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第30話 医師を呼ばなかった家
その夜、リゼルミアは夢を見た。
夢の中の空は、いつも灰色だった。
春でも夏でもない。朝でも夜でもない。窓の外には光があるはずなのに、その光は薄い布で何重にも包まれたように鈍く、部屋の隅までは届かない。空気は湿って冷たく、息を吸うたびに喉の奥が少し痛んだ。
三度目の婚家。
フロラドール男爵家。
母屋から少し離れた、北側の離れ。
そこが、夢の中のリゼルミアの部屋だった。
離れと言えば聞こえはいい。けれど実際は、古い客用棟の一部を形だけ整えたものだった。床板は冷え、壁紙は一部浮き、窓枠には隙間風が通る。暖炉はあったが、薪はいつも少なかった。母屋の客間には惜しみなく火が入るのに、リゼルミアの部屋には湿った薪が数本置かれるだけだった。
夢の中の彼女は、その部屋で目を覚ます。
まだ若い。
今よりずっと頼りない顔をしている。髪は今と同じ淡い灰金色だが、手入れが足りず、毛先が少し乾いていた。白い寝巻きの上に薄いショールを羽織っている。寒いのに、身体の内側だけ熱っぽい。
腹の奥に、鈍い違和感があった。
リゼルミアは寝台の上で、そっと自分の腹へ手を当てる。
月のものが遅れていた。
確かに、遅れていた。
誰にも言えなかった。
前の婚家でも、子を授からないことを責められた。二度目の離縁の時、夫の母に「石の鉢でも置いた方がまだ家の役に立つ」と言われた。その言葉は、三度目の婚家へ嫁いだ後も、胸の奥に残っていた。
だから、もしかしたらと思っても、言えなかった。
もし違っていたら笑われる。
もし本当だったら、今度はもっと見張られる。
けれど、夜だけは違った。
離れの小さな机で、蝋燭を一本だけ灯し、リゼルミアはこっそり産着を縫った。生成りの柔らかな布。薄青の糸。男の子でも女の子でもいいように、どちらにも似合う色を選んだ。
まだ生まれていない子。
まだ名前もない子。
その子のために、縫い目をひとつずつ置いていく時だけ、胸の中にほんの少し光が差した。
夢の中の朝、扉が乱暴に叩かれた。
「奥様。起きていらっしゃいますか」
返事をする前に、扉が開いた。
フロラドール家の女中だった。年はリゼルミアとそう変わらない。けれど、彼女はリゼルミアを見る目に、主人の妻へ向ける敬意を持っていなかった。
「奥様、水汲みをお願いいたします」
リゼルミアは寝台の上で身を起こす。
「水汲み……ですか」
「はい。母屋の湯の準備が遅れておりまして。奥様はいつもお暇でいらっしゃいますから」
言い方は丁寧だった。
けれど、棘は隠れていなかった。
リゼルミアは腹の奥の重さを感じながら、ショールを握った。
「今日は少し、体調が」
言いかけた瞬間、女中は目を丸くし、それから薄く笑った。
「奥様。義母様がおっしゃっていました。最近、奥様はやけに体調の話をなさると」
胸が冷える。
「いえ、本当に」
「まさか、もうお子を授かったおつもりで?」
女中の唇が歪んだ。
「まだ誰も確認していないのでしょう? 妊娠したふりでお仕事を避けるのは、あまり品がよろしくないかと」
妊娠したふり。
その言葉が、夢の中のリゼルミアの胸を刺した。
ふりではないかもしれない。
そう言いたかった。
けれど、言えば笑われる。確かな証拠もないのに、期待している女だと思われる。
彼女は結局、何も言えなかった。
寝台から降りる。
床が冷たい。
靴を履いても、冷えが足の裏から上がってくる。女中はさっさと廊下へ出ていき、リゼルミアだけが部屋に残された。彼女は腹に手を当てかけて、すぐに下ろした。
見られたら、また笑われる。
離れから母屋の裏手へ行くには、短い石段を下り、濡れた中庭を横切らなければならない。夢の中の中庭は、いつも薄暗く濡れている。空から雨は降っていないのに、石畳はぬめり、苔が端に生えている。
井戸のそばには、水桶が二つ置かれていた。
大きい。
普段、下働きの男たちが使うものだった。
リゼルミアはそれを見て、少し息を呑む。
「これを、ですか」
近くにいた下働きの青年が肩をすくめた。
「義母様からです。母屋の湯が足りないから、奥様に運んでいただけと」
「でも、私は」
「奥様は、家の役に立ちたいとおっしゃっていたそうじゃないですか」
言って、彼は笑った。
周りの使用人も、声を殺して笑う。
夢の中のリゼルミアは、水桶の取っ手を握った。
重い。
水を入れる前から、木桶そのものが重い。
それでも彼女は井戸から水を汲んだ。腕に力を入れる。肩が痛む。腹の奥が少し引きつる。けれど、途中でやめることはできなかった。
怠けている。
妊娠したふり。
役立たず。
その言葉が、背中を押してくる。
水を満たした桶は、想像以上に重かった。
両手で持ち上げるだけで、息が詰まる。腕の筋が震え、足元が不安定になる。だが、使用人たちは手伝わなかった。見ているだけだった。
母屋の勝手口へ向かうには、石段を上がらなければならない。
濡れた石段。
苔の生えた端。
リゼルミアは一段目に足をかけた。
桶の水が揺れる。
腹の奥に鈍い痛みが走った。
彼女は思わず立ち止まる。
「奥様?」
背後で誰かが笑う。
「水がこぼれますよ」
リゼルミアは、もう一段上がった。
息が苦しい。
手が痛い。
胸がばくばく鳴っている。
お腹の中に、小さな何かがいるかもしれない。
いるなら、守らなければ。
そう思うのに、今この桶を置くことすらできない。
置いたら、怠けたと言われる。
妊娠したふりだと笑われる。
彼女は三段目へ足をかけた。
その瞬間、足元が滑った。
桶が傾く。
水が跳ねる。
冷たい水が夜着の裾へかかり、石段に撒かれる。
身体が後ろへ揺れる。
手から桶が離れる。
誰かが「あ」と言った。
夢の中で、音が遅くなった。
リゼルミアの手が空を掴む。
腹を守ろうとする。
けれど間に合わない。
背中と腰が石段へ打ちつけられた。
痛み。
鋭い痛み。
息ができない。
桶が転がる音。
水が石の上を流れる音。
使用人たちのざわめき。
そして、腹の奥から広がる、嫌な熱。
夢の中のリゼルミアは、石段の上で動けなかった。
視界の端に、転がった桶が見える。
薄青の糸。
生成りの布。
夜中に縫った小さな産着。
それが頭の中で弾けるように浮かんだ。
「奥様、大げさですよ」
誰かが言った。
「水をこぼしてしまって」
別の誰かが笑った。
「義母様に叱られますね」
リゼルミアは口を開いた。
痛い。
お腹が痛い。
医師を呼んで。
そう言いたかった。
けれど声が出なかった。
そこへ、義母が現れた。
フロラドール家の義母。
いつも固く結い上げた髪、細い目、薄い唇。彼女は濡れた石段と、倒れたリゼルミアと、転がる桶を順番に見た。そして、ため息をついた。
「何をしているの」
リゼルミアは、かすれた声で言った。
「お腹が、痛くて」
義母は眉を上げた。
「また?」
「違……本当に」
「妊娠したふりで怠けるなと、夫にも言われたでしょう」
夢の中のリゼルミアの心が、そこで一度折れる。
夫。
フロラドールの三度目の夫。
彼は昨夜、確かに言った。
月のものが遅れているようだと、リゼルミアが勇気を出して小さく告げた時。
彼は、寝台の端で靴を脱ぎながら笑った。
「妊娠したふりで怠けるな」
それから、冷たく言った。
「確かなら医師に見せればいい。だが、違ったら恥だな。三度目の妻が期待だけで騒いだとなれば、家の評判にも関わる」
だから、言えなくなった。
医師に見せてほしいと言えなかった。
確かめることすら、恥だと言われたから。
石段の上で、リゼルミアは義母の顔を見上げていた。
「医師を」
ようやく声が出た。
「呼んで、ください」
義母は黙って見下ろした。
その顔には、心配などなかった。
「その程度で?」
「痛い、です」
「水桶を落としただけでしょう。服が濡れているわ。まず着替えなさい」
「でも」
「騒ぐほどのことではありません」
義母は使用人に言った。
「離れへ運んで。母屋で血でも流されたら床が汚れるわ」
血。
その言葉で、リゼルミアは自分の身体の異変をはっきり感じた。
熱い。
冷たい。
どちらか分からない感覚が足の間に広がっている。
恐怖が喉を塞ぐ。
夢の中の彼女は、運ばれていく。
母屋ではなく、離れへ。
寝室ではなく、冷たい古い部屋へ。
寝台に横たえられ、扉が閉められる。
医師は呼ばれない。
使用人が濡れた床を拭き、誰かが小声で笑っている。
「本当に妊娠していたなら、大変ですね」
「でも、まだ確かではなかったのでしょう」
「奥様は大げさだから」
扉の向こうで、声が遠く響く。
リゼルミアは寝台の上で腹を抱えた。
痛い。
痛い。
痛い。
誰か。
医師を。
夫を。
いや、夫は何と言うだろう。
騒ぐな。
みっともない。
弱い子だったのだ。
そう言われるのだろうか。
夜になった。
夢の中の夜は、やけに長い。
暖炉には火が入っていない。薪はあるのに、誰もくべない。毛布は薄い。額には汗が滲み、身体は震えている。腹の奥の痛みは波のように来て、引いて、また来る。引くたびに、何かが自分の中から離れていく気がした。
リゼルミアは、机の引き出しを見た。
そこには縫いかけの産着がある。
薄青の糸。
小さな縫い目。
まだ形になっていない布。
あれを完成させなければ。
そう思うのに、身体が動かない。
扉の向こうで、使用人が笑っていた。
「奥様、まだ泣いているのかしら」
「静かになったら見に行けばいいわ」
「医師は?」
「義母様が、朝まで様子を見ると」
「朝まで」
朝まで。
その言葉が、夢の中で黒い布のように広がった。
朝まで待ってはいけない。
待ってはいけない気がする。
でも、誰も来ない。
誰も扉を開けない。
リゼルミアは声を出そうとした。
助けて。
医師を呼んで。
赤ちゃんが。
赤ちゃん。
その言葉を、初めて心の中で呼んだ。
まだ確かではなかった。
医師にも見せていなかった。
誰にも認めてもらっていなかった。
けれど、リゼルミアの中では、もう「赤ちゃん」だった。
その瞬間、腹の奥の痛みが鋭くなった。
彼女は声にならない声を上げた。
扉の向こうで、誰かが笑う。
「また大げさに」
夢の中のリゼルミアは、寝台の上で目を開けたまま、朝を待った。
朝は来た。
でも、戻らなかった。
何も。
誰も。
小さな命も。
医師が来たのは、すべてが終わった後だった。
夫は部屋の入口に立ち、顔をしかめていた。
「騒ぎすぎだ」
義母は言った。
「そんなに簡単に駄目になるなら、どうせ弱い子だったのよ」
リゼルミアは、何も言えなかった。
泣くことさえ、許されない気がした。
夢はそこで、深く沈んだ。
リゼルミアは目を覚ました。
息ができなかった。
寝室は暗い。
公爵家の寝室。
フロラドール家の離れではない。
暖炉には小さな火が入っている。天蓋の内側は柔らかな影に包まれている。清潔な寝具の匂い、香草の匂い、少しだけ残る薪の匂い。
ここは違う。
違うのに、身体はまだ夢の中にいた。
腹の奥が痛い気がする。
空っぽのはずの場所が、ぎゅっと掴まれるように痛む。
リゼルミアは両手で口を押さえた。
声を出してはいけない。
泣いてはいけない。
扉の向こうで笑われる。
大げさだと言われる。
騒ぐなと言われる。
彼女は布団の中で身体を丸めた。
声を殺して泣く。
肩が震える。
喉の奥が痛い。
涙が頬を伝い、枕へ落ちる。
泣き声を押し殺すほど、胸の奥が苦しくなる。
エルネストは、長椅子にいるはずだった。
今夜も、寝室の同じ部屋に。
しかし、夢から覚めた直後のリゼルミアには、それすら怖かった。
聞かれたらどうしよう。
見られたらどうしよう。
何を夢見たのか聞かれたら。
答えられない。
言えない。
医師を呼ばなかった家のこと。
寒い離れのこと。
水桶のこと。
階段のこと。
薄青の糸のこと。
赤ちゃんのこと。
言えない。
まだ、言えない。
長椅子の方で、布がかすかに動く音がした。
エルネストが目を覚ましたのだ。
リゼルミアは、さらに強く口を押さえた。
泣き声が漏れないように。
だが、呼吸が乱れている。隠せるはずがない。
長椅子から立ち上がる音。
足音。
近づく。
リゼルミアの身体が固まる。
寝台のすぐそばまで来るかと思った。
布団をめくられるかと思った。
何があった、と問われるかと思った。
けれど、足音は寝台の前で止まらなかった。
少し離れた場所で止まった。
扉の近くだった。
リゼルミアは涙で滲んだ目を開ける。
天蓋の薄布越しに、彼の影が見えた。
エルネストは、寝台へ押し入ってこなかった。
彼女の枕元へ来なかった。
布団に触れなかった。
部屋を出る扉の前まで行き、そこで止まっている。
逃げ道を塞がない場所。
けれど、離れもしない場所。
リゼルミアの胸が、また痛んだ。
彼の声が、暗がりに低く落ちた。
「リゼルミア」
優しい声だった。
けれど、すぐ近くではない。
距離を置いた声。
「起きている」
問いではなかった。
気づいているという確認だった。
リゼルミアは答えられない。
声を出せば、泣き声になる。
エルネストは続けた。
「近づいてもいいか、聞きたい」
涙がまた溢れた。
こんな時でも、聞くのだ。
許可を。
泣いている妻を見つけても、夢にうなされたと分かっても、苦しそうにしていても。
押し入らない。
布団を剥がさない。
抱き起こさない。
けれど、離れない。
「答えられないなら、ここにいる」
エルネストの声がした。
「入ってこない。近づかない。でも、ここにいる」
リゼルミアは、口を押さえたまま泣いた。
声を殺そうとしても、細い息が漏れる。
それでも彼は動かない。
扉の前で、ただ待っている。
夢の中の扉とは違う。
あの時の扉の向こうには、笑う使用人がいた。
医師を呼ばない人たちがいた。
痛みを大げさだと言う声があった。
今の扉の前には、エルネストがいる。
中へ押し入らず。
外へ捨て置かず。
ただ、許可を待っている。
リゼルミアは、震える手で布団を握った。
呼びたい。
でも、呼べない。
来てほしい。
でも、見られたくない。
その二つの間で、身体が引き裂かれそうだった。
「水が必要なら、机の上に置く」
エルネストが静かに言った。
「手が冷えているなら、湯を持ってくる。イーリアを呼んでもいい。俺だけが外にいてもいい」
ひとつずつ、選択肢を置いてくれる。
答えられなくても、彼女が呼吸できるように。
リゼルミアは、涙で濡れた頬を枕に押しつけた。
声を出したら、壊れそうだった。
それでも、ほんの少しだけ、喉を動かす。
「……いか、ないで」
自分でも聞き取れるか分からないほど小さな声だった。
でも、エルネストには届いた。
すぐに返事があった。
「行かない」
短い。
確かな言葉。
リゼルミアの喉がまた震える。
「そこにいる」
彼は続けた。
「近づかない。でも、行かない」
リゼルミアは、布団の中で小さく頷いた。
見えていないだろう。
それでも、頷いた。
部屋の中は静かだった。
暖炉の火が小さく鳴る。
外の夜は深く、雨上がりの水気を含んでいる。窓の向こうで、枝から雫が落ちた。
エルネストは、本当にその場を動かなかった。
椅子を引く音がした。
どうやら扉の近くにあった小さな椅子へ腰かけたらしい。彼は寝台へ近づかないまま、しかし部屋を出ないまま、そこにいた。
その距離が、リゼルミアを少しずつ現実へ戻していく。
フロラドール家の離れではない。
寒い石段ではない。
閉じられた扉の向こうで笑う人たちはいない。
ここは公爵家の寝室。
扉の前には、待ってくれる人がいる。
押し入らない人。
でも、離れない人。
リゼルミアは、少しずつ口から手を離した。
まだ涙は止まらない。
けれど、息がほんの少し入るようになった。
エルネストは何も聞かなかった。
夢の内容を。
何を見たのかを。
なぜ泣いているのかを。
彼なら、知りたいはずだ。
昨日の赤ん坊の泣き声。
小箱にしまった布。
今夜の悪夢。
それらが繋がっていると、きっと分かっている。
それでも、聞かない。
言える日が来たら聞く。
あの約束の通りに。
リゼルミアは、枕の端を握った。
いつか。
いつか、言えるだろうか。
医師を呼ばなかった家のことを。
寒い離れのことを。
あの子のことを。
まだ名前もなかった子のことを。
今はまだ、無理だった。
口を開けば、痛みだけが溢れて、言葉にならない。
けれど、言えないままでも、ひとりにされない夜がある。
それを、リゼルミアは今知っている。
泣き疲れて、呼吸が少し落ち着いた頃、エルネストの声がした。
「少し水を置く。寝台のそばではなく、机の上に置く」
リゼルミアは小さく頷いた。
今度は、かすかに声も出た。
「……はい」
エルネストは立ち上がり、静かに水差しから杯へ水を注いだ。机の上へ置く音がする。それから、また扉の近くへ戻った。
「飲めそうなら飲んで。無理なら、そのままでいい」
リゼルミアは布団の中で目を閉じた。
その言葉が、体に染みる。
飲めてもいい。
飲めなくてもいい。
泣いてもいい。
言えなくてもいい。
近づいてほしくても、まだ近づけなくてもいい。
今夜の自分に許されることが、少しずつ増えていく。
やがて、涙が少し止まった。
リゼルミアは布団の中から腕を出し、ゆっくり身体を起こした。
部屋は薄暗い。
エルネストは扉の近くに座っている。こちらをじっと見つめてはいない。視線は少し床に落としていた。彼女が見られていると感じないように。
リゼルミアは机へ手を伸ばし、水を取った。
手が震える。
けれど、杯を落とさずに飲めた。
水は冷たかった。
喉を通ると、夢の中の熱が少しだけ薄まる気がした。
「飲めました」
小さく言った。
エルネストは顔を上げた。
「よかった」
それだけ。
褒めすぎず、驚きすぎず。
ただ、よかったと言う。
リゼルミアは杯を置いた。
沈黙が落ちる。
そして、彼女は自分でも驚くほど小さな声で言った。
「怖い夢を、見ました」
エルネストは、すぐには返さなかった。
少し間を置いて、静かに答える。
「うん」
「まだ、言えません」
「分かっている」
「でも、怖かったです」
「うん」
「とても」
声がまた震えた。
エルネストは、椅子から動かなかった。
「今は、夢から覚めている」
彼は言った。
「ここは公爵家だ。俺は扉の前にいる。君が呼ばなければ近づかない。呼べば行く」
リゼルミアは、その言葉をひとつずつ確かめた。
ここは公爵家。
エルネストは扉の前。
呼ばなければ近づかない。
呼べば来る。
夢ではない。
夢の中の扉とは違う。
彼女は、もう一度頷いた。
「……はい」
それ以上は言えなかった。
でも、今日はそれで十分だった。
リゼルミアは再び布団に入った。
眠れるかは分からない。
けれど、横になることはできた。
エルネストは、扉の近くの椅子に座ったまま、夜が明けるまでそこにいた。
時折、暖炉の火が小さくなれば、静かに薪を足す。
水差しの位置を少しだけ整える。
けれど、寝台には近づかない。
彼女が許可しなかったから。
そして、彼女が「行かないで」と言ったから。
彼は、押し入らず、離れず、そこにいた。
リゼルミアは何度か浅い眠りに落ち、そのたびに夢の残響で目を覚ました。
けれど、目を開けると扉の前に人影があった。
笑う使用人ではない。
医師を呼ばなかった家の者でもない。
エルネストだった。
そのたびに、彼女はまた少しだけ息をした。
夜明け前、窓の外が薄く白み始めた頃。
リゼルミアは、涙で重くなった目を閉じたまま、小さく呟いた。
「エルネスト様」
「はい」
すぐに返事があった。
ずっと起きていたのだ。
「そこに、いますか」
「いる」
「朝まで?」
「朝まで」
その言葉を聞いて、リゼルミアの身体から、最後に残っていた力がふっと抜けた。
朝まで。
夢の中では、朝まで医師は来なかった。
痛みを抱えたまま、ひとりで朝を待った。
でも今夜は違う。
朝まで、誰かがいる。
リゼルミアは、その違いを胸に抱いた。
完全に癒えるわけではない。
夢はまた来るかもしれない。
あの家のことは、まだ言えない。
けれど、今夜は一人で朝を待っていない。
その事実だけが、薄明かりの中で小さな灯になった。
リゼルミアは、ようやく少し深く眠った。
扉の前で、エルネストは静かに座っていた。
夜明けの光が部屋の床へ薄く伸びるまで。
彼は一度も、彼女の許可なく近づかなかった。
けれど一度も、離れなかった。
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