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**第6話 婚礼前夜の密談**
婚礼前日までの二日間は、驚くほど速く、そして息苦しいほど丁寧に過ぎていった。
朝が来るたびに、ユリウスは自分の輪郭が少しずつ削られていくような感覚を覚えた。削られて、整えられて、磨かれて、花婿という形へ寄せられていく。衣装合わせはもう終わったはずなのに、最終確認という名目で何度も白い礼装を着せられ、襟の角度、袖口の長さ、胸元の刺繍の見え方まで調整される。礼拝室では歩幅と視線の高さを繰り返し直され、階段の上り下りにすら「もう少し足音を吸わせるように」と指示が入る。食卓に並ぶ皿の数まで変わった。胃へ負担をかけぬよう、香辛料の強いものが控えられ、代わりに温かいスープや柔らかな肉料理が増える。
そのすべてが親切で、そのすべてが逃げ道のない準備だった。
花婿はこうあるべきだ、という形へ、自分の身体がゆっくり押し込まれていく。
王都のフェインベル家で育った頃から、ユリウスは整えられることには慣れていた。兄の横に並んでも見劣りしないように。家の恥にならないように。声は柔らかく、背筋は真っ直ぐに、視線は穏やかに。幼い頃から染み込んだそれらは、もはや身体の癖に近い。だから指摘されるたび、直すこと自体は難しくない。難しくないのに、そのたびに胸の内側が少しずつ疲れていく。
大切に扱われる、とは何なのだろう。
第五話の終わりに落とされたセヴランの言葉は、その後もずっと、喉の奥に小骨みたいに引っかかっていた。
**あなたは、誰にも大切に扱われてこなかったのですね。**
否定したいのに、綺麗に否定できない。だから余計に腹立たしい。その腹立たしさを抱えたまま婚礼の準備を進めていると、何もかもがやけに白々しく見える瞬間があった。白い礼装も、磨かれた銀器も、花の選定も、祝福を前提とした所作の確認も。祝福されるべきものとして整えられているのに、その中心にいる自分だけがどこか場違いだ。
そして、その場違いさを誰よりはっきり見ているのが、なぜかラドゥではなくセヴランだった。
ラドゥは忙しかった。
婚礼を控えた当主として当然なのだろう。侯爵家の執務は季節や婚礼に関わらず動き続けており、領内の積雪、物資の搬入、婚礼に合わせて訪れる客人の宿の振り分け、近隣貴族への返書、祭壇の確認、そのひとつひとつに彼の署名や判断が必要らしい。朝食と必要な確認の場以外でラドゥがユリウスの前に現れることは少なく、現れても会話は短い。
「体調は」
「落ち着いております」
「そうですか」
それで終わる。
あるいは、
「明日の誓約の手順は、もう頭へ入っていますか」
「はい。礼拝室で確認しました」
「なら問題ない」
それだけ。
冷たいわけではない。言葉はいつも誠実で、失礼はない。だが、情を持ち込まないという芯のようなものが、彼のすべての応対の底に静かに通っている。それは第五話までのラドゥを見てきたユリウスにももうわかっていた。
一方で、セヴランは忙しくないわけではないはずなのに、奇妙なくらい姿を見せた。
朝の食堂。礼拝室の最後列。仕立て屋が出入りする花婿の部屋。階段の踊り場。談話室。回廊。ふと視線を上げた時、そこにいる。用があるようで、ないようで、ないようでいて確実に見ている。使用人たちもそれに気づいていた。扉の向こうで囁きが止む。目が合うと逸らされる。公爵閣下はなぜ花婿にそこまで関心を、という問いが、館の空気のあちこちに薄く滲んでいた。
ユリウス自身もわからない。
わからないが、ひとつだけはっきりしていることがある。セヴランは、兄の代わりとして送られてきた「弟」を見ているだけではない。あまりにも細かく、あまりにも個人的に、ユリウスそのものを見ている。その見られ方が、落ち着かない。にもかかわらず、自分はなぜかセヴランの前でだけ、完璧には取り繕えない。
ラドゥの前では、もっと整えていられる。
使用人たちの前では、よりいっそうきちんとした花婿の顔をしていられる。
なのにセヴランが現れると、声の温度も、視線の逃がし方も、呼吸の深ささえ少しずつ乱される。苛立ちも、戸惑いも、妙に正直に表へ出てしまう。それが嫌だった。自分の未熟さを握られているようで。なのに、その握られ方がいつもあまりに静かで、怒る先も掴みにくい。
*
婚礼前日の午後は、最後の確認がひと通り終わったあと、ようやく少しだけ自由な時間が与えられた。
自由、といっても本当に何もない空白ではない。夕刻には髪を整える者が来るし、夜には礼拝堂へ祭壇の最終確認に呼ばれる。食事の時間も決まっている。けれど少なくとも、今この数刻だけは誰にも姿勢を直されず、袖の角度を測られずにいられる。
ユリウスは自室ではなく、南棟の小さな談話室へ逃げるように入った。
ここは客人用の大きな談話室よりこぢんまりしていて、窓もひとつしかない。そのぶん落ち着いた。壁紙は青灰色で、冬の空を閉じ込めたような色だ。暖炉には小さめの火が入り、花瓶には季節外れの白い枝花が挿されている。たぶん温室で保たれていたものだろう。花そのものの甘さはほとんどなく、どちらかといえば冷たい水の匂いに近い清冽さがあった。
窓辺の椅子へ腰を下ろすと、ようやく背中から力が抜ける。
外は曇っていた。雪は止んでいるが、空は低く重い。庭の石畳には薄い雪が残り、使用人が箒で脇へ寄せている。遠くで鳥の鳴く声が一度だけした。
「お茶をお持ちしましょうか」
エーベルが問いかける。
「ううん。少しだけ、このままでいたい」
「承知しました。扉の外に控えております」
エーベルが出て行き、部屋は静かになった。
その静けさの中で、ユリウスは目を閉じた。何も考えないでいたいのに、考えないということは案外難しい。閉じた瞼の裏へ、白い礼装の輪郭、ラドゥの整いすぎた横顔、セヴランの琥珀色の瞳が、交互に浮かんでは沈む。
自分は何にこんなに疲れているのだろう。
婚礼そのものか。兄の手紙か。この館の冷たさか。それとも、自分の夫になる男よりも、その客人のほうに見られているという、この奇妙な歪みか。
その歪みを意識してしまった瞬間、胸の奥が少しざわついた。
考えたくなくて、ユリウスは立ち上がった。じっとしていると、どうしても同じ思考が巡る。談話室の外へ出て、少し館の中を歩こう。人目の少ない回廊を一周して戻れば、頭も少し冷えるかもしれない。
廊下へ出ると、昼と夕のあいだの中途半端な静けさが館を満たしていた。使用人たちが晩餐の準備へ動き始める前の、短い谷のような時間だ。どこか遠くで食器を運ぶ音、階下から上がる低い話し声、薪を運ぶ足音。それらが壁と絨毯に吸われ、全体としては静かに聞こえる。
ユリウスは南棟から中央棟へつながる渡り廊下へ向かった。ここからなら中庭が見える。外へ出るつもりはない。ただ、窓の向こうの空気を見て、息を整えたかった。
しかし途中、中央棟へ差しかかる手前で、ふいに聞き慣れた声がした。
ラドゥだ。
低く、抑えた声。ひどく近いわけではない。けれどこの時間の静けさの中では、十分に耳へ届く。
もうひとつの声は、もっと低く、よく通る。セヴラン。
ふたりがいる。
気づいた瞬間、足を止めるべきだった。気配を知らせ、通りかかるだけだと一言告げて、立ち去るべきだった。なのに、ラドゥの次の言葉が耳に入ったせいで、ユリウスは動けなくなった。
「……この婚姻に、私はそれ以上を求めていない」
それ以上。
何の話か、と考えるより先に、足が床へ貼りついたようになる。
声のするほうを見ると、中央棟の小さな客間の扉が半ば開いていた。中では暖炉が焚かれているらしく、橙色の明かりが廊下へ細く漏れている。そこにふたりいるのだ。意図せず聞こえてしまった。今さらわざと足音を立てても、聞こうとしたみたいに見える。そう考えると、余計に動けない。
聞いてはいけない。
頭のどこかでそう思う。けれど同時に、自分に関わる話だという予感が、胸の奥で冷たく鳴っていた。
ユリウスは扉の脇の壁へ、ほとんど反射のように身を寄せた。隠れるつもりではない。ただ、そこにいなければならなかった。息を浅くする。心臓が少し速い。
客間の中でラドゥが続ける。
「家同士の契約としては十分だ。血筋も、体裁も整う。こちらが約定を果たし、向こうも面目を保つ。それでいい」
情を持ち込むつもりはない。
言外に、そう聞こえた。
いや、言外どころではない。次の言葉で、ラドゥはもっとはっきり口にした。
「あなたも知っているでしょう。私は婚姻へ感傷を持ち込む性質ではない」
沈黙。
おそらくセヴランが何か飲んでいるのだろう。グラスか茶器の縁が、かすかに陶器へ触れる音がした。
「知っています」
セヴランの声は低く、静かだった。
「だからこそ、この話に驚きはしない」
「なら話は早い」
ラドゥの声音はいつもと変わらない。冷たくも、荒くもない。ただ整っている。整っているぶん、その内容だけが鮮やかに耳へ残る。
「私はあの方に無理な期待をさせるつもりはない。必要な礼は尽くす。館の花婿として不足はさせない。だが、それ以上のものを与えるつもりもない」
花婿として不足はさせない。
その一言が、ユリウスの胸を静かに打った。
わかっていたことのはずなのに、こうして本人の口から聞くと、傷になる。あまりにも静かに、あまりにも当然のように、契約の範囲だけをきっちり示される。ラドゥは嘘を言わない。情を装いもしない。だから、余計に痛い。
セヴランが答えるまで、少し間があった。
「不足はさせない」
その言葉をなぞるように、セヴランは低く繰り返す。
「あなたは本当に、そういう言い方をする」
「事実だ」
「事実の言い方にも、いくらか種類はあるでしょう」
セヴランの声は相変わらず穏やかだった。穏やかなのに、そこへ初めて、ほんの微かな不快の色が滲んだのがわかった。強くはない。声を荒らげるわけでもない。ただ、整いすぎた水面に針先だけ落としたみたいな、小さく鋭い違和感。
ラドゥが短く息を吐く。
「私が何を言っても、君には気に入らないのだろう」
「言い方の問題だと申し上げています」
「本質は同じだ」
「本質を語るならなおさらです。あなたはあの方を、契約書の余白に押し込めるような言い方をしている」
ユリウスは思わず、壁へ預けた指先に力を入れた。
契約書の余白。
そんなふうに思われていたのか、ではなく、そんなふうに表現するのか、と思った。セヴランはひどく正確で、ひどく意地が悪い。ラドゥの中にある無関心を、そのまま一番刺さる言葉へ変えてしまう。
「駒として迎えたわけではない」
ラドゥの声は少しだけ低くなった。
「だが、契約の一環であるのは事実だ」
「そこへ異論はありません」
セヴランはすぐに返す。
「私は恋愛ごっこをしろと言っているわけではない。だが、あの方を“家同士の帳尻合わせ”として扱うような響きには、さすがに不快です」
不快。
その単語がはっきり落ちた瞬間、ユリウスは息を止めた。
セヴランが不快だと口にする。しかも、自分の扱いについて。
なぜ。
胸の奥がひやりとする。ありがたいと思うより先に、落ち着かなかった。自分の夫になる男が淡々と契約の範囲を口にし、その友人のほうがそれに不快を覚えている。この構図そのものが、ひどく歪んでいる。
「君は妙に肩入れする」
ラドゥがそう言う。責めているわけではない。事実確認のような声音だ。
「昔から、必要のないところで感情を挟む癖がある」
「必要がないとは思いません」
「なぜだ」
その問いに、今度はセヴランが黙る番だった。
しばらく沈黙が続く。暖炉の薪がぱち、と小さく爆ぜる音だけが、扉の隙間から漏れた。
ユリウスはその沈黙のあいだ、自分の呼吸の音が大きくならないよう気をつけた。聞いてはいけない。もう十分聞いてしまった。なのに、今ここで離れることもできない。離れれば足音がする。気づかれる。その場をやり過ごしたい気持ちと、続きを知りたい気持ちが混ざって、身体が動かない。
「……私は」
ようやく落ちたセヴランの声は、先ほどより低かった。
「あなたほど割り切れないだけです」
それだけだった。
曖昧な答え。けれど、その曖昧さがかえって厄介だった。割り切れない。何を。婚姻をか。ユリウスをか。兄との過去をか。答えは示されないまま、意味だけがいくつも枝を伸ばす。
ラドゥはそれ以上追及しなかった。代わりに、グラスを卓へ戻す音がする。
「割り切れないまま見続けるのは、君の勝手だ」
その静かな言い方に、ユリウスは胸の内で小さく息を呑んだ。
見続ける。
ラドゥも気づいているのだ。セヴランが自分を見ていることに。気づいていて、止めもしない。止める理由がないからか。あるいは、止めるほどのものではないと思っているからか。どちらにしても、その当然さが苦しかった。
「だが婚礼そのものは予定通り進む」
ラドゥは続ける。
「私は当主として必要な役目を果たす。それ以上でも、それ以下でもない」
「そうでしょうね」
セヴランの返答には、かすかな冷たさが混じった。
「あなたは、そういう人だ」
「失望したように聞こえる」
「していません」
「なら何だ」
少しだけ間があく。
そしてセヴランは、静かに言った。
「ただ、あの方にあなたを期待させるなと思っているだけです」
その言葉が、今度こそユリウスの胸に深く落ちた。
期待させるな。
ラドゥが自分に期待を持たせているとは、正直思わない。むしろ逆だ。最初から彼は一貫していた。礼を尽くす。必要なものは与える。だが、それ以上は約束しない。その線を崩さない。
なのに、セヴランはそんなラドゥよりも、自分がどこで何を期待しうるかを気にしているように聞こえる。
それが、ひどくおかしい。
おかしいのに、心のどこかがその歪さにひどく敏感に反応してしまう。夫になる男より、客人のほうが自分を見ている。花婿である自分の体調、食事、傷跡、表情、期待の揺れまで、その友人が拾っている。
惨めだ、とまず思った。
そんな自分を認めるのが嫌で、次に苛立ちが来た。
ラドゥにではない。セヴランにでもない。どうしてこんな構図の中に自分がいるのか、そのこと自体へ向かう苛立ちだ。
「それで?」
ラドゥが低く問う。
「君は何をしたい」
「何もしません」
セヴランの答えは早かった。
「婚礼は進む。あなたの言う通りに」
「では十分だ」
「十分ではないと思っても、手出しはしません」
そこまで聞いた時、ユリウスの足元で床板がほんのわずかに鳴った。
凍った湖面に爪先で触れた時みたいな、ごく小さな軋みだった。だが、この静けさの中では十分すぎる音だ。
しまった、と思った瞬間には遅い。
客間の中で、会話が途切れた。
沈黙。
それまでとは質の違う、鋭い沈黙だった。聞かれたかどうかを測るような、音を探る静けさ。ユリウスは呼吸まで止める。だが心臓の音だけはどうしようもなく速い。
扉の向こうで、椅子がわずかに擦れる音がした。誰かが立ったのだ。ラドゥか、セヴランか。たぶん後者だろうと、なぜか直感した。
数秒ののち、扉がさらに開く。
橙色の明かりが廊下へ広がった。
ユリウスは逃げることも、先に姿を見せることもできないまま、その場に立ち尽くしていた。
現れたのはやはりセヴランだった。
黒に近い夜着の上へ長い上着を羽織り、暖炉の火を背にして立つその姿は、昼間より輪郭が強く見えた。琥珀の瞳が一度だけ廊下を滑り、それからユリウスを見つけて止まる。
驚きは、ほとんど顔に出なかった。
ただ静かに、見つけた、という目だった。
ユリウスは何か言わなければと思った。通りかかっただけだと。偶然聞こえてしまっただけだと。けれど喉は乾いて、うまく声が出ない。自分の夫になる男の本音を、その友人の不快を、その全部を聞いてしまったあとでは、何を言っても白々しい気がした。
セヴランは扉のところで足を止めたまま、低い声で言う。
「聞いていたのか」
問いは短かった。
責める響きも、咎める響きも、表面にはない。なのに、その静けさのせいでかえって逃げ場がなかった。
ユリウスは答えられないまま、ただその琥珀色の瞳を見返した。客間の中ではまだ暖炉が燃えている。ラドゥの気配も、その奥にあるのだろう。扉の隙間から流れてくる暖かい空気が、廊下の冷えた空気と混ざり合う。
その境目に立たされたまま、ユリウスは初めて、自分が本当にどこにも属していないのかもしれないと思った。
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