう。
当たり前だ。
生きているから。
泣くことは、生きている証だから。
それが分かるから、痛かった。
リゼルミアの手が腹の上で震える。
空っぽの場所を押さえる。
何かを守るように。
もう何も守れない場所を。
扉の外で、紙をめくる音が止まった。
エルネストは、きっと気づいた。
でも、入ってこない。
呼ばれるまで入らない。
リゼルミアはその優しさに、また涙が出た。
呼べば来る。
でも、今は呼べない。
言えない。
まだ、言えない。
その夜、夕食はほとんど食べられなかった。
料理長は無理に食べさせなかった。温かいスープを少し、小さなパンを少し、蜂蜜入りの茶を少し。イーリアも、エルネストも、誰も責めなかった。
寝室へ入る頃には、リゼルミアは疲れきっていた。
けれど、眠気は来ない。
身体は重いのに、心だけが乳児室の前に立ち尽くしている。
エルネストはいつものように長椅子を整えた。
明かりを落とし、暖炉の火を小さくする。窓の外は静かで、月のない夜だった。
リゼルミアは寝台に入った。
布団を胸元まで引き上げる。
いつもなら、その温かさに少し安心する。
今日は、布団の重みが少し苦しい。
エルネストは本を開かなかった。
長椅子に座ったまま、ただ静かに言った。
「眠れないなら、眠れないままでいい」
リゼルミアは目を閉じたまま、息を止めた。
「今日は何も話さなくていい。泣き声が怖かったことも、言いたくないなら言わなくていい」
胸の奥が震える。
彼は分かっている。
少なくとも、赤ん坊の泣き声が引き金だったことは。
「でも、ひとつだけ覚えておいて」
エルネストの声は低く、柔らかかった。
「怖がった君を、俺は嫌わない」
涙がこめかみへ流れた。
リゼルミアは布団の中で、そっとお腹に手を当てた。
今度は隠さなかった。
エルネストからは見えないかもしれない。
見えているかもしれない。
それでも、手を離せなかった。
「……はい」
かすれた返事。
それだけが、今夜出せる精いっぱいだった。
エルネストは、それ以上聞かなかった。
暖炉の火が静かに揺れる。
夜が深くなる。
リゼルミアは眠れないまま、天蓋を見つめていた。
お腹の上に置いた手の下には、何もない。
けれど痛みがある。
空っぽの痛み。
誰にもまだ見せられない痛み。
小箱の中には、産着になれなかった端切れが眠っている。
そしてリゼルミアの中には、まだ言葉になれない泣き声が眠っている。
今夜は、まだ話せない。
けれど、扉の外ではなく、同じ部屋の少し離れた場所に、待ってくれる人がいる。
それだけを頼りに、リゼルミアは長い夜を越えようとした。
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ソフィア伯爵令嬢は、公爵位を継いだ恋人で幼馴染のジャックと結婚して公爵夫人になった。何一つ不自由のない環境で誰もが羨むような生活をして、二人の子供に恵まれて幸福の絶頂期でもあった。
「長男は僕に似てるけど、次男の顔は全く似てないから病院で検査したい」
ある日、ジャックからそう言われてソフィアは、時間が止まったような気持ちで精神的な打撃を受けた。すぐに返す言葉が出てこなかった。この出来事がきっかけで仲睦まじい夫婦にひびが入り崩れ出していく。