十一度離縁された無能妻ですが、妹が恋した公爵様だけは私を手放さない〜失った子の記憶を抱えた私は、今度こそ家族を守ります〜

なつめ

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第49話 妻は証拠を並べる

 黒い木箱を開けた翌日、公爵家の仕事部屋には、いつもより多くの紙が運び込まれた。

 ただし、乱雑ではない。

 ロナンが選び、イーリアが布を敷き、エルネストが場所を確かめた。机の上には直接古い紙を置かず、薄い白布を一枚敷いてある。紙の端が傷まないよう、文鎮も軽いものに替えられていた。

 窓は少しだけ開いている。

 古い紙の匂いが部屋にこもらないように。けれど風が強く入って書類を散らさないよう、青いリボンの揺れ方を見ながら、イーリアが慎重に幅を調整した。

 暖炉には弱く火が入っていた。

 膝掛けは椅子に掛けられている。

 小卓には白湯と、梨の皿。

 今日も梨は二切れ。

 エルネストは朝食の時、一切れ食べて「甘い」と言った。リゼルミアも一切れ食べて、「甘いです」と答えた。

 その甘さは、今も舌の奥に少し残っている。

 だが、机の上の紙の匂いは、それとは別の現実を連れてきた。

 乾いた紙。

 古いインク。

 折り目。

 擦れた封蝋の跡。

 婚家の屋敷の空気まで、紙の繊維の間に閉じ込められているようだった。

 リゼルミアは、仕事部屋の入口に立ったまま、机を見つめていた。

 白い札がある。

 リゼルミア・ヴァルクレイド。

 その横に、いつもの便箋。

 私は、助けを求めていました。

 私は、休んでよかった。

 私は、医師を呼んでほしかった。

 私は、責められるべきではありませんでした。

 私は、怒ってもよかった。

 私は、奪われるために幸せになったのではありません。

 私は、戻りません。

 私を守る声は、一つではありません。

 まだ決めなくていい。

 私は、ただ泣いていただけではありません。

 私は、生きるために記録していました。

 昨日、書いたばかりの二文が、まだ胸に熱を残している。

 ただ泣いていただけではない。

 生きるために記録していた。

 そう書いた。

 けれど今日は、その記録を並べなければならない。

 箱の中にしまっておいた痛みを、貴族院へ提出できる形に整える。

 それは、昨日箱を開けることとはまた別の怖さだった。

 箱から出しただけなら、まだ自分の部屋の中の出来事だ。

 けれど、提出するとなれば、紙は外へ行く。

 貴族院の記録庫へ。

 法律家の目へ。

 元婚家たちの反論の前へ。

 社交界の噂の奥へ。

 リゼルミアが隠してきた十一度の結婚が、正式な書類として並ぶ。

 胸が詰まった。

「今日は、ここまででもいい」

 隣からエルネストの声がした。

 彼は、仕事部屋の入口から少し離れたところに立っていた。リゼルミアの前に出ない。背を押さない。けれど、倒れそうになればすぐ支えられる距離。

「部屋に入った。机を見た。それだけで十分だ」

 その言葉に、リゼルミアは小さく息を吐いた。

 十分。

 いつもの言葉。

 でも今日は、まだその言葉へ逃げたくなかった。

「いいえ」

 リゼルミアは首を振った。

 声は震えていた。

「今日は、並べます」

 エルネストは、すぐには頷かなかった。

「無理をする必要はない」

「無理は、あります」

 リゼルミアは正直に言った。

「でも、したいのです」

 彼女は、自分の胸に手を当てた。

 心臓が早い。

 指先も冷たい。

 今すぐこの部屋を出て、寝室で膝掛けにくるまりたい気持ちもある。

 それでも。

「元夫たちは、私の証言は嘘だと言いました」

 声が少し細くなる。

「離縁された女の逆恨みだと。公爵家の権力を使った報復だと」

 言葉を口にするだけで、まだ痛い。

 だが、昨日ほど息が詰まらなかった。

 痛みの下に、別の熱がある。

 怒りに似ている。

 でも、ただ燃え広がる怒りではない。

 机の上に置ける形の怒り。

 紙を並べるための力。

「だから、私が並べます」

 リゼルミアはエルネストを見た。

「これは、私の人生です」

 エルネストの目が、静かに揺れた。

 リゼルミアは続ける。

「私が並べます」

 その声は大きくない。

 だが、部屋の中に確かに落ちた。

 ロナンが少しだけ頭を下げる。

 イーリアは、ハンカチを持つ手を胸元に寄せた。

 エルネストは、長い沈黙の後、静かに頷いた。

「分かった」

 彼は一歩下がった。

 それが、リゼルミアには分かった。

 守るために前へ出るのではなく、彼女が歩く場所を空けるために下がったのだ。

「俺は隣にいる」

「はい」

「君が止めると言えば止める」

「はい」

「俺がやりたくなっても、やらない」

 リゼルミアは、少しだけ目を瞬いた。

 エルネストは真面目な顔で言った。

「書類を奪って俺が全部並べたくなるかもしれない。だから先に言っておく。俺はやらない」

 リゼルミアの胸が、ほんの少しだけ緩んだ。

「エルネスト様でも、そう思うのですね」

「思う」

「私が震えているから?」

「それもある」

「他には?」

「君が傷つく紙を、君に触らせたくない」

 低い声だった。

 リゼルミアの胸が甘く痛む。

 彼は本当に、代わってしまいたいのだ。

 彼女の代わりに紙を読み、彼女の代わりに記録を並べ、彼女の代わりに貴族院へ出して、彼女を休ませたいのだろう。

 それは優しさだ。

 けれど今日は、受け取るだけではいけない。

「ありがとうございます」

 リゼルミアは言った。

「でも、これは私が触ります」

「ああ」

「怖くなったら、手を取ってください」

「もちろん」

「インクが切れたら」

「補充する」

「紙が飛びそうになったら」

「押さえる」

「私が字を間違えたら」

「訂正用の紙を出す」

「泣いたら」

「ハンカチを渡す」

 その一つ一つに、リゼルミアは少しずつ息を取り戻した。

 エルネストは前に出ない。

 でも、いなくなるわけではない。

 守るのではなく、支える。

 今日は、それが必要だった。

 リゼルミアは、机へ向かった。

 椅子に座る。

 膝掛けを掛けてもらう。

 イーリアが足置きを少し近づけ、白湯の位置を整えた。

 ロナンが机の左側に、提出用の分類札を置く。

 一、婚家別帳簿写し。

 二、愛人支出および不正支出記録。

 三、侮辱的書状および発言記録。

 四、医師未派遣および体調不良関連記録。

 五、持参金および返却荷物目録。

 六、補足証言照合待ち。

 札の文字を見た瞬間、リゼルミアの胸が重くなった。

 自分の人生が、分類されている。

 けれど、乱暴には感じなかった。

 ロナンの分類は、傷を削るためではなく、見失わないための棚だった。

 怒りの棚。

 証拠の棚。

 今日、自分はその棚へ紙を入れていく。

「最初は、どれにしますか」

 ロナンが尋ねた。

 リゼルミアは、黒い木箱を見た。

 中には十一の布袋が並んでいる。

 昨日見たばかりなのに、今日もそれは重く見えた。

 彼女は少し迷い、十一度目の袋を取った。

「オルディラス様の家からにします」

 エルネストの目が少しだけ冷える。

 十一人目の夫。

 離縁状を渡し、後に「戻ってくれ」と言った男。

 この人は俺の妻だ。

 エルネストがそう庇ってくれた相手。

 リゼルミアは袋を開いた。

 帳簿の写し。

 愛人への支出表。

 使用人配置の控え。

 備蓄不足の記録。

 取引先からの苦情の写し。

 離縁後に返却された荷物の目録。

 リゼルミアは、まず帳簿の写しを手に取った。

 紙の端が少し丸まっている。

 インクは薄くなっているが、読める。

 自分の字だった。

 細く、整っている。

 昔の自分の字。

 震えていないように見える。

 だが、書いていた時の自分はずっと怯えていた。

 間違えれば怒られる。

 遅れれば責められる。

 愛人の浪費を指摘すれば、嫉妬深い妻だと笑われる。

 それでも、数字だけは裏切らないと思って書いた。

「これは、婚家別帳簿写しです」

 リゼルミアは、紙を一の札の下へ置いた。

 指が震える。

 でも、置けた。

「これは、愛人への支出」

 二の札へ。

「これは、取引先からの苦情」

 補足証言照合待ちへ。

「これは、返却荷物の目録です」

 五の札へ。

 紙を一枚ずつ置くたび、胸の中から何かが剥がれていく。

 痛い。

 けれど、置ける。

 エルネストは隣で何も言わない。

 彼は本当に、紙を奪わなかった。

 ただ、リゼルミアのインク壺の位置を少し直し、提出用一覧を書くための白紙を手元に置いた。

「一覧をつけます」

 リゼルミアは言った。

 エルネストがすぐに羽根ペンを差し出す。

「ペン」

「ありがとうございます」

 彼女は、提出用一覧の一行目を書いた。

 第十一婚家、メイヴェン子爵家関係記録。

 帳簿写し三枚。

 愛人支出控え二枚。

 返却荷物目録一枚。

 取引先苦情写し一枚。

 字が震えた。

 特に「愛人支出」の部分で、少し線が乱れた。

 リゼルミアは息を止める。

 昔なら、字が乱れただけで謝っていただろう。

 今も、喉まで「申し訳ありません」が上がりかけた。

 しかし、エルネストが隣で静かに言った。

「読める」

 たったそれだけ。

 完璧でなくていい。

 読める。

 それでいい。

 リゼルミアは小さく頷いた。

「はい」

 次は一度目の袋。

 ルガインの家。

 若かった夫。

 「本当は愛していた」と後になって言った男。

 リゼルミアは、侮辱的な手紙の写しを取り出した。

 夫人は黙っていれば便利だが、女としては退屈だ。

 婚家から持参金だけは役に立った。

 その言葉を見た瞬間、胸が冷えた。

 けれど、昨日より少しだけ違う。

 これは、リゼルミアの価値を決める言葉ではない。

 ルガインが何を見ていたかを示す証拠だ。

 リゼルミアは、その紙を三の札へ置いた。

「侮辱的書状です」

 声が震える。

 ロナンが確認する。

「写しでございますね」

「はい。原本は、彼の机に戻しました。持ち出せば盗んだと言われると思ったので」

 エルネストの視線が動いた。

「そこまで考えていたのか」

「はい」

 リゼルミアは、紙の角をそっと整えた。

「私が悪いと言われる理由を、増やしたくなかったのです」

 部屋が少し静かになった。

 イーリアが、静かに白湯を差し出す。

「奥様、一口」

「ありがとうございます」

 飲む。

 喉が少し楽になる。

 次は三度目の袋。

 フロラドール家。

 リゼルミアの指が止まる。

 昨日も開けた。

 けれど、今日は並べなければならない。

 医師を呼んでください、と途切れた紙片。

 薬師の控え。

 水桶を運ぶ日課表の写し。

 離れの部屋の割当表。

 医師の元帳と照合するための自分の記録。

 その中で、一枚だけ、リゼルミアはまだ説明していない紙があった。

 小さな覚え書き。

 自分の字。

 日付だけが並んでいる。

 吐き気。

 めまい。

 朝食不可。

 義母へ訴える。

 水桶。

 階段。

 痛み。

 医師呼ばれず。

 その文字を見ると、喉が塞がった。

 これは、日記ですらない。

 感情も何も書けなかった日の記録。

 ただ、何が起きたかだけを、震える字で書き留めたもの。

 リゼルミアは紙を持ったまま、動けなくなった。

 エルネストが低く尋ねる。

「手を取る?」

 リゼルミアは頷く。

「はい」

 彼の手が差し出される。

 リゼルミアは、左手でその手を握り、右手で紙を持った。

「これは」

 声が震える。

「私の記録です」

「うん」

「あの日の前から、具合が悪かったことを書きました。誰かに見せるためではなくて、自分が後で分からなくならないように」

 目に涙が滲む。

「痛かったことも、医師が呼ばれなかったことも、書きました」

 ロナンは静かに言った。

「四の札へ」

 リゼルミアは、その紙を置いた。

 医師未派遣および体調不良関連記録。

 紙を置いた瞬間、肩が震えた。

 エルネストの手が、少しだけ温かく包み直す。

「置けた」

 彼が言った。

 リゼルミアは泣きながら頷く。

「置けました」

 次に、医師を呼んでください、と書かれた紙片を置く。

 これも四の札へ。

 薬師の控えも四へ。

 水桶を運ぶ日課表は、四と補足証言照合待ちの間で迷った。

 ロナンが助言する。

「重労働の継続を示す記録ですので、四に置き、写しを補足証言と照合しましょう」

「はい」

 リゼルミアは従う。

 不思議だった。

 昔の婚家では、誰かの助言は命令だった。

 従わなければ怒られるもの。

 でも、ロナンの助言は違う。

 彼女の手から紙を奪わず、ただ棚を示してくれる。

 リゼルミアが置く。

 その順番を守ってくれる。

 四度目の袋。

 五度目の袋。

 六度目は、証拠が少なかった。

 ほとんど何も残せなかった婚家もある。

 リゼルミアは、それを恥じそうになった。

「ここは、少ないです」

 小さく言うと、エルネストが返した。

「少ないことは、なかったことの証拠ではない」

 昨日と似た言葉。

 名前がないことは、存在しなかった証拠ではない。

 証拠が少ないことも、苦しみがなかった証拠ではない。

 リゼルミアは、頷いた。

「はい」

 少ない袋には、返却荷物の目録だけが入っていた。

 それでも、置く。

 五の札へ。

 七度目の袋には、持参金の一部が婚家の借金返済へ使われた控えがあった。

 八度目の袋には、夫の愛人へ渡された香水代の記録。

 九度目の袋には、義母からの短い書きつけ。

 妻なら黙って夫の恥を隠しなさい。

 あなたが不満を顔に出すから、屋敷の空気が悪くなるのです。

 十度目の袋には、寝室での侮辱を直接示す紙はなかった。

 ただ、侍女が寝室の翌日に残した洗濯指示の紙に、赤いインクで「奥様の寝具のみ交換不要」と書かれていた。

 意味を知らない者にはただの指示だ。

 けれどリゼルミアには分かる。

 あの日、夫は愛人の部屋へ行った。

 使用人たちはそれを知っていて、リゼルミアの寝室を空気のように扱った。

 これをどう扱えばいいのか分からず、彼女は手を止めた。

「これは、証拠になるのでしょうか」

 ロナンが紙を確認する。

 少し考え、法律家へ回す札の横に置いた。

「単独では弱いかもしれません。ですが、同時期の愛人支出や使用人証言が得られれば補強になります。補足証言照合待ちへ」

 リゼルミアは頷いた。

「はい」

 弱い紙。

 強い紙。

 直接の紙。

 周囲から照らす紙。

 記録にも、いろいろな形がある。

 それを、今学んでいる気がした。

 すべてが一枚で勝てる証拠ではない。

 けれど、何枚も並べば、そこに道が見えてくる。

 昼を少し過ぎた頃、リゼルミアの手は完全に冷えていた。

 紙はかなり並んだ。

 机の上だけでは足りず、ロナンが隣の小卓にも布を敷き、分類を広げた。

 部屋は紙の匂いで満ちている。

 リゼルミアの頭は少し重く、目の奥が痛い。

 それでも、十一の袋はすべて開けた。

 すべてではない。

 細かな確認はまだ残っている。

 写しも作らなければならない。

 貴族院へ提出する正式な目録は、ロナンと法律家が整える。

 しかし、最初の分類は、リゼルミアが自分で並べた。

 彼女は、震える手で最後の紙を置いた。

 十一度の結婚で返された荷物の総目録。

 五の札へ。

 置いた瞬間、息が抜けた。

「終わり、ですか」

 声がかすれる。

 ロナンが机を確認した。

「第一分類は完了でございます」

 第一分類。

 まだ先はある。

 けれど、今はその言葉がありがたかった。

 完了。

 今日の分は。

 エルネストが、すぐに言った。

「今日はここまで」

 リゼルミアは頷いた。

 反論する力はもうなかった。

「はい」

 椅子から立とうとして、身体がふらつく。

 エルネストが支える。

「触れる」

 今回は確認ではなく、告げる声だった。

 倒れかけていたからだ。

 リゼルミアは彼の腕に支えられ、ゆっくり座り直した。

「すみません」

「謝らない」

「はい」

 言い直す力も弱い。

 イーリアが白湯を差し出した。

 リゼルミアは飲む。

 温かさが喉を通る。

 それだけで少し泣きそうになった。

「奥様、少しお休みください」

「はい」

 しかし、リゼルミアは机の上をもう一度見た。

 紙が並んでいる。

 十一度の結婚。

 十一度の離縁。

 その中で彼女が残したもの。

 帳簿。

 支出。

 手紙。

 紙片。

 目録。

 それらは、彼女をただの被害者として並べているのではなかった。

 証人として、そこにいる。

 過去のリゼルミアが、未来のリゼルミアへ差し出した声。

 私は忘れない。

 あなたも、忘れないで。

 そう言っているようだった。

 リゼルミアは、涙を落とした。

「私」

 声が震える。

「過去の私を、初めて少しだけ、信じられた気がします」

 エルネストが静かに聞いている。

「いつも、もっと強ければよかったと思っていました。言い返せばよかった。逃げればよかった。訴えればよかった。そうできなかった私は、ただ弱かったのだと思っていました」

 涙が頬を伝う。

「でも、記録していました」

「ああ」

「震えながらでも」

「うん」

「信じてもらえなくても」

「記録していた」

「過去の私は、私を助けようとしていたのでしょうか」

 エルネストの手が、彼女の手を包み直した。

「そうだ」

 短い答え。

 けれど、迷いがなかった。

 リゼルミアは泣いた。

 過去の自分。

 何もできなかったと思っていた自分。

 夫の言葉に黙り、義母の命令に従い、使用人に笑われ、離縁状に署名してきた自分。

 その自分が、紙を残していた。

 未来の自分のために。

 生きるために。

 リゼルミアは、胸の奥でその過去の自分に初めて手を伸ばせた気がした。

 あなたは、ただ泣いていただけではなかった。

 あなたは、証人だった。

 私のための。

 私自身の。

 私室へ戻ると、リゼルミアは長椅子に横になった。

 身体が重い。

 まぶたも重い。

 でも、眠る前に一つだけしたいことがあった。

「便箋を」

 彼女が言うと、エルネストは少し眉を寄せた。

「今?」

「一文だけ」

「手が震えている」

「一文だけ、お願いします」

 エルネストは、少し迷った。

 けれど、彼女の目を見て頷く。

「分かった。一文だけ」

 イーリアが仕事部屋から便箋とペンを持ってきた。

 リゼルミアは長椅子の上で身体を起こし、膝に小さな板を置いてもらった。

 エルネストがインク壺を開ける。

 ペンを渡す。

 彼女の指は震えていた。

 インクが少し垂れそうになる。

 エルネストが何も言わず、白い布を差し出した。

 叱られない。

 焦らされない。

 リゼルミアは、ゆっくり書いた。

 私は、私の証人です。

 書き終えた瞬間、胸が熱くなった。

 短い一文。

 でも、今日のすべてだった。

 エルネストがインク壺の蓋を閉める。

 リゼルミアは気づいた。

 彼は、本当にインクを補充し、蓋をし、紙を押さえ、ペンを渡していただけだった。

 全部を代わることはしなかった。

 彼女が書くのを支えてくれた。

「エルネスト様」

「はい」

「今日は、支えてくださって、ありがとうございます」

「俺は少ししかしていない」

「その少しが、必要でした」

 エルネストの目元が静かに柔らかくなる。

「なら、よかった」

「私が並べられました」

「ああ」

「でも、一人ではできませんでした」

「一人でやる必要はない」

 リゼルミアは頷いた。

「はい」

 夕方まで、リゼルミアは眠った。

 夢は見なかった。

 深い眠りではなかったが、紙の匂いに追われる夢も、元夫たちの声も出てこなかった。ただ、遠くで羽根ペンが紙を撫でる音がしていた。

 目を覚ますと、エルネストが隣で書類を読んでいた。

 庭で昼寝した日のように。

 彼は顔を上げる。

「起きた?」

「はい」

「気分は」

「少し、ぼんやりしています」

「白湯を」

「はい」

 白湯を飲む。

 喉が温まる。

 小皿には梨があった。

 エルネストが一切れ食べる。

「甘い」

 リゼルミアは、小さく笑った。

「今日も」

「ああ」

「紙の匂いがしても、梨は甘いですね」

「甘い」

 リゼルミアも一口食べた。

 甘い。

 今日の甘さは、少しだけ涙の味が混じっていた。

 夜、寝室で。

 リゼルミアは早めに寝台へ入った。

 貴族院へ出す証拠は、ロナンと法律家が明日から正式に整理することになった。原本は公爵家の保管庫へ。写しは目録をつけ、必要に応じて提出する。証拠として弱いものも捨てず、補足証言と照らし合わせる。

 すべて、勝つためだけではない。

 リゼルミアの人生を、嘘にしないため。

 寝台の中で、リゼルミアはお腹へ手を置いた。

「今日は、たくさん紙を並べました」

 小さく言う。

 エルネストは椅子に座り、手を差し出してくれている。

 リゼルミアはその手を握った。

「怖かったです」

「うん」

「でも、並べました」

「並べた」

「私は、私の証人です」

 エルネストの手が、温かく包み直す。

「ああ」

「この子にも、いつか教えたいです」

 言ってから、少しだけ胸が震えた。

 未来の話。

 まだ怖い。

 でも、今日は逃げなかった。

「泣いても、震えても、記録していた自分を、弱いだけだと思わなくていいと」

「教えられる」

「本当に?」

「君が今日、教えた」

 リゼルミアは目を閉じた。

 自分が自分へ教えた。

 その言葉を、胸の奥へそっと置く。

「おやすみなさい、エルネスト様」

「おやすみ、リゼルミア」

 眠りに落ちる前、リゼルミアは今日の机を思い出した。

 白布の上に並ぶ紙。

 分類札。

 エルネストが補充してくれたインク。

 ロナンの静かな助言。

 イーリアの白湯。

 震える自分の手。

 そして、一枚ずつ紙を置いた感触。

 怖かった。

 苦しかった。

 けれど、できた。

 過去の自分を、ただの被害者としてではなく、証人として扱えた。

 その事実が、眠りへ入るリゼルミアの胸を、静かに支えていた。

 夢の中で、彼女は貴族院の大きな卓の前に立っていた。

 卓の上には、十一の布袋が並んでいる。

 遠くから、元夫たちの声がした。

 嘘だ。

 逆恨みだ。

 報復だ。

 リゼルミアは震えた。

 けれど、足元には白い花びらがあった。

 隣にはエルネストがいる。

 彼は何も言わず、インク壺をそっと彼女のそばへ置いた。

 リゼルミアは、羽根ペンを取る。

 そして、夢の中の大きな紙に書いた。

 私は、私の証人です。

 その文字が光る。

 十一の布袋から、紙の鳥たちが飛び立った。

 今度は箱の中へ戻らなかった。

 朝、目が覚めた時、リゼルミアの頬には涙があった。

 けれど、息は深かった。

 エルネストが顔を上げる。

「夢は?」

「貴族院の夢でした」

「怖かった?」

「怖かったです」

 リゼルミアは、少し考えてから続けた。

「でも、書けました」

「何を?」

「私は、私の証人です」

 エルネストの目元が柔らかくなる。

「いい夢だ」

「はい」

 リゼルミアは、お腹へ手を置き、朝の光を見た。

 元夫たちの連名状は、まだ消えていない。

 貴族院へ提出する証拠の整理も、これから続く。

 けれど、昨日の自分は並べた。

 震えながらも。

 泣きながらも。

 過去の自分を、証人として机の上に立たせた。

 そのことは、もう消えない。

 エルネストが静かに尋ねた。

「梨は食べられそうか」

 リゼルミアは、小さく笑った。

「半分こなら」

「甘いからな」

「はい」

 今日も、梨は甘いだろう。

 そして今日も、記録はそこにある。

 リゼルミアは、それを少しだけ怖く、少しだけ誇らしく思いながら、新しい朝を迎えた。


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