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第4話 その席は、私のものではないらしい
その日の朝は、薄曇りだった。
空そのものは明るいのに、日差しには一枚、白い布でも掛けたようなやわらかな翳りがある。東庭に面した高窓から差し込む光も、いつものように床へくっきりとは落ちず、淡く広がって、磨き上げられた板の艶を鈍く照らしていた。春の半ばに入りかけた庭には白い小花がちらほら咲き始め、風に乗って湿った土の匂いが届く。けれど今日のエルミーヌには、その穏やかな景色を楽しむ余裕があまりなかった。
公爵家主催の小規模な茶会。
婚礼後、近しい貴族たちへ新しい公爵夫人を正式に披露する、最初の場だ。
規模としては大きくない。招かれるのは家と縁の深い数家、古くからの親しい女主人たち、その娘たち。王都の華やかな夜会とは違い、もっと近い距離で観察される集まりになる。笑い方、立ち居振る舞い、茶器の持ち方、会話の拾い方、誰にどの順で言葉を返すか。そういうものが、夜会よりもはっきり見られる。
公爵夫人として、最初に試される席。
だからエルミーヌは、ここ数日で一番早く身支度を始めていた。
「髪は上げすぎない方がよろしいでしょうか」
鏡台の後ろに立つミレナが、櫛を手に問いかける。
「ええ。今日は昼の茶会だもの。きっちりしすぎるより、少し柔らかい方がいいわ」
「では、後ろを低くまとめて、横にだけ少し流しますか」
「お願い」
鏡の中で、ミレナが頷く。年を重ねた手は迷いなく髪をすくい上げ、銀を帯びた蜂蜜色の髪を器用にまとめていく。耳元には小さな真珠の飾りだけ。首元には細い銀鎖に一粒だけ青味のある石を下げた。華美にしすぎてはならないが、新しい公爵夫人として軽すぎてもいけない。その塩梅を測るのは、婚礼衣装より難しい。
ドレスは淡い藤色を選んだ。白に近いほど薄い紫で、光の加減によっては灰みを帯びて見える。布地は軽く、胸元から袖口にかけてごく細かな銀糸の刺繍が走っている。主役でありながら、押しつけがましくない色。エルミーヌ自身が選んだものだった。
今日ばかりは、彼女にも少しだけ期待があった。
夫婦としての情ではない。
そういうものは、もう諦めている。
だが、少なくともこの席では、自分が公爵夫人であるという立場は明確に示されるはずだと思っていた。飾りであったとしても、飾る場所くらいは与えられるはずだと。そうでなければ、茶会を開く意味そのものが曖昧になる。
ヨアヒムが昨夜届けてきた招待客一覧も、夜のうちに何度も見返した。
ベルノワ伯爵夫人。やや保守的で、礼節に厳しい。
ファルネーズ子爵夫人。噂好きだが社交界では顔が広い。
ドレヴァン侯爵家の未亡人。物静かだが目が鋭い。
若い令嬢が二人。どちらも良縁のためにあらゆる場へ顔を出している年頃だ。
誰がどういう目で新しい公爵夫人を測るか、ある程度は予想がつく。だからこそ、最初に置かれる位置が重要だった。
「奥様」
ミレナが最後に髪飾りの角度を整えながら、小さく言った。
「本日は皆さま、奥様をお見になるためにいらっしゃるのでしょうね」
その言葉は気休めではなく、事実として告げられたように聞こえた。
エルミーヌは鏡の中の自分を見る。
控えめで、やわらかく、けれど新しい家の女主人として見劣りしない装い。少なくとも、そう見えるようには仕上がっている。
「そうだといいのだけれど」
微笑んで返した声は、自分で思っていたより静かだった。
居間に案内に来たのは若い侍従だった。茶会は南棟の陽光室で開かれるという。春先の昼の集まりに向いた、庭に面した明るい部屋だ。ヨアヒムではなく若い侍従が迎えに来たことに、エルミーヌはほんの少しだけ違和感を覚えたが、その時は深く考えなかった。
回廊を歩く。
窓の外では、曇り空の下でも庭師たちが動いていた。低木の剪定、鉢植えの入れ替え、水場の掃除。遠目にも分かる、春支度の忙しさ。屋敷の中もまたいつもより人の動きが多い。侍女たちは茶器や布を抱え、給仕役の少年たちは磨かれた銀盆を運んでいる。空気の中に、紅茶の乾いた香りと焼き菓子の甘い匂いが、早くも混じり始めていた。
陽光室へ近づくにつれ、細かな笑い声が聞こえた。客がまだ来る前の、準備の声だ。陶器の触れ合う軽い音。布の擦れる音。誰かが低く指示を出す声。
扉の前で侍従が一礼し、中へ通す。
その瞬間、エルミーヌはまず部屋の美しさに目を奪われた。
陽光室は名の通り、南面に大きく取られた窓から柔らかな昼の光をたっぷり取り込んでいた。今日は空が曇っているぶん、強い輝きではなく、白く拡散した明るさが部屋の隅々まで行き渡っている。窓辺には淡いクリーム色のカーテンが寄せられ、低い卓には白磁の茶器がずらりと並んでいた。花は白薔薇と淡い紫の小花。藤色のリボンで束ねられた小さな焼き菓子。銀の温器からは細く湯気が立ちのぼり、バターの香りがかすかに漂う。
そして、その中央に。
セヴランがいた。
今日の彼は深い藍色の上着を纏い、白銀の髪が曇り空の光を受けてひどく静かに見えた。絵画の中から抜け出したような端正さだ。その隣に、オディールが立っていた。
まるで最初から、そこが彼女の定位置であったかのように。
葡萄色に近い灰紫のドレス。装飾は控えめだが、上質な布地が身体の線を無理なくなぞり、首元には真珠を一連だけ。髪はきっちりと結い上げられ、横顔には無駄のない自信があった。彼女はセヴランへ何かを小声で確認し、彼が短く頷く。するとすぐに給仕の位置へ目を配り、卓の中央に置かれた花器の角度を直し、窓際の椅子を少しだけ引いた。
その一連の動作が、あまりにも自然だった。
自然すぎて、一瞬、エルミーヌの足が止まる。
誰も驚かない。
誰も戸惑わない。
部屋にいる侍女も給仕も、オディールがそこに立ち、セヴランの隣で準備をまとめていることを、まるで当然の風景として受け入れていた。
「エルミーヌ」
セヴランがこちらに気づき、いつもの対外用の微笑を浮かべる。
「ちょうどよかった。準備も整ったところだ」
「……そうですか」
返事はした。したが、声がほんの少しだけ遅れた気がした。
オディールが一歩下がり、折り目正しく礼をする。
「ご機嫌よう、奥様。本日の進行の細かな部分、僭越ながら私が調えておりました」
よく通る落ち着いた声だった。低すぎず、高すぎず、耳に心地よい。わずかな謝罪の形を取りながら、その実、何一つ揺らいでいない声音。
「ありがとう」
エルミーヌは笑みを作る。
「行き届いているのね」
「公爵様はこうした場を簡素にまとめられるのをお好みですので」
まるで長年の家内の事情を語るような言い方だった。
胸の奥で、何かがひやりと冷えた。
けれど、ここで顔色を変えるわけにはいかない。
セヴランは気づいているのか、いないのか分からない顔で言う。
「オディールはこうした内向きの集まりに慣れている。君も分からないことがあれば彼女に聞くといい」
「ええ」
エルミーヌは頷いた。
その一文字を発するだけで喉が少し張りつめたが、どうにか平らに保った。
客が来る前の短い時間、彼女に与えられた役割はほとんどなかった。椅子の位置も、茶器の順も、菓子の出す順番も、すでに決まっている。誰がどこに立つかも、もう空気の中で定まってしまっているようだった。エルミーヌは窓辺へ少し寄り、庭に面した位置へ置かれた椅子へ軽く手を触れる。
その時、給仕役の侍女が別の椅子を示して言った。
「奥様、こちらのお席へ」
示されたのは、部屋の中央からわずかに外れた位置だった。
主催者の夫人として不自然なほど端ではない。けれど、主役の席とも言いがたい。セヴランの正面や隣ではなく、少し斜めにずれた位置。卓全体を見渡せると言えば聞こえはいいが、中心から半歩退かされている席だ。
エルミーヌは一瞬だけ、その椅子を見た。
椅子の背には白い小花の飾りが結ばれている。見た目には丁寧に整えられている。だが、そういう問題ではない。
その席は、私のものではないらしい。
胸の中に、その言葉が静かに落ちた。
まだ茶会は始まってもいない。
それなのに、すでに何かが決まっている。
公爵の隣に自然に立つのはオディール。
屋敷の内側を把握し、給仕へ目配りし、進行の呼吸を知っているのも彼女。
そして、新しい公爵夫人である自分は、用意された笑顔のまま、その構図の外縁へ収まる役目を負う。
客の到着を告げる声がした。
次々と女たちが陽光室へ通される。ベルノワ伯爵夫人は濃紺の衣装に身を包み、厳格そうな目元で部屋を見回す。ファルネーズ子爵夫人は明るい茶色の髪を派手に結い上げ、入った瞬間から周囲を愉快そうに観察していた。侯爵未亡人は灰青色の上品な装いで、無駄のない礼をする。若い令嬢たちは、表面上は慎ましげでも、視線は油断なく動いていた。
セヴランが客を迎える。
エルミーヌも並ぶ。
オディールはその半歩後ろに控え、誰かが上着を預ければ侍女へ流し、席へ案内する目配りをする。
「本日はお招きいただき、光栄でございます、公爵様、公爵夫人様」
ベルノワ伯爵夫人が礼をする。
「ご足労いただき、ありがとうございます」
エルミーヌが微笑む。
礼の深さも、声の角度も間違えない。けれどその直後、ファルネーズ子爵夫人が目を細めてオディールへ言った。
「まあ、メルヴェさんもいらしたのね。あなたがおいでなら、今日のお茶は安心だわ」
気安い声音だった。
親しい相手へ向ける、慣れきった笑い方。
オディールは控えめに首を垂れる。
「もったいないお言葉でございます、子爵夫人。今日は奥様のお披露目の席ですから、私は裏方に徹しますわ」
言葉の上では一歩引いている。
けれど、その場にいる誰ひとりとして、彼女が裏方だとは思っていないのが分かる。
「そう言いながら、いつも結局あなたが細やかにまとめてくださるのだもの」
子爵夫人は楽しそうに笑った。
その会話の横で、エルミーヌは笑みを崩さない。
頬の筋肉が少しだけ張るのが分かる。それでも崩さない。
茶会は始まった。
銀のポットから琥珀色の茶が注がれる。湯気とともに、よく蒸らされた茶葉の深い香りが広がる。焼き菓子の甘さ、レモンの薄い酸味、花の匂い。陽光室の空気は柔らかく、春らしい華やぎに満ちている。けれどエルミーヌの内側には、そのどれとも合わない細い痛みがあった。
会話の流れは滑らかだった。
「奥様は王都の春は初めてでいらっしゃいますの?」
「ええ。実家ではもう少し風が強くて、花も遅いのです。こちらは庭の色づきが早くて、毎朝違って見えます」
「まあ、なんて素敵な表現」
「ではお庭歩きもお好きかしら」
「好きです。ただ、まだ全部は覚えきれておりませんけれど」
質問に答え、相手へ返し、別の話題へつなぐ。エルミーヌはきちんとやれていた。むしろ、できすぎるほどだった。誰の言葉も落とさず、笑いどころでは笑い、無礼には無礼を返さない。新しい公爵夫人として求められる最低限以上の振る舞いを、十分に果たしていた。
それでも。
会話の中心にある小さな重心は、自分のところへ落ちてこない。
「メルヴェさん、今日の焼き菓子は新しい方の料理人かしら」
「はい、先月から入った者が生地を任されております」
「やっぱり。少し軽くなったと思ったの」
「奥様は甘いものはお好きですの?」
「それほど多くは召し上がりませんのよ、公爵様は」
そう答えるのはオディールだ。
セヴランの好みを、まるで当然のように知っている声で。
客たちもまた、それを不思議と思わない。
ベルノワ伯爵夫人などは、むしろ安心したように頷いていた。
「昔からそうでしたものね。変わらないのね、公爵様は」
「ええ」
セヴランは淡く微笑むだけ。
その横顔を見ながら、エルミーヌは初めてはっきり理解した。
これはただ冷たい結婚なのではない。
すでに、この家には「公爵の傍らにいる女」として、別の者が自然に存在しているのだ。
愛人と断じられるような露骨さではない。
だが、もっと始末が悪い。
長年の信頼、慣れ、家内の事情を共有する親しさ。それらが積み重なってできた、半ば公認の配置。
そこへ新しくやってきた妻である自分は、制度上は主役でも、空気の上では後から差し込まれた存在にすぎない。
その事実が、茶の香りよりも苦く舌に残る。
「奥様」
若い令嬢の一人が、きらきらした目で訊ねる。
「公爵家での暮らしは、やはり毎日が華やかでいらっしゃるのでしょうね」
悪意の薄い、しかし無邪気な質問だった。若さとは時に残酷だ。
エルミーヌはカップをソーサーへ戻す。磁器同士が小さく澄んだ音を立てる。
「華やか、というより、皆さまがよく支えてくださるので毎日勉強ばかりです」
「まあ、そんなふうにおっしゃるなんて」
「本当よ。私はまだ知らないことばかりだもの」
そう答えた瞬間、オディールが補うように言った。
「奥様はとても聡明でいらっしゃいますから、すぐに慣れてくださると思いますわ。屋敷の中でも皆、そのように申しております」
にこやかだ。
非の打ちどころがない。
けれど、その一言の奥にあるものを、エルミーヌは感じ取ってしまう。皆がそう申しております。つまり、彼女はすでに屋敷の内側の声を集め、それを代表して語る立ち位置にあるということだ。新しい公爵夫人へ向ける言葉すら、彼女を通して出てくる。
「それは心強いわ」
エルミーヌは笑った。
「でも、私が早く慣れるためにも、どうぞ皆さま、いろいろ教えてくださいませ」
そう言って、わざとベルノワ伯爵夫人の方へ視線を向ける。
「伯爵夫人の薔薇園のお話、先ほど少しうかがって気になっておりましたの。こちらの庭も美しいですが、土の質が違えば手の入れ方も変わるのでしょう?」
話題がすっと移る。
ベルノワ伯爵夫人は庭の話なら乗らざるを得ない。彼女はすぐに背筋を伸ばし、自領の土壌と剪定の時期について語り始めた。若い令嬢たちも興味深そうに耳を傾ける。
よかった、とエルミーヌは心の内で静かに息をつく。
自分が崩れれば、今日この場は「新しい公爵夫人が気後れした席」として記憶されるだろう。
それだけは嫌だった。
だから拾う。
会話を。
空気を。
落ちそうになる自分の立場も。
茶会の半ば、子爵夫人がわざとらしく扇を口元へ寄せた。
「それにしても、ディルヴェル公爵家は本当にお変わりなくて安心しますわ。茶会のまとまり方も昔と同じ。ねえ、伯爵夫人」
「そうですわね」
ベルノワ伯爵夫人が、慎重に頷く。
「よく整っております」
昔と同じ。
その言葉が、ぬるい針のように刺さった。
つまり、妻が変わっても家の内側の景色は変わらない、と言っているのと同じだ。いや、もっと露骨かもしれない。新しい夫人が来ようと、実質を担う顔ぶれは同じだと。
ファルネーズ子爵夫人の目が、楽しげに細められる。
「新しい方がいらしても、こうして違和感がないのは素晴らしいことですわね」
それは賛辞の形をした侮辱だった。
客たちの中に、空気が一瞬だけ固まる。
若い令嬢たちでさえ、少しだけ視線を泳がせた。言い過ぎだと分かっているのだろう。だが誰も止めない。止める必要があるほど露骨ではなく、聞き流せる程度の悪意だからだ。
エルミーヌは、自分の指先が冷たくなるのを感じた。
今ならまだ、笑って流せる。
聞こえなかったふりもできる。
だがそうすれば、ここで「言われても黙る新妻」として位置づけられるだろう。
ほんのひと呼吸の間に、彼女は決めた。
「ええ、本当に」
エルミーヌはやわらかく微笑む。
「長く支えてこられた方々が優秀でいらっしゃるからこそですわ。新しく来た私も、安心して学ばせていただけますもの」
子爵夫人がまばたく。
予想していた反応ではなかったのだろう。
エルミーヌは続けた。
「変わらぬ良さがあるのは、家にとって幸いなことです。けれど、せっかく迎えていただいた以上、私も少しずつこの家にふさわしい新しい彩りを添えていければと思っておりますの」
言葉はやわらかい。
笑みも崩さない。
だが、その中に「私はただ置かれているだけでは終わらない」という意思を、きちんと入れる。
ベルノワ伯爵夫人の目が、わずかに和らいだ。
侯爵未亡人は無言のままカップを口元へ運んだが、その視線が少しだけこちらを見た。値踏みの色はまだある。けれど少なくとも、黙って刺されるだけの女ではないと認識した目だった。
セヴランは隣で静かに茶を飲んでいた。
表情は変わらない。
このやり取りの棘にどこまで気づいているのか、分からないほどに。
オディールだけが、一瞬だけエルミーヌを見た。
驚きではない。
測るような、薄い関心のこもった目。
それもほんの一瞬で、すぐに従順な補佐役の顔へ戻る。
茶会はそのまま続いた。
誰かが焼き菓子を褒め、誰かが流行の織物の話をし、若い令嬢が庭の白椿の美しさに声を上げる。笑い声も上がる。見た目には穏やかで、円満な集まりだ。けれどエルミーヌには、もうはっきりと分かっていた。
自分は歓迎されていないわけではない。
だが、待ち望まれてもいなかった。
この席には、もともと別の呼吸があった。
別の女が立つ場所があり、客たちの中にはそれを当然としてきた記憶がある。
新しく妻が来たことで、制度は整った。だが感覚はまだそのままだ。だから誰も、セヴランの隣にオディールが立つことを不自然と思わない。
その事実が、何よりも侮辱だった。
冷たくされるだけなら、まだ個人の問題で済む。
けれど、今日この席でエルミーヌが知ってしまったのは、自分の不在がすでに社交の空気に織り込まれているということだった。
茶会の終わり頃、侯爵未亡人が帰り際にエルミーヌへ静かに言った。
「奥様は、お声がよろしいのね」
唐突な言葉だった。
「ありがとうございます」
「よく通るのに、強く聞こえすぎない。場を収めるのに向いたお声だわ」
それだけ言って、彼女は一礼した。
褒め言葉なのか、警告なのか、一瞬では分からない。だが少なくとも、見ていたのだ。今日の場を、誰より冷静に。エルミーヌが何を飲み込み、どう返したかを。
客たちが去っていく。
扉が閉まり、陽光室から人の気配が少しずつ引いていく。残るのは茶器のかすかな触れ合いと、給仕たちが後片づけを始める衣擦れの音だけだった。窓の外は変わらず薄曇りで、昼の光は少し傾き始めている。
「皆さま、お楽しみいただけたようでよかったですね」
オディールがそう言って、卓の上の配置を軽く見渡す。達成感というより、仕事が滞りなく終わったことを確認する目だ。
「そうだな」
セヴランが答える。
「問題なかった」
問題なかった。
その言葉が、エルミーヌの胸を静かに打った。
問題。
彼にとって今日は、それで測られるものだったのだ。誰も騒がず、茶会が無事終わればそれでよい。妻がどの位置に置かれたか、どんな目で見られたか、その奥で何を噛みしめたかは、問題のうちに入らない。
「公爵様」
エルミーヌは、できるだけ自然な声で呼びかける。
「何だ」
「少しだけ、よろしいですか」
セヴランは頷く。オディールは一歩引き、給仕たちへ片づけの指示を回し始めた。だがその距離は遠くない。耳を澄ませばこちらの声も届くだろう。だからエルミーヌは言葉を選ぶ。
「今日のお席のことなのですけれど」
セヴランの瞳がこちらを向く。
「何か不都合があったか」
「不都合、というほどではありません。ただ……あの位置は、いつもあのように決めておられるのかしらと思って」
セヴランはわずかに眉を寄せた。
今さら何を、とでも言いたげな、ごく浅い反応。
「茶会の規模と顔ぶれによる。今日は内々の集まりだったから、動きやすさを優先した」
「そう」
「君はまだ慣れていないだろう。オディールは場の流れを知っている。任せた方が無難だ」
その言葉には悪意がなかった。
だからこそ、ひどく残酷だった。
つまり彼は、本気でそれが合理的だと思っているのだ。
新しい妻より、長年そばにいる女の方が場慣れしている。だから隣へ置く。妻には端の席を与える。それで誰も困らない、と。
エルミーヌは数秒、黙った。
怒りが湧かなかったわけではない。悔しさで喉が焼けるようだった。だがここで感情のまま言葉をぶつけても、きっと届かない。彼は侮辱の意味すら分からないのだから。
「承知しました」
結局、彼女はそう言った。
「次からは、そのつもりでおります」
セヴランは何の疑いもなく頷いた。
「そうしてくれ」
それだけだ。
胸の奥に、何かがすとんと落ちる。
もう、痛いというより冷たかった。
エルミーヌは軽く一礼し、陽光室を辞した。回廊へ出ると、急に空気がひんやりと感じられる。陽光室は曇り空でも明るかったのに、外へ出た途端、その明るさが作りものの舞台灯のように思えた。
靴音が長い廊下に響く。
背筋は伸ばしたまま、歩調も乱さない。
侍女や侍従とすれ違えば、いつも通り穏やかに頷く。
自室に戻るまで、笑みは崩さなかった。
扉が閉まる。
その瞬間、ようやく肩の奥に入っていた力が、じわりと下へ落ちた。
「奥様」
ミレナが顔色を変える。
「……お茶会は」
「何も問題なかったわ」
エルミーヌは先にそう言った。
その響きが、つい先ほどセヴランの口から出たものとよく似ていることに、自分で気づいてしまう。
何も問題なかった。
表向きには。
ミレナはすぐにそれ以上訊かなかった。侍女としての分別なのか、それとも今の主人の顔が何かを語りすぎていたのか。
「お茶をお持ちいたします」
「ええ、お願い」
窓辺の長椅子へ腰を下ろす。曇り空は少し濃くなり、庭の色も鈍って見えた。白い小花が風に揺れている。さっきまで陽光室で嗅いでいた紅茶と焼き菓子の香りがまだ服に残っていて、そのことが妙に気持ち悪い。
あの席は、私のものではなかった。
頭の中で、何度もその言葉が繰り返される。
違う。
本当は、制度の上では自分のものなのだ。
公爵の妻である自分が、公爵家主催の茶会で主役の女主人になるはずだった。
なのに空気がそうではなかった。客たちの目も、使用人たちの動きも、セヴラン自身の判断も、そこにいるべき女としてオディールを置いていた。
そこまで分かって、ようやくエルミーヌは理解した。
この結婚は、ただ冷たいだけではない。
すでに、自分の居場所が他人に使われたあとの場所なのだ。
誰かが露骨に奪ったわけではない。
もっと厄介だ。
長年の慣れと黙認で、自然にそこへ別の女が立つようになっていた。だから本人たちには侮辱している意識すらない。新しい妻がその横へ差し込まれれば、それで十分だと思っている。
ミレナがお茶を置く。湯気がゆるく立ち上り、ベルガモットの香りが鼻先をくすぐった。
「奥様」
「何かしら」
「本日は、よくお務めを果たされました」
その一言で、エルミーヌは少しだけ目を見開く。
「見ていたの?」
「……給仕に入る者たちは、皆」
ミレナは視線を伏せたまま答える。
「奥様が笑みを崩されなかったことも、言葉を違えなかったことも」
胸の奥で固くなっていたものが、少しだけ緩む。
完全ではない。慰められたからといって傷が消えるわけでもない。
けれど、誰も何も見ていなかったわけではないと分かるだけで、救われるものがあった。
「そう」
エルミーヌはカップを手に取る。
茶は熱い。唇に触れた瞬間の熱が、皮膚の薄いところをじんと焼く。
「……みっともないところは見せたくなかったの」
「お見せになっておりません」
ミレナの返答は迷いがなかった。
エルミーヌは目を伏せる。
喉の奥が少しだけ震えたが、泣かなかった。今日は泣きたくなかった。悔しさを涙にするには、まだ早い気がした。
「ありがとう」
それだけ言って、カップをソーサーへ戻す。
しばらく二人の間に沈黙があった。外の風が窓を鳴らし、廊下の向こうで誰かが静かに歩いていく音がする。屋敷は何事もなかったように動き続けている。
その音を聞きながら、エルミーヌはゆっくりと息を吸った。
「ミレナ」
「はい」
「次に茶会がある時は、席次と役割を前もって確認したいわ」
ミレナが顔を上げる。
「承知いたしました」
「誰がどこへ立ち、誰が何を進めるのか。曖昧なまま当日を迎えるのはやめましょう」
「はい」
「それから、今日いらした方々のお好みも、分かる範囲で整理しておきたいの。ベルノワ伯爵夫人は薔薇園の話を好まれる。ファルネーズ子爵夫人は人の流れに敏い。侯爵未亡人は、たぶん無駄なお世辞を好まれない」
言葉にしていくうちに、思考が少しずつ平らになっていく。傷ついたままで終わらせない。見たことを、次へ使える形へ変えていく。それが今の自分にできることだ。
ミレナはほっとしたように頷いた。
「お手伝いいたします」
「お願い」
窓の外では、曇り空の向こうにわずかに夕方の明るさが残っている。白い庭は、昼の時よりも静かだった。
エルミーヌは長椅子の背に身を預け、目を閉じる。
その席は、私のものではないらしい。
今日、そのことを知った。
けれど同時に、知れたことは無駄ではないとも思う。
冷たくされるだけなら、まだ期待の置き場を誤らずに済んだ。
だが侮辱は違う。相手にその意識がなくても、確かに人を目覚めさせる。甘い幻想をきれいに切り落としてくれる。
自分はこの家で、もう二度と「自然に迎えられること」を期待してはならない。
席は与えられるものではなく、こちらが形にしていくしかない。
それを覚えたことだけが、今日の収穫だった。
エルミーヌはゆっくりと目を開ける。
庭の向こうで、風に揺れた白い花が一つ、視界の端で揺れた。
その揺れは小さかったが、折れなかった。
それで十分だと、今は思うしかなかった。
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