離縁書を渡した翌日、旦那様が記憶を失いました

なつめ

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第7話 忘れな草の温室


 午後の終わりに近づくころ、屋敷の空気は少しだけ緩む。

 朝の忙しなさが去り、昼の静けさにも慣れた使用人たちの足音が、また別の規則正しさで廊下を行き交う時間だ。厨房では夕食の下準備が始まり、庭では庭師が日暮れまでに済ませるべき手入れを急ぎ、執務棟のほうでは書類の束を抱えた若い書記が小走りになる。どこを見てもいつもと同じように人が働いている。なのにセルフィーネには、その「いつも」が、ここ数日ずっと別の音を混ぜて聞こえていた。

 記憶を失った夫。

 離縁を取り消さないと、改めて口にした自分。

 そして、それを受け止めたうえで、なお「理由ごと知りたい」と言ったオルドレンの声。

 どれも胸の内側でまだ冷めきらず、少し動くだけで疼いた。

 セルフィーネは自室の窓辺に立ち、白く乾いた冬空を見上げていた。朝ほど強くはないが、今日もよく晴れている。庭の芝には薄く湿り気が残り、枝先にひっかかった水滴が傾き始めた陽を受けて細く光っていた。風は冷たい。だが凍えるほどではない。ただ、長く当たっていれば指先から感覚を奪っていく種類の冷たさだ。

 こんな日は、屋敷の中にいたほうがよほど暖かい。

 分かっている。なのに、今日はどうしても壁と天井に囲まれた空気が苦しかった。どの部屋にいても、記憶を失ったオルドレンの視線や声が残っている気がする。暖炉のそばで茶を飲んでも、帳簿を開いても、ページの向こうに彼の「なら、君が離れたいと思った理由ごと知りたい」が浮かび上がる。

 理由ごと知りたい。

 理解しようとする、その静かな姿勢が、前よりずっと残酷だった。

「奥様」

 ミレナが扉のそばで呼ぶ。

「お加減が悪いようでしたら、少しお休みになっては」

「いいえ」

 セルフィーネは振り返り、薄く首を振った。

「少し、外を歩いてくるわ」

 ミレナの眉がわずかに寄る。冬の庭へ主人をひとりで出すことにためらいがあるのだろう。けれどセルフィーネは続けた。

「遠くへは行かない。温室のほうまで」

「温室、でございますか」

 その言い方が、ごくわずかに引っかかった。セルフィーネはショールを肩へかけながら問い返す。

「何かおかしい?」

「いえ……」

 ミレナは少しだけ視線を伏せる。

「西の温室は、長らく使われておりませんでしたので」

 西の温室。

 その言葉に、セルフィーネの胸の奥が小さく揺れる。

 公爵邸の庭には温室が二つある。一つは普段から薬草や季節外れの花を育てるために使われている実用の大温室。もう一つが、西の庭の奥にひっそり建つ、小ぶりで装飾の多い古い温室だ。こちらへ嫁いできた当初、セルフィーネは何度かその存在に気づいていた。けれどいつも扉は閉ざされ、手入れの形跡はあっても、人が出入りする気配はなかった。

 何のための場所なのか、深く考えたことはない。

 考えようともしなかったのかもしれない。結婚後のオルドレンにとって自分は、屋敷の奥の隅々まで興味を持ってほしい相手ではないと、早いうちに悟ってしまったから。

「少しだけ見てくるわ」

「でしたら、足元にお気をつけください。芝にまだ湿りがございます」

「ええ」

 厚手の靴を履き、外套の前を閉じる。ドアを開けて廊下へ出ると、屋敷の中の空気は外より暖かいのに、なぜか背筋に沿って細い冷たさが走った。これから向かう場所が、ずっと見ないふりをしてきた場所だからかもしれない。

 庭へ出ると、風が頬を撫でた。

 石畳の通路はよく乾いている。だが脇の芝はまだ朝の湿気を抱えていて、踏み込めば靴の底が冷たく濡れそうだった。セルフィーネは手袋越しにショールの端を押さえ、西へ向かって歩く。庭木は冬枯れの色をしているが、その枝ぶりはよく整えられていて、公爵邸の庭師たちの腕のよさが分かる。低木のあいだには早咲きの蕾が少しずつ膨らみ始めていた。まだ色を持つには早い。けれど堅く閉じた芽の内側に、たしかに次の季節がある。

 西の温室は、主庭から少し外れた場所に建っていた。

 古い煉瓦と白い鉄骨で組まれた小さな建物だ。大温室に比べればずっと小ぶりで、むしろ庭園の東屋に近い印象がある。硝子の面には冬の陽が斜めに反射し、周囲の裸木をゆらゆら映していた。近づくと、扉は半ば開いている。誰かが換気でもしたのか、内側の空気がほんのり外へ流れ出していた。冷たさの中に、わずかな土と葉の匂いが混じっている。

 セルフィーネは足を止める。

 ここへ来たのは、たぶん初めてだった。

 三年間、この屋敷で暮らしていて、一度も入らなかった。いや、入ろうとしたことすらなかった。閉ざされているものへ手を伸ばすことを、いつのまにかやめてしまっていたからだ。閉じられた扉、向けられない視線、答えの返らない沈黙。そういうものの前で、いちいち傷つかないようにする術として。

 けれど今日、どうしてここへ足が向いたのか、セルフィーネ自身にもはっきりとは分からない。ただ、屋敷の中で息をするのが苦しくて、何か別の場所へ行きたかった。その先がたまたま、この温室だっただけだ。

 扉へ手をかける。

 金具はよく磨かれていて、冷たいが滑らかだった。押し開けると、蝶番が小さく鳴る。中から流れてきた空気は、外よりもずっと柔らかい。暖炉のようなはっきりした熱はない。だが硝子越しの光にあたためられた空気と、土が抱えるぬくもりが混ざり合って、冬の外気とは違うやさしい温度を作っていた。

 セルフィーネは一歩、中へ入る。

 その瞬間、胸の奥が、何かにそっと触れられたように震えた。

 広さは思ったほどない。けれど置かれたものの一つ一つが、ただ花を育てるためだけではなく、誰かがここで過ごすことを想定して整えられているのが分かった。窓際には背の低い長椅子。編み込み細工の小卓。壁際の棚には素焼きの鉢が並び、その間に小さな剪定鋏や手入れ用の刷毛が几帳面に納められている。北風の当たりやすい側の硝子には、内側から厚めの布が引けるようになっていた。さらに隅には、小さな鋳鉄のストーブまで置かれている。いま火は入っていないが、必要ならこの空間だけをさらに温められるのだろう。

 誰かが、寒さを嫌う人のために考えた空間だった。

 その直感は、あまりにも自然にセルフィーネの胸へ落ちた。

 そして次の瞬間、彼女の視線は棚の一角で止まる。

 そこには、青い小さな花をつけた鉢がいくつも、丁寧に間隔をあけて置かれていた。

 忘れな草。

 小さく、淡い青。中心だけが少しだけ黄色く、繊細な花弁が薄い光を受けている。花そのものに強い香りはない。ただ土と葉の湿った匂いの中に、その青だけがやけに静かに、けれどはっきりと目に入ってくる。

 セルフィーネは吸い寄せられるように近づいた。

 婚約時代、一度だけ、花宴の帰りにそんな話をしたことがある。大輪の薔薇や百合より、名もない野の花みたいな、小さな花が好きだと。その中でも忘れな草は特に好きだと。風に揺れても目立ちすぎず、それでも群れればちゃんと青い波になるところが好きだと、たしか笑いながら言ったのだ。

 オルドレンはその時、すぐには何も言わなかった。ただ隣を歩いたまま、短く「そうか」とだけ返した。

 それだけだった。

 それなのに、どうして。

「奥様」

 背後で低い声がした。

 振り返ると、庭師頭のバルドが入口のところで帽子を胸に抱えて立っていた。白髪の混じった逞しい男で、セルフィーネがこの屋敷へ嫁いだころから、変わらず庭全体を取り仕切っている人物だ。

「失礼いたしました。まさか奥様がこちらへおいでになるとは」

「換気をしていたのね」

「はい。今日は陽がよろしいので、少しだけ空気を入れ替えておりました」

 バルドの視線が、セルフィーネの立つ場所、つまり忘れな草の鉢のあたりへ向く。何かを言うべきか迷うような、そんな一瞬があった。

「この温室」

 セルフィーネは花から目を離せないまま言う。

「ずっと使われていなかったでしょう」

「ええ……そのように見えたかと存じます」

「見えた、というのは」

 バルドは少しだけ首を垂れた。

「手入れは続けておりました。旦那様のご指示で」

 セルフィーネは、ようやく彼を見る。

「オルドレン様の?」

「はい」

 庭師頭の声は、飾り気がないぶん、かえって真実味を帯びる。

「もとは婚約のころでございました。西の古い温室を改修しろと、旦那様ご自身がお命じになって。風の当たりを弱くして、冬でも長く日が入るように椅子の位置を変えて、寒さを和らげるための小さなストーブも入れろと」

 セルフィーネは何も言えなかった。

 バルドは、戸惑いながらも続ける。

「侯爵令嬢様は寒い場所をお嫌いだろう、と。けれど外の花を見るのはお好きらしいから、冬でも無理なく過ごせる場所にしろと、細かく」

 胸の奥で、何かが静かに軋んだ。

 寒い場所を嫌う。

 それを彼は知っていた。知っていて、こんな空間を整えようとしていた。

 セルフィーネはゆっくりと温室の中を見回す。長椅子の張地は厚く、座れば冷たさが伝わりにくいよう工夫されている。小卓の位置は、午後の光が差し込む角度に合わせて置かれている。硝子の継ぎ目には新しい気密材が入れられていて、外気が直接吹き込まないようになっていた。

 全部、自分のために?

 そう問い返したくなる。けれど、今ここにあるものが、その問いへの答えだった。

「忘れな草も」

 セルフィーネの声はひどく小さくなった。

「旦那様が?」

「ええ」

 バルドは頷く。

「青い小さな花がよいと。香りの強すぎないものを、とも。奥様がお好きだと、たしかにそうおっしゃっておられました」

 香りの強すぎないもの。

 その言葉の重みが、胸のどこかへ沈む。

 小さな記憶だ。だが、それだけに誤魔化せない。見ていなければ、覚えていなければ出てこない言葉ばかりだ。

「では、どうして」

 セルフィーネはそこまで言って、口を閉じた。

 どうして結婚してから、一度もここへ来なかったのですか。

 どうして私をこの場所へ案内しなかったのですか。

 どうして、こんなふうに準備してくれていたのに、あの三年間は何もなかったのですか。

 答えを知るはずの人は、いま記憶を失っている。庭師頭に問うても仕方がない。

 バルドはセルフィーネの沈黙の意味を、完全には分からなくても、何か感じたのだろう。帽子を握る手に少し力が入る。

「旦那様は、改修の指示の後、花の植え替えの時期まで細かく気にしておられました。ですが……ご結婚の後しばらくしてからは、一度もこちらへ足を運ばれませんでした。ただ」

「ただ?」

「『ここはこのままにしておけ』と。それだけは毎年、冬の前に確認されておりました」

 セルフィーネは目を見開いた。

 使わないのに。

 来ないのに。

 それでも、この場所だけはそのままに、と。

 胸がひどく痛い。

 全部捨てられていたほうがよかった。壊されていたほうが、まだ諦めがついたかもしれない。なのに、使われないまま残されていたことが、かえって婚約時代の優しさの証拠になってしまう。

「……ありがとう、バルド」

 どうにかそう言うと、庭師頭は深く頭を下げた。

「ご用がございましたら、お呼びください。しばらく外で控えております」

 彼が扉を閉めて出ていくと、温室の中は急に静かになった。

 外の風の音が硝子を通して柔らかく聞こえる。葉の擦れる気配。土の湿り気。どこかで小さく水滴が落ちる音。そういう細かなものばかりが耳に入る。

 セルフィーネは忘れな草の前へしゃがみ込んだ。

 花弁は薄く、小さい。触れればすぐに痛みそうなくらい繊細なのに、群れて咲くと意外なほど強い青になる。昔から好きだった。侯爵家の庭の片隅にも、乳母がこっそり植えてくれたことがある。誰にも見向きもされないような花が、春先に一面青く揺れるのを見るのが好きだった。

「……本当に」

 声がこぼれる。

「私のためだったの」

 もちろん、答える者はいない。

 ただ目の前の花だけが、静かに咲いている。

 セルフィーネはそっと鉢の縁へ指を触れた。素焼きの鉢は少しだけ冷たく、けれど土の表面は温室のぬくもりを含んでいた。その感触に、なぜだか急に胸が詰まる。

 婚約時代のオルドレンは、たしかにいたのだ。

 自分の好きな花を覚え、寒さを嫌うことを知り、冬でも無理なく花が見られる場所を整えようとした人が。結婚した途端に消えてしまったように見えても、その人はたしかに存在していた。その証拠が、いまこの温室のあちこちに残っている。

 それがうれしいのか、悲しいのか、セルフィーネにはもう分からなかった。

 足音がしたのは、その時だった。

 ひどくゆっくりした、慎重な足音だった。使用人の軽さでも、庭師の慣れた重さでもない。聞き覚えがあった。振り返る前に、胸が先に反応する。

 入口の扉が開き、冷たい外気がひと筋だけ入り込む。

「……やはり、ここにいたか」

 低い声。

 セルフィーネは立ち上がろうとして、少しだけよろめいた。感情が先に立ちすぎて、膝に力が入らなかったのだ。すぐに椅子の背へ手をついて体勢を整える。

 オルドレンが立っていた。

 外套を羽織り、首元には濃い色のマフラーを巻いている。額の白い包帯はまだ痛々しい。完全な外出支度ではない。医師に許された「少しの散歩」に無理やり意味を足したような格好だった。後ろに若い侍従が一人ついていたが、オルドレンは扉のところで待つよう目で指示し、そのまま一人で中へ入ってくる。

「どうして」

 セルフィーネは思わず問う。

「歩いてきたのですか」

「少しだけなら、と侍医が」

 オルドレンはそう言ってから、セルフィーネの顔を見た。すぐに、その視線が彼女の頬のあたりで止まる。泣いてはいない。まだ。けれど目元が熱を持っていたのだろう。

「……泣いていたのか」

「いいえ」

 反射的に否定する。けれど声が少し掠れてしまった。

 オルドレンは追及しなかった。ただ、その代わりに温室の中をゆっくり見回す。長椅子、小卓、棚の鉢、厚い布の引かれた窓際、隅の小さなストーブ。そうして視線が忘れな草の並ぶ棚へ届いた時、その表情がわずかに変わった。

「ここは」

 彼は独り言のように呟く。

「西の温室……だったな」

 セルフィーネは黙っている。

 オルドレンはさらに数歩進み、近くの長椅子へ指先を触れた。木の手触りを確かめるみたいに、ゆっくりと。青灰色の瞳が、何か遠いものを追うように細められる。

「冬でも、使えるように」

 低い声が落ちる。

「改修を」

 そこで一度、彼は額の奥に痛みが走ったように眉を寄せた。記憶を無理に辿ろうとすると、まだ頭に響くのだろう。セルフィーネは思わず一歩踏み出しかけたが、彼は軽く手を上げて制した。

「大丈夫だ」

 それから、忘れな草へ視線を向ける。

「君が寒い場所を嫌うから」

 あまりにも当然のような声音だった。

 セルフィーネは、その一言で呼吸を失った。

 君が寒い場所を嫌うから。

 ただそれだけ。

 愛しているとも、会いたかったとも言わない。けれどその一言に、この温室の理由がすべて入っていた。冬でも無理なく花が見られるように、風を避け、日を集め、温度を保つ。その全部が、「君が寒い場所を嫌うから」という、あまりに自然な動機から生まれていたのだと分かってしまう。

「……覚えているんですか」

 どうにか絞り出した声は、ひどく弱かった。

 オルドレンは少しだけ困ったように眉を寄せる。

「覚えている、というほどはっきりではない」

 そう言いながらも、彼の目は温室の中を迷いなく辿っていた。

「だが、ここへ入った途端、分かった。君が寒さを嫌うこと。外の花は好きだが、冷たい風に長く当たるのは苦手だったこと。だから、冬でも君が安心していられる場所を作ろうと……たぶん、私はそう思った」

 セルフィーネはもう何も言えない。

 彼は思い出しているのではない。もっと手前の、体の深いところに染みついた感覚のように、それを口にしている。長い理屈ではなく、たしかにそこにあった行動の理由として。

「忘れな草も」

 オルドレンは花を見つめた。

「君が好きだと言っていた」

「一度だけです」

 セルフィーネはひどく小さな声で言う。

「花宴の帰りに、少し話しただけ」

「それでも、好きだと言っただろう」

 その返事が、ひどく痛い。

 一度だけ口にした好みを、彼は拾って、覚えて、こうして形にした。なのに結婚してからの彼は、まるでそんな会話自体なかったように振る舞った。どちらが本当なのか、もう分からなくなるほどだ。

「どうして」

 セルフィーネの唇から、今度こそ言葉がこぼれた。

「どうして、ここまでしておいて……」

 その先が続かない。

 どうして結婚したあと、一度も連れてきてくれなかったのですか。

 どうしてこんなに優しい場所を用意しておきながら、三年間、私を凍えさせたのですか。

 問いは喉までせり上がる。だがそれを言ってしまえば、目の前の彼へ、昨日までの彼の罪をそのまま浴びせることになる。セルフィーネは唇をきつく結び、視線を落とした。

 オルドレンは、沈黙の続きを無理に奪わなかった。

 代わりに、少しだけ苦しそうに息を吐く。

「私には、そこから先が分からない」

 低い声が、温室の柔らかな空気に沈む。

「だが、ここを見れば、少なくとも婚約のころの私は、君をそう扱いたかったのだろう。大事にしたかったのだろう。……それだけは分かる」

 その一言が、ついにセルフィーネの胸の堤を壊した。

 大事にしたかった。

 その気持ちが本当にあったのだと、言葉より雄弁にこの温室が証明している。整えられた椅子も、風を避ける布も、暖を取る小さなストーブも、丁寧に置かれた忘れな草も、全部そうだった。

 なのに、その未来で自分は大事にされなかった。

 その断絶の深さに、もう声が出ない。

 セルフィーネは俯いたまま、両手でショールの端を掴んだ。指先に力を込めても、震えは止まらない。喉の奥が熱く、目の奥がじんじんと痛い。泣きたくない。少なくとも彼の前では。そう思うのに、温室の中のぬくもりと、忘れな草の青と、「君が寒い場所を嫌うから」というあまりに自然な言葉が、全部一緒になって心を押し崩してくる。

「セルフィーネ」

 オルドレンの声がした。

 近づいてはこない。手を伸ばしてもこない。ただ、名前を呼ぶだけだ。その距離の保ち方が、かえって優しくてつらい。

 セルフィーネは首を振る。

「見ないでください」

 声はもう、自分でも驚くほど細かった。

「今……」

 その続きは言葉にならなかった。

 だめだ。

 そう思った瞬間、熱いものが頬を伝った。ひと筋だけではなかった。目を閉じる間もなく、静かに、次々と溢れてくる。泣き声は出ない。ただ涙だけが落ちていく。温室のあたたかな空気の中で、頬を滑るそれだけがやけに冷たかった。

 三年間、一度も入ることのなかった温室で。

 婚約時代の彼が自分のために整えようとしていた空間の真ん中で。

 セルフィーネは声もなく涙をこぼした。

 肩だけが小さく震える。唇をきつく結んでも、涙は止まらない。こんなふうに泣くつもりではなかった。まして彼の前で。けれど、忘れな草の青が目に痛いほどやさしくて、温室の空気が冬の外気から守るみたいにあたたかくて、全部が「あのころ確かに存在していた優しさ」を証明してしまうから、もうどうにもならなかった。

 オルドレンは何も言わない。

 それが救いでもあり、つらさでもあった。慰めの言葉をかけられていたら、まだ意地で泣き止めたかもしれない。けれど彼は沈黙を選ぶ。ただ少し離れた場所で、セルフィーネが泣くこと自体を止めずにいてくれる。その在り方が、なおさら胸に染みた。

 やがて、そっと布の擦れる音がする。

 顔を上げる気にはなれなかった。けれど次の瞬間、すぐ傍の小卓に、たたんだ白いハンカチが置かれたのが見えた。彼が無理に手へ握らせることもなく、ただ取りやすい場所へそっと置いただけだと分かる。

 セルフィーネはそれを見て、余計に涙がこぼれた。

 そういう優しさを、昔のあなたは確かに知っていたのだ。

 そして私は、その名残に今さら打ちのめされている。

 少し遅れて、オルドレンの低い声が落ちる。

「泣かせたいわけではなかった」

 セルフィーネは返事ができない。

 泣かせたいわけではないと、分かっている。だからこそつらいのだ。彼はたぶん本気で、自分がかつてどんなふうに彼女を見ていたのか、その証拠を追っているだけなのだろう。けれどその何気ない記憶の断片が、セルフィーネには刃になる。

「……ごめんなさい」

 ようやく声になったのは、そんな言葉だった。

 自分でもおかしいと思う。謝る必要などないのに。泣いているのは自分なのに。けれど、この静かな温室を涙で濡らしていることが、なぜか申し訳なくてたまらなかった。

「謝るのは私のほうだろう」

 オルドレンは静かに言う。

「ここを作ろうとして、君を連れて来なかったのなら」

 セルフィーネはぎゅっと目を閉じる。

 その通りだ。けれど、今の彼がそれを言うたび、昨日までの彼とのあいだにある断絶ばかりが鮮やかになる。

 忘れな草の鉢の青は、涙で滲んだ視界の中でもなお小さく揺れていた。

 温室の中は、外よりずっと暖かいはずだった。

 なのにセルフィーネの胸の奥だけは、どうしようもなく痛くて、冷たくて、それでいて確かに何かが融けていくようでもあった。


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