十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第36話 甘い果物を半分こ


 その夜、リゼルミアの部屋には、食事の匂いがほとんどなかった。

 料理長が気を配ってくれたのだろう。温かなスープは香草を控え、肉の脂も浮かないよう丁寧に澄まされていた。柔らかな白パンは小さく切られ、湯気の立つ白湯には蜂蜜がほんの少しだけ溶かされている。卓の上に並べられた皿は、どれも彼女の身体を驚かせないように作られていた。

 それでも、リゼルミアは匙を持てなかった。

 ミュゼリアの声が、まだ耳の奥に残っている。

 おめでとう、お姉様。

 でも大丈夫?

 また守れなかったら、かわいそうだもの。

 その言葉は、応接室を出た後も、廊下を歩いても、書庫で小箱の前に立っても、寝室へ戻っても消えなかった。声そのものは甘かった。祝福に似せた、柔らかい声だった。だからこそ、毒は深く染みた。

 また守れなかったら。

 言葉の先が、胸の中で何度もほどける。

 また。

 つまり、前にも守れなかったのだと。

 守れない女なのだと。

 今度も同じことになるかもしれないのだと。

 ミュゼリアが本当に過去のすべてを知っていたかは分からない。けれど、知らなくても、あの言葉は最も痛い場所へ届いた。リゼルミアがようやく小箱に納めたばかりの記憶を、薄桃色の爪先で踏もうとした。

 応接室で、自分は言えた。

 その子のことを、あなたが口にしないで。

 その言葉は、今も胸に残っている。

 エルネストも言ってくれた。

 君は守った、と。

 この子を守った。

 失った子の記憶も守った。

 その言葉も、確かに胸にある。

 それなのに、身体は素直ではなかった。

 食事を前にすると、喉が細くなる。匙を持つ手が重くなる。スープの湯気は柔らかいのに、胸の中で何かがこわばる。

 食べなければいけない。

 この子のために。

 自分のために。

 医師も、少量ずつでよいから身体に入れましょうと言った。イーリアも、料理長も、食べられるものを探してくれている。エルネストも、無理をしなくていいと言いながら、食べられる道を一緒に探してくれる。

 だから、食べなければ。

 そう思うほど、喉が閉じた。

 リゼルミアは、膝の上で手を握った。

 私が食べられなかったら。

 この子に、何かあったら。

 また守れなかったら。

 匙に触れようとしていた指が止まる。胸が苦しくなり、視界が少し滲む。食べるという、ただそれだけのことが、急に恐ろしい試験のように思えた。

 食べられるか。

 母になれるか。

 守れるか。

 そんな問いが、白い皿の上から自分を見上げているようだった。

 エルネストは、向かいではなく斜めの椅子に座っていた。

 今夜は食堂ではなく、私室に近い小さな居間で食事を取っている。暖炉には弱い火が入り、窓の外は夜の庭が静かに沈んでいた。部屋の明かりは柔らかく、強すぎない。香りの強い花も置かれていない。卓に置かれているのは、食事と白湯、それから小さな水差しだけだった。

 エルネストは、リゼルミアが匙を持てないことにすぐ気づいていた。

 けれど、急かさなかった。

 食べなさいとも言わない。

 この子のために、とも言わない。

 ただ、しばらく静かに待っていた。

 その沈黙が、リゼルミアにはありがたかった。けれど同時に、胸が痛くなる。彼は待ってくれている。待ってくれているのに、自分は食べられない。

「リゼルミア」

 低い声がした。

 彼女は顔を上げる。

「はい」

「今日は、喉が通らない?」

 問いは静かだった。

 責める響きはなかった。

 リゼルミアは、少し迷ってから頷いた。

「……はい」

 言えた。

 大丈夫です、ではなく。

 食べられます、でもなく。

 今日は喉を通らないと。

 それだけなのに、胸が少し震えた。

 エルネストは頷いた。

「分かった」

 彼はそれだけ言うと、ロナンを呼ばず、イーリアも呼ばなかった。まず自分で卓の上を見た。スープ、パン、白湯。どれも重くないはずだったが、今のリゼルミアには「食事」として重すぎるのだろう。

「無理に食べなくていい」

 エルネストは言った。

 リゼルミアの胸が、ほっとするより先に痛んだ。

「でも」

「食べられる形を探せばいい」

「食べなければ」

 言いかけて、声が詰まった。

 食べなければ守れない。

 そう言いそうになった。

 エルネストは、彼女の言葉の先を勝手に決めつけなかった。ただ、静かに待つ。

 リゼルミアは、目を伏せた。

「食べなければ、この子に悪いような気がして」

「うん」

「でも、そう思うほど、喉が通らなくなります」

「うん」

「私は、今日、あの子を守ったと言っていただきました。でも、こうして食べられないだけで、また守れないのではないかと思ってしまいます」

 エルネストの目元が静かに痛んだ。

 リゼルミアに向けた痛みではない。

 彼女をここまで追い詰めた言葉たちへの痛みだった。

「食べられない夜が一度あっても、君が守っていないことにはならない」

「でも」

「医師も言っていた。少量を分けていい。食べられない時は、水分だけでもいい。今日は今日の身体に合わせる」

 そう言われても、すぐには安心できない。

 リゼルミアの中では、食べられない自分を責める声がまだ続いている。

 エルネストは少し考え、卓の上の鈴を鳴らした。

 入ってきたのはイーリアだった。

「旦那様」

「香りの少ない果物はあるか」

「ございます。甘みのある白葡萄と、柔らかい梨が本日届いております。どちらも香りは強くありません」

「小さく切って。皿は一枚でいい。フォークを二本」

 イーリアは、一瞬だけリゼルミアを見た。

 その視線に心配はあったが、過剰な憐れみはない。

「かしこまりました」

 彼女はすぐに下がった。

 リゼルミアは少し戸惑った。

「果物、ですか」

「スープが無理なら、別のものにする」

「でも、夕食なのに」

「夕食は儀式ではない。身体に入るものを、入る形で取ればいい」

 エルネストは淡々と言った。

「今日は果物でいい」

 リゼルミアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 夕食はきちんと食べなければならない。

 皿を残してはならない。

 妻なら食卓で相手を不快にさせてはならない。

 過去の婚家では、そうだった。

 食べられない時に残すと、義母がため息をついた。

「食が細いふりをして、可憐に見せたいのかしら」

 夫は面倒そうに言った。

「場が暗くなる。食べられないなら来るな」

 だから、食卓は怖い場所だった。

 食べても、食べなくても責められる場所。

 けれどエルネストは、夕食は儀式ではないと言う。

 食べられる形を探せばいいと。

 しばらくして、イーリアが小さな皿を運んできた。

 白い陶器の皿に、皮を剥いた梨と、小粒の白葡萄が並べられている。梨は薄く小さく切られ、一口よりもさらに小さい。白葡萄は半分に切られ、種が丁寧に取られていた。どちらも瑞々しく、けれど香りは強くない。

 フォークは二本。

 皿は一枚。

 イーリアは卓へ置くと、静かに礼をした。

「奥様。お口に合わなければ、すぐに別のものをご用意いたします」

 リゼルミアは、皿を見つめた。

 甘い果物。

 小さく切られている。

 それだけで、スープよりは少し近づきやすい気がした。

「ありがとうございます」

 イーリアが下がると、エルネストは二本のフォークのうち一本を取った。

 そして、梨を一切れ刺す。

 リゼルミアは驚いて彼を見た。

 エルネストは、その梨を自分の口へ運んだ。

 ゆっくり噛む。

 飲み込む。

「甘い」

 真面目に言った。

 リゼルミアは瞬きをする。

「エルネスト様が、召し上がるのですか」

「一人で食べるのが怖いなら、俺も食べる」

 その言葉は、あまりにも当然のように落ちた。

 リゼルミアの胸が震える。

 一人で食べるのが怖いなら。

 そうだ。

 彼は、分かっている。

 今のリゼルミアにとって、食べることがただの食事ではなくなっていることを。自分だけが試されているような気持ちになっていることを。食べられなければ責められるのではないか、食べた量が母としての資格を測るものになるのではないかと怯えていることを。

 だから、彼は同じ皿から食べた。

 彼も食べる。

 同じものを。

 同じ卓で。

 責める側ではなく、一緒に食べる側として。

 リゼルミアは、皿の上の梨を見つめた。

「でも、これは私のために」

「なら、半分もらう」

「半分」

「全部君が食べなければならない皿ではない」

 エルネストは、次に白葡萄を一粒、いや半分に切られた一つをフォークで取った。

「これも甘い」

 また真面目に言う。

 その様子が、少しだけ可笑しかった。

 公爵らしい威厳のある顔で、小さく切られた白葡萄を食べて、感想が「甘い」。

 リゼルミアの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 エルネストはそれを見逃さなかったが、指摘しなかった。

「一つだけ試す?」

 彼は皿を少しだけリゼルミアの方へ押した。

 押しつけるほどではない。

 届きやすい位置に置くだけ。

 リゼルミアはフォークを見た。

 自分の分のフォーク。

 持てるだろうか。

 食べられるだろうか。

 喉がまた閉じるかもしれない。

 でも、エルネストが同じ皿から食べている。

 残しても、彼は責めない。

 食べられなかった分を、彼が「半分」として食べてくれるかもしれない。

 そう思うと、皿が少しだけ怖くなくなった。

 リゼルミアはフォークを取った。

 手が少し震える。

 エルネストは見ているが、凝視しない。彼は自分もまた、梨の小さな一切れを取って食べている。

 リゼルミアは、皿の端にある一番小さな梨を選んだ。

 フォークの先で刺す。

 軽い。

 口元へ運ぶ。

 香りは強くない。瑞々しく、淡い甘みがある。噛むと、果汁が舌の上に広がった。

 冷たすぎず、柔らかすぎず、喉を通りやすい。

 飲み込めた。

 リゼルミアは、思わず息を吐いた。

「食べられました」

 声が小さい。

 けれど、確かに少し明るかった。

 エルネストは頷いた。

「一つ食べた」

 それだけ。

 大げさに褒めない。

 よくできた、とは言わない。

 母として偉いとも言わない。

 ただ、一つ食べたという事実だけを置く。

 そのことが、リゼルミアにはとても楽だった。

「もう一つ、いけそうか」

 エルネストが尋ねる。

 リゼルミアは皿を見た。

 無理かもしれない。

 でも、もう一つなら。

「白葡萄を、半分」

「うん」

 彼女は半分に切られた白葡萄を取った。

 口に入れると、梨より少し甘い。果汁が弾けて、喉の奥へすっと入っていく。重くない。胃も驚かない。

 リゼルミアは、もう一度飲み込んだ。

 エルネストが、同じ白葡萄を食べる。

「これも甘い」

 同じ感想。

 今度はリゼルミアが少し笑った。

「先ほども甘いとおっしゃいました」

「甘いものは甘い」

「それはそうですが」

「他に言い方があるか」

 リゼルミアは少し考えた。

「瑞々しい、とか」

「瑞々しい」

 エルネストは白葡萄を見つめ、真面目に繰り返した。

「確かに」

 その真面目さに、リゼルミアはまた少し笑った。

 笑うと、胸の奥が少しだけ緩む。

 食事の皿の前で笑える。

 それは、彼女にとって小さくないことだった。

 エルネストは、梨をまた一切れ食べた。

「これは、少し歯触りがある」

「梨ですから」

「そうか」

「果物を普段あまり召し上がらないのですか」

「嫌いではないが、こうして細かく味を言うことはあまりない」

 リゼルミアは、皿の上の小さな梨を見た。

「では、今日は私のために味を言ってくださっているのですね」

「そうだ」

 あまりにも率直に認められ、リゼルミアの顔が熱くなる。

「そこは少し濁してくださっても」

「濁す必要があるか」

「恥ずかしいです」

「そうか」

 彼は少し考えた。

「でも、本当だ」

 リゼルミアは、胸がくすぐったくなった。

 甘い果物よりも、その言葉の方が甘い気がした。

 彼は彼女のために、同じ皿から食べている。

 彼女が一人で食べることを怖がらないように。

 食べる量で裁かれていると感じないように。

 食事を、試験ではなく、二人で分ける小さな時間に変えるために。

 リゼルミアは、フォークで梨をもう一つ取った。

「これは、少し大きいです」

「半分にする?」

「できますか」

 エルネストは自分のフォークを置き、ナイフを取った。小さな梨の一切れをさらに半分にするには、少し慎重さが必要だった。公爵が真顔で梨を細かく切っている。その様子がどこか可愛らしくて、リゼルミアは口元を押さえた。

「笑っている」

「少しだけです」

「梨を切るのは難しい」

「とても真剣なお顔でした」

「真剣に切っている」

「ありがとうございます」

「うん」

 半分になった梨を、彼はリゼルミアの皿側へ寄せた。

 リゼルミアはそれを食べた。

 飲み込めた。

 少しずつ。

 本当に少しずつ。

 でも、食べられている。

 エルネストも同じ皿から食べている。時々、味の感想を短く言う。甘い。瑞々しい。少し歯触りがある。冷たくない。喉に残らない。

 その一つ一つが、食べることを怖いものから遠ざけていく。

 リゼルミアは、皿の上が少し減っていることに気づいた。

 自分が食べた分だけではない。

 エルネストが食べた分もある。

 二人で減らした皿。

 そのことが、胸にやさしく入ってきた。

「一人で食べるのが、怖かったのだと思います」

 リゼルミアはぽつりと言った。

 エルネストはフォークを置き、静かに聞いている。

「食べなさいと言われるのも怖いのですが、誰も何も言わずに見ているのも怖くて。どれだけ食べたか、どれだけ残したか、それで何かを測られているような気持ちになります」

「うん」

「この子のために、と言われると、たぶん私はもっと食べられなくなります」

「言わない」

 エルネストはすぐに言った。

「言わせない」

 リゼルミアは彼を見る。

 彼は続けた。

「この子のためになることでも、君を追い詰める言葉にはしない」

 胸が熱くなる。

「ありがとうございます」

「食事は、生きるためだ」

 エルネストは皿を見た。

「罰でも、試験でもない」

 その言葉に、リゼルミアの視界が滲んだ。

 食べること。

 眠ること。

 休むこと。

 それらは、ずっと彼女にとって責められる可能性のある動作だった。

 食べれば、よく食べる女だと笑われる。

 食べなければ、場を暗くすると責められる。

 眠れば、怠け者。

 眠れなければ、面倒な女。

 休めば、役立たず。

 働けば、出過ぎた妻。

 生きるための動作すべてが、誰かの評価にさらされていた。

 でも、エルネストは違うと言う。

 食事は生きるため。

 休むのも生きるため。

 眠るのも生きるため。

 リゼルミアは、フォークを握ったまま涙をこぼした。

「生きるため」

「うん」

「私は、生きるためのことまで怖がっていたのですね」

「怖がるようにされたんだろう」

 その言葉は、責めではなかった。

 リゼルミアは小さく頷く。

「でも、今日は少し怖くありません」

 皿を見る。

「エルネスト様が、同じものを食べてくださっているので」

 エルネストの目元が柔らかくなる。

「なら、またする」

「毎回では大変です」

「大変なら、果物を大きめに切ってもらう」

「そういう問題でしょうか」

「半分こなら、俺の分も必要だ」

 真面目な声。

 リゼルミアは、また笑ってしまった。

 今度は、少し声が出た。

 自分でも驚く。

 ミュゼリアの毒で喉が塞がっていた夜に、笑い声が出た。

 エルネストも少しだけ目を細める。

「今の顔はいい」

 リゼルミアの頬が赤くなる。

「またそういうことを」

「時々ならいいと言った」

「時々が多いです」

「そうか」

「はい」

「なら、今日はもう一つだけにする」

 そう言って、彼は皿の上の梨を一切れ取った。

「笑っている顔が見られてよかった」

 全然、もう一つだけでは済んでいない。

 リゼルミアは顔を伏せた。

 けれど、胸は甘く温かかった。

 果物は、結局半分ほどなくなった。

 どちらがどれだけ食べたかは分からない。リゼルミアが三つか四つ、エルネストがもう少し。途中で彼が梨をさらに小さく切り、リゼルミアは白葡萄を一つ半食べた。皿の上にはまだ残っているが、もう「残した」とは思わなかった。

 二人で食べた。

 それでよかった。

 エルネストは皿を見て言った。

「今日はここまで」

 リゼルミアは頷いた。

「はい」

「白湯は飲める?」

「少し」

 彼が杯を渡してくれる。

 リゼルミアは両手で受け取り、ゆっくり飲んだ。

 白湯は温かい。

 果物の甘みが残った舌に、やわらかく馴染む。

 飲み終えると、身体の奥が少しだけ落ち着いていた。

「眠れそうか」

 エルネストが尋ねる。

 リゼルミアは窓の外を見た。

 夜の庭。

 暗いが、怖くはない。

「まだ分かりません。でも、先ほどよりは」

「なら、今日は寝室へ行く前に少し暖炉の前で休む」

「はい」

 居間の暖炉の前には、低い椅子と柔らかな膝掛けが用意されていた。イーリアがすでに整えてくれていたのだろう。リゼルミアはそこへ座り、エルネストは隣の椅子に座った。

 近すぎない。

 けれど、手を伸ばせば届く距離。

 いつもの距離。

 暖炉の火は大きすぎず、柔らかい。薪が時折小さく爆ぜ、部屋の壁に淡い光を揺らした。果物の皿は下げられたが、口の中にはまだ淡い甘みが残っている。

 リゼルミアは膝掛けを握りながら、ぽつりと言った。

「食べられないと、怖いです」

「うん」

「眠れないのも怖いです」

「うん」

「休むのも、まだ少し怖いです。何もしていないと、役に立っていない気がして」

「うん」

「でも、今日は果物を少し食べました」

「食べた」

「エルネスト様と半分こしました」

「した」

「それだけなのに、少し……生きることを許された気がしました」

 エルネストは、彼女の言葉をゆっくり受け取った。

 そして静かに言った。

「許されるものではない」

 リゼルミアは彼を見る。

「君は、生きていていい」

 暖炉の音が、部屋を満たす。

 リゼルミアの胸に、その言葉が深く落ちた。

 生きていていい。

 食べてもいい。

 眠ってもいい。

 休んでもいい。

 子がいてもいなくても。

 役に立っても立たなくても。

 泣いても、笑っても、食べられない夜があっても。

 生きていていい。

 あまりに大きな言葉で、すぐには抱えきれなかった。

 だから、リゼルミアはその言葉を全部受け取ろうとせず、小さく畳んだ。

 今日は、果物を半分こした。

 今日は、白湯を飲めた。

 今日は、少し笑えた。

 今日は、それでいい。

「エルネスト様」

「はい」

「明日も、もし食べるのが怖かったら」

「半分こする」

 即答だった。

 リゼルミアは泣き笑いになった。

「果物でなくても?」

「スープは難しいが、パンなら半分にできる」

「スープは難しいですね」

「同じ鍋からなら、半分この一種だ」

 リゼルミアは目を丸くし、それから小さく笑った。

「理屈が少し強引です」

「そうか」

「でも、嫌いではありません」

 エルネストの目元が柔らかくなる。

「なら使う」

「時々にしてください」

「分かった」

 そのやり取りが、甘く、穏やかに部屋へ溶けていく。

 ミュゼリアの毒は、まだ消えていない。

 また守れなかったら。

 その言葉は、夜のどこかに残っている。

 けれど、今はその隣に別の記憶ができた。

 白い皿。

 小さく切られた梨。

 半分にされた白葡萄。

 同じ皿から食べるエルネスト。

 甘い、と真面目に言う声。

 一人で食べるのが怖いなら、俺も食べる。

 その記憶が、毒の上に薄い蜂蜜の膜を張るように、少しずつ痛みを和らげていく。

 寝室へ向かう頃、リゼルミアの身体は疲れていた。

 けれど、夕食前のような凍りつきは少し薄れていた。食べた量は多くない。けれど、何も入らなかったわけではない。責められなかった。残しても、誰もため息をつかなかった。

 寝室では、イーリアが香りの弱い湯を用意してくれていた。

 リゼルミアは軽く手を温め、夜着に着替えた。今日は髪をほどく時も、いつもより少し落ち着いていた。イーリアが丁寧に櫛を通し、絡まりをほどく。

「痛くございませんか」

「はい。大丈夫です」

 今度の大丈夫は、嘘ではなかった。

 イーリアは鏡越しに少し微笑んだ。

「今夜は、少しお顔の色が戻られましたね」

 リゼルミアは頬に手を当てる。

「果物を、少し食べたからかもしれません」

「旦那様と半分こなさったと伺いました」

 イーリアの声に、かすかな温かさが混じっている。

 リゼルミアの顔が赤くなる。

「もうご存じなのですか」

「皿を下げたマリナが、大変安堵しておりましたので」

「そうでしたか」

「はい。料理長も、明日は半分こしやすい献立を考えると張り切っております」

 リゼルミアは思わず笑ってしまった。

「半分こしやすい献立」

「小さなパン、香りの薄い焼き林檎、柔らかい蒸し野菜などが候補だそうです」

「屋敷中で半分こになってしまいます」

「奥様が召し上がりやすいなら、皆喜びます」

 その言葉に、胸が温かくなる。

 以前なら、申し訳ないと思っただろう。

 今も少し思う。

 けれど、それだけではない。

 皆が、リゼルミアを責めるためではなく、生きる動作を少しでも楽にするために考えてくれている。

 そのことを、今日は少し信じられた。

 イーリアが下がった後、エルネストが寝室に入ってきた。

 彼はいつものように灯りを落とし、暖炉の火を調整した。リゼルミアは寝台に入り、布団を胸元まで引き上げる。

 今日はお腹に手を置く前に、少し迷った。

 ミュゼリアの言葉が蘇る。

 また守れなかったら。

 胸が冷えかける。

 その時、エルネストが静かに尋ねた。

「手を取る?」

 リゼルミアは彼を見る。

 彼は寝台の近くの椅子に座り、掌を開いていた。

 その手を見て、リゼルミアは息を吐いた。

「はい」

 手を伸ばす。

 彼の掌に乗せる。

 ゆるく包まれる。

 温かい。

「今日は、食べた」

 エルネストが言った。

 リゼルミアは小さく頷く。

「はい」

「眠れなくても、横になればいい」

「はい」

「休むのも、仕事の一つにしていい」

「仕事ですか」

「君がどうしても役に立つという言葉を手放せないなら、今は休むことが一番重要な仕事だ」

 少し強引な理屈。

 でも、リゼルミアにはありがたかった。

「では、私は今から仕事をします」

「そうだ」

「寝台で横になる仕事」

「大事な仕事だ」

「エルネスト様は、見張り役ですか」

「見守り役だ」

 リゼルミアは、ふふ、と小さく笑った。

 その笑い声が、自分の耳にも柔らかく響いた。

 エルネストは、目元を少し和らげる。

「よかった」

「何がですか」

「また笑った」

 リゼルミアの頬が熱くなる。

「今日は、もう一つだけとおっしゃったのに」

「これは別の日付だ」

「まだ同じ夜です」

「そうか」

「そうです」

「なら、撤回しない」

 リゼルミアは、呆れたように笑いながら涙が滲むのを感じた。

 甘い。

 果物よりも、ずっと。

 でも、苦しくない甘さだった。

 責めるためではなく、安心させるための甘さ。

 その甘さの中で、リゼルミアはゆっくり目を閉じた。

「エルネスト様」

「はい」

「明日も、食べることが怖いかもしれません」

「うん」

「眠ることも、休むことも」

「うん」

「でも、今日、果物を食べたことを覚えていたいです」

「覚えておこう」

「一人ではなく、半分こしたことも」

「うん」

「責められなかったことも」

「責めない」

 リゼルミアは、彼の手を握り返した。

 ほんの少しだけ。

「おやすみなさい、エルネスト様」

「おやすみ、リゼルミア」

 その夜、リゼルミアはすぐには眠れなかった。

 ミュゼリアの言葉は、まだ時折胸を刺した。

 また守れなかったら。

 その毒は簡単には消えない。

 けれど、毒の隣に、甘い果物の記憶がある。

 白い皿。

 二本のフォーク。

 同じ梨。

 同じ白葡萄。

 甘い、と真面目に言う夫。

 一人で食べるのが怖いなら、俺も食べる。

 その声を思い出すと、胸の冷えが少しだけ和らいだ。

 食べることは、試験ではない。

 眠ることは、怠けではない。

 休むことは、罪ではない。

 どれも、生きるための動作。

 自分と、この子が、明日を迎えるための小さな営み。

 リゼルミアは、お腹へ手を置く。

 怖い。

 でも、今夜は言えた。

「今日は、梨を食べました」

 小さな声。

 エルネストには聞こえたかもしれない。

 聞こえなかったかもしれない。

 でも、それでよかった。

「白葡萄も、少し」

 言ってから、涙が一粒こぼれた。

 悲しみではない。

 少しだけ、生きていることが胸に沁みる涙だった。

 エルネストの手が、リゼルミアの手をゆるく包んだまま、静かに温かかった。

 彼は何も言わない。

 その沈黙が、「聞いている」と言っているようだった。

 リゼルミアは、果物の淡い甘みを思い出しながら、ゆっくり眠りへ落ちていった。

 その夜の夢には、食卓が出てきた。

 けれど、そこに責める声はなかった。

 白い皿の上に、小さく切られた梨がある。

 向かいではなく、隣にエルネストがいて、同じ皿から一切れ取る。

 そして、いつもの真面目な顔で言う。

 甘い。

 夢の中のリゼルミアは、少しだけ笑った。

 それから、自分も梨を一切れ食べた。

 その甘さは、朝まで舌の奥に残っているようだった。

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