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第9話 遅れて届いた家族の手紙
王宮へ来てから三日目の午後、空は朝からずっと薄曇りだった。
高い窓の向こうで、鉛色に近い雲がゆっくり流れている。陽は出ているはずなのに、その光はどこか遠慮がちで、白い石の壁にも淡くしか触れない。控えの間の中はいつもより少しだけ冷えていて、机の上に置かれた銀の茶器も、窓辺の花瓶に活けられた薄紫の花も、すべてが静かな灰色を一枚かぶったように見えた。
王宮の空気には少しずつ慣れ始めていた。
少なくとも、最初の一歩で息が詰まるような感覚はもうない。
朝の文書整理、来客の記録、返答の控え、女官見習いたちへの簡単な書式の確認。どれも派手ではない。だが派手でないことがむしろイゼルダにはありがたかった。目立たず、しかし確かに積み重なっていく仕事のほうが、いまの自分には合っている。何をすれば役に立つのかが分かる場所にいると、心の足場まで少しだけしっかりする気がした。
それでも、王都の噂は消えてはいなかった。
昨日の夕方、伯爵家が「次女は静養中だ」と答えているという話を耳にしてから、イゼルダの胸の奥にはひとつ、見えない棘が刺さったままだった。表向きには静養中。体面を守るためのもっともらしい言葉。あの家らしいと思う。あまりにらしくて、腹立たしさより先に、かえって冷えてしまうほどだった。
だから今日一日も、イゼルダは意識して手を止めないようにしていた。
考えれば考えるほど、家の中の空気や、母のやわらかい声や、父の低い命令や、姉の涙が蘇ってくる。それはまだ、自分を揺らす力を持っていた。だからこそ仕事に集中する。どの記録が抜けているか、どの順で返答を回すべきか、どの見習いが同じところで言葉に詰まるか。そうしたことを追っているあいだだけは、胸の内のざわめきが少し遠のく。
午後の半ば、控えの間の外で、短く扉を叩く音がした。
リネットがすぐに立ち上がり、対応に向かう。扉の向こうで小さな声が交わされ、そのあと彼女がいつもより少しだけ強ばった顔で戻ってきた。
「セルマ様」
「何ですか」
机の向こうで目録を見ていたセルマが顔を上げる。
リネットは一瞬だけイゼルダを見た。その視線に、イゼルダの背筋が自然と強ばる。よい知らせではない。そう分かる目だった。
「モンティエール家から、使いが」
部屋の空気が、そこでかすかに止まった。
セルマの目がわずかに細くなる。ミレーユも書類を持つ手を止めた。イゼルダ自身は、心臓が一度だけ大きく跳ねるのを感じたものの、それ以外は妙に静かだった。来るべきものが来た、という感覚に近い。噂を流しながら本人には何も言わないままでは終わらないだろうと、どこかで分かっていたのだ。
「手紙でございます」
リネットは続ける。
「至急お届けすべしとのことで、直接こちらに」
セルマが椅子から立ち上がった。
「封は」
「そのままです」
「差出人は」
「奥様のお名前で」
母から。
その言葉がイゼルダの胸に落ちる。父ではない。母。けれど、母の手紙が母だけの意思で書かれるとは思えなかった。あの人はいつだって、父の怒りと自分の体面と姉の涙を、一番都合のいい形でまとめて差し出してくる。
セルマは少しだけ考え、視線をイゼルダへ向けた。
「どうなさいますか」
「……受け取ります」
声は思ったより落ち着いていた。
リネットが廊下へ出て、すぐに戻ってくる。銀の盆の上に置かれた一通の封書。上質な厚手の紙に、モンティエール伯爵家の紋章がきっちりと押されている。封蝋は深い赤。見慣れた色だ。幼い頃から何度も見てきた、あの家の外向きの顔そのものみたいな整った封。
それを見た瞬間、イゼルダの指先がかすかに冷えた。
重そうに見えるのに、実際には軽い。そんな封書を、何度も扱ってきた。招待状への返事、詫び状、礼状、贈り物に添える挨拶。家の体面を整えるための文は、いつだって質のよい紙に乗せられていた。今、この手紙もその延長にあるのだと思うと、開ける前から中身の温度まで想像がついた。
「お部屋で、お読みになりますか」
セルマが訊く。
その気遣いはありがたかった。人前で家族の手紙を開くのは、たしかに気が進まない。けれどイゼルダは少しだけ考えてから、首を横に振った。
「ここで結構です」
逃げたくなかった。
手紙の中身がどれほど冷たかろうと、それを一人で受け止めて部屋へ閉じこもれば、余計に深く刺さる気がした。少なくとも、この部屋には仕事があり、他人の気配がある。そのほうが、完全に沈まずにすむ。
イゼルダは封書を受け取り、机の端へそっと置いた。封蝋に爪をかけると、小さく欠ける音がした。赤い蝋がひび割れ、紙の端へ粉のように落ちる。その小さな音だけで、やけに胸が痛む。
手紙を開く。
紙の折り目を広げる。
母の筆跡が目に入る。
やはり、見慣れた文字だった。細く、整っていて、少し右上がり。感情を露骨に滲ませない書き方をする人の字だ。美しい字だと昔は思っていた。いまも客観的には美しいのだろう。だが、その整いすぎた線を見た瞬間、イゼルダはそこに、家の中で何度も自分を追い詰めてきた声色まで読み取ってしまう。
『イゼルダへ』
それだけで、すでに胸が冷たくなった。
続きを読む。
『まず第一に、今回のお前の軽率な行動がモンティエール家にどれほど大きな恥をかかせたか、よく考えなさい。』
その最初の一文に、イゼルダは目を止めた。
軽率な行動。
家にどれほど大きな恥をかかせたか。
心配ではなく、非難から始まるのだと、分かってはいた。分かってはいたのに、やはり実際に文字で突きつけられると、胸の奥がひどく冷える。まるで最初の一行で、あの家が自分に何を求めているかの答え合わせをされたみたいだった。
心配している。どこにいるの。無事なの。そんな言葉はない。
代わりにあるのは、恥。
『お前が突然姿を消したことで、家中がどれだけ混乱したと思っているのです。使用人たちも落ち着かず、お父様はたいへんお怒りです。』
読み進める指先が少しずつ冷たくなる。
使用人たち。父の怒り。混乱。
自分の不在がどんなふうに語られているのかがよく分かる。いなくなった娘そのものではなく、それによって起きた混乱ばかりが数え上げられている。そこに、自分がどんな夜道を歩いたかも、どんな気持ちで門を抜けたかも、一片もない。
『アデルリーヌは、お前のしたことに深く心を痛めています。あの子がどれほど傷ついているか、お前には分からないのでしょうね。自分のことばかりで、周囲の気持ちが見えなくなっているのではありませんか。』
イゼルダは一度、紙から目を離した。
視界が少しだけ揺れる。けれど涙ではない。むしろ、あまりに予想どおりの言葉が並ぶせいで、涙に届く前に心が冷えていく。
アデルリーヌが傷ついている。
周囲の気持ちが見えなくなっている。
自分のことばかり。
それは昔から、自分が責められる時の決まり文句だった。自分が何か拒めば、姉が傷つく。自分が黙らずに意見を言えば、家の空気が乱れる。自分が自分の痛みを口にすれば、自分のことばかりになる。
では、自分のことを考えずにいた二十年は、何だったのだろう。
姉の代わりに立ち、家の都合に合わせ、求められるままに笑ってきたその時間は、まだ「自分のことばかり」なのだろうか。
手紙は続く。
『ロシュフォール侯爵家へは、ひとまずお前が静養に入ったと説明しております。だが、先方もいつまでもお待ちになるわけではありません。お前は一刻も早く戻り、事情を詫びた上で、縁談を受け入れなさい。』
詫びた上で。
縁談を受け入れなさい。
命令だった。まぎれもなく。
イゼルダは唇を閉じたまま、目だけで次の一文を追う。
『これはお前一人の感情で左右してよい話ではありません。お前にもモンティエール家の娘として果たすべき責務があります。感情に任せて家を飛び出すなど、幼い振る舞いとしか言えません。』
そこまで読んだところで、イゼルダはゆっくり息を吐いた。
感情に任せて。
幼い振る舞い。
文字の向こうで母がどんな顔をしているのかまで、ありありと想像できる。眉を少しひそめ、でも声は荒げず、落ち着いて諭すつもりでこの文を書いたのだろう。自分では、整った理屈で娘を正そうとしているつもりなのだ。
けれどその理屈の中には、一文たりとも、自分がどれほど苦しかったかを慮る言葉がない。
どうして家を出たのか。
どうしてあの縁談が耐えられなかったのか。
どうして、代わりとして嫁ぐことがそんなにも嫌だったのか。
そのどれにも触れていない。触れようとすらしていない。ただ、自分がいなくなったことで困る人間の列を並べ立て、戻れと言うだけだ。
まだ終わらない。
『何より、お前には感謝が足りません。これまで家がどれだけお前を守り、育ててきたかを忘れてはなりません。こうした形で恩を仇で返すことが、どれほど見苦しいか、少しは省みなさい。』
そこで初めて、イゼルダの胸の奥に熱いものが走った。
感謝が足りない。
守り、育ててきた。
恩を仇で返す。
ああ、と彼女は思う。やっぱり最後までそうなのだ。自分がしてきたことは数えられず、自分が与えられたものだけが語られる。屋根があること、食事があること、礼儀作法を学ばせたこと、そのすべてを恩として並べれば、娘がどんな形で差し出されても、黙って受けるべきだという話になる。
それが、あの家の論理だ。
読み終えるまで、そこから先はほとんど確信の確認だった。
『戻りなさい。お父様をこれ以上怒らせてはなりません。アデルリーヌにもきちんと謝るのです。』
『この手紙を受け取り次第、すぐに返事をしなさい。場所がどこであれ、必ず迎えをやります。』
『お前が余計な意地を張れば張るほど、苦しむのはお前自身です。』
最後の署名は、やはり母の名。
追伸のように一行だけ、父のものと思われる強い筆跡が添えられていた。
『戻れ。話はそれからだ。』
たったそれだけ。
イゼルダは、しばらく動けなかった。
紙を持つ指先が少し震えている。けれど、それが悲しみなのか怒りなのか、すぐには分からない。むしろ両方が凍った形で胸に沈んでいて、温度を失ったぶんだけずしりと重かった。
一文たりとも、なかった。
無事でよかったも。
心配していたも。
お前がどれほどつらかったのかも。
何もない。
あるのは、恥、怒り、姉の傷つき、家の責務、感謝の不足。
自分の苦しみは、そのどこにも数えられていない。
イゼルダは静かに紙を折り直した。最初に開いた時よりも、少しきつい折り目になる。うまくたためなかったのか、端がわずかにずれた。そのわずかな乱れが、自分の内側の乱れそのものみたいで、ひどくみじめだった。
「……ご気分が」
リネットがかすかに言いかける。だがセルマが目で制し、それ以上は何も言わせなかった。その配慮がありがたかった。いま優しい声で「大丈夫ですか」と問われたら、たぶん逆に耐えられなかっただろう。
イゼルダは顔を上げ、セルマへ向けて小さく言った。
「殿下は、いらっしゃいますか」
「執務室に」
「……お目通りを願えますか」
「もちろんです」
セルマは即座に立ち上がり、隣室へ入っていく。戻るまでのほんの短い時間が、ひどく長かった。イゼルダは封書を膝の上に置き、両手で押さえる。紙一枚なのに、まるで石みたいに重い。
ほどなくしてセルマが戻り、扉を開けたまま言った。
「どうぞ」
イゼルダは立ち上がる。膝が少しだけ頼りなかったが、歩けないほどではない。むしろ歩かなければ、この部屋で手紙を持ったまま凍ってしまいそうだった。
執務室へ入ると、オドランは机の前で立っていた。書類を読む手を止めてこちらを見ている。目の色が、窓の曇り空を映していつもより少し暗く見えた。
「どうぞ」
椅子を勧められたが、イゼルダは首を振った。
「立ったままで結構です」
「……そうですか」
無理に座らせようとはしない。そのことに少しだけ救われる。
イゼルダは封書を差し出した。
「実家からです」
「読んだのですね」
「はい」
オドランは手紙を受け取った。許可を求めるように一度だけ目で問い、そのまま開く。イゼルダは何も言わなかった。隠す必要はなかったし、隠したいとも思わなかった。これが自分の家なのだと、むしろ誰かに見てほしかったのかもしれない。
オドランは黙って目を通していく。母の長い文も、父の短い追伸も、表情をほとんど変えずに読んでいく。だが読み終えた時、彼の眉がごくわずかに寄った。その小さな変化が、イゼルダにはよく見えた。
「……なるほど」
低い声で、それだけ言う。
イゼルダは自分の指先を見た。いま彼に向かって何を言えばいいのか分からない。腹が立つとも、情けないとも、やっぱりという気持ちだとも、どれも半分ずつ本当で、うまく形にならない。
「ご覧のとおりです」
結局、そうとしか言えなかった。
「心配など、一つもありませんでした」
「ええ」
「わたくしがどうして家を出たのかも、どうしてあの縁談が嫌だったのかも、何も」
「ええ」
短い相槌。慰めるでも、綺麗な言葉を差し込むでもなく、ただ事実として受け止める声だった。
そのことに、イゼルダは少しだけ助けられる。軽い同情は、いまの自分にはかえって毒だっただろうから。
「戻れと」
イゼルダは息を整えるようにして言った。
「謝れと。姉が傷ついている、家に恥をかかせた、感謝が足りない、そういうことばかりで」
喉が少しだけ熱くなる。だが泣かない。泣いてたまるかという意地が、まだ身体のどこかに残っていた。
「一文たりとも、わたくしのことは書かれていませんでした」
オドランは手紙をたたみ、机の端へ置いた。捨てない。眉を寄せたままでも、怒りに任せて放り出したりはしない。その手つきは冷静だった。
「読む価値がない、とは言いません」
やがて彼は言った。
「こういう手紙にも、相手が何を見ているかはよく出ます」
「……」
「モンティエール家が、いま何を優先しているかも」
イゼルダは薄く笑いかけて、うまくいかずにやめた。
「家の恥と、姉の涙と、父の怒りです」
「そうですね」
その肯定は冷静で、そして容赦がなかった。あいまいに「そんなことはありません」と言われるより、ずっと救われる。
少しの沈黙のあと、オドランは手紙のほうへ視線を落とし、再びイゼルダを見る。
「返事を書くなら、君の言葉で書け」
イゼルダは息を止めた。
その一言は、あまりにもまっすぐだった。
母の手紙は、最初から最後まで、戻ってこいという命令で満ちていた。返事をしろ。場所を知らせろ。迎えをやる。家の意向に従え。つまり、返事を書くことすら、相手の望む形に回収されるための手続きとして差し出されている。
けれどオドランは、その流れをたった一言で断ち切った。
返事を書くなら、君の言葉で書け。
姉のためでもなく。
家の体面のためでもなく。
丸く収めるためでもなく。
君の言葉で。
その「君」が、自分を指していることが、イゼルダの胸に深く沁みた。
「……そんなことをして、よろしいのでしょうか」
気づけば、そんな弱い問いが口をついていた。よろしい、というのは誰に対してなのか自分でも曖昧だ。王家に対してか、父に対してか、自分自身に対してか。たぶん、その全部なのだろう。
「よろしいかどうかを、モンティエール家に決めさせる必要はありません」
オドランの声は静かだった。
「あなたが返すのなら、あなたの考えを返せばいい」
「……」
「返さないという選択もある」
それもまた、思いがけない言葉だった。
返さない。
そんなことを、本当にしてよいのか。
イゼルダは一瞬、母の筆跡を思い出す。父の追伸も。返事をしろ。必ず迎えをやる。その圧を、ずっと当たり前のように受け止めてきた。返すのが当然。従うのが当然。そういう前提で生きてきたから、返さないという選択肢そのものが、目の前に置かれるまで存在しなかった。
「ただ」
オドランは少しだけ声を落とした。
「返すことで自分の中が整理できるなら、書いたほうがいい」
「整理」
「ええ。相手を変えるためではなく、自分の立場を自分で確かめるために」
その言葉は、手紙の痛みを別の形へ変える道を示しているように聞こえた。相手を説得しなくていい。理解させようとしなくていい。母の手紙に対して、完璧な反論を作らなくていい。自分の中で、自分が何を拒み、何を望み、どこへ立つのかを、自分の言葉で確かめるために書けばいいのだと。
そんな手紙の書き方を、イゼルダは知らなかった。
書簡はいつだって、相手に合わせるものだった。礼を尽くし、家の顔を立て、相手が読みやすい形へ整えるもの。だがいま初めて、自分のために書くという発想を手渡される。
「……君の言葉で」
気づかぬうちに、イゼルダはその一言を繰り返していた。
「はい」
オドランはただ頷く。
「そうしないと、また相手の論理に引きずられます」
「……ええ」
まさしく、その通りだった。母の手紙を読んでいるあいだ、イゼルダは何度も昔の自分へ引き戻されそうになった。感謝が足りないのかもしれない。自分は幼いのかもしれない。姉を傷つけたのかもしれない。そうやって、相手の言葉を自分の中で増幅させてしまう。だがいま、「君の言葉で書け」と言われたことで、ようやくそれを一度外へ置ける気がした。
オドランは手紙を机の端から取り、改めて彼女へ差し出した。
「返事を書くなら、今夜でも構いません。紙と封蝋は用意させます」
「ありがとうございます」
「見せる必要もありません」
「……」
「あなたが望まない限りは」
その言い方に、イゼルダはほんの少しだけ目を見張った。
チェックしないのか。
内容を確認しないのか。
王宮にいる以上、勝手な返答は困る、と止めないのか。
そう思った顔をしたのだろう。オドランはごくわずかに目を細めた。
「あなたの家への返事です」
「ですが、王家の名のもとにいる以上」
「だからといって、あなたの言葉まで預かるつもりはありません」
きっぱりとした物言いだった。
その明確さが、イゼルダにはかえって眩しかった。王宮の保護下にいても、言葉まで差し出さなくてよいのだと、そう言われている。
胸の奥の冷えが、少しだけほどける。
「……はい」
今度の返事は、自分でも分かるほど静かだった。
オドランはそれ以上何も言わなかった。励ましも、家族を断罪する言葉も、母の手紙を罵るようなことも。ただ、必要な線だけを引いてくれた。その線の上で、自分がどう動くかは自分で決めろと、そう言っているのだ。
執務室を出る時、イゼルダは手紙をしっかり握っていた。さっきまで石みたいに重かった紙が、いまはまだ重いままでも、違う意味を帯び始めている。これは自分を責めるための文だ。けれどそれだけでは終わらせない。返すなら、自分の言葉で返す。
控えの間へ戻ると、セルマたちは何も聞かなかった。ただ、リネットが机の脇へ新しい紙束をそっと置いていた。上等すぎない、しかし書きやすそうな紙。言われなくても分かっているらしい、その沈黙の気遣いに、イゼルダは少しだけ胸が温かくなる。
夕方になり、仕事を終えて部屋へ戻る頃には、空はさらに重い色になっていた。窓の外の雲は朝より濃く、今にも雨になりそうな匂いがする。石造りの王宮は曇りの日ほど静かで、廊下を行き交う人の影もいつもより濃く見える。
部屋へ入り、扉を閉めたところで、イゼルダはようやく深く息を吐いた。
机の上へ手紙を置く。
向かいに椅子を引く。
ロザリオをそっと脇へ置く。
まだ返事を書き始める前なのに、胸の奥では何かが少しずつ整い始めていた。母の手紙はやはり痛い。読む前より傷ついていないとは言えない。けれど、その痛みをただ受けるだけでは終わらない場所に、いま自分はいる。
返事を書くなら、君の言葉で書け。
その一言が、何度も心の中で静かに響く。
イゼルダはペンを手に取った。
まだインクは紙に落ちていない。
けれど、今度こそ自分の言葉で書くのだと、手の中の重みが教えていた。
高い窓の向こうで、鉛色に近い雲がゆっくり流れている。陽は出ているはずなのに、その光はどこか遠慮がちで、白い石の壁にも淡くしか触れない。控えの間の中はいつもより少しだけ冷えていて、机の上に置かれた銀の茶器も、窓辺の花瓶に活けられた薄紫の花も、すべてが静かな灰色を一枚かぶったように見えた。
王宮の空気には少しずつ慣れ始めていた。
少なくとも、最初の一歩で息が詰まるような感覚はもうない。
朝の文書整理、来客の記録、返答の控え、女官見習いたちへの簡単な書式の確認。どれも派手ではない。だが派手でないことがむしろイゼルダにはありがたかった。目立たず、しかし確かに積み重なっていく仕事のほうが、いまの自分には合っている。何をすれば役に立つのかが分かる場所にいると、心の足場まで少しだけしっかりする気がした。
それでも、王都の噂は消えてはいなかった。
昨日の夕方、伯爵家が「次女は静養中だ」と答えているという話を耳にしてから、イゼルダの胸の奥にはひとつ、見えない棘が刺さったままだった。表向きには静養中。体面を守るためのもっともらしい言葉。あの家らしいと思う。あまりにらしくて、腹立たしさより先に、かえって冷えてしまうほどだった。
だから今日一日も、イゼルダは意識して手を止めないようにしていた。
考えれば考えるほど、家の中の空気や、母のやわらかい声や、父の低い命令や、姉の涙が蘇ってくる。それはまだ、自分を揺らす力を持っていた。だからこそ仕事に集中する。どの記録が抜けているか、どの順で返答を回すべきか、どの見習いが同じところで言葉に詰まるか。そうしたことを追っているあいだだけは、胸の内のざわめきが少し遠のく。
午後の半ば、控えの間の外で、短く扉を叩く音がした。
リネットがすぐに立ち上がり、対応に向かう。扉の向こうで小さな声が交わされ、そのあと彼女がいつもより少しだけ強ばった顔で戻ってきた。
「セルマ様」
「何ですか」
机の向こうで目録を見ていたセルマが顔を上げる。
リネットは一瞬だけイゼルダを見た。その視線に、イゼルダの背筋が自然と強ばる。よい知らせではない。そう分かる目だった。
「モンティエール家から、使いが」
部屋の空気が、そこでかすかに止まった。
セルマの目がわずかに細くなる。ミレーユも書類を持つ手を止めた。イゼルダ自身は、心臓が一度だけ大きく跳ねるのを感じたものの、それ以外は妙に静かだった。来るべきものが来た、という感覚に近い。噂を流しながら本人には何も言わないままでは終わらないだろうと、どこかで分かっていたのだ。
「手紙でございます」
リネットは続ける。
「至急お届けすべしとのことで、直接こちらに」
セルマが椅子から立ち上がった。
「封は」
「そのままです」
「差出人は」
「奥様のお名前で」
母から。
その言葉がイゼルダの胸に落ちる。父ではない。母。けれど、母の手紙が母だけの意思で書かれるとは思えなかった。あの人はいつだって、父の怒りと自分の体面と姉の涙を、一番都合のいい形でまとめて差し出してくる。
セルマは少しだけ考え、視線をイゼルダへ向けた。
「どうなさいますか」
「……受け取ります」
声は思ったより落ち着いていた。
リネットが廊下へ出て、すぐに戻ってくる。銀の盆の上に置かれた一通の封書。上質な厚手の紙に、モンティエール伯爵家の紋章がきっちりと押されている。封蝋は深い赤。見慣れた色だ。幼い頃から何度も見てきた、あの家の外向きの顔そのものみたいな整った封。
それを見た瞬間、イゼルダの指先がかすかに冷えた。
重そうに見えるのに、実際には軽い。そんな封書を、何度も扱ってきた。招待状への返事、詫び状、礼状、贈り物に添える挨拶。家の体面を整えるための文は、いつだって質のよい紙に乗せられていた。今、この手紙もその延長にあるのだと思うと、開ける前から中身の温度まで想像がついた。
「お部屋で、お読みになりますか」
セルマが訊く。
その気遣いはありがたかった。人前で家族の手紙を開くのは、たしかに気が進まない。けれどイゼルダは少しだけ考えてから、首を横に振った。
「ここで結構です」
逃げたくなかった。
手紙の中身がどれほど冷たかろうと、それを一人で受け止めて部屋へ閉じこもれば、余計に深く刺さる気がした。少なくとも、この部屋には仕事があり、他人の気配がある。そのほうが、完全に沈まずにすむ。
イゼルダは封書を受け取り、机の端へそっと置いた。封蝋に爪をかけると、小さく欠ける音がした。赤い蝋がひび割れ、紙の端へ粉のように落ちる。その小さな音だけで、やけに胸が痛む。
手紙を開く。
紙の折り目を広げる。
母の筆跡が目に入る。
やはり、見慣れた文字だった。細く、整っていて、少し右上がり。感情を露骨に滲ませない書き方をする人の字だ。美しい字だと昔は思っていた。いまも客観的には美しいのだろう。だが、その整いすぎた線を見た瞬間、イゼルダはそこに、家の中で何度も自分を追い詰めてきた声色まで読み取ってしまう。
『イゼルダへ』
それだけで、すでに胸が冷たくなった。
続きを読む。
『まず第一に、今回のお前の軽率な行動がモンティエール家にどれほど大きな恥をかかせたか、よく考えなさい。』
その最初の一文に、イゼルダは目を止めた。
軽率な行動。
家にどれほど大きな恥をかかせたか。
心配ではなく、非難から始まるのだと、分かってはいた。分かってはいたのに、やはり実際に文字で突きつけられると、胸の奥がひどく冷える。まるで最初の一行で、あの家が自分に何を求めているかの答え合わせをされたみたいだった。
心配している。どこにいるの。無事なの。そんな言葉はない。
代わりにあるのは、恥。
『お前が突然姿を消したことで、家中がどれだけ混乱したと思っているのです。使用人たちも落ち着かず、お父様はたいへんお怒りです。』
読み進める指先が少しずつ冷たくなる。
使用人たち。父の怒り。混乱。
自分の不在がどんなふうに語られているのかがよく分かる。いなくなった娘そのものではなく、それによって起きた混乱ばかりが数え上げられている。そこに、自分がどんな夜道を歩いたかも、どんな気持ちで門を抜けたかも、一片もない。
『アデルリーヌは、お前のしたことに深く心を痛めています。あの子がどれほど傷ついているか、お前には分からないのでしょうね。自分のことばかりで、周囲の気持ちが見えなくなっているのではありませんか。』
イゼルダは一度、紙から目を離した。
視界が少しだけ揺れる。けれど涙ではない。むしろ、あまりに予想どおりの言葉が並ぶせいで、涙に届く前に心が冷えていく。
アデルリーヌが傷ついている。
周囲の気持ちが見えなくなっている。
自分のことばかり。
それは昔から、自分が責められる時の決まり文句だった。自分が何か拒めば、姉が傷つく。自分が黙らずに意見を言えば、家の空気が乱れる。自分が自分の痛みを口にすれば、自分のことばかりになる。
では、自分のことを考えずにいた二十年は、何だったのだろう。
姉の代わりに立ち、家の都合に合わせ、求められるままに笑ってきたその時間は、まだ「自分のことばかり」なのだろうか。
手紙は続く。
『ロシュフォール侯爵家へは、ひとまずお前が静養に入ったと説明しております。だが、先方もいつまでもお待ちになるわけではありません。お前は一刻も早く戻り、事情を詫びた上で、縁談を受け入れなさい。』
詫びた上で。
縁談を受け入れなさい。
命令だった。まぎれもなく。
イゼルダは唇を閉じたまま、目だけで次の一文を追う。
『これはお前一人の感情で左右してよい話ではありません。お前にもモンティエール家の娘として果たすべき責務があります。感情に任せて家を飛び出すなど、幼い振る舞いとしか言えません。』
そこまで読んだところで、イゼルダはゆっくり息を吐いた。
感情に任せて。
幼い振る舞い。
文字の向こうで母がどんな顔をしているのかまで、ありありと想像できる。眉を少しひそめ、でも声は荒げず、落ち着いて諭すつもりでこの文を書いたのだろう。自分では、整った理屈で娘を正そうとしているつもりなのだ。
けれどその理屈の中には、一文たりとも、自分がどれほど苦しかったかを慮る言葉がない。
どうして家を出たのか。
どうしてあの縁談が耐えられなかったのか。
どうして、代わりとして嫁ぐことがそんなにも嫌だったのか。
そのどれにも触れていない。触れようとすらしていない。ただ、自分がいなくなったことで困る人間の列を並べ立て、戻れと言うだけだ。
まだ終わらない。
『何より、お前には感謝が足りません。これまで家がどれだけお前を守り、育ててきたかを忘れてはなりません。こうした形で恩を仇で返すことが、どれほど見苦しいか、少しは省みなさい。』
そこで初めて、イゼルダの胸の奥に熱いものが走った。
感謝が足りない。
守り、育ててきた。
恩を仇で返す。
ああ、と彼女は思う。やっぱり最後までそうなのだ。自分がしてきたことは数えられず、自分が与えられたものだけが語られる。屋根があること、食事があること、礼儀作法を学ばせたこと、そのすべてを恩として並べれば、娘がどんな形で差し出されても、黙って受けるべきだという話になる。
それが、あの家の論理だ。
読み終えるまで、そこから先はほとんど確信の確認だった。
『戻りなさい。お父様をこれ以上怒らせてはなりません。アデルリーヌにもきちんと謝るのです。』
『この手紙を受け取り次第、すぐに返事をしなさい。場所がどこであれ、必ず迎えをやります。』
『お前が余計な意地を張れば張るほど、苦しむのはお前自身です。』
最後の署名は、やはり母の名。
追伸のように一行だけ、父のものと思われる強い筆跡が添えられていた。
『戻れ。話はそれからだ。』
たったそれだけ。
イゼルダは、しばらく動けなかった。
紙を持つ指先が少し震えている。けれど、それが悲しみなのか怒りなのか、すぐには分からない。むしろ両方が凍った形で胸に沈んでいて、温度を失ったぶんだけずしりと重かった。
一文たりとも、なかった。
無事でよかったも。
心配していたも。
お前がどれほどつらかったのかも。
何もない。
あるのは、恥、怒り、姉の傷つき、家の責務、感謝の不足。
自分の苦しみは、そのどこにも数えられていない。
イゼルダは静かに紙を折り直した。最初に開いた時よりも、少しきつい折り目になる。うまくたためなかったのか、端がわずかにずれた。そのわずかな乱れが、自分の内側の乱れそのものみたいで、ひどくみじめだった。
「……ご気分が」
リネットがかすかに言いかける。だがセルマが目で制し、それ以上は何も言わせなかった。その配慮がありがたかった。いま優しい声で「大丈夫ですか」と問われたら、たぶん逆に耐えられなかっただろう。
イゼルダは顔を上げ、セルマへ向けて小さく言った。
「殿下は、いらっしゃいますか」
「執務室に」
「……お目通りを願えますか」
「もちろんです」
セルマは即座に立ち上がり、隣室へ入っていく。戻るまでのほんの短い時間が、ひどく長かった。イゼルダは封書を膝の上に置き、両手で押さえる。紙一枚なのに、まるで石みたいに重い。
ほどなくしてセルマが戻り、扉を開けたまま言った。
「どうぞ」
イゼルダは立ち上がる。膝が少しだけ頼りなかったが、歩けないほどではない。むしろ歩かなければ、この部屋で手紙を持ったまま凍ってしまいそうだった。
執務室へ入ると、オドランは机の前で立っていた。書類を読む手を止めてこちらを見ている。目の色が、窓の曇り空を映していつもより少し暗く見えた。
「どうぞ」
椅子を勧められたが、イゼルダは首を振った。
「立ったままで結構です」
「……そうですか」
無理に座らせようとはしない。そのことに少しだけ救われる。
イゼルダは封書を差し出した。
「実家からです」
「読んだのですね」
「はい」
オドランは手紙を受け取った。許可を求めるように一度だけ目で問い、そのまま開く。イゼルダは何も言わなかった。隠す必要はなかったし、隠したいとも思わなかった。これが自分の家なのだと、むしろ誰かに見てほしかったのかもしれない。
オドランは黙って目を通していく。母の長い文も、父の短い追伸も、表情をほとんど変えずに読んでいく。だが読み終えた時、彼の眉がごくわずかに寄った。その小さな変化が、イゼルダにはよく見えた。
「……なるほど」
低い声で、それだけ言う。
イゼルダは自分の指先を見た。いま彼に向かって何を言えばいいのか分からない。腹が立つとも、情けないとも、やっぱりという気持ちだとも、どれも半分ずつ本当で、うまく形にならない。
「ご覧のとおりです」
結局、そうとしか言えなかった。
「心配など、一つもありませんでした」
「ええ」
「わたくしがどうして家を出たのかも、どうしてあの縁談が嫌だったのかも、何も」
「ええ」
短い相槌。慰めるでも、綺麗な言葉を差し込むでもなく、ただ事実として受け止める声だった。
そのことに、イゼルダは少しだけ助けられる。軽い同情は、いまの自分にはかえって毒だっただろうから。
「戻れと」
イゼルダは息を整えるようにして言った。
「謝れと。姉が傷ついている、家に恥をかかせた、感謝が足りない、そういうことばかりで」
喉が少しだけ熱くなる。だが泣かない。泣いてたまるかという意地が、まだ身体のどこかに残っていた。
「一文たりとも、わたくしのことは書かれていませんでした」
オドランは手紙をたたみ、机の端へ置いた。捨てない。眉を寄せたままでも、怒りに任せて放り出したりはしない。その手つきは冷静だった。
「読む価値がない、とは言いません」
やがて彼は言った。
「こういう手紙にも、相手が何を見ているかはよく出ます」
「……」
「モンティエール家が、いま何を優先しているかも」
イゼルダは薄く笑いかけて、うまくいかずにやめた。
「家の恥と、姉の涙と、父の怒りです」
「そうですね」
その肯定は冷静で、そして容赦がなかった。あいまいに「そんなことはありません」と言われるより、ずっと救われる。
少しの沈黙のあと、オドランは手紙のほうへ視線を落とし、再びイゼルダを見る。
「返事を書くなら、君の言葉で書け」
イゼルダは息を止めた。
その一言は、あまりにもまっすぐだった。
母の手紙は、最初から最後まで、戻ってこいという命令で満ちていた。返事をしろ。場所を知らせろ。迎えをやる。家の意向に従え。つまり、返事を書くことすら、相手の望む形に回収されるための手続きとして差し出されている。
けれどオドランは、その流れをたった一言で断ち切った。
返事を書くなら、君の言葉で書け。
姉のためでもなく。
家の体面のためでもなく。
丸く収めるためでもなく。
君の言葉で。
その「君」が、自分を指していることが、イゼルダの胸に深く沁みた。
「……そんなことをして、よろしいのでしょうか」
気づけば、そんな弱い問いが口をついていた。よろしい、というのは誰に対してなのか自分でも曖昧だ。王家に対してか、父に対してか、自分自身に対してか。たぶん、その全部なのだろう。
「よろしいかどうかを、モンティエール家に決めさせる必要はありません」
オドランの声は静かだった。
「あなたが返すのなら、あなたの考えを返せばいい」
「……」
「返さないという選択もある」
それもまた、思いがけない言葉だった。
返さない。
そんなことを、本当にしてよいのか。
イゼルダは一瞬、母の筆跡を思い出す。父の追伸も。返事をしろ。必ず迎えをやる。その圧を、ずっと当たり前のように受け止めてきた。返すのが当然。従うのが当然。そういう前提で生きてきたから、返さないという選択肢そのものが、目の前に置かれるまで存在しなかった。
「ただ」
オドランは少しだけ声を落とした。
「返すことで自分の中が整理できるなら、書いたほうがいい」
「整理」
「ええ。相手を変えるためではなく、自分の立場を自分で確かめるために」
その言葉は、手紙の痛みを別の形へ変える道を示しているように聞こえた。相手を説得しなくていい。理解させようとしなくていい。母の手紙に対して、完璧な反論を作らなくていい。自分の中で、自分が何を拒み、何を望み、どこへ立つのかを、自分の言葉で確かめるために書けばいいのだと。
そんな手紙の書き方を、イゼルダは知らなかった。
書簡はいつだって、相手に合わせるものだった。礼を尽くし、家の顔を立て、相手が読みやすい形へ整えるもの。だがいま初めて、自分のために書くという発想を手渡される。
「……君の言葉で」
気づかぬうちに、イゼルダはその一言を繰り返していた。
「はい」
オドランはただ頷く。
「そうしないと、また相手の論理に引きずられます」
「……ええ」
まさしく、その通りだった。母の手紙を読んでいるあいだ、イゼルダは何度も昔の自分へ引き戻されそうになった。感謝が足りないのかもしれない。自分は幼いのかもしれない。姉を傷つけたのかもしれない。そうやって、相手の言葉を自分の中で増幅させてしまう。だがいま、「君の言葉で書け」と言われたことで、ようやくそれを一度外へ置ける気がした。
オドランは手紙を机の端から取り、改めて彼女へ差し出した。
「返事を書くなら、今夜でも構いません。紙と封蝋は用意させます」
「ありがとうございます」
「見せる必要もありません」
「……」
「あなたが望まない限りは」
その言い方に、イゼルダはほんの少しだけ目を見張った。
チェックしないのか。
内容を確認しないのか。
王宮にいる以上、勝手な返答は困る、と止めないのか。
そう思った顔をしたのだろう。オドランはごくわずかに目を細めた。
「あなたの家への返事です」
「ですが、王家の名のもとにいる以上」
「だからといって、あなたの言葉まで預かるつもりはありません」
きっぱりとした物言いだった。
その明確さが、イゼルダにはかえって眩しかった。王宮の保護下にいても、言葉まで差し出さなくてよいのだと、そう言われている。
胸の奥の冷えが、少しだけほどける。
「……はい」
今度の返事は、自分でも分かるほど静かだった。
オドランはそれ以上何も言わなかった。励ましも、家族を断罪する言葉も、母の手紙を罵るようなことも。ただ、必要な線だけを引いてくれた。その線の上で、自分がどう動くかは自分で決めろと、そう言っているのだ。
執務室を出る時、イゼルダは手紙をしっかり握っていた。さっきまで石みたいに重かった紙が、いまはまだ重いままでも、違う意味を帯び始めている。これは自分を責めるための文だ。けれどそれだけでは終わらせない。返すなら、自分の言葉で返す。
控えの間へ戻ると、セルマたちは何も聞かなかった。ただ、リネットが机の脇へ新しい紙束をそっと置いていた。上等すぎない、しかし書きやすそうな紙。言われなくても分かっているらしい、その沈黙の気遣いに、イゼルダは少しだけ胸が温かくなる。
夕方になり、仕事を終えて部屋へ戻る頃には、空はさらに重い色になっていた。窓の外の雲は朝より濃く、今にも雨になりそうな匂いがする。石造りの王宮は曇りの日ほど静かで、廊下を行き交う人の影もいつもより濃く見える。
部屋へ入り、扉を閉めたところで、イゼルダはようやく深く息を吐いた。
机の上へ手紙を置く。
向かいに椅子を引く。
ロザリオをそっと脇へ置く。
まだ返事を書き始める前なのに、胸の奥では何かが少しずつ整い始めていた。母の手紙はやはり痛い。読む前より傷ついていないとは言えない。けれど、その痛みをただ受けるだけでは終わらない場所に、いま自分はいる。
返事を書くなら、君の言葉で書け。
その一言が、何度も心の中で静かに響く。
イゼルダはペンを手に取った。
まだインクは紙に落ちていない。
けれど、今度こそ自分の言葉で書くのだと、手の中の重みが教えていた。
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