十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

文字の大きさ
31 / 39

第30話 医師を呼ばなかった家


 その夜、リゼルミアは夢を見た。

 夢の中の空は、いつも灰色だった。

 春でも夏でもない。朝でも夜でもない。窓の外には光があるはずなのに、その光は薄い布で何重にも包まれたように鈍く、部屋の隅までは届かない。空気は湿って冷たく、息を吸うたびに喉の奥が少し痛んだ。

 三度目の婚家。

 フロラドール男爵家。

 母屋から少し離れた、北側の離れ。

 そこが、夢の中のリゼルミアの部屋だった。

 離れと言えば聞こえはいい。けれど実際は、古い客用棟の一部を形だけ整えたものだった。床板は冷え、壁紙は一部浮き、窓枠には隙間風が通る。暖炉はあったが、薪はいつも少なかった。母屋の客間には惜しみなく火が入るのに、リゼルミアの部屋には湿った薪が数本置かれるだけだった。

 夢の中の彼女は、その部屋で目を覚ます。

 まだ若い。

 今よりずっと頼りない顔をしている。髪は今と同じ淡い灰金色だが、手入れが足りず、毛先が少し乾いていた。白い寝巻きの上に薄いショールを羽織っている。寒いのに、身体の内側だけ熱っぽい。

 腹の奥に、鈍い違和感があった。

 リゼルミアは寝台の上で、そっと自分の腹へ手を当てる。

 月のものが遅れていた。

 確かに、遅れていた。

 誰にも言えなかった。

 前の婚家でも、子を授からないことを責められた。二度目の離縁の時、夫の母に「石の鉢でも置いた方がまだ家の役に立つ」と言われた。その言葉は、三度目の婚家へ嫁いだ後も、胸の奥に残っていた。

 だから、もしかしたらと思っても、言えなかった。

 もし違っていたら笑われる。

 もし本当だったら、今度はもっと見張られる。

 けれど、夜だけは違った。

 離れの小さな机で、蝋燭を一本だけ灯し、リゼルミアはこっそり産着を縫った。生成りの柔らかな布。薄青の糸。男の子でも女の子でもいいように、どちらにも似合う色を選んだ。

 まだ生まれていない子。

 まだ名前もない子。

 その子のために、縫い目をひとつずつ置いていく時だけ、胸の中にほんの少し光が差した。

 夢の中の朝、扉が乱暴に叩かれた。

「奥様。起きていらっしゃいますか」

 返事をする前に、扉が開いた。

 フロラドール家の女中だった。年はリゼルミアとそう変わらない。けれど、彼女はリゼルミアを見る目に、主人の妻へ向ける敬意を持っていなかった。

「奥様、水汲みをお願いいたします」

 リゼルミアは寝台の上で身を起こす。

「水汲み……ですか」

「はい。母屋の湯の準備が遅れておりまして。奥様はいつもお暇でいらっしゃいますから」

 言い方は丁寧だった。

 けれど、棘は隠れていなかった。

 リゼルミアは腹の奥の重さを感じながら、ショールを握った。

「今日は少し、体調が」

 言いかけた瞬間、女中は目を丸くし、それから薄く笑った。

「奥様。義母様がおっしゃっていました。最近、奥様はやけに体調の話をなさると」

 胸が冷える。

「いえ、本当に」

「まさか、もうお子を授かったおつもりで?」

 女中の唇が歪んだ。

「まだ誰も確認していないのでしょう? 妊娠したふりでお仕事を避けるのは、あまり品がよろしくないかと」

 妊娠したふり。

 その言葉が、夢の中のリゼルミアの胸を刺した。

 ふりではないかもしれない。

 そう言いたかった。

 けれど、言えば笑われる。確かな証拠もないのに、期待している女だと思われる。

 彼女は結局、何も言えなかった。

 寝台から降りる。

 床が冷たい。

 靴を履いても、冷えが足の裏から上がってくる。女中はさっさと廊下へ出ていき、リゼルミアだけが部屋に残された。彼女は腹に手を当てかけて、すぐに下ろした。

 見られたら、また笑われる。

 離れから母屋の裏手へ行くには、短い石段を下り、濡れた中庭を横切らなければならない。夢の中の中庭は、いつも薄暗く濡れている。空から雨は降っていないのに、石畳はぬめり、苔が端に生えている。

 井戸のそばには、水桶が二つ置かれていた。

 大きい。

 普段、下働きの男たちが使うものだった。

 リゼルミアはそれを見て、少し息を呑む。

「これを、ですか」

 近くにいた下働きの青年が肩をすくめた。

「義母様からです。母屋の湯が足りないから、奥様に運んでいただけと」

「でも、私は」

「奥様は、家の役に立ちたいとおっしゃっていたそうじゃないですか」

 言って、彼は笑った。

 周りの使用人も、声を殺して笑う。

 夢の中のリゼルミアは、水桶の取っ手を握った。

 重い。

 水を入れる前から、木桶そのものが重い。

 それでも彼女は井戸から水を汲んだ。腕に力を入れる。肩が痛む。腹の奥が少し引きつる。けれど、途中でやめることはできなかった。

 怠けている。

 妊娠したふり。

 役立たず。

 その言葉が、背中を押してくる。

 水を満たした桶は、想像以上に重かった。

 両手で持ち上げるだけで、息が詰まる。腕の筋が震え、足元が不安定になる。だが、使用人たちは手伝わなかった。見ているだけだった。

 母屋の勝手口へ向かうには、石段を上がらなければならない。

 濡れた石段。

 苔の生えた端。

 リゼルミアは一段目に足をかけた。

 桶の水が揺れる。

 腹の奥に鈍い痛みが走った。

 彼女は思わず立ち止まる。

「奥様?」

 背後で誰かが笑う。

「水がこぼれますよ」

 リゼルミアは、もう一段上がった。

 息が苦しい。

 手が痛い。

 胸がばくばく鳴っている。

 お腹の中に、小さな何かがいるかもしれない。

 いるなら、守らなければ。

 そう思うのに、今この桶を置くことすらできない。

 置いたら、怠けたと言われる。

 妊娠したふりだと笑われる。

 彼女は三段目へ足をかけた。

 その瞬間、足元が滑った。

 桶が傾く。

 水が跳ねる。

 冷たい水が夜着の裾へかかり、石段に撒かれる。

 身体が後ろへ揺れる。

 手から桶が離れる。

 誰かが「あ」と言った。

 夢の中で、音が遅くなった。

 リゼルミアの手が空を掴む。

 腹を守ろうとする。

 けれど間に合わない。

 背中と腰が石段へ打ちつけられた。

 痛み。

 鋭い痛み。

 息ができない。

 桶が転がる音。

 水が石の上を流れる音。

 使用人たちのざわめき。

 そして、腹の奥から広がる、嫌な熱。

 夢の中のリゼルミアは、石段の上で動けなかった。

 視界の端に、転がった桶が見える。

 薄青の糸。

 生成りの布。

 夜中に縫った小さな産着。

 それが頭の中で弾けるように浮かんだ。

「奥様、大げさですよ」

 誰かが言った。

「水をこぼしてしまって」

 別の誰かが笑った。

「義母様に叱られますね」

 リゼルミアは口を開いた。

 痛い。

 お腹が痛い。

 医師を呼んで。

 そう言いたかった。

 けれど声が出なかった。

 そこへ、義母が現れた。

 フロラドール家の義母。

 いつも固く結い上げた髪、細い目、薄い唇。彼女は濡れた石段と、倒れたリゼルミアと、転がる桶を順番に見た。そして、ため息をついた。

「何をしているの」

 リゼルミアは、かすれた声で言った。

「お腹が、痛くて」

 義母は眉を上げた。

「また?」

「違……本当に」

「妊娠したふりで怠けるなと、夫にも言われたでしょう」

 夢の中のリゼルミアの心が、そこで一度折れる。

 夫。

 フロラドールの三度目の夫。

 彼は昨夜、確かに言った。

 月のものが遅れているようだと、リゼルミアが勇気を出して小さく告げた時。

 彼は、寝台の端で靴を脱ぎながら笑った。

「妊娠したふりで怠けるな」

 それから、冷たく言った。

「確かなら医師に見せればいい。だが、違ったら恥だな。三度目の妻が期待だけで騒いだとなれば、家の評判にも関わる」

 だから、言えなくなった。

 医師に見せてほしいと言えなかった。

 確かめることすら、恥だと言われたから。

 石段の上で、リゼルミアは義母の顔を見上げていた。

「医師を」

 ようやく声が出た。

「呼んで、ください」

 義母は黙って見下ろした。

 その顔には、心配などなかった。

「その程度で?」

「痛い、です」

「水桶を落としただけでしょう。服が濡れているわ。まず着替えなさい」

「でも」

「騒ぐほどのことではありません」

 義母は使用人に言った。

「離れへ運んで。母屋で血でも流されたら床が汚れるわ」

 血。

 その言葉で、リゼルミアは自分の身体の異変をはっきり感じた。

 熱い。

 冷たい。

 どちらか分からない感覚が足の間に広がっている。

 恐怖が喉を塞ぐ。

 夢の中の彼女は、運ばれていく。

 母屋ではなく、離れへ。

 寝室ではなく、冷たい古い部屋へ。

 寝台に横たえられ、扉が閉められる。

 医師は呼ばれない。

 使用人が濡れた床を拭き、誰かが小声で笑っている。

「本当に妊娠していたなら、大変ですね」

「でも、まだ確かではなかったのでしょう」

「奥様は大げさだから」

 扉の向こうで、声が遠く響く。

 リゼルミアは寝台の上で腹を抱えた。

 痛い。

 痛い。

 痛い。

 誰か。

 医師を。

 夫を。

 いや、夫は何と言うだろう。

 騒ぐな。

 みっともない。

 弱い子だったのだ。

 そう言われるのだろうか。

 夜になった。

 夢の中の夜は、やけに長い。

 暖炉には火が入っていない。薪はあるのに、誰もくべない。毛布は薄い。額には汗が滲み、身体は震えている。腹の奥の痛みは波のように来て、引いて、また来る。引くたびに、何かが自分の中から離れていく気がした。

 リゼルミアは、机の引き出しを見た。

 そこには縫いかけの産着がある。

 薄青の糸。

 小さな縫い目。

 まだ形になっていない布。

 あれを完成させなければ。

 そう思うのに、身体が動かない。

 扉の向こうで、使用人が笑っていた。

「奥様、まだ泣いているのかしら」

「静かになったら見に行けばいいわ」

「医師は?」

「義母様が、朝まで様子を見ると」

「朝まで」

 朝まで。

 その言葉が、夢の中で黒い布のように広がった。

 朝まで待ってはいけない。

 待ってはいけない気がする。

 でも、誰も来ない。

 誰も扉を開けない。

 リゼルミアは声を出そうとした。

 助けて。

 医師を呼んで。

 赤ちゃんが。

 赤ちゃん。

 その言葉を、初めて心の中で呼んだ。

 まだ確かではなかった。

 医師にも見せていなかった。

 誰にも認めてもらっていなかった。

 けれど、リゼルミアの中では、もう「赤ちゃん」だった。

 その瞬間、腹の奥の痛みが鋭くなった。

 彼女は声にならない声を上げた。

 扉の向こうで、誰かが笑う。

「また大げさに」

 夢の中のリゼルミアは、寝台の上で目を開けたまま、朝を待った。

 朝は来た。

 でも、戻らなかった。

 何も。

 誰も。

 小さな命も。

 医師が来たのは、すべてが終わった後だった。

 夫は部屋の入口に立ち、顔をしかめていた。

「騒ぎすぎだ」

 義母は言った。

「そんなに簡単に駄目になるなら、どうせ弱い子だったのよ」

 リゼルミアは、何も言えなかった。

 泣くことさえ、許されない気がした。

 夢はそこで、深く沈んだ。

 リゼルミアは目を覚ました。

 息ができなかった。

 寝室は暗い。

 公爵家の寝室。

 フロラドール家の離れではない。

 暖炉には小さな火が入っている。天蓋の内側は柔らかな影に包まれている。清潔な寝具の匂い、香草の匂い、少しだけ残る薪の匂い。

 ここは違う。

 違うのに、身体はまだ夢の中にいた。

 腹の奥が痛い気がする。

 空っぽのはずの場所が、ぎゅっと掴まれるように痛む。

 リゼルミアは両手で口を押さえた。

 声を出してはいけない。

 泣いてはいけない。

 扉の向こうで笑われる。

 大げさだと言われる。

 騒ぐなと言われる。

 彼女は布団の中で身体を丸めた。

 声を殺して泣く。

 肩が震える。

 喉の奥が痛い。

 涙が頬を伝い、枕へ落ちる。

 泣き声を押し殺すほど、胸の奥が苦しくなる。

 エルネストは、長椅子にいるはずだった。

 今夜も、寝室の同じ部屋に。

 しかし、夢から覚めた直後のリゼルミアには、それすら怖かった。

 聞かれたらどうしよう。

 見られたらどうしよう。

 何を夢見たのか聞かれたら。

 答えられない。

 言えない。

 医師を呼ばなかった家のこと。

 寒い離れのこと。

 水桶のこと。

 階段のこと。

 薄青の糸のこと。

 赤ちゃんのこと。

 言えない。

 まだ、言えない。

 長椅子の方で、布がかすかに動く音がした。

 エルネストが目を覚ましたのだ。

 リゼルミアは、さらに強く口を押さえた。

 泣き声が漏れないように。

 だが、呼吸が乱れている。隠せるはずがない。

 長椅子から立ち上がる音。

 足音。

 近づく。

 リゼルミアの身体が固まる。

 寝台のすぐそばまで来るかと思った。

 布団をめくられるかと思った。

 何があった、と問われるかと思った。

 けれど、足音は寝台の前で止まらなかった。

 少し離れた場所で止まった。

 扉の近くだった。

 リゼルミアは涙で滲んだ目を開ける。

 天蓋の薄布越しに、彼の影が見えた。

 エルネストは、寝台へ押し入ってこなかった。

 彼女の枕元へ来なかった。

 布団に触れなかった。

 部屋を出る扉の前まで行き、そこで止まっている。

 逃げ道を塞がない場所。

 けれど、離れもしない場所。

 リゼルミアの胸が、また痛んだ。

 彼の声が、暗がりに低く落ちた。

「リゼルミア」

 優しい声だった。

 けれど、すぐ近くではない。

 距離を置いた声。

「起きている」

 問いではなかった。

 気づいているという確認だった。

 リゼルミアは答えられない。

 声を出せば、泣き声になる。

 エルネストは続けた。

「近づいてもいいか、聞きたい」

 涙がまた溢れた。

 こんな時でも、聞くのだ。

 許可を。

 泣いている妻を見つけても、夢にうなされたと分かっても、苦しそうにしていても。

 押し入らない。

 布団を剥がさない。

 抱き起こさない。

 けれど、離れない。

「答えられないなら、ここにいる」

 エルネストの声がした。

「入ってこない。近づかない。でも、ここにいる」

 リゼルミアは、口を押さえたまま泣いた。

 声を殺そうとしても、細い息が漏れる。

 それでも彼は動かない。

 扉の前で、ただ待っている。

 夢の中の扉とは違う。

 あの時の扉の向こうには、笑う使用人がいた。

 医師を呼ばない人たちがいた。

 痛みを大げさだと言う声があった。

 今の扉の前には、エルネストがいる。

 中へ押し入らず。

 外へ捨て置かず。

 ただ、許可を待っている。

 リゼルミアは、震える手で布団を握った。

 呼びたい。

 でも、呼べない。

 来てほしい。

 でも、見られたくない。

 その二つの間で、身体が引き裂かれそうだった。

「水が必要なら、机の上に置く」

 エルネストが静かに言った。

「手が冷えているなら、湯を持ってくる。イーリアを呼んでもいい。俺だけが外にいてもいい」

 ひとつずつ、選択肢を置いてくれる。

 答えられなくても、彼女が呼吸できるように。

 リゼルミアは、涙で濡れた頬を枕に押しつけた。

 声を出したら、壊れそうだった。

 それでも、ほんの少しだけ、喉を動かす。

「……いか、ないで」

 自分でも聞き取れるか分からないほど小さな声だった。

 でも、エルネストには届いた。

 すぐに返事があった。

「行かない」

 短い。

 確かな言葉。

 リゼルミアの喉がまた震える。

「そこにいる」

 彼は続けた。

「近づかない。でも、行かない」

 リゼルミアは、布団の中で小さく頷いた。

 見えていないだろう。

 それでも、頷いた。

 部屋の中は静かだった。

 暖炉の火が小さく鳴る。

 外の夜は深く、雨上がりの水気を含んでいる。窓の向こうで、枝から雫が落ちた。

 エルネストは、本当にその場を動かなかった。

 椅子を引く音がした。

 どうやら扉の近くにあった小さな椅子へ腰かけたらしい。彼は寝台へ近づかないまま、しかし部屋を出ないまま、そこにいた。

 その距離が、リゼルミアを少しずつ現実へ戻していく。

 フロラドール家の離れではない。

 寒い石段ではない。

 閉じられた扉の向こうで笑う人たちはいない。

 ここは公爵家の寝室。

 扉の前には、待ってくれる人がいる。

 押し入らない人。

 でも、離れない人。

 リゼルミアは、少しずつ口から手を離した。

 まだ涙は止まらない。

 けれど、息がほんの少し入るようになった。

 エルネストは何も聞かなかった。

 夢の内容を。

 何を見たのかを。

 なぜ泣いているのかを。

 彼なら、知りたいはずだ。

 昨日の赤ん坊の泣き声。

 小箱にしまった布。

 今夜の悪夢。

 それらが繋がっていると、きっと分かっている。

 それでも、聞かない。

 言える日が来たら聞く。

 あの約束の通りに。

 リゼルミアは、枕の端を握った。

 いつか。

 いつか、言えるだろうか。

 医師を呼ばなかった家のことを。

 寒い離れのことを。

 あの子のことを。

 まだ名前もなかった子のことを。

 今はまだ、無理だった。

 口を開けば、痛みだけが溢れて、言葉にならない。

 けれど、言えないままでも、ひとりにされない夜がある。

 それを、リゼルミアは今知っている。

 泣き疲れて、呼吸が少し落ち着いた頃、エルネストの声がした。

「少し水を置く。寝台のそばではなく、机の上に置く」

 リゼルミアは小さく頷いた。

 今度は、かすかに声も出た。

「……はい」

 エルネストは立ち上がり、静かに水差しから杯へ水を注いだ。机の上へ置く音がする。それから、また扉の近くへ戻った。

「飲めそうなら飲んで。無理なら、そのままでいい」

 リゼルミアは布団の中で目を閉じた。

 その言葉が、体に染みる。

 飲めてもいい。

 飲めなくてもいい。

 泣いてもいい。

 言えなくてもいい。

 近づいてほしくても、まだ近づけなくてもいい。

 今夜の自分に許されることが、少しずつ増えていく。

 やがて、涙が少し止まった。

 リゼルミアは布団の中から腕を出し、ゆっくり身体を起こした。

 部屋は薄暗い。

 エルネストは扉の近くに座っている。こちらをじっと見つめてはいない。視線は少し床に落としていた。彼女が見られていると感じないように。

 リゼルミアは机へ手を伸ばし、水を取った。

 手が震える。

 けれど、杯を落とさずに飲めた。

 水は冷たかった。

 喉を通ると、夢の中の熱が少しだけ薄まる気がした。

「飲めました」

 小さく言った。

 エルネストは顔を上げた。

「よかった」

 それだけ。

 褒めすぎず、驚きすぎず。

 ただ、よかったと言う。

 リゼルミアは杯を置いた。

 沈黙が落ちる。

 そして、彼女は自分でも驚くほど小さな声で言った。

「怖い夢を、見ました」

 エルネストは、すぐには返さなかった。

 少し間を置いて、静かに答える。

「うん」

「まだ、言えません」

「分かっている」

「でも、怖かったです」

「うん」

「とても」

 声がまた震えた。

 エルネストは、椅子から動かなかった。

「今は、夢から覚めている」

 彼は言った。

「ここは公爵家だ。俺は扉の前にいる。君が呼ばなければ近づかない。呼べば行く」

 リゼルミアは、その言葉をひとつずつ確かめた。

 ここは公爵家。

 エルネストは扉の前。

 呼ばなければ近づかない。

 呼べば来る。

 夢ではない。

 夢の中の扉とは違う。

 彼女は、もう一度頷いた。

「……はい」

 それ以上は言えなかった。

 でも、今日はそれで十分だった。

 リゼルミアは再び布団に入った。

 眠れるかは分からない。

 けれど、横になることはできた。

 エルネストは、扉の近くの椅子に座ったまま、夜が明けるまでそこにいた。

 時折、暖炉の火が小さくなれば、静かに薪を足す。

 水差しの位置を少しだけ整える。

 けれど、寝台には近づかない。

 彼女が許可しなかったから。

 そして、彼女が「行かないで」と言ったから。

 彼は、押し入らず、離れず、そこにいた。

 リゼルミアは何度か浅い眠りに落ち、そのたびに夢の残響で目を覚ました。

 けれど、目を開けると扉の前に人影があった。

 笑う使用人ではない。

 医師を呼ばなかった家の者でもない。

 エルネストだった。

 そのたびに、彼女はまた少しだけ息をした。

 夜明け前、窓の外が薄く白み始めた頃。

 リゼルミアは、涙で重くなった目を閉じたまま、小さく呟いた。

「エルネスト様」

「はい」

 すぐに返事があった。

 ずっと起きていたのだ。

「そこに、いますか」

「いる」

「朝まで?」

「朝まで」

 その言葉を聞いて、リゼルミアの身体から、最後に残っていた力がふっと抜けた。

 朝まで。

 夢の中では、朝まで医師は来なかった。

 痛みを抱えたまま、ひとりで朝を待った。

 でも今夜は違う。

 朝まで、誰かがいる。

 リゼルミアは、その違いを胸に抱いた。

 完全に癒えるわけではない。

 夢はまた来るかもしれない。

 あの家のことは、まだ言えない。

 けれど、今夜は一人で朝を待っていない。

 その事実だけが、薄明かりの中で小さな灯になった。

 リゼルミアは、ようやく少し深く眠った。

 扉の前で、エルネストは静かに座っていた。

 夜明けの光が部屋の床へ薄く伸びるまで。

 彼は一度も、彼女の許可なく近づかなかった。

 けれど一度も、離れなかった。

あなたにおすすめの小説

隣にいるのが当たり前だと思っていた――無自覚な彼が、地味な私を失うまで

恋せよ恋
恋愛
正義感の強い完璧な幼馴染、ユリウス。 彼が他の女の子を「守りたい」と抱いたその情熱は、 一番近くにいた私に向けられたことはなかった。 誕生日の直前、私は何も告げずに国を去る。 「……え、ビビアンが、留学中?」 一ヶ月後、ようやく私の不在に気づいた彼の前に、 残酷な現実が突きつけられる。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

婚約した幼馴染の彼と妹がベッドで寝てた。婚約破棄は嫌だと泣き叫んで復縁をしつこく迫る。

佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢のオリビアは幼馴染と婚約して限りない喜びに満ちていました。相手はアルフィ皇太子殿下です。二人は心から幸福を感じている。 しかし、オリビアが聖女に選ばれてから会える時間が減っていく。それに対してアルフィは不満でした。オリビアも彼といる時間を大切にしたいと言う思いでしたが、心にすれ違いを生じてしまう。 そんな時、オリビアは過密スケジュールで約束していたデートを直前で取り消してしまい、アルフィと喧嘩になる。気を取り直して再びアルフィに謝りに行きますが……

あなたを守りたい……いまさらそれを言う?

たろ
恋愛
幼い頃に起きた事件がきっかけで実の父親に疎まれて暮らすファナ。  唯一の居場所は学校。 毎日、屋敷から学校まで歩いて通う侯爵令嬢を陰で笑う生徒達。 それでも、冷たい空気の中で過ごす屋敷にいるよりはまだマシだった。 ファナに優しくしてくれる教師のゼバウト先生。 嫌がらせをされてあまりにも制服が汚れるので、毎回洗って着替えを用意しておいてくれる保健室のエリーナ先生。 昼休みと放課後は、図書室で過ごすことが多いので、いつも何かと気にかけてくれる司書のマッカートニーさんと、図書委員の優しい先輩達。 妹のリリアンは、本人に悪気は無いのだけど、嫌なことや自分が怒られそうになると全て姉のファナに押し付ける。 嫌なことがあればメソメソと泣き姉に頼ってばかりだった。 いつも明るく甘えん坊のリリアンは顔もとても可愛らしく屋敷の中心で、使用人たちも父親も甘やかして育てられた。 一方、ファナはいずれ婿を取り侯爵家を継がなければならないため、父親に厳しく躾をされていた。 明るくて元気だったはずのファナの笑顔は、大きくなるにつれ失ってしまっていた。 使用人達もぞんざいな態度を隠そうともしない。ファナはもう諦めていた。 そんななか唯一、婚約者のジェームズだけはファナのことを優先してくれる優しい男の子だった。 そう思っていたのに……… ✴︎題名少し変更しました。

とある者たちの小さな復讐譚

かわもり かぐら(旧:かぐら)
恋愛
 フレデリック・ブレグリン侯爵には、目に入れても痛くないほど可愛い娘がいる。  最近、その娘が酷く悲しい思いをして帰ってきた。  妻が寄り添い、悲しみに暮れる娘を励ましている間、フレデリックはどうにかして娘の悲しみの原因を取り除こうと日々動き回っていた。  そんなある日、フレデリックは優秀な使用人ふたりを王都の奥まった通りにある宿へ送り込む。  しかしふたりは、目的を果たす前に宿泊を取りやめて帰ってきた。  一歩間違えれば、フレデリックだけでなく侯爵家全体が咎められる状況に陥るところだったらしい。  それでもふたりが無事に戻れたのは、宿の受付をしていた帽子の男の助言があったからだという。 「あんたと俺の目的は同じ。俺の方は別な理由も混じってるけど、理由も似たようなもんだな」  これは、とある者に人生を狂わされた者たちの小さな復讐譚である。 ※ 目指せ短編の目安2万字! を目標に書いています。 ※ 話の区切りの都合上、全3話を想定。 ※ カクヨム、なろう、pixiv にも投稿しています。

“いらない婚約者”なので、消えました。もう遅いです。

あめとおと
恋愛
婚約者である王子から、静かに告げられた言葉。 ――「君は、もう必要ない」 感情をぶつけることもなく、彼女はただ頷いた。 すべては、予定通りだったから。 彼女が選んだのは、“自分の記憶を世界から消す魔法”。 代償は、自身という存在そのもの。 名前も、記憶も、誰の心にも残らない。 まるで最初からいなかったかのように。 そして彼女は、消えた。 残された人々は、何かが欠けていることに気づく。 埋まらない違和感、回らない日常。 それでも――誰一人、思い出せない。 遅すぎた後悔と、届かない想い。 すべてを失って、ようやく知る。 “いらない存在”など、どこにもいなかったのだと。 これは、ひとりの少女が消えたあとに、 世界がその価値に気づく物語。 そして――彼女だけが、静かに救われる物語。

「本当に僕の子供なのか検査して調べたい」子供と顔が似てないと責められ離婚と多額の慰謝料を請求された。

佐藤 美奈
恋愛
ソフィア伯爵令嬢は、公爵位を継いだ恋人で幼馴染のジャックと結婚して公爵夫人になった。何一つ不自由のない環境で誰もが羨むような生活をして、二人の子供に恵まれて幸福の絶頂期でもあった。 「長男は僕に似てるけど、次男の顔は全く似てないから病院で検査したい」 ある日、ジャックからそう言われてソフィアは、時間が止まったような気持ちで精神的な打撃を受けた。すぐに返す言葉が出てこなかった。この出来事がきっかけで仲睦まじい夫婦にひびが入り崩れ出していく。

夫が勇者に選ばれました

プラネットプラント
恋愛
勇者に選ばれた夫は「必ず帰って来る」と言って、戻ってこない。風の噂では、王女様と結婚するらしい。そして、私は殺される。 ※なろうでも投稿しています。