白い結婚を望んだのは旦那様の方でしたが、捨てられるのはそちらです

なつめ

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第6話 見知らぬ辺境伯からの返書


 厨房と倉庫の流れを整えてから、屋敷の空気は目に見えぬほど少しずつ変わり始めていた。

 それは、誰もが立ち止まって驚くような変化ではない。大広間の灯りが急に明るくなるわけでも、食卓に並ぶ皿の数が増えるわけでもない。けれど、昼前の厨房から怒声が減り、洗濯場の横の狭い通路で籠同士がぶつかる音がしなくなり、侍女たちの歩幅から余計な焦りが薄れていく。そういう、形にはなりにくい小さなほころびが、ひとつずつ綴じ直されていくような変化だった。

 誰もそれを大きな手柄として口にはしない。

 けれど、整った家というものは、静けさの質で分かるのだとエルミーヌは思う。

 朝の回廊を渡る足音が、少しだけ落ち着いて聞こえる。
 湯を運ぶ侍女の腕から、無理な力みが抜ける。
 昼食の皿が温かいうちに食卓へ届く。

 そういうものの積み重ねが、家の呼吸になる。

 その日も、朝食室ではいつも通り穏やかな夫婦の会話が交わされ、セヴランは人前用の柔らかな声音で「最近、料理の出が早い気がする」と言った。

 エルミーヌは薄く微笑んだだけだった。

「そうですね」

 あなたは何も知らないのですね、と心の中で付け足しながら。

 セヴランは気づかない。
 料理が温かいまま届くようになったことも、砂糖が足りないと誰かが走り回る回数が減ったことも、それが何による変化なのかも。彼は結果だけを見る。整って出てきたものを当然として受け取る。家の主であるがゆえに、それで済んでしまう立場でもあるのだろう。

 エルミーヌはそれを責めようとは思わなかった。責めたところで、彼が見ないものを見るようになるわけではないと、もう分かっていたからだ。

 その代わり、彼が見ないものを、自分は見ていく。

 そう決めてからの彼女は、屋敷の中の小さな流れを覚えることに、前より深く没頭するようになっていた。

 厨房と倉庫の次に目についたのは、被服係と寝具庫の出入りだった。春へ向かうこの時期、屋敷では冬物の厚い織物を順に下げ、軽い布地へ入れ替えていく。客間の寝台の掛布も、使用人部屋の毛布も、食堂の厚い卓布も、季節に合わせて順に替えられる。そのため、布地や糸、洗い直しの手間、補修に回る数が一時的に大きく動く。

 帳簿の歪みを追うには、ちょうどよかった。

 もともと、簡易出納の写しの中には、厨房と倉庫まわり以外にも気になる数字があった。北方から届く羊毛布、保存用の乾燥果、蝋脂、薬草。どれも冬支度に関わる品だ。公爵家ほどの規模なら、遠方の領地や有力貴族の領から定期的にまとめて入れること自体は不自然ではない。むしろ当然だろう。

 だが、その中に一つだけ、どうにも引っかかる記録があった。

 グランツェ領からの冬季便。

 北方を治める有力者の名は、実家にいた頃から何度も耳にしていた。国境に近い厳しい土地でありながら、羊毛と木材、それに寒冷地でしか採れぬ薬草を広く扱う領。王都へ上質な厚手の布を安定して送れる数少ない場所だと、父が一度だけ感心したように言っていたのを覚えている。

 そのグランツェ領から届いた品の記録に、妙な揺れがあった。

 一度だけではない。
 冬のはじめ、真冬、冬の終わり。記録を三度分並べると、同じ種類のずれが繰り返されている。

 搬入記録の総数は一定なのに、屋敷側の受領数だけが毎回少しずつ減っている。
 しかも、減り方がばらばらではなく、ちょうど「運搬中の傷み」や「割れ」「湿気による目減り」で片づけやすい程度の数字に収まっているのだ。

 羊毛布で二反。
 乾燥果で小箱二つ。
 蝋脂で束三つ。
 薬草でひと包み。

 単体で見れば大ごとではない。
 けれど、季節便ごとに同じような「少しだけ足りない」が繰り返されていると分かると、話は違ってくる。

 厨房のように、忙しさから起きる二重受け取りとは性質が違う。
 もっと上流の、運搬と受領の間にある歪みだ。

 その日の午前、エルミーヌは自室の居間の小机へ、冬から春にかけての被服関連と交易関連の記録を広げていた。窓は半分だけ開いていて、春の乾いた風が紙の端をわずかに揺らす。遠くで庭師が枝を払う音が、規則的に聞こえていた。蜜蝋の火はまだいらない程度に明るいが、文字を見るには少しだけ物足りない。そこで彼女は窓際から机を半歩ずらし、最も均等に光が落ちる位置へ椅子を動かした。

 ミレナが、茶を置きながら控えめに言う。

「本日は朝からずっと机に向かっておられますね」

「今日は数字が少し多いの」

「数字、でございますか」

「ええ。厨房の時より、もう少し厄介かもしれないわ」

 ミレナは帳簿そのものには口を挟まない。だが、エルミーヌの声の調子で、それがただの退屈しのぎではないと察したらしかった。

「何かお役に立つことがあれば」

「ありがとう。今は大丈夫」

 そう答えながらも、エルミーヌの頭の中では既に、いくつかの可能性が並んでいた。

 運搬中の自然な目減り。
 屋敷側の受領時の見落とし。
 途中の商人や荷継ぎ場での抜き取り。
 あるいは、帳簿上だけの調整。

 どれであっても、今の彼女に断言はできない。けれど少なくとも、確認はできる。確認しなければ、ずれはただのずれとして積み上がり、やがて誰の責任か分からぬまま家の中へ沈んでいく。

 問題は、誰にどう尋ねるかだった。

 屋敷側の記録だけを何度見返しても、片側の数字しか分からない。相手側がどの数量を、どの梱包で、どの日に送り出したのか。その確認がなければ、こちらの受領数が足りないのか、そもそも相手が違う数を出したのかさえ断定できない。

 通常なら、こういう問い合わせは帳場か執務室を通すのだろう。
 だが今のエルミーヌは、その流れに正式に入っていない。しかも、こちらが「お飾りの妻」だと思われている立場である以上、半端に口を挟めば、面倒な女と見なされるだけかもしれない。

 それでも、見過ごせない。

 エルミーヌは手元の紙へ、細い字で項目を書き出していく。

 一、冬季便の出荷日。
 一、羊毛布の反数。
 一、乾燥果の箱数。
 一、蝋脂の束数。
 一、薬草の包み数。
 一、運搬中の破損、湿損の申告の有無。
 一、受領側署名と封蝋の扱い。

 ここまで並べてから、彼女はペン先を止めた。

 形式を整えなければならない。

 相手は商会ではない。グランツェ領は辺境伯家そのものが大きな交易の窓口を持つ。そこへ送る文なら、無遠慮に「数字が合わない」と書くわけにはいかない。疑いをぶつけるのではなく、あくまで家内整理のための確認状にする必要がある。

 同時に、ただの丁寧なだけの文にしてしまえば、相手は役人的な定型文で返して終わるかもしれない。それでは意味がない。こちらが何を見て、どこまで気づいているのかを、行間にだけ伝える必要があった。

「難しい顔をしていらっしゃいます」

 いつの間にか戻ってきていたミレナが、空になりかけた茶碗を替えながら言った。

「ええ。手紙を書くのだけれど、あまり角を立てたくなくて」

「どちらへ」

「北へ」

 それだけ言うと、ミレナは目を瞬かせたものの、それ以上は問わなかった。賢い侍女だった。

 エルミーヌは、まずヨアヒムへ相談することにした。

 老執事は昼前に自室へ呼ばれると、すぐに来た。彼は今や、エルミーヌが数字の違和感を追っていることを知っている。知ってなお、止めるより先に見守る方を選んでいる。それがどこまで老執事としての判断で、どこまで個人的な見極めなのかは分からなかったが、少なくとも今の彼女には必要な慎重さだった。

「グランツェ領へ確認状を送りたいの」

 エルミーヌが率直に言うと、ヨアヒムは珍しく目を上げた。

「辺境伯家へ、でございますか」

「ええ。屋敷側の記録だけでは分からないの。相手側がどう出したかを聞かなければ」

「それは……」

 ヨアヒムは言葉を選ぶように少し黙った。

「不可能ではございません。ただ、問い合わせの名目は整えなければなりません。相手は商いの相手であると同時に、位ある方です」

「分かっているわ。あくまで家内整理のための確認にしたいの」

「奥様ご自身のお名で?」

「その方がよくないかしら」

「悪くはございません」

 老執事の声は慎重だ。

「ですが、公爵家の正式な交易照会と受け取られるほど強い形にしてしまうと、公爵様のお耳へも必ず入ります。逆に、奥様の私信のように軽くしすぎれば、取り合われぬ可能性もございます」

「では、その中間にするしかないわね」

「はい」

 ヨアヒムはそこで、少しだけ考えるように目を細めた。

「奥様が屋敷内整理の一環として、冬季便の受領状況を確認したい、という形ならばいかがでしょう。帳場の主印ではなく、奥様付きの補助印を用いる。本文は礼を尽くしつつ、確認事項は明確に」

「そうしましょう」

「下書きをご覧になりますか」

「書いてみたいの」

 その答えに、ヨアヒムはごくわずかに頷いた。

「承知いたしました。では、出来上がりましたら、形式の不足だけ確認いたします」

 彼が去ったあと、エルミーヌはひとりで文面に向かった。

 上質な便箋を出す。白すぎない、やや灰みを帯びた紙。万一相手が手に取った時、軽い女の遊び文には見えないように。封蝋はまだ使わない。まずは本文だ。

 書いては止め、破る。
 言い回しを変え、敬語の角度を調整する。
 過度にへりくだれば軽んじられる。強すぎれば不躾になる。

 午後の光は少しずつ傾き、紙の白さも時間とともに色を変えていった。窓から入る風は昼より冷え、乾いたインクの匂いがかすかに立つ。集中していると、時間の流れは薄くなる。エルミーヌはようやく一通の形に整えたところで、深く息を吐いた。

 文面は簡潔だった。

 公爵家内の冬季備品整理に際し、貴領より届いた季節便の受領帳と屋敷内記録の照合を進めていること。
 その過程で、梱包単位と受領数の表記にいくらか相違が見受けられたため、失礼を承知で出荷時の総数と、運搬中の破損申告の有無を確認したいこと。
 特に、羊毛布、乾燥果、蝋脂、薬草について、日付と封の扱いまで含めて知らせてもらえれば助かること。
 疑義を差し挟む意図はなく、今後の受領整理のためであること。

 ただし一箇所だけ、彼女は意図して文を入れた。

 「運搬中の湿損が常態化する季節ではないにもかかわらず、複数便に同種の目減りが見られましたため」

 これだ。
 丁寧な文の中に、この問い合わせが偶然の思いつきではないことを埋め込む一文。

 ヨアヒムは下書きを読むと、二箇所だけ言葉を整えた。ひとつは日付の書き方、もうひとつは末尾の敬称。内容にはほとんど手を入れなかった。

「これなら届くでしょう」

 そう言った時の老執事の声には、前よりはっきりした敬意が混じっていた。

「本当に送ってしまってよいのかしら」

 エルミーヌが問い返すと、ヨアヒムは少しだけ口元を引き締める。

「奥様」

「何かしら」

「こういう文は、送らねば答えは返ってきません」

 その言い方に、エルミーヌはわずかに笑った。

「そうね」

 封蝋を押す瞬間、赤く溶けた蝋の匂いがほの甘く立ちのぼる。自分の補助印が紙に食い込み、形になる。その小さな行為が、妙に現実味を持って指先へ残った。

 返事がすぐ来るとは思っていなかった。

 北は遠い。
 季節にもよるが、急ぎでなければ往復で日数はかかる。しかも辺境伯家ほどの相手なら、問い合わせ文など下の者が確認し、定型の返答を整えるのが普通だろう。届けばよい、内容が分かればそれでよい。そう思っていた。

 けれど、手紙を出したあとから、エルミーヌは妙に落ち着かなかった。

 朝食の席ではセヴランの対外用の微笑にいつも通り応じ、昼には帳簿の続きを見返し、午後には寝具庫の入れ替えを確認する。やることはある。厨房の流れもその後さらに安定し、料理長は以前より機嫌よく下働きへ指示を出すようになっていた。洗濯場の女たちも、昼前の通路で舌打ちをしなくなった。そうした日常の小さな整いは、確かに続いている。

 それでも、心のどこかで手紙の行方を探してしまう。

 まだ着いてもいないはずなのに、廊下の向こうで速達の蹄の音でもしないかと耳を澄ます自分が可笑しかった。

 そんなある日の昼下がりだった。

 薄い雲が空を流れ、庭にまだらな影を落としている。エルミーヌは居間の窓辺で、被服係から借りた布見本帳をめくっていた。北から入る羊毛布と、王都近郊の織元の布を手触りだけで比べてみたかったのだ。毛足の短い灰青の布、もう少しざらりとした生成り、厚みのある濃紺。指先へ伝わる織りの密度がそれぞれ違う。

 ノックがした。

「奥様」

 ヨアヒムの声だった。

「どうぞ」

 入ってきた老執事の手には、細長い盆があった。その上に、手紙が一通。

 その封を見た瞬間、エルミーヌの心臓がひとつ大きく脈打つ。

 灰青の厚紙。
 角に押された紋章の封蝋は深い緑。小ぶりだが彫りは鋭く、狼を思わせる横顔と剣を交差させた印が見える。王都で見慣れた華美な家紋とは違う、実務の気配を含んだ印だった。

「グランツェ辺境伯家より返書が」

 ヨアヒムが言う。

「……ずいぶん早いのね」

「北便の速駆けが王都へ入っていたようです。おそらく、公的な書類と同道したのでしょう」

 エルミーヌは手を伸ばしかけて、一度止めた。妙に指先が冷たく感じたからだ。深呼吸をひとつしてから、封筒を受け取る。紙は上質だが厚すぎず、重みは中の便箋一枚か二枚程度。余計な飾りはない。だが、持っただけで分かる。これは下の事務方が投げてよこした軽い返事ではない。

 封を切ると、紙の乾いた音が静かに鳴る。

 中から出てきた便箋には、無駄のない筆致で短く文が綴られていた。最初の書き出しからして、予想と違う。

 グランツェ辺境伯、ラドヴィン・グランツェ。

 差出人の名が、役人や家令ではなく当主本人だった。

 エルミーヌはそこで一瞬だけ、文字を追う目を止めた。

「奥様?」

 ヨアヒムが静かに問う。

「いいえ……辺境伯ご本人からだわ」

 老執事の眉がほんのわずかに動く。彼にとっても予想外だったのだろう。

「拝見しても?」

「ええ」

 エルミーヌはまず自分で文を読み切ることにした。文字は癖が少なく、読みやすい。簡潔で、必要以上の修辞がない。まるで、余白まで含めて時間を無駄にしない人間の書く文だと思った。

 内容はさらに鮮やかだった。

 貴便、拝受した。
 照会の件、以下の通り回答する。

 そこから先は、彼女の挙げた項目に対応する形で、端的に並んでいた。

 冬季第一便、羊毛布二十四反、乾燥果六箱、蝋脂十六束、薬草八包。
 第二便、羊毛布二十反、乾燥果五箱、蝋脂十二束、薬草六包。
 第三便、羊毛布二十四反、乾燥果六箱、蝋脂十六束、薬草八包。

 いずれも出荷時の封は破損なし。
 湿損および破損申告なし。
 荷継ぎは王都手前の二地点のみ、記録あり。
 梱包単位の変更なし。
 重量についても、冬季の標準より軽くは見積もっていない。

 つまり、グランツェ側では減っていない。
 こちらへ届くまでのどこかで、数がずれている。

 だが、エルミーヌの目を引きつけたのは、その最後に添えられた二文だった。

 「湿損の季節ではない便に同種の目減りが続く点へ着目されたのは妥当と考える」
 「この照会文を整えた方は、少なくとも帳場仕事の言葉と、道中の現実の両方をご存じだろう」

 それだけだ。

 称賛でもない。
 媚びでもない。
 ただ、見抜いたことだけが、簡潔に書かれている。

 その一文を読んだ瞬間、エルミーヌの指先に、奇妙な熱が走った。寒いわけでもないのに、皮膚の内側だけがじわりと温かくなる。喉の奥に何かがせり上がりそうになるのを、彼女は静かに飲み込んだ。

 紙の上だけのやり取りだった。
 会ったこともない。顔も知らない。
 それでも、その短い文の中に、この相手が自分の問いを「飾りの妻が気まぐれに口を出したもの」とは受け取っていないことが、ありありと見えた。

 こちらが何を見て、どこまで考えて書いたか。
 それを、きちんと受け取った上で返している。

 エルミーヌはもう一度、最初から読み直した。文字を目で追うたび、その感覚は確かになっていく。

 正しく受け取られた。

 その事実が、胸の奥で静かに響く。

 セヴランはいつも、彼女の言葉を必要なだけしか見ない。
 屋敷の中の者たちは敬意を払いながらも、どこかで「新しい奥様」という枠の内に置いて見る。
 オディールは穏やかに一歩引きつつ、実際には家の内側の呼吸を当然のように握っている。

 そんな中で、見知らぬ辺境の当主だけが、紙一枚でこちらの目の高さを測り、そこへ返してきた。

「奥様」

 ヨアヒムが促すように言う。

「よろしければ」

「ええ」

 エルミーヌは便箋を差し出した。老執事は受け取り、静かに文面を追う。読み終えるまでの時間は短い。だが、目を上げた時の彼の表情には、明らかな変化があった。

「……鋭い返答でございますね」

「ええ」

「こちらの問いの意図まで読んでおられる」

「そう思うわ」

 ヨアヒムは再び便箋へ目を落とした。

「辺境伯ご自身が目を通されたということは、この種の交易が領にとってそれだけ重要か、あるいは……」

「あるいは?」

「この文をただの奥方の気まぐれとは思われなかったのでしょう」

 その言葉に、エルミーヌは小さく笑う。
 笑いなのに、少しだけ喉が熱かった。

「そうであればいいのだけれど」

「奥様」

 ヨアヒムの声はいつになくまっすぐだった。

「少なくとも私は、そのように読まれたと思います」

 しばし、部屋が静かになる。

 窓の外では風が少し強まり、枝葉が擦れる細い音が続いた。白いカーテンの裾が揺れ、午後の光が便箋の上をかすかに滑る。紙の匂いに、遠く北から来た乾いた寒さまでしみついているような気がして、エルミーヌは不思議な心地になった。

「お返事を出すべきかしら」

 彼女が尋ねると、ヨアヒムは頷く。

「礼は尽くすべきかと。ですが、長くは要りません。向こうは必要十分の答えを返しております」

「そうね」

「……それと」

 老執事はそこで声を少し落とした。

「この内容をどう扱うか、でございます」

 エルミーヌは便箋の最後の行を見つめる。

 グランツェ側に問題はない。
 ならば、ずれは途中か、受領後か、その記録のどこかだ。

 つまり、屋敷の内外いずれかに、まだ見えていない穴がある。

「今は、まだ誰にも大きく言わないわ」

「公爵様にも」

「ええ」

 そこには迷いがなかった。

「今この段階でお伝えしても、きっと『帳場に確かめさせる』で終わるもの。そうしたら、こちらが何を掴みかけているかだけが先に伝わってしまう」

「同感でございます」

「まずは、こちらの受領の流れをもう少し細かく見たいの。特に、北便が入る時だけ誰がどこで署名し、どこへ一度置かれるのか」

「分かりました。古い受領簿と、荷継ぎ場の覚え書きを探させます」

「お願い」

 ヨアヒムが下がったあとも、エルミーヌはしばらく返書を手放せなかった。

 机の上へ置いても、また持ち上げてしまう。
 読み返せば内容は変わらない。簡潔で、隙がない。だから余計に、その数行の中にあるものが際立つ。

 あなたの問いは妥当だ。
 あなたは帳場の言葉と道中の現実を知っている。

 それは、これまで誰からも与えられなかった言葉だった。

 実家では、数字に口を出せば「賢い娘だ」と便利に使われはしたが、最後に決めるのは男たちだった。
 この屋敷では、整えれば皆が少し呼吸しやすくなる。だがそれも、基本的には「奥様が気づいてくださった」程度の親切として処理される。
 夫は、そもそも気づきもしない。

 けれど、この見知らぬ辺境伯は違った。
 問いそのものを見た。
 その問いの立て方を見た。
 どこを見ている人間の文なのかを見抜いて、それに見合う硬さで返してきた。

 紙の上だけのやり取りなのに、まるで真正面から会話した気がする。

 その感覚が、エルミーヌには新しかった。

 夕方、ミレナが灯りを整えに来た時、机の上の返書へ目を止めて小さく尋ねた。

「よいお返事でございましたか」

 エルミーヌは少し迷ってから、頷いた。

「ええ。とても」

「それは何よりです」

「不思議ね」

「何がでございますか」

「顔も知らない相手からの手紙なのに、こんなふうにほっとするなんて」

 ミレナは灯芯を切り揃えながら、やわらかく答える。

「言葉は、ときどき人より先に届くものかもしれません」

 その言い方が思いのほかきれいで、エルミーヌはふっと笑った。

「あなた、そういうことを言うのね」

「たまには」

 ミレナも少しだけ微笑む。

 夜の夕食は、いつも通りだった。

 セヴランは王都の催しについて話し、北の街道の整備が遅れていることに軽く眉を寄せ、来月の予定を手短に告げる。北という言葉が出たたび、エルミーヌの指先だけがわずかに反応したが、表情には出さない。机の引き出しにしまってきた返書の存在を、彼は知らない。知る必要もない顔で茶を飲んでいる。

「今日は静かにしていたのか」

 食後の茶を前に、セヴランが何気なく訊いた。

「ええ。少し手紙を書いておりました」

「実家へか」

「いいえ」

 そこでエルミーヌは、ほんの一瞬だけ考えた。嘘をつく必要はない。だが、全部を言う必要もない。

「家内整理の確認を一通」

 セヴランはそれで満足したように頷いた。

「そうか」

 それだけだった。

 もし彼があと一つ踏み込んで尋ねていたら、エルミーヌはどう答えただろう。グランツェ辺境伯から返書が来ました、と言っていただろうか。たぶん、まだ言わなかった。言ったところで、彼はその価値を量らない気がしたからだ。

 食後、自室へ戻ると、エルミーヌは引き出しから返書を取り出し、もう一度だけ読んだ。灯りの下で見る文字は、昼間よりさらに硬質に見える。夜の中で読むにはふさわしい文だと思った。甘さも慰めもない。けれど、だからこそ信じられる。

 便箋の端へ指を添えたまま、彼女は小さく息を吐く。

「ラドヴィン・グランツェ」

 声に出してみる。
 初めて見る名なのに、不思議と紙の質感と一緒に頭へ残る名前だった。

 どんな人なのだろう。
 背が高いのか、低いのか。
 年はいくつなのか。
 言葉通り、無駄を嫌う人なのか。
 それとも、筆の上でだけ冷たく削っているのか。

 そんなことは、本来どうでもいいはずだった。
 必要なのは内容だけ。交易のずれがどこで起きているかを探る材料だけ。

 それなのに、彼女はしばらくの間、便箋に落ちる灯りの中で、見知らぬ辺境伯の姿をぼんやりと思い描いていた。

 正しく受け取られる、というのは、こんなにも静かに人の心をほどくのだろうか。

 それは恋などという甘いものでは、まるでない。
 もっと手前の、もっと切実な飢えに近い。

 ずっと、言葉の届き先を探していたのだと思う。
 役目としてではなく。
 飾りとしてでもなく。
 自分の頭で考え、選んだ言葉が、その意味のまま受け取られる先を。

 その先が、こんなにも遠い北にあるとは思わなかったけれど。

 エルミーヌは便箋を丁寧に畳み、書き付け帳とは別の箱へしまった。帳簿の控えと同じところには置かない。これは証拠であると同時に、彼女にとって少し違う意味を持ち始めていたからだ。

 窓の外では、夜風が庭木を揺らしている。遠くの見張り灯が細く滲み、雲の切れ間からのぞいた月が屋根の端を白く照らす。

 その光を見ながら、エルミーヌは思った。

 この家の中で、自分の居場所はまだ曖昧だ。
 夫の隣の席ですら、自然には与えられない。
 だが、だからといって、自分の頭や目まで曖昧になる必要はない。

 見て、考え、問いを立てる。
 その先に、きちんと答えが返ってくる世界がある。

 たった一通の返書が教えてくれたその事実は、侮辱された茶会の記憶とは別の形で、彼女の中へ残った。

 痛みの上に、薄く澄んだものが重なる。
 明日からまた、屋敷はいつも通り動くだろう。
 セヴランは完璧な夫の顔をし、オディールは何食わぬ顔で家の内側を回し、帳簿にはまだ見えていない穴が残っている。

 それでも、少しだけ違う。

 自分の問いが、外の世界へまっすぐ届いたと知ったから。

 エルミーヌは寝台へ入る前に、机へ置いたままの便箋箱へ一度だけ目を向けた。
 それから静かに灯りを落とす。

 暗がりの中で、胸の奥に残るのは熱ではなく、細く長い余韻だった。
 見知らぬ辺境伯からの返書は、数字の確認以上のものを彼女へ残していた。

 初めて、自分の言葉が正しく受け取られた。

 その事実だけで、今夜の空気は少しだけ違って感じられた。

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「明日からミノスラード伯爵邸に住んでくれ」 婚約者にそう言われ、ミノスラード伯爵邸に行ってみたはいいものの、婚約者のケサス様は弟のランドリュー様に家督を譲渡し、子爵家の令嬢と駆け落ちしていた。 わたくしを家に呼んだのは、捨てられた令嬢として惨めな思いをさせるためだった。 実家から追い出されていたわたくしは、ランドリュー様の婚約者としてミノスラード伯爵邸で暮らし始める。 そんなある日、駆け落ちした令嬢と破局したケサス様から家に戻りたいと連絡があり―― そんな人を家に入れてあげる必要はないわよね? ※誤字脱字など見直しているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません。教えていただけますと有り難いです。