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第10話 王弟殿下は、少しだけ優しすぎる
王宮で迎える四日目の朝、イゼルダはようやく、自分の机の位置を身体で覚えはじめていた。
王弟付きの控えの間は、最初に足を踏み入れた時よりも少しだけ狭く感じるようになっていた。もちろん、実際に部屋が狭くなったわけではない。窓の位置も、書架の並びも、仕分け箱の置かれた机の高さも、何一つ変わっていない。変わったのは、イゼルダの身体のほうだ。どの位置に立てば来客の出入りを邪魔しないか、どの机の端に手を置けば書類が崩れないか、セルマが声をかけるより半呼吸早く、どの文書が必要になるか。そういうことが、少しずつ身についてきた。
窓の外では、薄い春の日差しが石畳を明るくしている。今日の空は久しぶりに高く、曇り続きだった数日分の湿り気を押し返すような青さだった。開け放たれてはいない窓の隙間から、乾いた風がかすかに入り込む。冷たいが、気持ちのよい風だった。
机の上に広げた目録へ追記をしていると、控えめなノックのあとで、いつもの従者が扉を開けた。
「王弟殿下より」
差し出されたのは、一枚の書状だった。厚手の紙に王家の紋章が押されている。けれど封はされていない。事務的な伝達書なのだと分かる。
イゼルダは立ち上がり、両手で受け取った。
短い文面だった。
『イゼルダ・モンティエールを、本日より王弟付き文書管理および女官教育補佐役として正式に預かる。必要な権限と出入りの許可を与え、関係各所へ通達すること。』
署名は、オドラン・ド・ヴァルレイン。
それだけだ。
それだけなのに、文字を追い終えた瞬間、イゼルダは小さく息を呑んだ。
正式に。
控えの間へ来て数日は、まだどこか仮の場所に立っている気分が抜けなかった。仕事を任されても、席を与えられても、王宮に一時的に置かれているだけの娘だという感覚が、どうしても心のどこかに残っていた。家から逃げてきた令嬢が、たまたま王弟の気まぐれに拾われて、今だけ仕事をしている。そんな不安が、眠りの浅い夜ごとに胸の奥で息をしていた。
けれど、いま手の中にある紙は、その不安へはっきりと線を引く。
仮ではない。
曖昧でもない。
役目の名でここにいるのだと、王家の署名入りで示される。
「……正式に、でいらっしゃいますか」
思わずそう呟くと、従者はごく淡く頷いた。
「通達はすでに回り始めております。出入りに不都合はなくなるかと」
「ありがとうございます」
礼を言ったものの、その声は自分でも少し頼りなかった。紙一枚で、どうしてこんなにも胸が揺れるのだろう。嬉しいのか、不安なのか、その両方なのか、すぐには分からない。ただ、名前と役目が書かれたその短い文が、ここ数日でようやくつかみかけていた足場の下へ、さらにもう一枚、固い板を差し込んでくれたような感覚があった。
従者が下がると、リネットが机の端からそっと顔を上げた。
「おめでとうございます、イゼルダ様」
その言い方は、よく出来た挨拶というより、ちゃんとそう思ってくれている人の声だった。イゼルダは紙を机へ置き、少しだけ困ったように笑う。
「おめでとう、と言っていいものかしら」
「いいと思います。少なくとも、これで皆さま、余計な顔をしにくくなります」
リネットの現実的な返しに、思わず小さく笑いそうになった。たしかにそうだ。正式な役目があると決まれば、ただの客人や噂の種として見ることは難しくなる。王宮では、立場の曖昧さこそが最も扱いづらいのだろう。
セルマもまた書類から顔を上げ、短く言った。
「よいことです。仕事の指示も通しやすくなりますから」
祝福の言葉としてはずいぶん事務的だが、セルマらしいと思う。けれどその声音の底には、少なくとも拒絶はなかった。いまや彼女の中でも、イゼルダは「王弟殿下の気まぐれで置かれた娘」ではなく、きちんと役目を果たす者として数えられ始めているのだと分かる。
その日の午前は、驚くほど忙しかった。
正式な通達が回ったせいか、これまでセルマやミレーユの手元で留まっていた細かな仕事まで、少しずつイゼルダの机へ流れてくる。新しい女官見習いたちの名簿整理。文書棚に入る前の控えの確認。来客名簿の転記の揺れの修正。仕事そのものは嫌ではなかった。むしろ、自分の机に書類が置かれるたび、ここにいてよい理由がひとつずつ増えていくようで、少しだけ胸の奥が落ち着いた。
だが、忙しさというものは、ときに人の呼吸の仕方まで奪う。
昼前の控えの間は、扉の開閉と人の出入りと紙の擦れる音で満ちていた。来客予定が二つ重なり、片方は時間を早め、もう片方は書類の差し替えを要求してくる。リネットが盆を持って小走りになり、ミレーユは記録簿を抱えて隣室と行き来し、セルマの声だけがその混乱の中で不思議なほど一定の高さを保っていた。
「そちらは先に控えへ」
「返答文は青の封蝋で」
「イゼルダ様、その一覧をこちらへ」
呼ばれるたびに返事をし、紙を受け取り、整え、次へ渡す。机に向かって座る時間より立っている時間のほうが長い。頭は冴えているのに、身体だけが少しずつ重くなっていく。昨夜も完全に深く眠れたわけではない。実家への返事を書くために机へ向かい、自分の言葉で何を書くべきかを考え続け、結局一通目は破り、二通目も途中で止めた。朝にはまだ完成していない手紙が机の引き出しに入っている。
だからだろうか。十二時を少し回った頃には、視界の端がわずかに白くなり始めていた。
大丈夫、とイゼルダは心の中で自分に言う。まだ大丈夫。ここで手を止めるほどではない。自分が倒れたわけでもないし、誰かに迷惑をかけているわけでもない。これくらいで休むのは甘えだ。そういう考えが、反射のように先に立つ。
だが次の瞬間、机の上へ新しい書類を置こうとしていた手が、わずかに空を滑った。ほんの数寸、位置を外しただけ。紙束は落ちなかった。だが、その小さな乱れを見逃さなかった人がいた。
「イゼルダ」
低い声が、すぐ近くで落ちる。
気づけばオドランが控えの間へ戻ってきていた。いつの間にか執務室の扉が開いていたらしい。イゼルダは反射的に背筋を伸ばす。
「はい」
「その書類は急ぎません。こちらへ」
言われた意味が最初は分からなかった。こちらへ、とはどこへだろう。けれどオドランはすでに窓際の小さな卓へ目を向けている。そこにはいつの間にか湯気の立つカップが二つと、小皿に載せられた薄い焼き菓子が置かれていた。
イゼルダは一瞬、戸惑って立ち止まる。
「殿下、まだ一覧が」
「セルマ」
オドランはイゼルダの言葉を遮るように名を呼んだ。
「五分だけ止めてください」
「承知しました」
セルマは驚きもせず頷いた。それがかえって、こういうことが珍しくないのだと知らせる。
五分だけ。
たったそれだけの短い休憩なのに、イゼルダには妙に落ち着かなかった。自分だけが呼ばれたことも、仕事の流れを止められたことも。だがオドランは、そうした戸惑いに構わず言った。
「座って」
命令と呼ぶには静かすぎる声だった。だが逆らう余地はなく、イゼルダは小さく「はい」と返して窓際の椅子へ腰を下ろした。足が思っていた以上に疲れていたことに、その瞬間初めて気づく。膝の裏から力が抜けるような感覚があった。
目の前に置かれたカップからは、やわらかな香りが立っていた。紅茶ではない。薬草茶に近い、けれど苦すぎない、少し甘い匂い。焼き菓子には蜜で煮た薄い果皮が添えられている。
「それを飲んでください」
オドランは向かいには座らなかった。卓の横に立ったまま、書類を一枚手にしている。休憩を与えながら、自分は仕事の流れを切らないのだと分かる立ち方だった。
「わたくしだけ……」
「あなただけではありません。疲れた者には休ませます」
「ですが」
「イゼルダ」
名前を呼ばれると、それだけで言葉が止まる。
「手が震えていました」
その指摘に、イゼルダは思わず自分の手を見た。たしかに、カップを持つ前の指先は少し強ばっている。書類を落とさなかったから大丈夫だと思っていた。けれど、見ている人は見ているのだ。
「……失礼いたしました」
「失礼ではありません」
オドランの声はいつも通り低かった。
「倒れられるほうが困る」
「……」
「休める時に休むのも仕事です」
その言い方は、優しいというより現実的だ。だがその現実的な言い方こそが、イゼルダにはかえって沁みる。気遣いを押しつけられるのは苦手だった。大丈夫、大事にしなさい、無理してはだめ。そういう言葉は、時に相手を子ども扱いして、役目から遠ざける。だがオドランの言い方は違う。休むことも仕事のうちだと言う。役目を果たすための一部として、休憩を差し挟む。
それがありがたかった。
イゼルダはカップを持ち上げ、口をつける。温かさが唇に触れた瞬間、思っていた以上に身体が冷えていたことに気づく。飲み込むと、胸の奥へやわらかな熱が落ちていく。薬草と蜂蜜の淡い香りが鼻へ抜けた。
「……おいしい」
思わず漏れると、オドランは手元の書類から目を離さないまま言った。
「リネットに頼みました。胃に優しいものを」
「リネットが」
「ええ。あなたは今朝、紅茶にほとんど口をつけていなかったそうです」
イゼルダは驚いて顔を上げた。リネットがそこまで見ていたことにも、オドランがそれを聞いていたことにも。たしかに朝、緊張で紅茶の味がほとんど分からず、口を湿らせる程度しか飲めなかった。そんな些細なことまで。
「殿下は……」
そこまで言って、続きが見つからない。細かすぎる、と言えば失礼だろうか。気づきすぎる、と言えば責めているように聞こえるだろうか。
けれどオドランは、書類へ視線を落としたまま、ごく平然と言った。
「働く人間の調子を見ないと、配置を誤ります」
それだけだ。
まるで、そこに特別な意味など一つもないかのように。だがイゼルダには、その無造作さのほうが余計に胸に残った。誰かを気にかけていることを大袈裟にしない人なのだ。優しさを優しさとして見せつけるのではなく、必要な配慮として自然に差し込んでくる。だからこそ、受け取る側は不意を突かれる。
五分の休憩は本当に五分で終わった。
カップを空にする頃には、さっきまで白く揺れていた視界は落ち着いていた。焼き菓子も半分ほど口にすると、胸の奥の空っぽな感じが少し薄くなる。席を立つ時、オドランはただ「戻りましょうか」と言っただけだった。休んだことをわざわざ言い立てない。その扱いが、イゼルダにはまたありがたかった。
午後には別の形で、彼の配慮を思い知ることになった。
王都でも顔の広い年配の伯爵夫人が、王弟へ面会に訪れたのだ。夫人は表向きはある慈善催しの後援について話しに来たのだが、実際には別の好奇心を抱えていることが、控えの間へ入ってきた瞬間から分かった。香りの強い菫の香油、飾りの多い帽子、そして笑っているのに笑っていない目。そういう目を、イゼルダは社交界で何度も見てきた。
セルマは一瞬だけイゼルダを見たあと、何も言わなかった。だがその視線には「離れていなさい」と「逃げるな」が同時に含まれている。つまり、完全に姿を消す必要はないが、前へ出すぎるな、という意味だ。
イゼルダは控えの間の端に控え、必要な書類だけをすぐ出せる位置に立った。
伯爵夫人は、最初の数分こそ後援の話を上品に進めた。だが茶が半分ほど減った頃、予想どおり、視線をふわりとこちらへ寄越した。
「あら」
わざとらしく言う。
「そちらのお嬢さん、最近お見かけしたような……」
イゼルダの背筋に冷たいものが走る。顔には出さない。出してはいけない。そう思うほど、昔から慣れた動作で唇の端が整えられる。
伯爵夫人は扇の向こうで微笑んだ。
「モンティエール家の……」
「本日の後援についてですが」
その瞬間、オドランの声が重なった。
柔らかくも大きくもない。だが、相手の言葉をそこで切るには十分な低さだった。伯爵夫人が一瞬だけ目をしばたたく。オドランは続ける。
「先ほどの費用配分の件、こちらで修正案を出しています。ご覧になりますか」
言いながら、彼はイゼルダのほうを見ずに手を伸ばした。だがその手が差し出された先は、まっすぐイゼルダが持っていた書類の束だった。呼ばれなくても分かる。さっき机の端へ分けてあった青い印の紙だ。
イゼルダはすぐにそれを差し出す。オドランは受け取り、伯爵夫人の目の前へ置いた。会話の流れは完全にそちらへ戻る。夫人はさすがにそれ以上、露骨にこちらへ話を向けられなかった。
面会が終わり、夫人の一行が去ったあとで、イゼルダは書類の束を持ち直しながら小さく息を吐いた。自分でも気づかないうちに、肩へ力が入っていたらしい。そこへ、オドランが何気ない調子で言う。
「苦手でしょう。ああいう手合いは」
イゼルダは一瞬、返事を失った。
苦手でしょう。
断定ではなく、問いかけでもない。こちらの様子を見て、当然のようにそう言う口ぶりだった。
「……はい」
認めると、少しだけ悔しい気もした。社交界にいた以上、こういう好奇心の目には慣れているつもりだった。だが慣れていることと、平気でいられることは違う。イゼルダの返答を聞いたオドランは、やはり大きな反応はしない。ただ、
「ですから、あなたが前へ出なくて済むように話を切りました」
と、それだけ告げた。
言葉のあまりの率直さに、イゼルダは戸惑う。
「わたくしのために、でいらっしゃいますか」
「ええ」
「……」
「不都合でしたか」
「いえ、まさか」
むしろ救われた、と言いかけて、飲み込む。そういう言葉を軽々しく口にすると、かえって自分の揺れが大きくなりそうだったからだ。
オドランはそれ以上追及しなかった。ただ、次の書類へ目を落としながら言う。
「あなたが前に立つ必要がある時は立ってもらいます。そうでない時まで、無理に矢面へ出すつもりはありません」
「……はい」
その一言の中に、仕事の線引きと、守るための線引きの両方が含まれているのが分かる。前へ出るべき時は出る。だが必要のない傷まで受ける理由はない。冷たい人だと思っていた。実際、彼の言葉は甘くない。けれど、その冷たさは人を切り捨てるためではなく、守るべき範囲を明確にするための冷たさなのだと、少しずつ分かってきた。
数日が過ぎるごとに、そんなことが増えていった。
午後の仕事が立て込んだ日は、気づけば控えの間の隅に小さな休憩の時間が差し込まれている。リネットが持ってくる茶は、濃すぎず、でも甘すぎない。最初は偶然かと思った。だが二度、三度と重なるうち、それが偶然ではないのだと分かる。書類の量が多い日、面会が続く日、女官見習いたちの指導で長く立ちっぱなしになる日。そういう日の合間には、必ずと言っていいほど、自然な形で「今のうちにこちらをどうぞ」や「その件は後でもよい」が挟まる。
それはセルマの判断でもあるのだろう。だが、きっかけはたいていオドランの一言だった。
「このあとは十五分空いています」
「それは明日に回しましょう」
「イゼルダ、こちらを先に」
そうした短い指示のひとつひとつが、結果として彼女に呼吸を与えていた。
そして何より厄介なのは、その優しさが、決して見せつけがましくないことだった。
もし分かりやすく甘やかされれば、イゼルダはすぐに身を固くしただろう。特別扱いされることに慣れていないし、怖さのほうが先に立つ。だがオドランの配慮は、どれも仕事の流れの中に溶けている。誰かに見せるためではなく、ただ必要だからそうしているようにしか見えない。だからこそ、受け取った側だけが遅れて気づく。
王弟殿下は、少しだけ優しすぎる。
そんな考えが、何度目かの午後、ふと胸をよぎった。
その日は朝から来客が多く、控えの間の空気も少し張っていた。ミレーユが午後の名簿を読み上げ、セルマが順序を確認し、イゼルダは返答文の控えを揃えていた。窓の外はよく晴れているのに、室内は紙とインクの匂いで満ちている。集中していると時間の感覚が薄れ、気づけば肩が重くなっている。
「イゼルダ様」
その時、リネットが小声で呼んだ。
「はい?」
「お茶を」
差し出された盆の上には、いつもの薬草茶ではなく、薄い琥珀色の茶があった。香りを吸い込んだ瞬間、イゼルダは少し驚く。伯爵家にいた頃、母が好んでいた高価な花茶に似ている。けれど母の茶ほど香りが強すぎず、やわらかい。
「これは……」
「殿下が」
リネットが少しだけ声を落とす。
「昨日はあまり眠れていないようだったから、と」
イゼルダはリネットを見た。リネットは気まずそうでもあり、少し楽しそうでもある、妙な顔をしている。
「わたくしが、眠れていないように」
「……今朝、目の下が少し」
「ああ」
思わずそれ以上言葉が出なかった。昨夜は実家への返事をようやく書き上げたのだ。オドランの言う通り、自分の言葉で。戻らないこと。縁談を受けないこと。姉の代わりとして生きるつもりはないこと。家が自分の痛みを見ようとしない以上、自分もまた家の都合へは戻らないこと。何度も書き直し、夜更けまでかかった。そのせいで眠りが浅かったのは事実だ。
だが、それを誰かに見抜かれるとは思っていなかった。ましてや、彼に。
「……殿下は、そんなところまで」
リネットは肩をすくめるようにして笑う。
「よくご覧になっています」
「皆に、ですか」
「え?」
「いえ……」
咄嗟に誤魔化したが、問いは胸に残った。
皆に、なのだろうか。
働く人間の調子を見る。配置を誤らないために。そう彼は言った。その理屈は分かる。だからこそ分からない。ここまで細やかに見ているのが、ただ仕事上の当然なのか、それとも自分へ少しだけ多く向けられているものなのか。
そんなことを考える自分が嫌だった。身の程知らずだ、と心のどこかがすぐに言う。王弟がたまたま補佐役の体調へ気を配っているだけかもしれない。それを特別だと勘違いするのは、ひどくみっともない。
けれど、気づいてしまったものは仕方がない。
細やかすぎるのだ。
逃げ道が用意されすぎているのだ。
必要な時に必要なだけ、静かに守られすぎているのだ。
そしてそのすべてが、甘い言葉ではなく行動で示されるから、余計に心へ残る。
夕方、最後の書類を整理し終えて窓の外を見ると、空はもう橙色へ傾いていた。西日が王宮の石壁を薄く染め、長い影が回廊の床を渡っている。今日も無事に終わった、という安堵がわずかに胸を緩める。
その時、オドランが執務室から出てきた。
セルマがすぐに本日の報告へ入る。来客数、返答文の進捗、明日へ持ち越す案件。イゼルダは少し離れた机の端で、今日使った目録を揃えながら耳だけを向けていた。
「以上です」
セルマが報告を終えると、オドランは短く頷いた。
「分かりました。明日の午前は外からの客を絞ります。その代わり、午後に文書整理へ時間を回す」
「承知しました」
そこまで話してから、彼の視線がイゼルダへ向いた。
「イゼルダ」
また、名前。
それだけで胸が静かに揺れる自分を、もうごまかしきれなかった。
「はい」
「今日はもう終わりです。返事の件もあるでしょう。無理に残らなくていい」
返事の件。
イゼルダは少しだけ驚いた。昨夜書いた手紙は、まだオドランに見せていない。見せる必要もないと言われていた。だから自分の中だけにあるものだと思っていた。けれど彼は、その存在をちゃんと覚えていたのだ。
「……ありがとうございます」
そう答えると、オドランはごく淡く頷くだけだった。
「明日の朝、返すなら使いは回します」
「はい」
それ以上はない。なのに、十分すぎるほどだった。
部屋へ戻る途中、窓に映った自分の顔を見て、イゼルダは少しだけ目を細めた。疲れている。たしかに疲れている。けれど、屋敷にいた頃のような、削り取られたあとの疲れではなかった。働いて、気を張って、それでもなお自分の輪郭が残っている疲れだ。
その違いを、自分はもう知ってしまった。
部屋へ入る。扉を閉める。机の引き出しから、昨夜書き上げた実家への返事を取り出す。封をしていない紙の上に、自分の字が並んでいる。まだ読み返していない。けれど、その紙を見つめながら、イゼルダは椅子へ腰を下ろした。
窓の外では夕暮れが深くなり、空の青と橙が静かに混ざっている。
王弟オドランは冷たい人だと思っていた。
実際、言葉は少ないし、無駄な甘さもない。
けれど、彼は誰より静かに人を守る。
疲れている日には、呼吸のための五分が差し込まれる。
苦手な場には、逃げ道が先に用意される。
眠れていない夜の翌朝には、それに合った茶が置かれる。
その優しさはあまりに細くて、ひとつひとつは小さい。だからこそ、積み重なると効いてくる。大きな恩にして返せないほどではないのに、気づけば胸の奥へ深く残ってしまう。
そして、こんなことを考えてしまう自分が、少し怖い。
もしかして。
もしかすると。
この優しさは、自分だけに向けられているのではないか。
そんなふうに意識し始めたら、たぶんもう前と同じではいられない。
イゼルダは机の上の封書へ手を伸ばし、その前にふと止まった。胸の内のざわめきは、家族の手紙を読んだ時とは別の意味で落ち着かない。苦しいのではない。ただ、どう扱えばいいのか分からない温度だった。
「……少しだけ、優しすぎるのよ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
夕暮れの部屋が、その独り言を静かに受け止めた。外では風が王宮の高い壁を撫でている。見上げれば、窓枠の向こうに残照が細く伸びていた。
王弟殿下は、少しだけ優しすぎる。
その優しさに気づいてしまった自分もまた、たぶんもう少しだけ、後戻りができなくなっていた。
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