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第32話 最初から君だった
王都の夜は、舞踏会が終わってもすぐには眠らない。
王宮から戻ったあとも、街のどこかではまだ車輪の音がしていた。石畳を打つ蹄の音。遅い客を送る馬車の軋み。遠くの屋敷で閉じられる扉の響き。夜のしんとした静けさの中へ、それらが薄く溶けては消えていく。
辺境の夜の静けさとは違う。
北辺では、夜は本当に闇へ沈む。風の音や、遠い見張りの気配はあっても、それは闇の中の秩序だった。けれど王都の夜は違う。灯りが多すぎるのだ。屋敷の窓、街路の灯、帰りの馬車のランプ。どこかしらにまだ人の意志が残っていて、眠りきることを街そのものが拒んでいるような夜。
辺境伯家の旧屋敷へ戻った時、セレフィアはもうほとんど声を使い果たしていた。
舞踏会の熱も、伯爵家との対峙も、オルフィーヌとの小広間での言葉も、すべてが終わったわけではない。むしろ何かは今夜からようやく始まったのだとわかっている。けれど体は、まず疲れを知っていた。胸の奥がじんじんと熱を持ちつづけ、喉のあたりはひどく乾いている。手足は冷えていないのに、どこか身体の中心だけがうまく落ち着かない。
ミレナが湯を用意し、ネリサがドレスをほどき、髪を整え、喉にやさしい薄い茶を置いていった。二人とも多くを言わなかった。今夜は言葉が多すぎたからだろう。これ以上、誰かの優しさまで言葉の形で足されると、セレフィアの心はきっと受け止めきれなかった。
「お休みになりますか」
ネリサが最後にそう訊いた時、セレフィアは小さく首を振った。
「……少しだけ、まだ」
何がまだ、なのかは自分でもわからなかった。眠るには胸の内が熱すぎる。泣きたいわけではない。考えたいのとも少し違う。ただ、このまま寝台へ沈んでしまったら、今日という日がきちんと自分の中へ納まらぬまま朝になってしまう気がした。
ネリサはそれ以上は訊かず、頷いて去った。
客間に一人残される。
暖炉の火は落とされ、部屋の隅に置かれた燭台だけが細く揺れている。王都の旧屋敷は整っているが、辺境の城とは匂いが違った。磨かれた木、古い絹、封じ込められた香、石の冷え。どこか、長いあいだ人の本音より体裁のほうが先に通ってきた家の匂いがする。
セレフィアは、喉の奥でそっと息を吐いた。
今夜、自分は姉に言ったのだ。
私はあなたの代わりじゃない、と。
その一言が、まだ胸の奥で熱を持っている。長い長い時間をかけて詰まりつづけていたものが、ようやく外へ出たあとの、空いた場所の痛み。その痛みはまだ消えていない。けれど不思議と、後悔はなかった。
そして同じ夜、王都の舞踏会の中心で、ゼルヴァンはあまりにも明確に言った。
私が妻として迎えたのは、今ここにいる彼女だけです。
その言葉の重みもまた、まだ胸から離れない。
妻。
今ここにいる彼女。
公の場で。父母と姉の前で。王都の社交界が耳を澄ませる中で。
どうしてあんなふうに言えたのだろう。
いや、どうしてではない。彼は昔から、こういう人だったのだろう。曖昧さに逃げず、必要だと思ったところへ線を引く人。けれどセレフィアにとっては、その線の中へ自分が入れられたことが、まだ信じ切れないほど眩しい。
手紙のこともそうだ。
文字の癖ひとつで、自分だと見抜いていた。婚約中の返書の向こうにいる相手を、最初から無いことにしなかった。代筆というだけで切り捨てず、手紙の流れも、余白も、筆圧の抜き方も見ていた。
そこまで思い至った時、胸の奥で、ひどく静かな衝動が立ち上がった。
言わなければ、と思う。
もう知っていると、彼は言った。やはり同じだと。最初から違和感があったと。けれどそれは、彼の側から明かされた話だ。セレフィアはまだ、自分の口で正式に言っていない。
あの手紙を書いていたのは、私です、と。
今さら、と思う気持ちもあった。もう遅いのではないかという気持ちも。けれど遅いからこそ、言わなければならない気もした。今日、姉へ向かって自分の口で言った。代わりじゃない、と。ならば、この人にも、自分の口でちゃんと言わなければならない。
手紙を書いていたのは、私です、と。
セレフィアは立ち上がった。
夜の回廊は静かだった。王都の旧屋敷といっても、今夜は大半の者が疲れ切っている。遠くで控えの者が小さく動く気配はあるが、ざわめきはない。廊下の灯りは落とされ、壁の燭台が一定の距離で淡く揺れる。窓の外には王都の夜の薄明かり。完全な闇にはならず、遠くの屋敷の灯りが黒い空へ小さく滲んでいた。
ゼルヴァンのいる部屋は、客間から二つ角を曲がった先の書斎だった。王都滞在中の執務や手紙を片づけるためにあてがわれた部屋だ。夜更けまで灯りが落ちないことを、セレフィアはもう知っている。
扉の前まで来ると、一度だけ足が止まる。
言ったところで、何が変わるのだろう。
いや、変わるとか変わらないではない。これはたぶん、自分のためだ。自分が、もう誰かの影のままではなく、自分の口で自分のしたことを認めるための。
セレフィアは小さく息を吸い、扉を叩いた。
「どうぞ」
内側から、低い声が返る。
扉を開けると、書斎は客間より少し暖かかった。暖炉に火が入っているというより、長く人がいて、紙と灯りの熱がゆるやかに部屋へ溜まっている感じだ。机の上には封書と開かれた書類、脇に置かれたインク壺、そして湯気の消えかけたカップ。ゼルヴァンはそれらの向こうに座っていたが、セレフィアの顔を見るなりすぐに手を止めた。
「眠れないか」
最初の問いがそれなのが、この人らしかった。
「……少し」
セレフィアは扉のところで立ったまま答える。
「でも、それだけではなくて」
ゼルヴァンは黙ってこちらを見る。いつものように急かさない。椅子の背に体を預けるでもなく、ただ次の言葉を待つ。
「入っても、いいですか」
「もちろんだ」
短い返答。
セレフィアは中へ入り、扉を静かに閉めた。完全には閉じきらず、細く隙間を残す。無意識の癖だった。誰かと二人きりになりすぎることへの、まだ消えきらぬ名残。けれどゼルヴァンはそれを気にしない。
「座るか」
机の向かいの椅子を目で示す。
「はい」
腰を下ろすと、夜更けの疲れがいっきに足へ落ちてくる気がした。体は疲れている。けれど心のほうがまだ眠りたがらない。今日一日の出来事が多すぎて、胸の中で整理しきれないまま熱を持っている。
ゼルヴァンがカップを持ち上げかけ、もう冷えていると気づいたのか、置き直した。
「茶を淹れ直させるか」
「いいえ」
セレフィアは首を振る。
「長くはならない……たぶん」
たぶん、と自分で言ってから、少しだけ苦くなる。これから口にすることがどれほど自分の中で重いのか、もうわかっているからだ。
ゼルヴァンは頷くだけだった。
部屋の中へ、小さな沈黙が落ちる。暖炉の火がひとつはぜる。王都の夜の遠い車輪の音が、窓の向こうで薄く転がる。
セレフィアは、自分の手を膝の上でそっと開いた。握りこまないように。温室で覚えたように。逃げたくない時ほど、まず自分の手を開く。
「……手紙のことです」
そう切り出した瞬間、胸がひとつ強く鳴った。
ゼルヴァンの目が、ごくわずかにやわらぐ。
「うん」
それだけ。知っている、というふうに。
「前に」
セレフィアは言葉を選ぶ。
「文字の癖で、わかっていたと仰いました」
喉の奥が少し熱くなる。
「やはり同じだと」
「言ったな」
「でも」
セレフィアは目を伏せた。
「それは、あなたの側から明かしてくださったことで……」
呼吸を整える。
「私は、まだ自分の口でちゃんと言っていませんでした」
ゼルヴァンは何も挟まない。待っている。
セレフィアは、膝の上で指をそっと重ねた。
「婚約中に、あなたへ返書を書いていたのは……」
そこで一瞬、喉が詰まりそうになる。
「私です」
言ってしまうと、それはあまりにもまっすぐで、ひどく簡潔な事実だった。
手紙を書いていたのは私。
オルフィーヌの名で返されていた文。春の雪解けの危うさも、辺境の風の乾きも、税のことも、市場の匂いも、見知らぬ婚約者の文面にだけ細く心がほどけていったあの時間も。全部、自分だった。
ゼルヴァンは、それを聞いても驚かなかった。
ただ、一度だけ静かに頷く。
「知っていた」
低い声。
セレフィアの胸が、また熱くなる。
知っていた。あらためてそう言われると、恥ずかしさと嬉しさが一度に押し寄せる。見抜かれていたことはもう知っている。けれど、自分の口で白状したあとに、それでも変わらず落ち着いた声で知っていたと返されると、どこか逃げ道がなくなるようで、同時にどうしようもなく救われる。
「最初の返書から」
ゼルヴァンが続けた。
セレフィアは顔を上げる。
「最初から……ですか」
「違和感だけなら、最初の一通目であった」
彼は言う。
「確信に近づいたのは、その次だ」
その答えに、セレフィアは言葉を失う。
最初の返書。
まだ婚約が整えられたばかりで、互いの顔も、声も、暮らしも知らなかった頃。辺境伯からの文は短く、だが驚くほど誠実で、こちらを“伯爵家の美しい娘”としてではなく、一人の相手として扱っていた。だからこそセレフィアは、姉の名で返しながらも、少しずつ自分の言葉を混ぜてしまったのだ。
あの最初の返書から。
そんなに早く。
「……どうして」
声が小さくなる。
「どうして、そこまで」
ゼルヴァンはしばらく黙った。
その沈黙は、考え込むというより、昔の時間を掬い上げるための間のように見えた。暖炉の光が横顔へ落ちる。王都の書斎の中なのに、その静けさだけは辺境の夜に近いと思う。
「婚約の挨拶として返ってくるにしては」
やがて彼は言う。
「言葉が、綺麗に整いすぎていなかった」
そこで少しだけ目を細める。
「いや、整ってはいた。だが王都の令嬢が見せるために整える綺麗さとは違った」
セレフィアは、息を詰めたまま聞く。
「最初の返書で」
ゼルヴァンは続ける。
「こちらが北辺の雪解けについて触れた時、お前は“春は来るというより、冬が少しだけ力を緩める感じなのでしょう”と書いた」
その一節を、そのまま思い出すみたいに低く口にする。
「普通なら“厳しい土地にも春の兆しが”とか、もっと聞こえのいい形にする」
目が静かにセレフィアを見る。
「だがあの文は違った。実際にそこへ立っていない人間が、想像だけでやっと届こうとする言葉だった」
セレフィアの胸が、ひどく静かに痛んだ。
覚えていたのだ。
最初の返書の、その一文を。姉の名で差し出したのに、つい自分の感覚が混じってしまった一節を。
「それで」
セレフィアはかろうじて声を出す。
「私だと?」
「その時はまだ」
ゼルヴァンは首を小さく振る。
「“別の誰か”がいると思っただけだ」
それから、ごくわずかに口元の線がやわらぐ。
「だが、その次の返書で待つようになった」
待つ。
その言葉が、あまりにもまっすぐ胸へ落ちて、セレフィアは思わず椅子の端を掴みそうになった。けれどさっき自分で開いた手を思い出し、どうにかこらえる。
「待つ、ように……?」
「そうだ」
ゼルヴァンは言う。
「誰の名で届くかは変わらなくても、その中にある言葉は毎回少し違った」
視線は揺らがない。
「返ってくるのを待っていたのは、オルフィーヌ嬢の名義じゃない」
一拍。
「君の言葉だった」
その一言で、セレフィアの中の長い長い罪悪感が、ひとすじだけ音を立ててひび割れた気がした。
奪ったのだと思っていた。
ずっと、どこかでそう思っていたのだ。姉の婚約者に、自分のほうが心を寄せてしまったこと。返書の時間だけを密かな救いにしていたこと。姉の名前を借りて、自分の言葉で誰かに届こうとしてしまったこと。
だから、ゼルヴァンへ惹かれていくほど、どこかで後ろめたさが消えなかった。自分は姉のものだった席を、偶然と不幸と嘘の上で奪っただけなのではないかと。
けれど、いま彼は言った。
待っていたのは、君の言葉だった、と。
「……それでは」
セレフィアの声は、ほとんど掠れていた。
「私は、奪ったのでは……ないのですか」
その問いは、自分でも驚くほど幼かった。だが胸の奥のもっとも深いところから出た問いだった。姉の影。身代わり。代筆。奪ったのではないかという後ろめたさ。その全部の芯に触れる問い。
ゼルヴァンは即答しなかった。
ただ静かにセレフィアを見る。その見方が、やはり彼らしい。問いを軽く扱わない。ちゃんと、それがどこから来た言葉かを見てから返す。
「奪った、か」
低く繰り返し、
「違うな」
それだけでもう、胸がいっぱいになるのに、彼は続ける。
「見つけたんだ」
一拍。
「いや、正確には」
今度は言い直す。
「見つけられていたのは、こっちのほうかもしれない」
セレフィアは、もう本当に言葉を失った。
見つけられていた。
それは、どういう意味だろう。
婚約中の手紙を、自分はただ必死に書いていた。姉の代わりとして、家の体面を守るために。それでもせめて相手へ失礼のないように、と。無愛想になりすぎぬように、と。そう思いながら、自分の言葉を混ぜた。けれどそれは、相手を自分へ向けようとしたわけではない。ただ、自分でいられる時間がその中にしかなかったから、少しだけ本音が出てしまっただけだ。
なのに彼は、それを「見つけられていた」と言う。
「手紙の向こうにいる相手が」
ゼルヴァンは静かに言う。
「毎回、名だけではないとわかってから、読むことがただの婚約のやり取りではなくなった」
目がわずかに細くなる。
「何を考えて、どう返してくるか。どこまで季節を見ているか。何を気にしているか」
そこで、ごく低く息を吐く。
「次を待っていた」
待っていた。
またその言葉だ。
最初の返書から。次の文から。名前の後ろにいる“誰か”を。彼はずっと、待っていたのだ。
セレフィアは胸のあたりが熱く、苦しく、そしてやわらかくほどけていくのを感じた。奪ったのではない。見つけられていた。最初から。姉の名前の後ろにいた、自分の言葉を。
どうしてそんなことがあり得るのだろう。
どうして、そんなふうに人を見つけられるのだろう。
「……私は」
喉の奥が熱い。
「姉の名前を借りていたのに」
「知っている」
ゼルヴァンは低く答える。
「卑怯だったのに」
「そう思っていたのは、お前だ」
その返しに、セレフィアは目を上げる。
「たしかに、あの形が歪だったのは事実だ」
彼は言う。
「だが歪みがあったからといって、その中にいた人間まで偽物にはならない」
その一言が、セレフィアの胸のいちばん深いところへ、まっすぐに届いた。
歪みがあったからといって、その中にいた人間まで偽物にはならない。
婚約の形は歪だった。姉の名で送られた返書も、身代わり婚も、伯爵家の嘘も、全部歪んでいた。けれどその歪んだ形の中で言葉を綴っていた自分まで、偽物ではないのだと、この人は言う。
それは救いだった。
これまでの人生の中で、ここまで深い救いを感じたことがあっただろうか。自分のしてきたことの歪みも、痛みも、後ろめたさも、全部消してくれるわけではない。けれど、その中にいた自分を「偽物ではない」と言われることが、こんなにも人を生かすのだと、セレフィアは初めて知った。
「……どうして」
同じ問いばかりだと自分でも思う。だがほかに言葉が出ない。
「どうして、そんなふうに」
ゼルヴァンは少しだけ視線を落とし、それからまた戻した。
「最初から君だった」
静かな声。
その短い一文が、あらゆる説明よりも強かった。
最初から君だった。
婚約の名義が誰であれ、周囲が何を整えていようと、彼が返書の向こうで待ち、見つけ、少しずつ惹かれていった相手は最初からセレフィアだったのだと、そう言っている。
セレフィアは、そこでとうとう耐えきれずに目を伏せた。涙が落ちるほどではない。けれど、目の奥が熱くて、そのまま彼を見るのが少し難しかった。
奪ったのではなかった。
拾われたのでも、情けで置かれたのでもない。
見つけられていたのだ。
最初から。
その事実が、胸の奥へじわじわと広がっていく。長いあいだ凍っていた場所へ、ようやく遅い春の水が入ってくるみたいに、ゆっくりと。
「……ずるいです」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
ゼルヴァンの眉がわずかに動く。
「何がだ」
「そんなこと」
セレフィアは少しだけ笑ってしまう。笑いながら、目の奥は熱い。
「今、言うなんて」
舞踏会の夜。姉と決定的に断ち切られた夜。王都の光と毒の真ん中で、自分がただ身代わりでも、奪った側でもなかったのだと知る夜。その夜に、最初から君だったと言われるなんて、どうしたら平気でいられるのだろう。
ゼルヴァンは、そこでほんの少しだけ息を吐いた。笑ったのかもしれない。だがそれは表へ大きく出ない。
「今しかないと思った」
その返事が、ひどく彼らしかった。
気取った告白ではない。言うべき時だと思ったから言った。たぶん、それだけなのだろう。けれどその“だけ”が、どうしようもなく深い。
セレフィアは、膝の上の手をそっと重ねた。もう冷えてはいない。王都の夜はまだ苦しいし、明日も明後日も伯爵家とオルフィーヌは何かしら仕掛けてくるだろう。舞踏会での騒ぎはこれで終わりではない。春までの契約も、その先の選択も、まだ道の途中だ。
けれど少なくとも、今夜ひとつだけ確かになったことがある。
自分は奪ったのではなかった。
見つけられていたのだ。
姉の影でも、誰かの代筆でもなく、最初から自分の言葉で。
「……私」
セレフィアは、胸の奥の熱をどうにか声へ変える。
「ずっと、後ろめたかったのです」
目を上げる。
「あなたに惹かれていくたびに」
喉が少し熱い。
「それは、姉の場所を踏んでしまったからではないかって」
ゼルヴァンは黙って聞いている。
「でも今」
セレフィアは言う。
「少しだけ……違うのかもしれないと思えます」
言葉を探しながら続ける。
「あなたが見ていたのは、最初から私だったのなら」
その先を、はっきり「救われた」と言ってしまうのは、まだ少し照れくさかった。
けれどゼルヴァンは、きっともうわかっている。
「そうだ」
彼は短く言う。
「違う」
その一言で十分だった。
セレフィアは、ようやく深く息を吸った。王都の古い屋敷の匂い、暖炉の火の匂い、紙の乾いた匂い。その中に、彼の衣に残る北辺の冷たい匂いが薄く混じる。それだけで、胸の奥が少しずつ落ち着いていく。
最初から君だった。
その言葉を胸の中で繰り返すたび、長い間まとわりついていた後ろめたさの輪郭が、静かに薄れていく。全部が消えるわけではない。婚約の形も、伯爵家の嘘も、姉との断絶も、なくなりはしない。けれどその中心にいた自分が、最初から見つけられていたのだと知ることは、何より大きかった。
ゼルヴァンが机の上の紙を少し脇へ寄せる。
「もう一つだけ」
彼は言った。
セレフィアは顔を上げる。
「お前が“打ち明ける”のを、待っていた」
その言葉に、また胸が鳴る。
待っていた。
最初の返書から待っていたのは君の言葉だと、彼は言った。そして今夜まで、自分の口で手紙のことを言うのも待っていたのだろう。知っていて、急かさず、追いつめず、言える時を。
その待ち方が、やはりどうしようもなく彼らしい。
「……ありがとうございます」
セレフィアは、今度はまっすぐそう言えた。
ゼルヴァンは、いつものように「礼はいらない」とは言わなかった。ただごく静かに頷く。その受け止め方がまた、今夜のセレフィアにはひどくやさしい。
窓の外では、王都の夜がまだ完全には眠らない。遠くの車輪の音も、屋敷のどこかで閉じられる扉の気配も、まだ薄く残っている。けれどこの書斎の中だけは、ようやく息のしやすい静けさがあった。
セレフィアはその静けさの中で、そっと思う。
最初から君だった。
その言葉を一生忘れないだろう、と。
あの手紙を書いた夜の自分も。名前を隠したまま、それでも少しずつ自分の言葉を混ぜてしまった自分も。姉の影の後ろで、ひそかに誰かからの返書を待っていた自分も。全部、無駄ではなかったのだと知る夜だった。
そして今、ゼルヴァンの前に座っている自分は、もう“奪った妹”ではない。
見つけられていた人間だ。
その事実が、王都の夜のまんなかで、セレフィアの胸へ確かな熱を残していた。
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