離縁書を渡した翌日、旦那様が記憶を失いました

なつめ

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第15話 届かなかった手紙


 午後の光は弱く、窓の外の庭はまるで薄い硝子越しに見ているみたいに色を失っていた。

 昨夜まで降っていた氷雨の名残で、芝も石畳もまだ濡れている。雲は低く、空は銀でも鉛でもない曖昧な灰色だった。暖炉の火が入っていても、屋敷の奥まった部屋にはどうしても冷えが残る。紙をめくる指先だけ、先に温度を失っていくような、そんな日だった。

 セルフィーネは私室に隣接した小さな書き物部屋で、古い鍵束を指先で鳴らしていた。

 机の上には、数枚の書類と、二本の封蝋印、薄い革張りの帳面が並んでいる。その向こう側にはオルドレンが立っていた。部屋は広くない。二人と、控えているミレナが一人入るだけで、空気の密度が変わるくらいには。

 私室の中へ彼を招き入れることに、セルフィーネはまだ慣れない。

 結婚後の三年間で、彼がこの部屋へ自分の意思で足を踏み入れたことはほとんどなかったからだ。必要なことがあれば侍女を通して呼び出される。それが当たり前だった。だから今こうして、自分が日々手紙を書き、帳簿に目を通し、たまには一人で本を読んで過ごしてきた場所に彼が立っているだけで、どこか現実感が薄くなる。

「無理にとは言わない」

 オルドレンが低く言った。

「だが、侯爵家側へ出した書簡や、婚約期の手紙が残っているなら見せてほしい。印章や筆跡を確かめたい」

 セルフィーネは鍵束を握りしめたまま、小さく息を吐く。

 礼拝堂でレオニスの名前が明らかになってから、彼の動きはさらに早くなっていた。屋敷付きの書記官へ命じて、侯爵家との取引記録の整理を始めさせた。倉庫番や会計係の記録も取り寄せているらしい。だが帳簿や伝票だけでは足りない。偽造された自分の印章や名義があるなら、本物と照らし合わせる必要がある。そこまではセルフィーネにも分かる。

 分かるのに、胸の奥は重かった。

 古い手紙や書きかけの紙には、事実だけでなく、その時の自分の気配まで染みついているからだ。婚約期のセルフィーネはまだ、オルドレンに対して何かを期待していた。信じようとしていた。だからこそ、その頃の文字を今さら彼に見られることが、どうしようもなく落ち着かなかった。

「少し、お待ちください」

 そう答え、セルフィーネは机の脇の小さな抽斗へ膝をついた。

 磨かれた薔薇色の木肌。真鍮の鍵穴。嫁いでくる時に侯爵家から持ち込んだ、数少ない私物のひとつだ。もともとは母が使っていた机で、引き出しの一番奥にだけ、細い隠し箱が付いている。手紙や覚え書きなど、人目に触れたくないものをしまう場所として教わった。

 鍵を差し込み、ゆっくり回す。

 小さな音とともに錠が外れる。引き出しを開けると、乾いた紙とインクの匂いがふわりと立ちのぼった。そこには婚約期に受け取った書状の束や、未使用の便箋、古い花押見本帳、押し花を挟んだ栞などがきちんと収められている。時間のほうが先に封じ込められているみたいな匂いだった。

 セルフィーネは指先でリボンの結ばれた封書の束を取り出す。

 オルドレンから届いたものも何通か混じっていた。短い文面ばかりだ。今日の天候のこと、予定の確認、贈り物を送ったという連絡。あの人らしい簡潔さで、けれど要点の端々にだけ不器用な配慮がある。たとえば、寒さが厳しくなる前に使ってほしいと、あの毛皮を張った手袋を添えてきた時の短い一文とか。

 セルフィーネはそれらを見ないふりでまとめ、別の革紐で括られた侯爵家関係の書状束へ手を伸ばした。その時だった。

 引き出しの奥に置いたままの薄い板が、指先の圧でわずかにずれた。

 あ、とセルフィーネは思った。

 隠し箱だ。

 普段はほとんど触らない。触る理由もなかった。そこには見返す気になれないものだけが入っていると分かっていたからだ。

 けれど今日は、不意にそれが少し開いてしまった。

 中から、折りたたまれたままの一枚の便箋が滑り落ちる。

 床へ落ちるより先にセルフィーネは掴もうとした。だが焦った指先は紙の端をかすめただけで、便箋はふわりと机の脚元へ落ちる。

「大丈夫か」

 オルドレンの声がすぐ近くで落ちた。

「触らないでください」

 反射的に言った時には、もう遅かった。

 彼はセルフィーネのほうへ歩み寄り、床へ落ちた紙を拾い上げていた。ほんの数歩の距離なのに、セルフィーネにはやけに遠かった。立ち上がりかけて、けれどすぐには手が届かない。

 オルドレンの指先に挟まれた便箋は、封もされず、折り目のついたまま少し黄ばんでいる。表には何も書かれていない。だが裏返した瞬間、そこに筆で書かれた名前が見えた。

 **オルドレン様**

 その四文字を見た瞬間、セルフィーネの喉がぎゅっと縮んだ。

 忘れていたわけではない。むしろ、忘れられなかった。だから隠し箱の奥へ押し込み、二度と見ないつもりで蓋を閉めたのだ。

 婚約期に書きかけて、出せなかった手紙。

 あの日、どうしても伝えなくてはと思ったのに、最後まで書けず、結局封もできなかった紙。

 オルドレンはそれを見て、視線だけをセルフィーネへ向けた。問いかけるような、けれどすでに何かを感じ取っている顔だった。

「……見てもいいか」

 セルフィーネはすぐには答えられなかった。

 見せたくない。

 見せたくないに決まっている。

 そこに書いてあるのは、ただの事実ではない。あの頃の自分のためらいと、恐れと、オルドレンだけには誤解されたくないという気持ちが、そのままの形で残っている。出せなかったという事実そのものが、今の自分にはもう十分に恥ずかしい。

 けれど同時に、今これを見せなければ、彼はまた別の遠回りで過去を辿るだろう。その先で見つける断片より、この手紙のほうがまだ、あの日の自分に近い。

「……未完成です」

 やっとの思いでそう言う。

「それでも」

 オルドレンの声は静かだった。

「読ませてほしい」

 セルフィーネは目を閉じる。

 断ることはできた。私物です、と言えば済んだかもしれない。けれど言えなかった。ここまで来てしまって、なお彼にだけそれを隠し続けることが、かえって歪んで思えたからだ。

「……どうぞ」

 小さくそう言うと、オルドレンは机の傍へ戻った。セルフィーネは立ち上がったまま、ただそこにいるしかない。ミレナも何も言わず、少し離れた位置で息を潜めていた。

 紙が開かれる音がした。

 古い便箋の折り目が、乾いた小さな音を立てる。

 オルドレンの目が文字を追う。最初は淡々と、次第にゆっくりと。その変化が、セルフィーネにはよく分かった。読まれているのだ。あの日の自分の躊躇いが、いま彼の目の中へ流れ込んでいる。

 セルフィーネは思わず視線を逸らした。

 暖炉の火の揺れに目を向けながら、それでも耳だけは研ぎ澄まされる。紙を持つ指が少しだけ止まる気配。呼吸の間。そういう小さなものから、彼がどこを読んでいるのかまで分かってしまいそうだった。

 手紙は、こう始まっていた。

 **オルドレン様。**

 **突然このようなお手紙を差し上げる無礼をお許しください。ですが、どうしてもお伝えしたいことがあり、筆を取りました。**

 婚約中のセルフィーネらしい、少し堅く整えた書き出しだ。そこから先には、何度か書き直した跡が残っている。インクが薄く滲み、二重に引かれた線がある。思い切って書き始めたものの、どこまで言ってよいのか迷っていたのだろう。

 オルドレンがごく低く息を吐く。

 セルフィーネはそれでも顔を上げない。

 紙の上には、こう続いているはずだった。

 **先日、レオニス様より、実家の倉や帳面のことについてお尋ねを受けました。私は本当に何も存じ上げず、曖昧なお返事しかできませんでしたが、その後の父や家人の様子がどうにも落ち着きません。**

 **私の思い過ごしであればよいのですが、近ごろ父が私の名を使っていくつかの指図を通していたことを知りました。婚礼の支度にかこつけて、何か別のものまで動いているのではないかと、少し不安です。**

 **何も知らぬまま余計なことを書いているのであれば、ご容赦ください。ただ、レオニス様が何か危ないところへ踏み込んでおられるように見えて、どうしても胸騒ぎが収まりません。もしお会いできるなら、一度だけでもお話ししたく存じます。**

 そこまで書かれて、文は途切れている。

 最後の一行は半分ほどしか続いていなかった。

 **あなたにだけは、**

 その先は空白だ。

 何を書こうとしたのか、セルフィーネ自身にももう正確には思い出せない。ただ、その時の気持ちは分かる。あなたにだけは誤解されたくない、と書こうとしたのかもしれない。あるいは、あなたにだけは信じてほしい、と続けるつもりだったのかもしれない。

 どちらにしても、そこまでで止まっていた。

「……これを」

 長い沈黙のあと、オルドレンがようやく口を開く。

「君は書いたのか」

 セルフィーネは小さく頷く。

「レオニス様に訊かれた日の夜です」

「なぜ出さなかった」

 その問いは責めるものではなかった。むしろ、自分自身を責める前の確認みたいに聞こえた。

 セルフィーネはゆっくり息を吐く。

「途中で父に呼ばれました」

 そう言いながら、その夜のことが鮮やかに蘇る。

 部屋に戻ってすぐ、たまらず机に向かったこと。何をどう書けばいいか分からないまま、それでもレオニスの真剣な目が忘れられず、オルドレンへ知らせなければと思ったこと。けれど半分ほど書いたところで、父付きの執事が突然訪ねてきて、父が急ぎで呼んでいると言ったこと。

 あの夜の父は妙に機嫌が硬く、婚礼を前に余計なことは考えるなと、遠回しに、けれどはっきりと圧をかけてきた。セルフィーネは何も知らないと答えたが、父はその返答を信じていない目だった。どこでレオニスと会ったのか、何を話したのか、誰に何を聞かれたのか。静かな問い詰めだった。

 部屋へ戻った時には、もう手紙の続きを書く気力がなかった。

「そのあと」

 セルフィーネは視線を落としたまま言う。

「翌日には家の中の空気がもっとおかしくなって、書類や帳面がいくつも動いて……どうしたらいいのか分からなくなりました。完成させて出すべきだとは思ったんです。でも」

「でも?」

「レオニス様が亡くなったからです」

 その言葉で、部屋の空気がまた少し変わる。

 オルドレンの手が紙の端を強く持ちすぎて、わずかに音を立てた。セルフィーネはそれを聞きながら続ける。

「その後のあなたは、もう……この手紙を受け取ってくださるようなお顔ではありませんでした」

 まっすぐ言ったつもりだったが、最後は少しだけ声が掠れた。

 そうだ。出そうと思えば出せたのだ。封をして、侍従へ託すことはできた。だがレオニスの死後のオルドレンは、もう婚約中のあの人ではなかった。目が変わっていた。問いかけの前から疑っている目だった。あの目を見た後では、どんな言葉も「言い訳」としてしか読まれない気がしたのだ。

 オルドレンは何も言わない。

 セルフィーネは、耐えきれず少しだけ顔を上げた。

 彼は手紙から目を離せないでいた。まるで紙の上に、いままで見えなかった別の道が突然現れたみたいに。青灰色の瞳の奥に走る動揺は、これまで見たどれとも少し違う。痛みより前に、理解の地面そのものが揺らいでいる顔だった。

「君は」

 やがて彼が、ひどく低い声で言う。

「何も知らなかったどころか」

 そこで一度、息を止めるように言葉を切る。

「警告しようとしていたのか」

 セルフィーネは答えられなかった。

 警告、というほどのことだったのか、自分でも分からない。何も確かな証拠は持っていなかった。ただ父の様子がおかしいこと、自分の名が勝手に使われている気配があること、そしてレオニスが危うい場所へ足を踏み入れているようで怖かったこと。その全部を、オルドレンへだけは伝えたかった。

 それでも結果として、出せなかった。

 だから「していたのか」と過去形で問われるしかない。

「……そうかもしれません」

 セルフィーネは小さく言う。

「でも、届きませんでした」

 届かなかった。

 たったそれだけの事実が、なぜこんなにも重いのだろう。

 もし届いていたら、何か変わっただろうか。レオニスは助かっただろうか。オルドレンは自分を疑わなかっただろうか。結婚初日から別人みたいな目を向けられずに済んだだろうか。

 考えても仕方のないことばかりだ。だが、目の前でこの手紙を読んでいる彼の顔を見ると、その「もしも」が一斉に胸を叩き始める。

「私は」

 オルドレンがようやく視線を上げた。

 その目は、先ほどよりさらに暗い色をしていた。けれど冷たくはない。むしろ、自分が立っていた前提が崩れていくことへの痛みが、剥き出しでそこにあった。

「君が父の不正を知っていて隠していたと、そう思ったのだな」

 セルフィーネは唇をきつく閉じる。

「ええ」

「それどころか、君は知らせようとしていた」

「でも、出せませんでした」

「出せなかったのは、私のせいだ」

 セルフィーネは顔を上げる。

 オルドレンは手紙を見つめたまま、低く続けた。

「少なくとも、レオニスの死後の私は、君にそう思わせる顔をしていた」

 その声の静けさが、セルフィーネの胸へ沁みる。

 そうだ。父の圧もあった。家の中の不穏な空気もあった。だが最後の最後で手紙を封じられなかったのは、オルドレンの目が変わってしまったからだ。そこへ届く気がしなくなったからだ。

「婚礼の前に」

 セルフィーネは、半ば独り言みたいに呟く。

「一度だけでも、あなたに直接お会いできればと思ったんです。でもずっとお忙しくて……そのうち、もうそんなことを言える空気ではなくなって」

 オルドレンの喉が動く。

 彼はたぶん、その頃の自分を想像しているのだろう。弟の死の直後、証拠らしきものを前にして、婚約者へ冷たい目を向け始めていた自分を。そこへこの未完成の手紙が届いた可能性を。

「……歯車が」

 オルドレンが低く呟く。

「最初から、違うほうへ回っていたのか」

 セルフィーネは、その表現に胸が強く打たれた。

 歯車。

 たしかに、そういう感じがする。最初はほんの小さな食い違いだったのだろう。レオニスの死。父の不正。偽造された印章。誤った目撃談。そして出せなかった手紙。ひとつひとつは小さくても、噛み合い方を少し間違えただけで、すべてが別の方向へ回り始めてしまった。

「これを」

 オルドレンは手紙を持つ指先を少しだけ持ち上げる。

「ほかに知っている者は」

「いません」

 セルフィーネは首を振る。

「書きかけのまましまって、それきりです」

「君の父も知らない」

「見てはいないはずです」

 そう答えながらも、自信は完全ではない。父があの夜、自分を呼びつけたことを思えば、誰かが机を探った可能性もゼロではない。ただ少なくとも、この便箋そのものに触れられた形跡はなかった。隠し箱の奥へ押し込んだまま、今日まで誰にも見つからなかったのだから。

 オルドレンはそこまで聞くと、手紙をもう一度丁寧に見返した。

 インクの濃淡。書き直した跡。最後の途切れた一行。今まで見てきた帳簿や伝票と違い、そこには作為ではなく迷いが残っている。そういうものは、偽造ではなかなか再現できない。

「筆跡も」

 彼が言う。

「伝票のものとは違う」

 セルフィーネは目を瞬く。

「もう比べたのですか」

「午前中に、写しを」

 短く答える。たぶん彼は、礼拝堂のあとすぐにいくつかの偽造書類を取り寄せていたのだろう。仕事が早いというより、もう止まれないのだ。

「そちらは、もっと急いだ筆だ。君の癖とは違う。印章も、押し込み方が浅い」

 そこまで聞いて、セルフィーネは初めて、胸の奥にほんの小さな別の感情が灯るのを感じた。

 救い、ではない。

 だが、ずっと閉じたままだった窓のどこかに、かすかに隙間ができたような感覚だ。自分の潔白を証明してくれる、というほど単純ではない。それでも、彼が「彼女が怪しい」という前提で見るのではなく、「ここに別の真実があるかもしれない」と見始めている。それだけで、止まっていたものが少しだけ別の方向を向き始めた気がした。

「オルドレン様」

 セルフィーネは小さく呼ぶ。

 彼は視線を上げる。

「何だ」

「その手紙は……」

 返してほしい、と言うべきか迷う。

 こんなもの、ずっと隠していたかった。けれど今さら彼から取り上げてしまえば、何か大切な歯車をまた止めてしまう気もした。

 オルドレンは一瞬だけセルフィーネの迷いを見て、静かに答えた。

「預からせてほしい」

 やはりそう来るのだろうと思った。

「証拠として、ではない」

 彼は続ける。

「少なくとも、私が最初に踏み外した場所を示すものとして」

 セルフィーネは返す言葉がなかった。

 最初に踏み外した場所。

 それはたぶん、この手紙だけではない。だが確かに、ここには一つの分岐点が閉じ込められている。届かなかった警告。封じられた不安。誤解へ向かうしかなくなった沈黙。

「……どうぞ」

 ようやくそう言うと、オルドレンはごく小さく頷いた。

 それから、手紙を乱さぬよう丁寧に畳み直し、自分の内ポケットへしまう。その所作があまりにも慎重で、セルフィーネは胸がまた少し痛くなる。

 もし婚約期の彼にこの手紙が届いていたなら。

 そんなことを、考えないでいたいのに。

「セルフィーネ」

 オルドレンが名を呼ぶ。

「はい」

「君は、私へ知らせようとしていた」

 その確認の仕方は、先ほどとは違っていた。問いではなく、いまやっと確かめた事実を口にする声音だ。

「私は、それを受け取る前に君を疑った」

「……そうです」

「なら、前提から間違っていた」

 その一言が、部屋の空気を静かに変える。

 前提。

 たしかにそうだ。彼が「彼女は父の不正を知っていた」と置いた最初の前提そのものが、今、手紙一枚で揺らいでいる。まだ決定的ではない。けれど、その前提だけを支えにしていた歯車は、もう今までと同じ回り方はできないはずだ。

「これで」

 オルドレンは低く言う。

「別のところを見なければならなくなった」

 セルフィーネはその言葉を聞きながら、ようやくほんの少しだけ息を吐いた。

 別のところ。

 父の周囲で動いていた者たち。侯爵家の帳簿を扱える人間。セルフィーネの名義と印章を使えた者。レオニスと自分の接触を曲げて伝えた目撃談。そのどれもが、今までとは違う意味を持ちはじめる。

 止まっていた歯車が、少しずつ別の真実を見せ始める。

 そういう音を、セルフィーネは確かに聞いた気がした。

 まだ小さい。まだ怖い。けれど確実に、何かがずれたのだ。

「今日はもう」

 オルドレンが言う。

「これ以上はやめておこう」

 その言葉には、珍しく自制があった。もっと追及したいだろうに、ここで止めるべきだと分かっているのだろう。セルフィーネも、これ以上あの日の自分を掘り返したら、平静を保てる自信がなかった。

「……ええ」

 返すと、オルドレンは少しだけ目を細めた。

「ありがとう」

 またその言葉。

 けれど今回は、少しだけ違って聞こえた。重たいだけではない。前へ進むために必要なものを渡された人間の礼だ。

 セルフィーネはどう返していいか分からず、ただ小さく首を振ることしかできなかった。

 暖炉の火が静かに揺れている。外は相変わらず曇り空で、いつ雨が戻ってもおかしくない。けれど部屋の中では、さっきまでよりもほんの少しだけ、空気の流れが変わっていた。

 真実はまだ遠い。

 レオニスの死も、父の不正も、婚礼の日に壊れたものの理由も、まだ全部は見えていない。

 それでも、届かなかったこの一通が、止まっていた歯車に新しい動きを与えたことだけは確かだった。

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