余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します

なつめ

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第44話 許すことと戻ることは違います



 翌朝の空は、薄い雲を一枚だけまとっていた。

 晴れていると言えば晴れている。けれど、陽はまだ春の強さを持たず、白い光のまま南の別邸へ静かに落ちている。湖の水面は柔らかく明るいのに、風には夜の冷えが少し残っていた。庭の白と青の花は、その光の中で昨日よりほんの少しだけ輪郭を増して見える。白はより白く、青はまだ頼りないまま、けれど確かに数を増やしていた。

 リュゼリアは、その朝の光をしばらく寝台の上から見ていた。

 目を覚ました時、咳はすぐには来なかった。代わりに先に来たのは、胸の奥の鈍い重みと、喉の奥に残る薄いひりつきだった。体は変わらず弱っている。深く息を吸おうとすれば、肺の裏側を細い爪で引っかかれるみたいな痛みが走ることも、もうよく知っている。

 それでも今朝は、昨日の夜より少しだけ呼吸がましだった。

 愛している、と遅すぎる告白を受け取った夜のあとだというのに、心は不思議なくらい静かだった。

 もちろん、痛くなかったわけではない。

 あの言葉は、まっすぐ胸へ落ちた。うれしくないわけではなかった。けれどそれより先に、どうしようもなく遅かった時間の痛みが広がった。昔の自分なら、きっとその一言だけで泣いた。いまの自分は違う。うれしさもあるのに、その上へ痛みが重なり、どちらも消えずに残っている。

 そういう複雑な感情を抱いたまま、朝はちゃんとやってきた。

 それが、どこかありがたかった。

「お目覚めでいらっしゃいますか」

 長椅子で浅く眠っていたアイダが身を起こし、寝台の傍へ来る。窓の向こうの光を背に受けているせいで、その輪郭が少しだけ白く見えた。

「ええ」

 リュゼリアは答える。

「今日は、少しだけ楽」

 その一言に、アイダはごく小さく微笑んだ。

 最近の彼女は、こうした“少しだけ”を何より丁寧に受け止める。少しだけ眠れた。少しだけ食べられた。少しだけ咳が短い。その断片の一つひとつが、今の暮らしでは大きな意味を持つことを知っているからだろう。

「白湯をお持ちします」

「お願い」

 湯気の立つ白湯を受け取り、ゆっくりと飲む。喉の乾きがほどけ、胸の奥の痛みがほんの少しだけ後ろへ下がる。窓の外を見ると、白と青の花壇の向こうに、木立の隙間から湖の光がかすかに覗いていた。

 昨日は、愛していると言われた。

 その事実は、今朝になっても薄れていない。

 けれど、それにどう答えるかについては、昨日の夜のうちから胸の中で静かに形が整い始めていた。愛を聞いたからといって、壊れた時間が戻るわけではない。許すことと、戻ることは違う。その感覚が、朝の光の中で少しずつ輪郭を持ち始めている。

 リュゼリアはそれを、まだ言葉にはしなかった。

 けれど今日のどこかで、きっと口にしなければならないのだろうとわかっていた。

     ◇

 朝食の席へヴィルレオが現れた時、リュゼリアはすぐに彼の違和感に気づいた。

 いつもより静かだった。

 もともと多弁な男ではない。むしろ、王都にいた頃は必要以上に口を開かず、沈黙のほうを選ぶ人だった。けれど最近の彼の静けさは、それとは少し違っている。何でもない話をする時には、それなりに言葉を選び、花のことや茶のことや、北方の雪明けの色みたいな話にも少しずつ応じるようになっていた。

 今朝は、その少しずつ重ねてきた“やわらぎ”の上に、もう一枚、固い膜が張っているように見える。

「顔色は」

 いつもの問い。

「昨日より少しだけ」

 リュゼリアは答える。

「咳は」

「起きてすぐは、まだましだったわ」

「そうか」

 短い返事。

 そこで会話が切れる。

 彼は茶のカップに手を伸ばし、けれど口元へ運ぶより先に一度だけ視線を落とした。昨夜、自分の言葉が彼女にどう届いたかを、まだ測りかねているのだろう。愛していると言った。その返答として、彼女は受け取ったけれど、昔のような歓びではないとも伝えた。そのすべてが、いまの彼の中でまだ定まりきっていないようだった。

 リュゼリアはそんな彼の様子を見ながら、胸の中で、やはり今日言わなければならないのだと思う。

 昨日のまま曖昧にしておけば、彼はきっとまた、自分の沈黙へ都合のよい意味を探してしまう。もしくは、反対に、自分が完全に拒まれたと受け取ってしまうかもしれない。

 どちらも違う。

 違うなら、言葉にするしかない。

 そう思いながら、彼女はゆっくりと茶を口に運んだ。

     ◇

 午前の診察のあとは、風が少し強くなった。

 だからその日は、庭や回廊ではなく、南向きの小さな居間で過ごすことになった。窓辺にはやわらかな光が入り、白い壁へ木立の影が揺れる。暖炉にはまだ火を入れるほどではないが、空気は少し冷えていて、膝掛けを離せない。

 リュゼリアは長椅子へ横向きに腰を下ろし、肩へ淡い灰青の外套を一枚だけ掛けていた。膝の上には本。けれど、朝からそのページはほとんど進んでいない。

 読むつもりで開いても、どうしても別のことを考えてしまう。

 昨日の低い声。

 愛している、という四文字。

 そのあとに続いた、自分の痛みを否定せぬ静かな眼差し。

 昔の彼なら、きっともっと違う言い方をしただろう。あるいは、最後まで言わなかったかもしれない。いまの彼は、遅すぎるとわかっていながら、それでも言わずに終わらせたくなかったのだ。

 その誠実さを、自分はたしかに受け取った。

 ただ、それと“戻る”ことは別なのだ。

 その線を、今日きちんと引かなければならない。

 扉を叩く音がした。

「どうぞ」

 すぐに返すと、ヴィルレオが入ってくる。

 今日は、部屋へ入る前から彼の気配が少し固かった。たぶん、彼自身も何かを考えているのだろう。昨日の告白のあとで、このまま何もなかったように日常へ戻るわけにはいかないと、彼もまた感じているに違いない。

「具合は」

「朝とあまり変わらないわ」

 リュゼリアが答えると、彼は短く頷いた。

 それから椅子へ座らず、その場に立ったまま一瞬だけ言葉を探すように沈黙する。

「……昨日のことだが」

 先に口を開いたのは、ヴィルレオのほうだった。

 やはりそうだろうと思いながら、リュゼリアは本を閉じる。しおりを挟み、膝の脇へ置く。

「ええ」

「言わなければよかったとは思っていない」

 その一言に、リュゼリアは少しだけ目を細めた。

 謝罪ではない。

 言い訳でもない。

 ただまず、その言葉を自分が取り消さないという意志だけを示したのだろう。

「そう」

「だが」

 ヴィルレオは続ける。

「お前がどう受け取ったかは、俺にはまだわからない」

 その問いのような言葉に、リュゼリアはゆっくりと息を吐いた。

 わからないままでいることを選ばなかったのは、彼なりの変化なのだろう。昔の彼なら、わからないことには近づかなかった。いや、正確には、わからないものを“考える必要のないもの”として脇へ置いたのだ。いまは違う。わからないからこそ、訊かねばならないと知ってしまっている。

「座ってくださらない?」

 リュゼリアが言うと、ヴィルレオは少しだけ驚いた顔をした。けれどすぐに、いつもの椅子を少しだけ長椅子の近くへ引き寄せる。近すぎない距離。けれど、今日は昨日より少しだけ近い。

 その位置へ彼が腰を下ろしてから、リュゼリアはようやく口を開いた。

「憎んではいないわ」

 最初にそう言うと、彼の肩がごく僅かに揺れた。

 その一言を、彼は待っていたのかもしれない。あるいは、怖れていたのかもしれない。どちらにしても、その言葉が彼の中へ深く落ちたことは、見ればわかった。

「恨み続けたいとも思っていない」

 リュゼリアは続ける。

「あなたが苦しめばいいと願っているわけでもないの」

 その事実は、本当だった。

 彼を見ていると痛む。遅すぎる愛が胸へ落ちたことも、その遅さごと痛い。けれど、だからといって彼を憎んでいたいとは思わない。復讐したいとも、苦しませたいとも思わない。

 そこまでの熱は、もうないのだ。

 いや、最初からなかったのかもしれない。彼女が壊れていったのは、激情の中でではなく、もっと静かな飢えの中でだったから。

「……そうか」

 ヴィルレオの声は低かった。

「ええ」

「なら」

 そこで彼は、ほんのわずかに言い淀む。

 その先に何を言おうとしたのか、リュゼリアにはわかった。

 なら、やり直せるのか。

 なら、戻れるのか。

 口にしきらないまま、その問いが部屋の中へ落ちかける。

 だから、リュゼリアは彼が言い切るより先に、静かに首を振った。

「でも」

 その一語で、彼の視線がまっすぐ向く。

「戻ることはできないの」

 窓の外で、風が少しだけ強く吹いた。

 木立の影が壁を揺れ、庭の白と青の花壇も小さく震える。

 その音の中で、リュゼリアはゆっくりと言葉を紡いだ。

「許すことと、戻ることは違います」

 その一言は、すでに胸の中で何度も形を確かめていたものだった。だから声は震えない。痛みはある。けれど、言うべきこととして静かに置けるだけの輪郭は、もう持っていた。

 ヴィルレオは何も言わなかった。

 ただ、その言葉を真正面から受け止めている顔だった。

「わたくし、あなたを憎まないことはできるわ」

 リュゼリアは続ける。

「あなたの今の気持ちが嘘ではないと受け取ることもできる」

「……」

「遅すぎても、それでも言ってくださったことを、ちゃんと胸へ置くこともできる」

 そう言いながら、自分でもその一つひとつが真実だとわかる。

 昨日の告白は、痛かった。けれど、無意味ではなかった。彼の愛がいま本物なのだということも、きちんと伝わってきた。だからこそ、受け取れた部分はたしかにある。

「でも」

 そこでリュゼリアは少しだけ目を伏せた。

 窓辺の光が、膝の上の毛布へ落ちている。薄い灰青の布地の上を指先でなぞると、柔らかな毛並みが逆立つ。

「同じ場所へ戻れば」

 彼女は小さく息を整える。

「わたくしは、またあの頃の自分へ引き戻されてしまう気がするの」

 ヴィルレオの喉が小さく動く。

「屋敷へ?」

「ええ」

「……」

「食卓も、寝室も、廊下の音も、花の配置も、侍女の視線も」

 その一つひとつが、もう彼女の体には痛みと結びついている。

 たとえ彼が変わっても。たとえ前公爵夫人の影が消えても。たとえ薬も茶も完全に別のものへ入れ替わっても。

 体はたぶん、覚えてしまっているのだ。

 夜に閉じた扉の冷たさを。

 返らなかった視線の重さを。

 “よかれと思って”静かに削られていく息苦しさを。

「あなたが昔と違うことは、わかっているわ」

 リュゼリアは彼を見る。

「いまのあなたは、あの時のあなたとは少し違う」

 その言葉に、ヴィルレオの目の奥へ何かが揺れる。安堵ではない。むしろ、その“少し違う”という評価の重さを飲み込んでいる顔だった。

「でも、違うあなたと、昔の屋敷に戻ることは、わたくしにはできないの」

「……ああ」

 低い声が落ちる。

 それは納得の声でもあり、痛みの声でもあった。

「わかる」

 短く返ってきたその言葉に、リュゼリアは少しだけ息を吐いた。

 わからないふりをされなかったことが、いまはありがたい。

「わたくし、自分として生きたいって言ったでしょう?」

 ヴィルレオは頷く。

「ええ」

「あの言葉は、本気なの」

 リュゼリアは続ける。

「公爵夫人に戻ることは、たぶん、また“自分”を後ろへ下げることになる」

 もちろん、昔と全く同じにはならないかもしれない。ヴィルレオも変わった。彼はもう、彼女の望みを自分の都合へ変えないようにすると言った。実際、その約束を守ろうともしている。

 けれど、それでも。

 戻るという行為そのものが、自分の中の古い傷を再び“当たり前”のかたちへ押し戻してしまう気がした。

 それは怖い。

 いや、怖いだけではない。

 せっかくここで手に入れかけている小さな生の感覚を、自分で手放すことになる気がするのだ。

「……戻れないことが」

 ヴィルレオは低く言った。

「お前にとって、自由のほうへ近いのか」

 その問いに、リュゼリアは少しだけ驚いた。

 自由。

 昔の彼なら、そんな語を自分の願いの文脈で使わなかったかもしれない。けれど今の彼は、彼女の側から物事を測ろうとしている。

「ええ」

 リュゼリアは頷く。

「そうだと思うわ」

 窓の外で花が揺れる。

 白が先に揺れ、青が少し遅れて追う。その順番がなぜだか妙に愛おしい。

「ここでは、朝に起きた時に、今日は何を見たいかって考えられるの」

「……」

「苦しい日は、苦しいまま休める」

「……」

「好きなものを、好きって言ってもいい」

 言いながら、それがどれほど大きなことか、改めてわかる。

 好きなものを好きと言う。

 たったそれだけのことを、彼女はどれほど長く自分に禁じてきたのだろう。

「それを失いたくないの」

 静かな声だった。

「戻れば、また、それが難しくなる気がする」

 ヴィルレオは黙って聞いていた。

 否定しない。説得もしない。ただ、その言葉が彼自身を傷つけるものであっても、真正面から受け取っている。

 昔の彼なら、その痛みに耐えられず、理屈か沈黙へ逃げただろう。今は違う。痛いと知りながら、そこへ立ち続けている。

 リュゼリアはその変化を見て、胸の奥へ少しだけやわらかな熱が落ちるのを感じた。

 壊れた夫婦。

 戻れない関係。

 そのままの痛みの中で、それでも彼は聞いている。

 それがたぶん、いまの自分たちにできる誠実さなのだろう。

     ◇

 しばらく、部屋の中に沈黙が落ちた。

 重い沈黙ではない。むしろ、今の言葉たちが静かに沈んでいくための水みたいな沈黙だった。

 やがてヴィルレオが、ごく低く言う。

「……では」

 リュゼリアは顔を上げる。

「戻れないお前のそばにいることは、許されるのか」

 その問いに、胸のどこかが静かに鳴った。

 彼はやはり、自分の望みを前へ押し出そうとはしない。戻れないのなら戻れないまま、その先に残る場所を、いまの彼女の言葉の中から探そうとしている。

「ええ」

 リュゼリアは頷く。

「それはもう、昨日お話ししたでしょう?」

「そうだな」

「そばにいるだけなら」

「……ああ」

 彼の声はひどく静かだった。

「それでいい」

 その返事に、リュゼリアはほんの少しだけ微笑んだ。

 それでいい。

 本当は足りないのだろう。彼が望むところはもっと先にあるはずだ。触れたいだろうし、やり直したいだろうし、妻として呼び戻したい気持ちも、きっとまだ消えてはいない。

 けれど、その足りなさごと受け取って、それでも“それでいい”と言う。

 その在り方に、いまのリュゼリアは救われる。

「旦那様」

 小さく呼ぶと、彼はすぐに応じた。

「何だ」

「ありがとう」

 また、その言葉だった。

 けれど今日は、昨日の感謝とは少し違う。火を足したことや、毛布を掛けたことへの礼ではない。彼が痛みのある言葉を、痛みのあるまま受け取り、自分の願いへ変えようとしなかったことへの礼だ。

 ヴィルレオは少しだけ目を伏せる。

「礼を言われるようなことはしていない」

「いいえ」

 リュゼリアは静かに首を振る。

「昔のあなたなら、きっと、聞きたくなかったでしょう?」

 その問いに、彼は否定しなかった。

「……ああ」

 短い答え。

「いまのあなたは、ちゃんと聞いてくれたもの」

 ヴィルレオの指先が、膝の上でほんのわずかに動く。何かをこらえるような、小さな動きだった。

 その沈黙を、リュゼリアは追い詰めなかった。

 言葉はもう十分だった。

 壊れた夫婦のままでも、こうして少しずつ互いの本当を言える時間がある。それだけで、今日はもう十分にあたたかい。

     ◇

 午後の遅い時間、リュゼリアは回廊の日だまりへ少しだけ出た。

 風はまだ冷たかったが、陽の当たる場所はやわらかくあたたかい。冬の日だまりみたいだと、前にも彼女は言った。その言葉を、今日はまた別の意味で思い出す。

 冷たいものは冷たいまま、消えない。

 それでも、そこへ差し込むぬくもりがある。

 それは元の季節へ戻ったということではない。ただ、その冷たさごと抱えたままで、一時だけでもあたたかさを知るということだ。

 いまの自分たちは、まさにそうなのだろう。

 壊れた夫婦。

 戻れない二人。

 けれど、その冷え切った場所の中にも、いまだけのぬくもりがたしかにある。

 ヴィルレオは今日も少し離れた椅子へ座った。近すぎない距離。けれど昔よりはずっと近い。

 しばらく花壇を見てから、彼が低く言う。

「白がまた増えたな」

 リュゼリアは微笑む。

「ええ。青も少しずつ」

「お前はやはり、白のほうを先に見る」

「だって、目立つもの」

「青は?」

「見つけるのが楽しいの」

 その答えに、彼の目が少しだけ和らぐ。

「そうか」

 それだけのやりとり。

 なのに、胸の奥へあたたかさが落ちる。

 夫婦のような会話ではない。

 もっとささやかで、もっと静かな、ただ一人の男と一人の女の会話だ。

 リュゼリアはそのことに、自分でも驚くほど安心していた。

 戻れない。

 それは悲しいだけではなかった。

 戻らないからこそ、いまの自分たちにしかない距離とぬくもりを、ようやく知れるのかもしれないと思えた。

     ◇

 夕方が近づくと、やはり咳は戻ってきた。

「っ……ごほ、……ごほ」

 胸の奥へ鈍い痛みが走る。

 けれど今日は深くならず、少し待てば呼吸も整った。ヴィルレオはその間、何も言わず、ただこちらの呼吸が落ち着くまで椅子から動かなかった。動かないことが、今はちゃんとした寄り添いになると知っているからだろう。

 咳が落ち着いたあと、リュゼリアは少しだけ笑う。

「上手になったわね」

「何がだ」

「待つこと」

 その一言に、ヴィルレオは少しだけ目を細めた。

「お前がそうしろと言った」

「ええ。でも、できるとは限らなかったでしょう?」

 昔の彼なら、きっとすぐ何か言った。何かしようとした。あるいは逆に、苦しみを見ぬふりをしたかもしれない。今は違う。必要以上に踏み込まず、けれど決していなくならない。その待ち方が、少しずつ彼の中で形を持ち始めている。

「……そうかもしれない」

 彼は低く言う。

「でも、できるようになってきたわ」

 その言葉に、彼は小さく頷いた。

 それ以上、何も言わない。

 けれど、その小さな頷きの中に、いまの彼がどれほどこの“できるようになってきたこと”を大事にしているかが見えた。

 壊れた夫婦。

 その響きは冷たい。けれど、その壊れたままの器の中へ、今日も少しずつあたたかいものが溜まっていく。

 許すことと戻ることは違う。

 それでも、許さぬままでは知れなかったぬくもりもある。

 リュゼリアは少しだけ目を閉じ、夕方のやわらかな光を頬へ受けた。

 白と青の花が揺れる。

 湖の光は、夕方の薄い銀へ変わっていく。

 その全部の中で、自分たちはもう元の場所へは戻れないのだと知りながら、いまの場所でしか知れない体温を静かに分け合っていた。


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