白い結婚十年目、ようやく離縁できると思ったのに 〜冷酷公爵は今さら私を手放さない〜

なつめ

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第二十五話 夫人の手腕


 異変は、朝の匂いでわかった。

 まだ陽も高くならないうち、北の別邸の裏手から、湿った土と冷えた水の匂いに混じって、どこか甘く腐ったような臭いが風に乗ってきたのだ。雪解けの土地にはいろいろな匂いがある。濡れた枯草、泥、古い木柵、牛舎、遠くの薪の煙。けれどそれらとは違う、生き物が中から傷み始めた時の、鈍くて重い匂い。

 イゼルディナは朝食のあと、温室へ向かうつもりで玄関を出たところだった。手袋をはめ、外套の襟元を少しだけ寄せ、まだ冷たい風へ頬をさらした瞬間、その匂いが鼻の奥へ引っかかった。

 立ち止まる。

 庭の向こうでは、納屋の脇に何人か人が集まっていた。ハンナの太い声が聞こえる。村の男たちが低く言い合い、誰かが木箱を持ち上げて落とす鈍い音がした。その場に漂う空気だけが、朝の静けさから少しずれていた。

「ハンナ?」

 イゼルディナが呼ぶと、納屋の前にいた女たちが一斉に振り返った。

 ハンナはすぐにこちらへ歩いてくる。けれどその足取りは、いつもの実務的な落ち着きより半歩だけ速い。

「奥様」

「何があったの」

 問うと、ハンナは一瞬だけ言葉を選んだ。

「種芋が」

 そこで彼女は、唇を結ぶ。

「傷んでおります」

 イゼルディナの視線が、自然と納屋のほうへ向いた。

 木箱がいくつも並び、そのうちのいくつかは蓋が外されていた。中に見えるのは、去年の秋に保管したままの種芋だろう。本来なら春先に切り分けて畑へ回されるはずのものだ。だが近づかずともわかる。箱の上へ薄く白い綿のようなものが広がり、一部は水を含んで黒ずみ、ところどころ芽が出る前に腐り落ちた色をしている。

 腐っている。

 しかも、一箱二箱ではなさそうだった。

「いつ気づいたの」

「今朝、箱を開けまして」

 ハンナの声は低い。

「去年の終わりの時点では問題なかったそうですが、どうにも冬のあいだに底から湿りが回ったようで。冷え込みが弱い日が続いたのも、かえって悪うございました」

 つまり、保存に失敗したのだ。

 北の土地では、種芋の保管一つで秋の収穫が決まる。春の作付けを逃せば、ただの不作では済まない。秋から冬にかけて、村に飢えが出る。

 イゼルディナは外套の裾を押さえながら、まっすぐ納屋へ向かった。

 ハンナが慌てて後に続く。

「奥様、まだ土が」

「構わないわ」

 納屋の前には、村の男が三人、女が二人、それに顔を赤くした少年が一人いた。皆、手に泥をつけたまま、黙って道をあける。その視線の中には不安と、少しの戸惑いがある。公爵夫人が、いや、王都から来た女主人が、こういう場で何をするつもりなのかと測る目。

 イゼルディナは一番手前の木箱へしゃがみ込んだ。

 湿気と腐りの匂いが、間近でさらに濃くなる。手袋のまま一つ芋を持ち上げる。表面はまだ硬いように見えても、指で押せば下側がぬめり、皮が破れたところから黒が滲む。白カビは箱の底ほどひどい。つまり、下からやられている。

「床板は?」

 イゼルディナが訊くと、少年がはっとしたように答えた。

「え、ええと、去年の雪の前に、新しい藁を」

「板そのものよ。土の湿りが上がるのを防ぐ板」

「……古いままでした」

 ハンナが低く言う。

 イゼルディナは頷いた。

 なるほど。床からの湿気、暖冬気味の緩み、換気不足。そのすべてが重なったのだろう。責めるのは簡単だ。だが今必要なのは責任の所在ではない。

「無事な箱はどれだけあるの」

 今度は村の男へ問う。

 大柄な男が、帽子を握りしめながら答えた。

「まだ全部は見ておりませんが、ざっと半分……いや、三分の一も残るかどうか」

 三分の一。

 胸の中で数字が動く。
 この村の作付け面積。
 別邸まわりの畑。
 共有畑。
 自家用と売り分。
 最低限必要な種芋の量。

 足りない。

 その場で、はっきりそうわかった。

「村長を呼んで」

 イゼルディナは立ち上がった。

「すぐに。
 それから、腐った箱とまだ見ていない箱を分けて。
 底から湿っているものは、傷んだ芋だけでなく藁ごと全部外へ出して。
 触った手で他の箱へ移らないで。布と灰を持ってきて」

 村人たちが一瞬きょとんとした。
 だが、ハンナが即座に声を張る。

「聞いたね! 急いで!」

 その一喝で、皆がばらける。

 イゼルディナはもう一度、木箱の列を見渡した。
 胸の奥に、熱ではなく鋭い冷えが走っている。
 これを立て直せなければ、秋に飢えが出る。
 村人の食卓が空く。
 冬の終わりの今、この地で最も見たくない形の空白だ。

 その時、背後で扉の開く音がした。

 振り返ると、セヴェリオンが別邸の本館から出てくるところだった。

 朝のうちに王都へ戻るかもしれないとイゼルディナはどこかで思っていたが、彼はまだここにいたらしい。濃色の上着のまま、外套だけを肩へかけ、状況を見て足を止めている。

 視線が納屋前の箱へ向き、次にイゼルディナへ向く。
 何かを問いかける前に、彼女は先に言った。

「種芋が腐っているの」

 説明は短く、しかしはっきりと。

「作付けに失敗すれば、村に飢えが出るわ」

 セヴェリオンの表情が変わる。
 感情というより、即座に計算へ入った顔だ。

「どれだけ足りない」

「まだ見切れていないけれど、三分の一残ればまし」

 彼は一歩だけ近づく。

「近隣の備蓄は」

「今から確認する」

 そこでイゼルディナは彼を見た。

「旦那様、本邸の倉庫に秋の保存芋はまだある?」

「食用ならある。種用は」

「選別すれば一部は使えるはずよ。
 去年の北方農園の収量は?」

「平年並みだ」

「なら、王都の消費へ回す分から一部を抜ける」

 セヴェリオンは即答しなかった。
 だがその目が、彼女の頭の中で同じ計算がすでに動いていることを示していた。

「抜けば、本邸の在庫は」

「飢えません」

 イゼルディナはきっぱり言った。

「こちらは飢えるけれど」

 その一言で、彼は何も言わなくなった。

 王都の在庫、村の畑、輸送に必要な日数、道の泥、使える馬車。
 あれこれを頭の中で計算しながらも、彼女の目線はもう納屋の箱へ戻っていた。

「居間を借りるわ」

 イゼルディナはハンナへ告げる。

「大きな机を空けて。地図と在庫帳と村の戸数帳を。
 すぐに」

「はい!」

 こうして前半の山場とは別の意味で、別邸の空気が一気に変わった。

     *

 居間の長机には、すぐに紙が広げられた。

 村の戸数帳。
 去年の収穫記録。
 別邸付属の畑の面積。
 共有畑の配置図。
 水路の流れ。
 倉庫の残量。
 近隣の街道の状態。

 暖炉の前だというのに、部屋の空気は緊張で少し冷たかった。ハンナが帳面をめくり、村長が帽子を握りしめ、エウラがインクと紙を並べ、ベルンフリートからの急報用に馬を飛ばす手配を別室で行う。王都からついてきた二人の護衛が、今は伝令役として使われようとしている。

 イゼルディナは、机の中央に村の簡易地図を置いた。

「まず、必要量を出します」

 誰に聞かせるでもなく、全員に向けて言う。

「この村の主な畑は三つ。別邸付属地、川沿いの共同地、西側の斜面地。
 去年と同じ作付けでは無理です。足りない種芋で全部を埋めようとすれば、芽の弱い切り方になって夏に持ちません」

 村長が眉を寄せる。

「ですが、奥様、減らせば秋の量が」

「だから配分を変えるの」

 イゼルディナは戸数帳を指で押さえた。

「全戸が売り分まで取ろうとするのは今年は無理。
 食用確保を最優先にして、共同地は二列減らす。
 斜面地の一部は、芋ではなく春豆に切り替える」

「豆?」

 ハンナが訊く。

「ええ。水を取りすぎず、痩せた土でも比較的持つものを。
 芋だけに頼るのは危険よ」

 話しているうちに、頭が澄んでいくのを自分で感じる。

 こういう時、イゼルディナは迷わない。
 嘆いている暇はないと身体が先に知っているからだ。

「腐っていない芋は全部、今夜のうちに選別。
 大きすぎるものは切り分ける。
 切り口は灰で乾かして、夜露に当てないこと」

 村長とハンナが真剣な顔で頷く。

「でもそれだけでは足りません」

 イゼルディナはすぐ次へ移る。

「だから在庫を引きます。
 本邸分と北方農園の保存芋から、種に回せるものを抜く。
 ただしここへ届くまで数日かかるわ。
 その間に畑を遊ばせておく余裕はないから、先に土と水路を整えておくの」

 そこで彼女は地図の川沿いを示した。

「ここ、去年の流れの跡がまだ残っているでしょう」

 村長が驚いたように顔を上げる。

「ご覧になったのですか」

「馬車から少しだけ」

 実際には、到着の時に見えた地面の色でわかった。川筋に近い土はまだ重い。あそこへそのまま植えれば、水を抱えすぎて芽が腐る。

「水路の泥を先にさらう。
 用水を分ける柵を一本増やして、川沿いへ水が溜まりすぎないように。
 男手が足りなければ、今まだ仕事の薄い炭焼き小屋の者を日雇いで借りて」

「賃金が」

 村長が小さく言う。

「出します」

 セヴェリオンがそこで初めて口を開いた。

 だがイゼルディナは、その言葉へすぐに被せるように続けた。

「別邸費から先に切るわ。
 あとで本邸と合わせて整理すればいい。
 今、必要なのは銭勘定より畑の手だもの」

 セヴェリオンはその横顔を見ていた。

 視線を感じる。
 だがイゼルディナはそれに構わなかった。

「雇う人間は、腕のある者だけではなく、足の早い者も。
 伝令に使います。
 近隣三村と街道沿いの宿場へ、余剰の種芋がないか聞かせて」

 エウラがすぐに紙へ書き取る。

「街道のぬかるみは」

「午前便は通るけれど、荷馬車は遅いです」

 ハンナが答える。

「なら小荷車を刻んで走らせる。
 一度に大量に運ばなくていい。
 まずは畑を遊ばせない量を確保すれば十分よ」

 村長が、そこでようやく息を吐いた。

「奥様」

 その声には、先ほどまでの戸惑いとは違うものが混じっていた。

「おわかりになるのですな」

 イゼルディナは顔を上げる。

「何が?」

「こういう時、どう立て直すかを」

 彼の声は、驚きと、ほとんど敬意に近いものを含んでいた。

 それを聞いた瞬間、イゼルディナの胸の奥で何かが静かに鳴る。

 王都では、公爵夫人としての手腕はたいてい「よく気がつく」「社交が上手い」「家を恥ずかしく見せない」といった言葉に置き換えられていた。けれどここでは違う。畑が飢えを防ぐかどうか、村人の冬が越せるかどうか、その場で役に立つかどうか。問いはずっと生々しく、ずっとまっすぐだ。

「わかるわ」

 イゼルディナははっきり答えた。

「わからなければ、ここへいる意味がないもの」

 その返答に、ハンナがわずかに口元をゆるめた。
 村長も、今度は迷わず頷く。

 そこから先は早かった。

     *

 午後のうちに、別邸は一つの作業場になった。

 納屋では腐った芋と生きている芋の選別。
 外では水路の泥上げ。
 居間では帳面と地図の整理。
 裏手では馬と伝令の準備。
 台所では働き手に配る温かいスープの仕込み。

 イゼルディナは何度も部屋を出入りし、その場その場で決断を下した。

「それは切らないで、芽を待つほうがいい」
「その箱は日陰へ、直射に当てない」
「この戸数なら共同地は二列減でも足りる」
「若い男だけでなく、手の空く女たちも計算に入れて」
「賃は現金が足りなければ塩と灯油で一部替えて」

 指示は具体的で、速い。
 悩んでいる暇があるなら、まず手を動かせという種類の速さだった。

 村人たちも次第に、その速さへついていく。
 最初は「王都のお方に何がわかる」と目の奥に残していた者もいた。
 だが、彼女が芋の切り方ひとつに迷わず、去年の収量から逆算して種の必要量をすぐ口にし、水路の勾配を見て「ここは土を掘る順番が逆」と指摘する頃には、その目は変わっていた。

「奥様、こっちの箱も見てください」

「この芋、まだ生きてるかい」

「用水路の柵はどのくらい上げりゃいい」

 誰かがそう問いかけるたび、イゼルディナは立ち止まり、見て、決める。

 その一つひとつが気持ちよかった。

 気持ちよい、というのは少し乱暴かもしれない。
 だが、確かにそこには快感があった。
 社交界の笑顔や義母の嫌味を受け流す知恵とは別の、もっと骨太な手応え。
 自分が役に立っているという手触りが、こんなにもまっすぐ返ってくることに、身体が少し驚いているくらいだった。

 セヴェリオンは、その間ずっと彼女の邪魔をしなかった。

 口を出す場面を知っている男のように、必要なところだけで動いた。本邸への急使を出す時、北方農園の在庫を割る許可が要る時、近隣の宿場へ公爵家名義の通行優先を出す時。そういう「彼でなければ動かない部分」だけを、寸分の狂いなく処理する。

 だがそれ以外では、黙っていた。

 黙って、見ていた。

 納屋の前で芋を持ち上げて重さと傷みを測るイゼルディナ。
 居間の机で地図へ指を走らせ、輸送路を組み替えるイゼルディナ。
 村人の前で、迷いなく「ここを掘って」「それは明日」「この賃なら人が動く」と決めていくイゼルディナ。

 華やかなドレスも、銀の茶器も、義母の温室もない場所で、彼女はむしろ本来の輪郭を強くしていた。

 セヴェリオンはその姿を、はじめて真正面から見ていた。

 公爵夫人として整っているのではない。
 誰かの妻として控えているのでもない。
 この女は、こういう時に自分の頭と手を使って場を立て直す人間なのだと、今さらながら、痛いほどはっきり理解する。

 理解した瞬間、胸の奥に重く落ちるものがある。

 自分はこの十年、この手腕を「支えられていた」だけで、まともに見ていなかったのだ。

     *

 夕方、日が落ちる前に、第一陣の伝令が戻った。

 近隣二村には余剰なし。
 だが街道沿いの宿場に、小規模な商人が持て余している保存芋があるという。
 食用に回すには芽が出かけているが、種としてなら使える量があるらしい。

「取れるだけ取る」

 イゼルディナは即座に言った。

「ただし、全部ではなく選別して。芽の位置が悪いものは要らない。
 切り分けた時に二つ以上生きた目が残るものだけ」

「見分けの利く者を連れていきます」

 ハンナが答える。

「ええ。あと、値が上がりそうなら公爵家の名を出して。
 でも脅すのではなく、今後の取引を匂わせて。
 冬の売れ残りを捨て値で引かせるより、そのほうが相手も動きやすいわ」

 村長が、思わず笑いそうな顔をした。

「商いまでおわかりですか」

「帳簿は嘘をつかないもの」

 イゼルディナが返すと、周囲から小さく笑いが漏れる。

 その笑いに、自分まで少しだけ笑いそうになる。
 王都の本邸では、こういう笑いは滅多に起きない。
 起きたとしてももっと薄く、もっと注意深く、誰かの機嫌を窺って形を変える。

 ここでは違う。

 作業の合間に笑いが起こり、次の瞬間にはまた手が動く。
 生活のほうが先にある笑いだ。

 イゼルディナはその場に立ちながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 これだ、と。
 この感覚だ、と。

 自分は「いるだけ」の女ではなかった。
 誰かの後ろで微笑むためだけに生きてきたのではない。
 こうして状況を見て、整えて、足りないものを繋いで、冬の先の飢えを減らそうとする時、自分の中にはちゃんと使えるものがある。

 それを、今ここでまざまざと見せつけられる。

 いや、見せつけているのは自分自身なのだろう。

     *

 日が沈む頃、作業はひとまず一区切りついた。

 腐った種芋は分けられ、使える分は灰をまぶして乾かし、明朝切り分けるものと、そのまま植えられるものとに選別された。水路の泥上げも途中まで終わり、追加の労働力の手配もついた。商人から引く種芋は明日午前に到着予定。北方農園からも、本邸経由で三日以内に回せる分の見込みが立った。

 まだ終わってはいない。
 だが、飢えへ直行する未来からは、少なくとも踏み外さずに済みそうだった。

 居間へ戻ると、ようやく身体が一気に疲れを思い出した。
 外套の肩が重い。
 指先には土と灰の匂いがまだ残っている。
 喉も少しだけ乾いていた。

 ハンナが温かい茶を運んでくる。
 エウラが黙って手袋を外し、新しいタオルを寄越す。

「奥様」

 ハンナの顔には、いつもの実務的な平静の奥に、はっきりした敬意があった。

「助かりました」

 その一言は軽くなかった。

 村の冬を一つ軽くする重さを持つ礼だ。

「まだ終わっていないわ」

 イゼルディナは答える。

「でも、少しはましになったならよかった」

「まし、どころではございません」

 ハンナが言い切る。

「今朝のままなら、村はもう半分諦めておりました」

 その言葉に、セヴェリオンが暖炉の向こうでわずかに顔を上げる。

 彼は今日一日、ほとんど黙っていた。必要な手配だけを行い、それ以外ではひたすら彼女の動きを見ていた。今も、深い色の椅子へ腰を下ろしたまま、火の向こうにイゼルディナを見ている。

 その視線に気づいても、イゼルディナはもう今さら照れなかった。
 むしろ、「見なさい」と言いたいくらいの気持ちだった。

 これが自分だ。
 華やかな夜会でも、義母の茶会でもなく、春先の飢えを避けるために泥と帳面の間を走る自分だ。

 ようやく見たのなら、きちんと見ていればいい。

 セヴェリオンはやがて、低く言った。

「……見事だ」

 その一言に、居間の空気が少しだけ静まる。

 褒め言葉。
 今までなら、胸が揺れたかもしれない。
 けれど今のイゼルディナには、それより先に別の感情が来た。

 遅い。

 でも、悪くない。

 その二つだ。

「やっと、そう見えたのなら」

 彼女は茶器を持ったまま返す。

「よかったわ」

 冷たい言い方ではなかった。
 だが甘くもない。

 セヴェリオンはその返答を受け、否定せず、小さく頷いた。

「……ああ」

 それだけ。

 けれどその一言の中に、彼が今まで自分が何を見落としていたのかを、痛いほど理解している響きがあった。

 ヒロイン無双の快感というのは、こういう瞬間にあるのかもしれないと、イゼルディナはふと思う。

 誰かを言い負かすことでも、派手に喝采を浴びることでもない。
 必要な時に、自分の手で状況を立て直し、それを今まで見ていなかった相手に、黙ってでも見せつけること。

 それは華やかではない。
 泥臭い。
 でも、そのぶんまっすぐ気持ちがいい。

 窓の外では、雪解けの土地に夜が落ち始めていた。
 遠くの畑は暗く、納屋には明かりが灯り、村人たちがまだ小さく動いているのが見える。

 イゼルディナは温かい茶を飲みながら、ようやく少しだけ背を椅子へ預けた。

 今日、自分はちゃんとこの土地で役に立った。
 公爵夫人としての飾りではなく、自分の頭と手で。
 その事実が、胸の真ん中にしっかりと残っていた。


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