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第49話 妻は証拠を並べる
黒い木箱を開けた翌日、公爵家の仕事部屋には、いつもより多くの紙が運び込まれた。
ただし、乱雑ではない。
ロナンが選び、イーリアが布を敷き、エルネストが場所を確かめた。机の上には直接古い紙を置かず、薄い白布を一枚敷いてある。紙の端が傷まないよう、文鎮も軽いものに替えられていた。
窓は少しだけ開いている。
古い紙の匂いが部屋にこもらないように。けれど風が強く入って書類を散らさないよう、青いリボンの揺れ方を見ながら、イーリアが慎重に幅を調整した。
暖炉には弱く火が入っていた。
膝掛けは椅子に掛けられている。
小卓には白湯と、梨の皿。
今日も梨は二切れ。
エルネストは朝食の時、一切れ食べて「甘い」と言った。リゼルミアも一切れ食べて、「甘いです」と答えた。
その甘さは、今も舌の奥に少し残っている。
だが、机の上の紙の匂いは、それとは別の現実を連れてきた。
乾いた紙。
古いインク。
折り目。
擦れた封蝋の跡。
婚家の屋敷の空気まで、紙の繊維の間に閉じ込められているようだった。
リゼルミアは、仕事部屋の入口に立ったまま、机を見つめていた。
白い札がある。
リゼルミア・ヴァルクレイド。
その横に、いつもの便箋。
私は、助けを求めていました。
私は、休んでよかった。
私は、医師を呼んでほしかった。
私は、責められるべきではありませんでした。
私は、怒ってもよかった。
私は、奪われるために幸せになったのではありません。
私は、戻りません。
私を守る声は、一つではありません。
まだ決めなくていい。
私は、ただ泣いていただけではありません。
私は、生きるために記録していました。
昨日、書いたばかりの二文が、まだ胸に熱を残している。
ただ泣いていただけではない。
生きるために記録していた。
そう書いた。
けれど今日は、その記録を並べなければならない。
箱の中にしまっておいた痛みを、貴族院へ提出できる形に整える。
それは、昨日箱を開けることとはまた別の怖さだった。
箱から出しただけなら、まだ自分の部屋の中の出来事だ。
けれど、提出するとなれば、紙は外へ行く。
貴族院の記録庫へ。
法律家の目へ。
元婚家たちの反論の前へ。
社交界の噂の奥へ。
リゼルミアが隠してきた十一度の結婚が、正式な書類として並ぶ。
胸が詰まった。
「今日は、ここまででもいい」
隣からエルネストの声がした。
彼は、仕事部屋の入口から少し離れたところに立っていた。リゼルミアの前に出ない。背を押さない。けれど、倒れそうになればすぐ支えられる距離。
「部屋に入った。机を見た。それだけで十分だ」
その言葉に、リゼルミアは小さく息を吐いた。
十分。
いつもの言葉。
でも今日は、まだその言葉へ逃げたくなかった。
「いいえ」
リゼルミアは首を振った。
声は震えていた。
「今日は、並べます」
エルネストは、すぐには頷かなかった。
「無理をする必要はない」
「無理は、あります」
リゼルミアは正直に言った。
「でも、したいのです」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
心臓が早い。
指先も冷たい。
今すぐこの部屋を出て、寝室で膝掛けにくるまりたい気持ちもある。
それでも。
「元夫たちは、私の証言は嘘だと言いました」
声が少し細くなる。
「離縁された女の逆恨みだと。公爵家の権力を使った報復だと」
言葉を口にするだけで、まだ痛い。
だが、昨日ほど息が詰まらなかった。
痛みの下に、別の熱がある。
怒りに似ている。
でも、ただ燃え広がる怒りではない。
机の上に置ける形の怒り。
紙を並べるための力。
「だから、私が並べます」
リゼルミアはエルネストを見た。
「これは、私の人生です」
エルネストの目が、静かに揺れた。
リゼルミアは続ける。
「私が並べます」
その声は大きくない。
だが、部屋の中に確かに落ちた。
ロナンが少しだけ頭を下げる。
イーリアは、ハンカチを持つ手を胸元に寄せた。
エルネストは、長い沈黙の後、静かに頷いた。
「分かった」
彼は一歩下がった。
それが、リゼルミアには分かった。
守るために前へ出るのではなく、彼女が歩く場所を空けるために下がったのだ。
「俺は隣にいる」
「はい」
「君が止めると言えば止める」
「はい」
「俺がやりたくなっても、やらない」
リゼルミアは、少しだけ目を瞬いた。
エルネストは真面目な顔で言った。
「書類を奪って俺が全部並べたくなるかもしれない。だから先に言っておく。俺はやらない」
リゼルミアの胸が、ほんの少しだけ緩んだ。
「エルネスト様でも、そう思うのですね」
「思う」
「私が震えているから?」
「それもある」
「他には?」
「君が傷つく紙を、君に触らせたくない」
低い声だった。
リゼルミアの胸が甘く痛む。
彼は本当に、代わってしまいたいのだ。
彼女の代わりに紙を読み、彼女の代わりに記録を並べ、彼女の代わりに貴族院へ出して、彼女を休ませたいのだろう。
それは優しさだ。
けれど今日は、受け取るだけではいけない。
「ありがとうございます」
リゼルミアは言った。
「でも、これは私が触ります」
「ああ」
「怖くなったら、手を取ってください」
「もちろん」
「インクが切れたら」
「補充する」
「紙が飛びそうになったら」
「押さえる」
「私が字を間違えたら」
「訂正用の紙を出す」
「泣いたら」
「ハンカチを渡す」
その一つ一つに、リゼルミアは少しずつ息を取り戻した。
エルネストは前に出ない。
でも、いなくなるわけではない。
守るのではなく、支える。
今日は、それが必要だった。
リゼルミアは、机へ向かった。
椅子に座る。
膝掛けを掛けてもらう。
イーリアが足置きを少し近づけ、白湯の位置を整えた。
ロナンが机の左側に、提出用の分類札を置く。
一、婚家別帳簿写し。
二、愛人支出および不正支出記録。
三、侮辱的書状および発言記録。
四、医師未派遣および体調不良関連記録。
五、持参金および返却荷物目録。
六、補足証言照合待ち。
札の文字を見た瞬間、リゼルミアの胸が重くなった。
自分の人生が、分類されている。
けれど、乱暴には感じなかった。
ロナンの分類は、傷を削るためではなく、見失わないための棚だった。
怒りの棚。
証拠の棚。
今日、自分はその棚へ紙を入れていく。
「最初は、どれにしますか」
ロナンが尋ねた。
リゼルミアは、黒い木箱を見た。
中には十一の布袋が並んでいる。
昨日見たばかりなのに、今日もそれは重く見えた。
彼女は少し迷い、十一度目の袋を取った。
「オルディラス様の家からにします」
エルネストの目が少しだけ冷える。
十一人目の夫。
離縁状を渡し、後に「戻ってくれ」と言った男。
この人は俺の妻だ。
エルネストがそう庇ってくれた相手。
リゼルミアは袋を開いた。
帳簿の写し。
愛人への支出表。
使用人配置の控え。
備蓄不足の記録。
取引先からの苦情の写し。
離縁後に返却された荷物の目録。
リゼルミアは、まず帳簿の写しを手に取った。
紙の端が少し丸まっている。
インクは薄くなっているが、読める。
自分の字だった。
細く、整っている。
昔の自分の字。
震えていないように見える。
だが、書いていた時の自分はずっと怯えていた。
間違えれば怒られる。
遅れれば責められる。
愛人の浪費を指摘すれば、嫉妬深い妻だと笑われる。
それでも、数字だけは裏切らないと思って書いた。
「これは、婚家別帳簿写しです」
リゼルミアは、紙を一の札の下へ置いた。
指が震える。
でも、置けた。
「これは、愛人への支出」
二の札へ。
「これは、取引先からの苦情」
補足証言照合待ちへ。
「これは、返却荷物の目録です」
五の札へ。
紙を一枚ずつ置くたび、胸の中から何かが剥がれていく。
痛い。
けれど、置ける。
エルネストは隣で何も言わない。
彼は本当に、紙を奪わなかった。
ただ、リゼルミアのインク壺の位置を少し直し、提出用一覧を書くための白紙を手元に置いた。
「一覧をつけます」
リゼルミアは言った。
エルネストがすぐに羽根ペンを差し出す。
「ペン」
「ありがとうございます」
彼女は、提出用一覧の一行目を書いた。
第十一婚家、メイヴェン子爵家関係記録。
帳簿写し三枚。
愛人支出控え二枚。
返却荷物目録一枚。
取引先苦情写し一枚。
字が震えた。
特に「愛人支出」の部分で、少し線が乱れた。
リゼルミアは息を止める。
昔なら、字が乱れただけで謝っていただろう。
今も、喉まで「申し訳ありません」が上がりかけた。
しかし、エルネストが隣で静かに言った。
「読める」
たったそれだけ。
完璧でなくていい。
読める。
それでいい。
リゼルミアは小さく頷いた。
「はい」
次は一度目の袋。
ルガインの家。
若かった夫。
「本当は愛していた」と後になって言った男。
リゼルミアは、侮辱的な手紙の写しを取り出した。
夫人は黙っていれば便利だが、女としては退屈だ。
婚家から持参金だけは役に立った。
その言葉を見た瞬間、胸が冷えた。
けれど、昨日より少しだけ違う。
これは、リゼルミアの価値を決める言葉ではない。
ルガインが何を見ていたかを示す証拠だ。
リゼルミアは、その紙を三の札へ置いた。
「侮辱的書状です」
声が震える。
ロナンが確認する。
「写しでございますね」
「はい。原本は、彼の机に戻しました。持ち出せば盗んだと言われると思ったので」
エルネストの視線が動いた。
「そこまで考えていたのか」
「はい」
リゼルミアは、紙の角をそっと整えた。
「私が悪いと言われる理由を、増やしたくなかったのです」
部屋が少し静かになった。
イーリアが、静かに白湯を差し出す。
「奥様、一口」
「ありがとうございます」
飲む。
喉が少し楽になる。
次は三度目の袋。
フロラドール家。
リゼルミアの指が止まる。
昨日も開けた。
けれど、今日は並べなければならない。
医師を呼んでください、と途切れた紙片。
薬師の控え。
水桶を運ぶ日課表の写し。
離れの部屋の割当表。
医師の元帳と照合するための自分の記録。
その中で、一枚だけ、リゼルミアはまだ説明していない紙があった。
小さな覚え書き。
自分の字。
日付だけが並んでいる。
吐き気。
めまい。
朝食不可。
義母へ訴える。
水桶。
階段。
痛み。
医師呼ばれず。
その文字を見ると、喉が塞がった。
これは、日記ですらない。
感情も何も書けなかった日の記録。
ただ、何が起きたかだけを、震える字で書き留めたもの。
リゼルミアは紙を持ったまま、動けなくなった。
エルネストが低く尋ねる。
「手を取る?」
リゼルミアは頷く。
「はい」
彼の手が差し出される。
リゼルミアは、左手でその手を握り、右手で紙を持った。
「これは」
声が震える。
「私の記録です」
「うん」
「あの日の前から、具合が悪かったことを書きました。誰かに見せるためではなくて、自分が後で分からなくならないように」
目に涙が滲む。
「痛かったことも、医師が呼ばれなかったことも、書きました」
ロナンは静かに言った。
「四の札へ」
リゼルミアは、その紙を置いた。
医師未派遣および体調不良関連記録。
紙を置いた瞬間、肩が震えた。
エルネストの手が、少しだけ温かく包み直す。
「置けた」
彼が言った。
リゼルミアは泣きながら頷く。
「置けました」
次に、医師を呼んでください、と書かれた紙片を置く。
これも四の札へ。
薬師の控えも四へ。
水桶を運ぶ日課表は、四と補足証言照合待ちの間で迷った。
ロナンが助言する。
「重労働の継続を示す記録ですので、四に置き、写しを補足証言と照合しましょう」
「はい」
リゼルミアは従う。
不思議だった。
昔の婚家では、誰かの助言は命令だった。
従わなければ怒られるもの。
でも、ロナンの助言は違う。
彼女の手から紙を奪わず、ただ棚を示してくれる。
リゼルミアが置く。
その順番を守ってくれる。
四度目の袋。
五度目の袋。
六度目は、証拠が少なかった。
ほとんど何も残せなかった婚家もある。
リゼルミアは、それを恥じそうになった。
「ここは、少ないです」
小さく言うと、エルネストが返した。
「少ないことは、なかったことの証拠ではない」
昨日と似た言葉。
名前がないことは、存在しなかった証拠ではない。
証拠が少ないことも、苦しみがなかった証拠ではない。
リゼルミアは、頷いた。
「はい」
少ない袋には、返却荷物の目録だけが入っていた。
それでも、置く。
五の札へ。
七度目の袋には、持参金の一部が婚家の借金返済へ使われた控えがあった。
八度目の袋には、夫の愛人へ渡された香水代の記録。
九度目の袋には、義母からの短い書きつけ。
妻なら黙って夫の恥を隠しなさい。
あなたが不満を顔に出すから、屋敷の空気が悪くなるのです。
十度目の袋には、寝室での侮辱を直接示す紙はなかった。
ただ、侍女が寝室の翌日に残した洗濯指示の紙に、赤いインクで「奥様の寝具のみ交換不要」と書かれていた。
意味を知らない者にはただの指示だ。
けれどリゼルミアには分かる。
あの日、夫は愛人の部屋へ行った。
使用人たちはそれを知っていて、リゼルミアの寝室を空気のように扱った。
これをどう扱えばいいのか分からず、彼女は手を止めた。
「これは、証拠になるのでしょうか」
ロナンが紙を確認する。
少し考え、法律家へ回す札の横に置いた。
「単独では弱いかもしれません。ですが、同時期の愛人支出や使用人証言が得られれば補強になります。補足証言照合待ちへ」
リゼルミアは頷いた。
「はい」
弱い紙。
強い紙。
直接の紙。
周囲から照らす紙。
記録にも、いろいろな形がある。
それを、今学んでいる気がした。
すべてが一枚で勝てる証拠ではない。
けれど、何枚も並べば、そこに道が見えてくる。
昼を少し過ぎた頃、リゼルミアの手は完全に冷えていた。
紙はかなり並んだ。
机の上だけでは足りず、ロナンが隣の小卓にも布を敷き、分類を広げた。
部屋は紙の匂いで満ちている。
リゼルミアの頭は少し重く、目の奥が痛い。
それでも、十一の袋はすべて開けた。
すべてではない。
細かな確認はまだ残っている。
写しも作らなければならない。
貴族院へ提出する正式な目録は、ロナンと法律家が整える。
しかし、最初の分類は、リゼルミアが自分で並べた。
彼女は、震える手で最後の紙を置いた。
十一度の結婚で返された荷物の総目録。
五の札へ。
置いた瞬間、息が抜けた。
「終わり、ですか」
声がかすれる。
ロナンが机を確認した。
「第一分類は完了でございます」
第一分類。
まだ先はある。
けれど、今はその言葉がありがたかった。
完了。
今日の分は。
エルネストが、すぐに言った。
「今日はここまで」
リゼルミアは頷いた。
反論する力はもうなかった。
「はい」
椅子から立とうとして、身体がふらつく。
エルネストが支える。
「触れる」
今回は確認ではなく、告げる声だった。
倒れかけていたからだ。
リゼルミアは彼の腕に支えられ、ゆっくり座り直した。
「すみません」
「謝らない」
「はい」
言い直す力も弱い。
イーリアが白湯を差し出した。
リゼルミアは飲む。
温かさが喉を通る。
それだけで少し泣きそうになった。
「奥様、少しお休みください」
「はい」
しかし、リゼルミアは机の上をもう一度見た。
紙が並んでいる。
十一度の結婚。
十一度の離縁。
その中で彼女が残したもの。
帳簿。
支出。
手紙。
紙片。
目録。
それらは、彼女をただの被害者として並べているのではなかった。
証人として、そこにいる。
過去のリゼルミアが、未来のリゼルミアへ差し出した声。
私は忘れない。
あなたも、忘れないで。
そう言っているようだった。
リゼルミアは、涙を落とした。
「私」
声が震える。
「過去の私を、初めて少しだけ、信じられた気がします」
エルネストが静かに聞いている。
「いつも、もっと強ければよかったと思っていました。言い返せばよかった。逃げればよかった。訴えればよかった。そうできなかった私は、ただ弱かったのだと思っていました」
涙が頬を伝う。
「でも、記録していました」
「ああ」
「震えながらでも」
「うん」
「信じてもらえなくても」
「記録していた」
「過去の私は、私を助けようとしていたのでしょうか」
エルネストの手が、彼女の手を包み直した。
「そうだ」
短い答え。
けれど、迷いがなかった。
リゼルミアは泣いた。
過去の自分。
何もできなかったと思っていた自分。
夫の言葉に黙り、義母の命令に従い、使用人に笑われ、離縁状に署名してきた自分。
その自分が、紙を残していた。
未来の自分のために。
生きるために。
リゼルミアは、胸の奥でその過去の自分に初めて手を伸ばせた気がした。
あなたは、ただ泣いていただけではなかった。
あなたは、証人だった。
私のための。
私自身の。
私室へ戻ると、リゼルミアは長椅子に横になった。
身体が重い。
まぶたも重い。
でも、眠る前に一つだけしたいことがあった。
「便箋を」
彼女が言うと、エルネストは少し眉を寄せた。
「今?」
「一文だけ」
「手が震えている」
「一文だけ、お願いします」
エルネストは、少し迷った。
けれど、彼女の目を見て頷く。
「分かった。一文だけ」
イーリアが仕事部屋から便箋とペンを持ってきた。
リゼルミアは長椅子の上で身体を起こし、膝に小さな板を置いてもらった。
エルネストがインク壺を開ける。
ペンを渡す。
彼女の指は震えていた。
インクが少し垂れそうになる。
エルネストが何も言わず、白い布を差し出した。
叱られない。
焦らされない。
リゼルミアは、ゆっくり書いた。
私は、私の証人です。
書き終えた瞬間、胸が熱くなった。
短い一文。
でも、今日のすべてだった。
エルネストがインク壺の蓋を閉める。
リゼルミアは気づいた。
彼は、本当にインクを補充し、蓋をし、紙を押さえ、ペンを渡していただけだった。
全部を代わることはしなかった。
彼女が書くのを支えてくれた。
「エルネスト様」
「はい」
「今日は、支えてくださって、ありがとうございます」
「俺は少ししかしていない」
「その少しが、必要でした」
エルネストの目元が静かに柔らかくなる。
「なら、よかった」
「私が並べられました」
「ああ」
「でも、一人ではできませんでした」
「一人でやる必要はない」
リゼルミアは頷いた。
「はい」
夕方まで、リゼルミアは眠った。
夢は見なかった。
深い眠りではなかったが、紙の匂いに追われる夢も、元夫たちの声も出てこなかった。ただ、遠くで羽根ペンが紙を撫でる音がしていた。
目を覚ますと、エルネストが隣で書類を読んでいた。
庭で昼寝した日のように。
彼は顔を上げる。
「起きた?」
「はい」
「気分は」
「少し、ぼんやりしています」
「白湯を」
「はい」
白湯を飲む。
喉が温まる。
小皿には梨があった。
エルネストが一切れ食べる。
「甘い」
リゼルミアは、小さく笑った。
「今日も」
「ああ」
「紙の匂いがしても、梨は甘いですね」
「甘い」
リゼルミアも一口食べた。
甘い。
今日の甘さは、少しだけ涙の味が混じっていた。
夜、寝室で。
リゼルミアは早めに寝台へ入った。
貴族院へ出す証拠は、ロナンと法律家が明日から正式に整理することになった。原本は公爵家の保管庫へ。写しは目録をつけ、必要に応じて提出する。証拠として弱いものも捨てず、補足証言と照らし合わせる。
すべて、勝つためだけではない。
リゼルミアの人生を、嘘にしないため。
寝台の中で、リゼルミアはお腹へ手を置いた。
「今日は、たくさん紙を並べました」
小さく言う。
エルネストは椅子に座り、手を差し出してくれている。
リゼルミアはその手を握った。
「怖かったです」
「うん」
「でも、並べました」
「並べた」
「私は、私の証人です」
エルネストの手が、温かく包み直す。
「ああ」
「この子にも、いつか教えたいです」
言ってから、少しだけ胸が震えた。
未来の話。
まだ怖い。
でも、今日は逃げなかった。
「泣いても、震えても、記録していた自分を、弱いだけだと思わなくていいと」
「教えられる」
「本当に?」
「君が今日、教えた」
リゼルミアは目を閉じた。
自分が自分へ教えた。
その言葉を、胸の奥へそっと置く。
「おやすみなさい、エルネスト様」
「おやすみ、リゼルミア」
眠りに落ちる前、リゼルミアは今日の机を思い出した。
白布の上に並ぶ紙。
分類札。
エルネストが補充してくれたインク。
ロナンの静かな助言。
イーリアの白湯。
震える自分の手。
そして、一枚ずつ紙を置いた感触。
怖かった。
苦しかった。
けれど、できた。
過去の自分を、ただの被害者としてではなく、証人として扱えた。
その事実が、眠りへ入るリゼルミアの胸を、静かに支えていた。
夢の中で、彼女は貴族院の大きな卓の前に立っていた。
卓の上には、十一の布袋が並んでいる。
遠くから、元夫たちの声がした。
嘘だ。
逆恨みだ。
報復だ。
リゼルミアは震えた。
けれど、足元には白い花びらがあった。
隣にはエルネストがいる。
彼は何も言わず、インク壺をそっと彼女のそばへ置いた。
リゼルミアは、羽根ペンを取る。
そして、夢の中の大きな紙に書いた。
私は、私の証人です。
その文字が光る。
十一の布袋から、紙の鳥たちが飛び立った。
今度は箱の中へ戻らなかった。
朝、目が覚めた時、リゼルミアの頬には涙があった。
けれど、息は深かった。
エルネストが顔を上げる。
「夢は?」
「貴族院の夢でした」
「怖かった?」
「怖かったです」
リゼルミアは、少し考えてから続けた。
「でも、書けました」
「何を?」
「私は、私の証人です」
エルネストの目元が柔らかくなる。
「いい夢だ」
「はい」
リゼルミアは、お腹へ手を置き、朝の光を見た。
元夫たちの連名状は、まだ消えていない。
貴族院へ提出する証拠の整理も、これから続く。
けれど、昨日の自分は並べた。
震えながらも。
泣きながらも。
過去の自分を、証人として机の上に立たせた。
そのことは、もう消えない。
エルネストが静かに尋ねた。
「梨は食べられそうか」
リゼルミアは、小さく笑った。
「半分こなら」
「甘いからな」
「はい」
今日も、梨は甘いだろう。
そして今日も、記録はそこにある。
リゼルミアは、それを少しだけ怖く、少しだけ誇らしく思いながら、新しい朝を迎えた。
ただし、乱雑ではない。
ロナンが選び、イーリアが布を敷き、エルネストが場所を確かめた。机の上には直接古い紙を置かず、薄い白布を一枚敷いてある。紙の端が傷まないよう、文鎮も軽いものに替えられていた。
窓は少しだけ開いている。
古い紙の匂いが部屋にこもらないように。けれど風が強く入って書類を散らさないよう、青いリボンの揺れ方を見ながら、イーリアが慎重に幅を調整した。
暖炉には弱く火が入っていた。
膝掛けは椅子に掛けられている。
小卓には白湯と、梨の皿。
今日も梨は二切れ。
エルネストは朝食の時、一切れ食べて「甘い」と言った。リゼルミアも一切れ食べて、「甘いです」と答えた。
その甘さは、今も舌の奥に少し残っている。
だが、机の上の紙の匂いは、それとは別の現実を連れてきた。
乾いた紙。
古いインク。
折り目。
擦れた封蝋の跡。
婚家の屋敷の空気まで、紙の繊維の間に閉じ込められているようだった。
リゼルミアは、仕事部屋の入口に立ったまま、机を見つめていた。
白い札がある。
リゼルミア・ヴァルクレイド。
その横に、いつもの便箋。
私は、助けを求めていました。
私は、休んでよかった。
私は、医師を呼んでほしかった。
私は、責められるべきではありませんでした。
私は、怒ってもよかった。
私は、奪われるために幸せになったのではありません。
私は、戻りません。
私を守る声は、一つではありません。
まだ決めなくていい。
私は、ただ泣いていただけではありません。
私は、生きるために記録していました。
昨日、書いたばかりの二文が、まだ胸に熱を残している。
ただ泣いていただけではない。
生きるために記録していた。
そう書いた。
けれど今日は、その記録を並べなければならない。
箱の中にしまっておいた痛みを、貴族院へ提出できる形に整える。
それは、昨日箱を開けることとはまた別の怖さだった。
箱から出しただけなら、まだ自分の部屋の中の出来事だ。
けれど、提出するとなれば、紙は外へ行く。
貴族院の記録庫へ。
法律家の目へ。
元婚家たちの反論の前へ。
社交界の噂の奥へ。
リゼルミアが隠してきた十一度の結婚が、正式な書類として並ぶ。
胸が詰まった。
「今日は、ここまででもいい」
隣からエルネストの声がした。
彼は、仕事部屋の入口から少し離れたところに立っていた。リゼルミアの前に出ない。背を押さない。けれど、倒れそうになればすぐ支えられる距離。
「部屋に入った。机を見た。それだけで十分だ」
その言葉に、リゼルミアは小さく息を吐いた。
十分。
いつもの言葉。
でも今日は、まだその言葉へ逃げたくなかった。
「いいえ」
リゼルミアは首を振った。
声は震えていた。
「今日は、並べます」
エルネストは、すぐには頷かなかった。
「無理をする必要はない」
「無理は、あります」
リゼルミアは正直に言った。
「でも、したいのです」
彼女は、自分の胸に手を当てた。
心臓が早い。
指先も冷たい。
今すぐこの部屋を出て、寝室で膝掛けにくるまりたい気持ちもある。
それでも。
「元夫たちは、私の証言は嘘だと言いました」
声が少し細くなる。
「離縁された女の逆恨みだと。公爵家の権力を使った報復だと」
言葉を口にするだけで、まだ痛い。
だが、昨日ほど息が詰まらなかった。
痛みの下に、別の熱がある。
怒りに似ている。
でも、ただ燃え広がる怒りではない。
机の上に置ける形の怒り。
紙を並べるための力。
「だから、私が並べます」
リゼルミアはエルネストを見た。
「これは、私の人生です」
エルネストの目が、静かに揺れた。
リゼルミアは続ける。
「私が並べます」
その声は大きくない。
だが、部屋の中に確かに落ちた。
ロナンが少しだけ頭を下げる。
イーリアは、ハンカチを持つ手を胸元に寄せた。
エルネストは、長い沈黙の後、静かに頷いた。
「分かった」
彼は一歩下がった。
それが、リゼルミアには分かった。
守るために前へ出るのではなく、彼女が歩く場所を空けるために下がったのだ。
「俺は隣にいる」
「はい」
「君が止めると言えば止める」
「はい」
「俺がやりたくなっても、やらない」
リゼルミアは、少しだけ目を瞬いた。
エルネストは真面目な顔で言った。
「書類を奪って俺が全部並べたくなるかもしれない。だから先に言っておく。俺はやらない」
リゼルミアの胸が、ほんの少しだけ緩んだ。
「エルネスト様でも、そう思うのですね」
「思う」
「私が震えているから?」
「それもある」
「他には?」
「君が傷つく紙を、君に触らせたくない」
低い声だった。
リゼルミアの胸が甘く痛む。
彼は本当に、代わってしまいたいのだ。
彼女の代わりに紙を読み、彼女の代わりに記録を並べ、彼女の代わりに貴族院へ出して、彼女を休ませたいのだろう。
それは優しさだ。
けれど今日は、受け取るだけではいけない。
「ありがとうございます」
リゼルミアは言った。
「でも、これは私が触ります」
「ああ」
「怖くなったら、手を取ってください」
「もちろん」
「インクが切れたら」
「補充する」
「紙が飛びそうになったら」
「押さえる」
「私が字を間違えたら」
「訂正用の紙を出す」
「泣いたら」
「ハンカチを渡す」
その一つ一つに、リゼルミアは少しずつ息を取り戻した。
エルネストは前に出ない。
でも、いなくなるわけではない。
守るのではなく、支える。
今日は、それが必要だった。
リゼルミアは、机へ向かった。
椅子に座る。
膝掛けを掛けてもらう。
イーリアが足置きを少し近づけ、白湯の位置を整えた。
ロナンが机の左側に、提出用の分類札を置く。
一、婚家別帳簿写し。
二、愛人支出および不正支出記録。
三、侮辱的書状および発言記録。
四、医師未派遣および体調不良関連記録。
五、持参金および返却荷物目録。
六、補足証言照合待ち。
札の文字を見た瞬間、リゼルミアの胸が重くなった。
自分の人生が、分類されている。
けれど、乱暴には感じなかった。
ロナンの分類は、傷を削るためではなく、見失わないための棚だった。
怒りの棚。
証拠の棚。
今日、自分はその棚へ紙を入れていく。
「最初は、どれにしますか」
ロナンが尋ねた。
リゼルミアは、黒い木箱を見た。
中には十一の布袋が並んでいる。
昨日見たばかりなのに、今日もそれは重く見えた。
彼女は少し迷い、十一度目の袋を取った。
「オルディラス様の家からにします」
エルネストの目が少しだけ冷える。
十一人目の夫。
離縁状を渡し、後に「戻ってくれ」と言った男。
この人は俺の妻だ。
エルネストがそう庇ってくれた相手。
リゼルミアは袋を開いた。
帳簿の写し。
愛人への支出表。
使用人配置の控え。
備蓄不足の記録。
取引先からの苦情の写し。
離縁後に返却された荷物の目録。
リゼルミアは、まず帳簿の写しを手に取った。
紙の端が少し丸まっている。
インクは薄くなっているが、読める。
自分の字だった。
細く、整っている。
昔の自分の字。
震えていないように見える。
だが、書いていた時の自分はずっと怯えていた。
間違えれば怒られる。
遅れれば責められる。
愛人の浪費を指摘すれば、嫉妬深い妻だと笑われる。
それでも、数字だけは裏切らないと思って書いた。
「これは、婚家別帳簿写しです」
リゼルミアは、紙を一の札の下へ置いた。
指が震える。
でも、置けた。
「これは、愛人への支出」
二の札へ。
「これは、取引先からの苦情」
補足証言照合待ちへ。
「これは、返却荷物の目録です」
五の札へ。
紙を一枚ずつ置くたび、胸の中から何かが剥がれていく。
痛い。
けれど、置ける。
エルネストは隣で何も言わない。
彼は本当に、紙を奪わなかった。
ただ、リゼルミアのインク壺の位置を少し直し、提出用一覧を書くための白紙を手元に置いた。
「一覧をつけます」
リゼルミアは言った。
エルネストがすぐに羽根ペンを差し出す。
「ペン」
「ありがとうございます」
彼女は、提出用一覧の一行目を書いた。
第十一婚家、メイヴェン子爵家関係記録。
帳簿写し三枚。
愛人支出控え二枚。
返却荷物目録一枚。
取引先苦情写し一枚。
字が震えた。
特に「愛人支出」の部分で、少し線が乱れた。
リゼルミアは息を止める。
昔なら、字が乱れただけで謝っていただろう。
今も、喉まで「申し訳ありません」が上がりかけた。
しかし、エルネストが隣で静かに言った。
「読める」
たったそれだけ。
完璧でなくていい。
読める。
それでいい。
リゼルミアは小さく頷いた。
「はい」
次は一度目の袋。
ルガインの家。
若かった夫。
「本当は愛していた」と後になって言った男。
リゼルミアは、侮辱的な手紙の写しを取り出した。
夫人は黙っていれば便利だが、女としては退屈だ。
婚家から持参金だけは役に立った。
その言葉を見た瞬間、胸が冷えた。
けれど、昨日より少しだけ違う。
これは、リゼルミアの価値を決める言葉ではない。
ルガインが何を見ていたかを示す証拠だ。
リゼルミアは、その紙を三の札へ置いた。
「侮辱的書状です」
声が震える。
ロナンが確認する。
「写しでございますね」
「はい。原本は、彼の机に戻しました。持ち出せば盗んだと言われると思ったので」
エルネストの視線が動いた。
「そこまで考えていたのか」
「はい」
リゼルミアは、紙の角をそっと整えた。
「私が悪いと言われる理由を、増やしたくなかったのです」
部屋が少し静かになった。
イーリアが、静かに白湯を差し出す。
「奥様、一口」
「ありがとうございます」
飲む。
喉が少し楽になる。
次は三度目の袋。
フロラドール家。
リゼルミアの指が止まる。
昨日も開けた。
けれど、今日は並べなければならない。
医師を呼んでください、と途切れた紙片。
薬師の控え。
水桶を運ぶ日課表の写し。
離れの部屋の割当表。
医師の元帳と照合するための自分の記録。
その中で、一枚だけ、リゼルミアはまだ説明していない紙があった。
小さな覚え書き。
自分の字。
日付だけが並んでいる。
吐き気。
めまい。
朝食不可。
義母へ訴える。
水桶。
階段。
痛み。
医師呼ばれず。
その文字を見ると、喉が塞がった。
これは、日記ですらない。
感情も何も書けなかった日の記録。
ただ、何が起きたかだけを、震える字で書き留めたもの。
リゼルミアは紙を持ったまま、動けなくなった。
エルネストが低く尋ねる。
「手を取る?」
リゼルミアは頷く。
「はい」
彼の手が差し出される。
リゼルミアは、左手でその手を握り、右手で紙を持った。
「これは」
声が震える。
「私の記録です」
「うん」
「あの日の前から、具合が悪かったことを書きました。誰かに見せるためではなくて、自分が後で分からなくならないように」
目に涙が滲む。
「痛かったことも、医師が呼ばれなかったことも、書きました」
ロナンは静かに言った。
「四の札へ」
リゼルミアは、その紙を置いた。
医師未派遣および体調不良関連記録。
紙を置いた瞬間、肩が震えた。
エルネストの手が、少しだけ温かく包み直す。
「置けた」
彼が言った。
リゼルミアは泣きながら頷く。
「置けました」
次に、医師を呼んでください、と書かれた紙片を置く。
これも四の札へ。
薬師の控えも四へ。
水桶を運ぶ日課表は、四と補足証言照合待ちの間で迷った。
ロナンが助言する。
「重労働の継続を示す記録ですので、四に置き、写しを補足証言と照合しましょう」
「はい」
リゼルミアは従う。
不思議だった。
昔の婚家では、誰かの助言は命令だった。
従わなければ怒られるもの。
でも、ロナンの助言は違う。
彼女の手から紙を奪わず、ただ棚を示してくれる。
リゼルミアが置く。
その順番を守ってくれる。
四度目の袋。
五度目の袋。
六度目は、証拠が少なかった。
ほとんど何も残せなかった婚家もある。
リゼルミアは、それを恥じそうになった。
「ここは、少ないです」
小さく言うと、エルネストが返した。
「少ないことは、なかったことの証拠ではない」
昨日と似た言葉。
名前がないことは、存在しなかった証拠ではない。
証拠が少ないことも、苦しみがなかった証拠ではない。
リゼルミアは、頷いた。
「はい」
少ない袋には、返却荷物の目録だけが入っていた。
それでも、置く。
五の札へ。
七度目の袋には、持参金の一部が婚家の借金返済へ使われた控えがあった。
八度目の袋には、夫の愛人へ渡された香水代の記録。
九度目の袋には、義母からの短い書きつけ。
妻なら黙って夫の恥を隠しなさい。
あなたが不満を顔に出すから、屋敷の空気が悪くなるのです。
十度目の袋には、寝室での侮辱を直接示す紙はなかった。
ただ、侍女が寝室の翌日に残した洗濯指示の紙に、赤いインクで「奥様の寝具のみ交換不要」と書かれていた。
意味を知らない者にはただの指示だ。
けれどリゼルミアには分かる。
あの日、夫は愛人の部屋へ行った。
使用人たちはそれを知っていて、リゼルミアの寝室を空気のように扱った。
これをどう扱えばいいのか分からず、彼女は手を止めた。
「これは、証拠になるのでしょうか」
ロナンが紙を確認する。
少し考え、法律家へ回す札の横に置いた。
「単独では弱いかもしれません。ですが、同時期の愛人支出や使用人証言が得られれば補強になります。補足証言照合待ちへ」
リゼルミアは頷いた。
「はい」
弱い紙。
強い紙。
直接の紙。
周囲から照らす紙。
記録にも、いろいろな形がある。
それを、今学んでいる気がした。
すべてが一枚で勝てる証拠ではない。
けれど、何枚も並べば、そこに道が見えてくる。
昼を少し過ぎた頃、リゼルミアの手は完全に冷えていた。
紙はかなり並んだ。
机の上だけでは足りず、ロナンが隣の小卓にも布を敷き、分類を広げた。
部屋は紙の匂いで満ちている。
リゼルミアの頭は少し重く、目の奥が痛い。
それでも、十一の袋はすべて開けた。
すべてではない。
細かな確認はまだ残っている。
写しも作らなければならない。
貴族院へ提出する正式な目録は、ロナンと法律家が整える。
しかし、最初の分類は、リゼルミアが自分で並べた。
彼女は、震える手で最後の紙を置いた。
十一度の結婚で返された荷物の総目録。
五の札へ。
置いた瞬間、息が抜けた。
「終わり、ですか」
声がかすれる。
ロナンが机を確認した。
「第一分類は完了でございます」
第一分類。
まだ先はある。
けれど、今はその言葉がありがたかった。
完了。
今日の分は。
エルネストが、すぐに言った。
「今日はここまで」
リゼルミアは頷いた。
反論する力はもうなかった。
「はい」
椅子から立とうとして、身体がふらつく。
エルネストが支える。
「触れる」
今回は確認ではなく、告げる声だった。
倒れかけていたからだ。
リゼルミアは彼の腕に支えられ、ゆっくり座り直した。
「すみません」
「謝らない」
「はい」
言い直す力も弱い。
イーリアが白湯を差し出した。
リゼルミアは飲む。
温かさが喉を通る。
それだけで少し泣きそうになった。
「奥様、少しお休みください」
「はい」
しかし、リゼルミアは机の上をもう一度見た。
紙が並んでいる。
十一度の結婚。
十一度の離縁。
その中で彼女が残したもの。
帳簿。
支出。
手紙。
紙片。
目録。
それらは、彼女をただの被害者として並べているのではなかった。
証人として、そこにいる。
過去のリゼルミアが、未来のリゼルミアへ差し出した声。
私は忘れない。
あなたも、忘れないで。
そう言っているようだった。
リゼルミアは、涙を落とした。
「私」
声が震える。
「過去の私を、初めて少しだけ、信じられた気がします」
エルネストが静かに聞いている。
「いつも、もっと強ければよかったと思っていました。言い返せばよかった。逃げればよかった。訴えればよかった。そうできなかった私は、ただ弱かったのだと思っていました」
涙が頬を伝う。
「でも、記録していました」
「ああ」
「震えながらでも」
「うん」
「信じてもらえなくても」
「記録していた」
「過去の私は、私を助けようとしていたのでしょうか」
エルネストの手が、彼女の手を包み直した。
「そうだ」
短い答え。
けれど、迷いがなかった。
リゼルミアは泣いた。
過去の自分。
何もできなかったと思っていた自分。
夫の言葉に黙り、義母の命令に従い、使用人に笑われ、離縁状に署名してきた自分。
その自分が、紙を残していた。
未来の自分のために。
生きるために。
リゼルミアは、胸の奥でその過去の自分に初めて手を伸ばせた気がした。
あなたは、ただ泣いていただけではなかった。
あなたは、証人だった。
私のための。
私自身の。
私室へ戻ると、リゼルミアは長椅子に横になった。
身体が重い。
まぶたも重い。
でも、眠る前に一つだけしたいことがあった。
「便箋を」
彼女が言うと、エルネストは少し眉を寄せた。
「今?」
「一文だけ」
「手が震えている」
「一文だけ、お願いします」
エルネストは、少し迷った。
けれど、彼女の目を見て頷く。
「分かった。一文だけ」
イーリアが仕事部屋から便箋とペンを持ってきた。
リゼルミアは長椅子の上で身体を起こし、膝に小さな板を置いてもらった。
エルネストがインク壺を開ける。
ペンを渡す。
彼女の指は震えていた。
インクが少し垂れそうになる。
エルネストが何も言わず、白い布を差し出した。
叱られない。
焦らされない。
リゼルミアは、ゆっくり書いた。
私は、私の証人です。
書き終えた瞬間、胸が熱くなった。
短い一文。
でも、今日のすべてだった。
エルネストがインク壺の蓋を閉める。
リゼルミアは気づいた。
彼は、本当にインクを補充し、蓋をし、紙を押さえ、ペンを渡していただけだった。
全部を代わることはしなかった。
彼女が書くのを支えてくれた。
「エルネスト様」
「はい」
「今日は、支えてくださって、ありがとうございます」
「俺は少ししかしていない」
「その少しが、必要でした」
エルネストの目元が静かに柔らかくなる。
「なら、よかった」
「私が並べられました」
「ああ」
「でも、一人ではできませんでした」
「一人でやる必要はない」
リゼルミアは頷いた。
「はい」
夕方まで、リゼルミアは眠った。
夢は見なかった。
深い眠りではなかったが、紙の匂いに追われる夢も、元夫たちの声も出てこなかった。ただ、遠くで羽根ペンが紙を撫でる音がしていた。
目を覚ますと、エルネストが隣で書類を読んでいた。
庭で昼寝した日のように。
彼は顔を上げる。
「起きた?」
「はい」
「気分は」
「少し、ぼんやりしています」
「白湯を」
「はい」
白湯を飲む。
喉が温まる。
小皿には梨があった。
エルネストが一切れ食べる。
「甘い」
リゼルミアは、小さく笑った。
「今日も」
「ああ」
「紙の匂いがしても、梨は甘いですね」
「甘い」
リゼルミアも一口食べた。
甘い。
今日の甘さは、少しだけ涙の味が混じっていた。
夜、寝室で。
リゼルミアは早めに寝台へ入った。
貴族院へ出す証拠は、ロナンと法律家が明日から正式に整理することになった。原本は公爵家の保管庫へ。写しは目録をつけ、必要に応じて提出する。証拠として弱いものも捨てず、補足証言と照らし合わせる。
すべて、勝つためだけではない。
リゼルミアの人生を、嘘にしないため。
寝台の中で、リゼルミアはお腹へ手を置いた。
「今日は、たくさん紙を並べました」
小さく言う。
エルネストは椅子に座り、手を差し出してくれている。
リゼルミアはその手を握った。
「怖かったです」
「うん」
「でも、並べました」
「並べた」
「私は、私の証人です」
エルネストの手が、温かく包み直す。
「ああ」
「この子にも、いつか教えたいです」
言ってから、少しだけ胸が震えた。
未来の話。
まだ怖い。
でも、今日は逃げなかった。
「泣いても、震えても、記録していた自分を、弱いだけだと思わなくていいと」
「教えられる」
「本当に?」
「君が今日、教えた」
リゼルミアは目を閉じた。
自分が自分へ教えた。
その言葉を、胸の奥へそっと置く。
「おやすみなさい、エルネスト様」
「おやすみ、リゼルミア」
眠りに落ちる前、リゼルミアは今日の机を思い出した。
白布の上に並ぶ紙。
分類札。
エルネストが補充してくれたインク。
ロナンの静かな助言。
イーリアの白湯。
震える自分の手。
そして、一枚ずつ紙を置いた感触。
怖かった。
苦しかった。
けれど、できた。
過去の自分を、ただの被害者としてではなく、証人として扱えた。
その事実が、眠りへ入るリゼルミアの胸を、静かに支えていた。
夢の中で、彼女は貴族院の大きな卓の前に立っていた。
卓の上には、十一の布袋が並んでいる。
遠くから、元夫たちの声がした。
嘘だ。
逆恨みだ。
報復だ。
リゼルミアは震えた。
けれど、足元には白い花びらがあった。
隣にはエルネストがいる。
彼は何も言わず、インク壺をそっと彼女のそばへ置いた。
リゼルミアは、羽根ペンを取る。
そして、夢の中の大きな紙に書いた。
私は、私の証人です。
その文字が光る。
十一の布袋から、紙の鳥たちが飛び立った。
今度は箱の中へ戻らなかった。
朝、目が覚めた時、リゼルミアの頬には涙があった。
けれど、息は深かった。
エルネストが顔を上げる。
「夢は?」
「貴族院の夢でした」
「怖かった?」
「怖かったです」
リゼルミアは、少し考えてから続けた。
「でも、書けました」
「何を?」
「私は、私の証人です」
エルネストの目元が柔らかくなる。
「いい夢だ」
「はい」
リゼルミアは、お腹へ手を置き、朝の光を見た。
元夫たちの連名状は、まだ消えていない。
貴族院へ提出する証拠の整理も、これから続く。
けれど、昨日の自分は並べた。
震えながらも。
泣きながらも。
過去の自分を、証人として机の上に立たせた。
そのことは、もう消えない。
エルネストが静かに尋ねた。
「梨は食べられそうか」
リゼルミアは、小さく笑った。
「半分こなら」
「甘いからな」
「はい」
今日も、梨は甘いだろう。
そして今日も、記録はそこにある。
リゼルミアは、それを少しだけ怖く、少しだけ誇らしく思いながら、新しい朝を迎えた。
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