棘薔薇の替え子公女は、しつこい皇太子の求婚を断りたい

なつめ

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第5話 教えない教師たち


 授業室の窓は、いつも少しだけ開いていた。

 風通しのためだと教師は言う。だが、春先の朝の空気はまだ冷たく、机に向かって座るロザミュンダの指先をじわじわと冷やした。窓辺の白い薄布がふくらむたび、紙の端がかすかに浮き、インク壺の表面に細い波が立つ。庭からは湿った土の匂いと、刈ったばかりの草の青い匂いが入ってきた。

 部屋の中央には、濃い樫材の机が一つ。ロザミュンダの前には羊皮紙、羽根ペン、インク壺。そして、教師が持ち込んだ分厚い本が三冊積まれている。

 どれも、表紙だけで威圧するような本だった。

 『東方諸侯との関税交渉史』
 『高位貴族間における非公開儀礼の変遷』
 『王暦三百年代後期の婚姻同盟と属領政策』

 十五歳の令嬢が朝一番に開くには、あまりにも重い題名ばかりだった。

 けれどロザミュンダは、以前の自分がこの題名を見た時のことを覚えている。

 分からない、と思った。
 難しい、と思った。
 でも、分からないと言えば笑われる気がした。難しいと言えば、平民上がりだからだと思われる気がした。だから顎を上げて、「そんなことは存じておりますわ」と言った。

 教師はそこで薄く笑った。

 では、と次の難解な説明へ進んだ。
 ロザミュンダはますます分からなくなった。
 分からないまま頷いた。
 やがて耐えられなくなって苛立ち、ペンを置き、声を荒らげた。

 こんな授業に何の意味がありますの。

 教師は悲しそうに眉を下げ、あとで廊下の向こうで言った。

 公女様は、やはり集中力に難がおありのようです。

 その言葉は、屋敷中に広がった。
 ロザミュンダはまた一つ、愚かな公女になった。

 今日も、同じ教師が来ている。

 名はロザリンド・メルデン。四十代半ばの女教師で、灰色の髪を低く結い、いつも濃紺のドレスを隙なく着ていた。背筋はまっすぐで、声は静か。表向きは上品で、学識ある女性として知られている。義母マルツェリアが選んだ教師だった。

 ロザミュンダは、彼女の手を見た。

 細い指。乾いた爪。指輪はつけていない。羽根ペンを持つ動きは美しい。授業内容を書き出す時の姿勢も、正しい。彼女が無知なわけではない。教える能力がないわけでもない。

 だからこそ、なお悪い。

 教えられる人が、教えないことを選んでいる。

「では、本日は王暦三百二十一年の東方通商会談について復習いたしましょう」

 メルデン教師は、淡々と言った。

「東方三侯のうち、最初に関税撤廃案へ難色を示したのはリゼラ侯爵家でございます。理由は、当時の辺境塩路の管理権が婚姻同盟によって一時的にファルハウス伯家へ傾いていたためです。このあたりは、当然すでにお分かりですわね」

 ロザミュンダはペンを持ったまま、教師を見た。

 当然。

 その言葉は、いつも扉の前に置かれる石のようだった。知らない者は入れない。分からない者は、そこに立つ資格がない。そう言われている気がした。

 前の人生なら、ここで頷いていた。

 そして分からないまま、次の説明へ置いていかれていた。

 ロザミュンダは息を吸った。冷たい空気が喉を通る。死の記憶が、ほんの少しだけ喉の奥をかすめる。だが、今は息ができる。声も出せる。

「メルデン先生」

「何でしょう、お嬢様」

「東方三侯とは、具体的にどの家を指しますの」

 教師のペン先が止まった。

 ほんのわずかな停止だった。だがロザミュンダは見逃さなかった。ネリアメの笑みが固まった時と同じように、そこには想定外のものへ触れた瞬間の硬さがあった。

「東方三侯、でございますか」

「ええ。リゼラ侯爵家、ファルハウス伯家の名は出ましたが、三侯とおっしゃるなら、前提となる家名を確認したいのです」

 メルデン教師は薄く笑った。

 笑みと呼ぶには、唇の端が少し上がっただけだった。けれどその目には、見慣れた色がある。哀れむような、試すような、少しだけ楽しんでいるような色。

「その程度は、公女であれば当然ご存じかと」

 来た。

 ロザミュンダは、腹の底が熱くなるのを感じた。

 その程度。
 当然。
 公女であれば。

 前の人生の彼女なら、耳まで赤くして怒鳴っただろう。知っていますわ、と嘘を重ねたかもしれない。あるいは、そんな些細なことを持ち出すなんて馬鹿にしているのかと、机を叩いたかもしれない。

 怒れば、負ける。

 ロザミュンダはペンを置かなかった。肩に入った力を抜き、ほんの少しだけ微笑む。

「では、当然のことを確認するために、基礎から説明してくださいませ」

 メルデン教師の笑みが消えた。

 授業室の空気が、薄く張り詰める。

 窓の外で小鳥が鳴いた。机の上の紙が風で揺れる。インク壺の黒い表面が、光を受けて鈍く輝いた。

「……お嬢様」

「はい」

「基礎に戻っていては、本日の範囲が進みません」

「理解しないまま進める方が、時間の無駄ではありませんか」

 言ってから、ロザミュンダは自分の指が震えていることに気づいた。怒りではない。怖さだった。

 こんなふうに、教師へ正面から尋ねたことはない。質問すれば、無知が露わになると思っていた。だが今は、知らないことを知らないままにされる方が怖い。

 メルデン教師は椅子の背に手を置いた。

「お嬢様は、私の授業方針にご不満があるのでしょうか」

「いいえ」

 ロザミュンダは静かに答えた。

「私は、自分がどこを知らないのかを知りたいだけです」

「これまで何度も授業を行ってまいりました」

「ええ」

「それで今になって、東方三侯をご存じないと?」

「存じません」

 言った瞬間、胸が痛んだ。

 無知を口にすることは、まだ痛い。
 けれど、死ぬほどではない。

 メルデン教師は、しばらくロザミュンダを見ていた。その目には驚きと苛立ちが混ざっていた。彼女はおそらく、ここでロザミュンダが怒り出すと思っていたのだろう。あるいは、恥ずかしさに耐えられず、「もう結構です」と授業を投げ出すと思っていたのだ。

 だがロザミュンダは、ペンを持ち直した。

「先生。東方三侯の名をお願いします」

 沈黙のあと、メルデン教師は本を閉じた。

「リゼラ侯爵家、オルファント侯爵家、セレグ公爵家でございます」

 ロザミュンダは書いた。

 東方三侯。
 リゼラ侯爵家。
 オルファント侯爵家。
 セレグ公爵家。

「ありがとうございます。では、東方三侯が王家とどういう関係にあるのか、簡潔にお願いします」

「お嬢様」

「基礎の確認です」

 メルデン教師の指が、本の表紙を軽く叩いた。

「リゼラ侯爵家は塩路管理、オルファント侯爵家は東方穀倉地帯の徴税権、セレグ公爵家は国境軍の補給線を担っております。王家とは婚姻と通商利権で結びついており、王暦三百年代には互いの婚姻関係が複雑に絡み合っていました」

「その婚姻関係の基礎図はありますか」

「本日は持参しておりません」

「次回、持ってきてください」

 教師の眉が動いた。

「それは、かなり初歩的な資料です」

「初歩を知らないので、必要です」

 ロザミュンダは、また書いた。

 次回要求。東方三侯と王家の婚姻関係図。塩路、徴税権、補給線の役割。

 メルデン教師は黙っている。

 ロザミュンダは顔を上げた。

「続けてくださいませ」

 その日の授業は、ひどく遅く進んだ。

 いや、初めて正しく進んだのかもしれない。

 メルデン教師が難しい固有名詞を出すたび、ロザミュンダは止めた。

「その条約の正式名は?」

「なぜ婚姻同盟で塩路の管理権が動くのですか」

「属領政策という言葉を、前回も使われました。定義を確認させてください」

「関税撤廃と徴税権の違いは?」

「その場に女性親族が同席する場合、発言権はどこまでありますか」

 質問のたびに、教師の声は少しずつ冷えていった。

 それでも、彼女は答えた。答えざるを得なかった。ロザミュンダは怒鳴っていない。授業を拒んでいない。むしろ、学ぼうとしている。そこで「答えられません」とは言えないのだ。

 ロザミュンダは書いた。

 ただし、授業内容だけではない。

 欄外に、小さく印をつける。

 説明なしで進めた語句。
 基礎確認を嫌がった箇所。
 「当然」と言った回数。
 資料がないと答えた箇所。
 質問時に薄く笑った箇所。
 こちらを困らせるために話題を飛ばした箇所。

 自分は今まで、何を教えられていなかったのか。
 どこで置いていかれていたのか。
 どこを飛ばされたせいで、後の話が分からなくなっていたのか。

 それが少しずつ形になっていく。

 驚くほど、穴だらけだった。

 彼女は外交史の断片を聞かされていた。だが、王家と諸侯の基本関係を教わっていない。
 高位貴族の非公開儀礼を聞かされていた。だが、通常の挨拶順序を教わっていない。
 婚姻同盟の失敗例を聞かされていた。だが、婚約契約書の読み方を教わっていない。
 属領政策を聞かされていた。だが、地図を見せられていない。

 これは、学ばせる授業ではなかった。

 知らないことを隠せなくするための授業だった。

「本日は、ここまでにいたしましょう」

 メルデン教師が、硬い声で言った。

 ロザミュンダは顔を上げた。窓から差し込む光は、授業が始まった時よりも高くなっている。指先は冷え、肩は凝っていた。ずっと字を書き続けていたせいで、手首が痛い。

「ありがとうございました」

 彼女は立ち上がり、礼をした。

 メルデン教師は少しだけ返礼した。

「お嬢様」

「何でしょう」

「急に学ぶ姿勢を改められたことは、良いことでございます。ですが、基礎ばかりにこだわると、かえって品位を損なうこともございます」

 ロザミュンダは、教師の顔を見た。

「基礎を知らないまま品位を装うよりは、よいと思います」

 メルデン教師の唇が引き結ばれた。

 ロザミュンダは微笑む。

「次回の資料を楽しみにしております」

 教師は一礼し、授業室を出ていった。

 扉が閉まった瞬間、ロザミュンダは椅子に座り込んだ。

 全身から力が抜ける。

 怖かった。

 今さら、体が震えてきた。掌に汗が滲み、ペンを握っていた指が痛む。喉も少し渇いていた。怒鳴らなかった。投げ出さなかった。知らないと認めた。質問した。教師の薄笑いに、微笑み返した。

 たったそれだけ。

 けれど、今のロザミュンダにとっては、首を絞める手をもう一度剥がしたようなものだった。

 彼女は机の上の紙を見下ろした。

 びっしりと字が並んでいる。整っているところもあれば、焦って崩れたところもある。欄外には、小さな印や疑問符がいくつも残っている。

 知らないことが多い。

 その事実は恥ずかしい。
 けれど、今は少しだけ違う。

 知らない場所が見えたなら、そこを埋めればいい。

 ロザミュンダは紙をまとめ、丁寧に折った。普通の授業記録とは別に、欄外の印だけを写した紙を作る。誰かに見られた時、ただの授業メモに見えるように。

 そこへ、扉が叩かれた。

「お嬢様。ネリアメでございます」

「入りなさい」

 ネリアメが入ってきた。手には温かな茶の盆を持っている。香りは甘い。蜂蜜と柑橘を混ぜた茶だ。以前のロザミュンダが、授業後の苛立ちを紛らわせるためによく飲んでいたものだった。

「授業、お疲れ様でございました」

 ネリアメはにこやかに言った。

「今日はずいぶん長く続きましたのね」

「そうね」

「メルデン先生が、少しお疲れのお顔で出ていらっしゃいましたわ。何かございましたか?」

 ロザミュンダは茶の湯気を見た。甘い香りが鼻先に触れる。以前なら、その香りだけで少しほっとした。ネリアメはいつも、怒ったロザミュンダを甘い茶でなだめた。そうして「今日は難しすぎましたものね」と言い、「次はあまり無理をなさらなくても」と囁いた。

 無理をしなくていい。
 学ばなくていい。
 お嬢様はそのままで美しい。

 優しい毒。

「質問をしたの」

 ロザミュンダは答えた。

 ネリアメの目が、ほんの少しだけ動く。

「質問、でございますか」

「ええ。分からないところが多かったから」

「まあ……お嬢様が?」

「おかしい?」

「いいえ。ただ、お嬢様はこれまで、細かな確認を好まれませんでしたから」

「これからは確認するわ」

 ネリアメは茶を注いだ。琥珀色の液体が白い器に満ちる。かすかな湯気が立つ。彼女の手は落ち着いていたが、注ぐ量がいつもより少し多い。

「それは素晴らしいことでございます。ですが、お嬢様。あまり先生方を困らせてはいけませんわ。基礎的なことを何度もお尋ねになると、先生方も教え方を疑われたようにお感じになるかもしれません」

「疑われたら困る教え方なの?」

 ネリアメの手が止まった。

 茶の表面が揺れる。

「……そのような意味では」

「私は、分からないことを聞いただけよ」

「もちろんでございます。ただ、先生方は奥様がお選びになった方々ですし」

「だから?」

「お嬢様が先生方に不満を示したと奥様のお耳に入れば、またお叱りを受けるかもしれません。私は、それが心配で」

 心配。

 またその言葉。

 ロザミュンダは茶碗を手に取った。温かい。指先にじんわり熱が移る。香りは甘いが、今はその甘さが少し重かった。

「ありがとう。気をつけるわ」

 ネリアメは安心したように微笑んだ。

「ええ。それがよろしいかと。お嬢様は、難しいことを一度に詰め込むとお疲れになりますもの。今日はこの後、少しお休みになってはいかがでしょう。王都の新しい袖飾りの雑誌も届いておりますわ」

「後で見るわ」

「今お持ちしましょうか」

「いいえ。今は授業内容を整理する」

 ネリアメの笑みが、少し薄くなった。

「整理なら、私がお手伝いいたします」

「一人でできるわ」

「お嬢様」

「ネリアメ」

 ロザミュンダは、茶碗を置いた。

 かちゃり、と小さな音がした。大きくはない。けれど部屋の空気を区切るには十分だった。

「私は、分からないことを自分で整理したいの。呼ぶまで入らないで」

 ネリアメは黙った。

 その沈黙の中に、怒りはない。少なくとも表面には。ただ、柔らかな布の下に針が入っているような気配があった。

「……かしこまりました」

 ネリアメは一礼した。

「お疲れが出ませんように」

「ええ」

 彼女が出ていくと、ロザミュンダは茶碗を見下ろした。甘い香りがまだ立っている。飲めばきっと、体は温まる。けれど今は飲まなかった。眠くなるのが怖かったからだ。

 彼女は授業記録を広げた。

 もう一度、教師が飛ばした部分を確認する。知らない単語には印をつける。次回聞くこと。自分で調べること。必要な本。地図。家系図。契約書式。礼法の基礎。

 書いていくうちに、紙の上に細い道ができていくようだった。

 今の自分は、暗い森の中にいる。どちらへ進めばよいか分からない。だが、一つずつ木に印をつけていけば、同じ場所をぐるぐる回らずにすむ。

 ロザミュンダはふと、机の引き出しの奥に隠した金貨を思い出した。

 宝石を売って得た金。
 自由へ続く、最初の重み。

 あれで本を買うべきだろうか。外部の教師を雇うには足りないかもしれない。だが古書なら手に入る。ベルトランに相談するべきか。いや、まだ早い。まずは屋敷内の書庫へ入る方法を探すべきだ。

 兄の管理する書庫。

 その言葉が胸に引っかかった。

 兄ガルヴェインは厳しい。前の人生では、ロザミュンダが書庫へ入ろうとした時、「遊び半分で本を荒らすな」と言ったことがある。彼女は怒り、書庫の扉の前で声を荒らげた。その後、二度と近づかなかった。

 だが今なら。

 きちんと理由を言えば、貸してくれるだろうか。
 いや、期待しない方がいい。

 期待は、折れた時に痛い。

 ロザミュンダは首を振った。まずは自分でできることからだ。

 昼食までの時間、彼女は授業内容を整理し続けた。

 昼食は自室で取った。ネリアメは何度も「少しお休みになっては」と勧めたが、ロザミュンダは頷かなかった。食後も机に向かった。文字を書きすぎて手首が熱を持ち、指先にはインクがついた。窓の外の光が少しずつ傾いていく。

 夕方、別の教師が来た。

 今度は礼法教師のバルデス夫人だった。丸みのある体つきで、香水が強く、笑う時に扇で口元を隠す癖がある。彼女の授業は、いつも「高位の令嬢らしさ」を語るところから始まる。

「お嬢様、本日は歩き方の確認をいたしましょう」

 バルデス夫人は、広い応接間の中央に立った。床には淡い模様の絨毯が敷かれている。その上を歩くと、靴音がほとんど消える。大きな鏡が壁際に置かれており、ロザミュンダの姿が全身映っていた。

「公女たるもの、歩くだけで周囲に格を示さねばなりません。視線は高く、顎は少し上げて。相手を見下ろすのではなく、見下ろされないためでございます」

 前の人生のロザミュンダは、この言葉を信じた。

 顎を上げた。
 胸を反らした。
 使用人にも、令嬢にも、義母にも、負けないように。

 その結果、彼女は高慢に見えた。

 バルデス夫人は、鏡の前で実演してみせる。優雅ではある。だが十五歳のロザミュンダが真似れば、威圧的に見える角度だった。

 ロザミュンダは尋ねた。

「相手の身分によって、視線の高さは変えるべきではありませんか」

 夫人の扇が止まった。

「もちろん、細かく申せばございますけれど、お嬢様は公爵家のご令嬢ですもの。あまり下手に出ますと、かえって侮られます」

「皇族の前でも?」

「それは……もちろん、皇族の方には敬意を示します」

「では、公爵家より上位の相手、同格の相手、下位の相手で、礼の深さを分けて教えてください」

 バルデス夫人は、ゆっくり扇を閉じた。

「お嬢様。そのような細かな分類は、実際の場で感覚として覚えるものでございます」

「私はその感覚がありません。だから分類からお願いします」

 夫人の頬が少し赤くなった。

「感覚がないなどと、そうはっきりおっしゃらずとも」

「ないものを、あるふりはできません」

 鏡の中のロザミュンダは、静かに立っていた。

 昔の自分なら、この鏡に映る姿を嫌っただろう。顎を上げすぎ、目に力を入れすぎ、肩を張りすぎた姿を、それでも正しいと思い込もうとした。

 今は違う。

 知らない。
 だから聞く。

 バルデス夫人はしぶしぶ、皇族、王族に連なる公爵家、同格貴族、下位貴族、聖職者、教師、使用人への礼の違いを説明し始めた。

 説明は断片的だった。
 彼女は何度も「本来なら自然に」と言った。
 ロザミュンダはそのたびに、紙へ書いた。

 本来なら自然に。
 感覚で。
 令嬢であれば当然。
 細かな分類は不要。

 不要と言われたものほど、必要だった。

 授業が終わる頃、バルデス夫人は明らかに疲れていた。ロザミュンダも疲れていた。だが、いつものような虚しさはない。体は重いが、手の中には確かに何かが残っている。

 ほんの少しだけ、歩き方が分かった。
 礼の角度が分かった。
 自分が今までどれほど不自然な姿勢で立たされていたかも、分かった。

 夕食後、ロザミュンダは自室に戻った。

 廊下は夜の匂いに変わっていた。磨かれた床に灯りが映り、遠くの厨房から焼いた肉と香草の匂いがかすかに流れてくる。使用人たちは忙しく動いていたが、ロザミュンダを見ると、いつもより少し早く壁際へ下がった。

 怖がられている。

 それは一日で変わるものではない。

 ロザミュンダは足を止めず、ただ小さく頷いた。使用人の一人が驚いたように目を上げる。彼女はそれ以上見なかった。優しくしようと意識しすぎるのも不自然だ。まずは、怒鳴らないことからでいい。

 部屋に入ると、ネリアメが寝支度を整えていた。

「お嬢様、本日は本当にお疲れでございましょう。もうお休みになられては」

「いいえ。少し読むわ」

「またお勉強でございますか」

 ネリアメの声には、心配がにじんでいた。あまりに自然で、一瞬だけ本物かと思ってしまう。

 だが、ロザミュンダはもう知っている。
 心配という言葉は、鎖にもなる。

「少しだけよ」

「お体に障ります」

「眠くなったら寝るわ」

「では、せめて蜂蜜入りの温かな茶をお持ちします」

「今夜は水でいい」

「ですが」

「水でいいの」

 ネリアメは一礼した。

「かしこまりました」

 その夜、ロザミュンダは机に向かった。

 蝋燭を三本立てる。火を灯すと、蜜蝋の匂いが部屋へ広がった。窓は閉めてある。外では風が樹を揺らし、枝がときどき硝子をかすめた。暖炉には小さく火が入っているが、部屋の隅までは暖まらない。足元が冷え、膝掛けをかけても指先は少し冷たかった。

 机の上には、今日の授業記録。虚飾だらけの礼法書。メルデン教師の本から書き写した単語。ベルトランから借りた古い帳簿の写し。宝石売却の証明書を見て、自分なりに真似て作った契約書の項目表。

 どれも難しい。

 分からない。

 だが、今夜は分からないことを投げ捨てない。

 ロザミュンダはまず、東方三侯の名をもう一度書いた。次に、塩路、徴税権、補給線。それぞれの意味を、今日の説明から自分の言葉で書き直す。

 塩路。塩を運ぶ道。管理すれば通行税や流通を押さえられる。
 徴税権。土地から税を集める権利。家の力になる。
 補給線。軍へ食料や物資を届ける道。途絶えると戦えない。

 幼い文章だった。

 だが、分かったふりをするよりずっとましだった。

 次に礼の角度を書く。皇族には深く、視線は上げすぎない。同格には相手の年齢と立場を見る。下位には尊大にならず、簡潔に。教師には敬意を示すが、疑問は尋ねてよい。

 尋ねてよい。

 その言葉を、ロザミュンダは二重線で囲んだ。

 眠気は思ったより早く来た。昼間からずっと緊張していたせいだろう。瞼が重くなり、字がにじむ。ペン先が紙の上で止まる。蝋燭の火が揺れ、壁に映る影が伸び縮みした。

 寝た方がいい。

 体はそう訴えている。

 だが、ロザミュンダはペンを置かなかった。

 今日学んだことを今日のうちに整理しなければ、また逃げてしまうかもしれない。明日になれば、ネリアメが別の言葉を囁くかもしれない。教師がまた「当然」と笑うかもしれない。自分の中の弱い部分が、もう十分だと言い出すかもしれない。

 それが怖かった。

 彼女は冷たい水を飲んだ。喉を通る感触がはっきり分かる。首を絞められた記憶が、今も時折よみがえる。だが、水は通る。息も通る。なら、まだ書ける。

 帳簿の写しを開く。

 数字が並んでいる。日付、品名、支払い元、金額、備考。宝石売却の時に見た形式と似ている。ロザミュンダは、自分の宝石一覧を同じ形で作り直した。

 品名。所有区分。購入額。売却見込み。証明書の有無。注意点。

 書いているうちに、金の流れが少しだけ見えてきた。

 公爵家請求の宝石を売れば問題になる。
 私費扱いのものなら売れる。
 贈答品は慎重に。
 証明書がなければ、あとで横領と言われるかもしれない。
 金を現金で持つなら、盗難と濡れに注意。
 預かりにすると、商人に握られる。

 知らなければ、簡単に騙される。

 いや、前の人生の自分は騙されていたのだろう。
 どこで、誰に、どれだけ。
 今はまだ分からないだけで。

 ロザミュンダは記録紙に新しく項目を作った。

 今後確認。過去の宝石購入で不自然な請求がないか。

 ペン先が震え、インクが一滴落ちた。黒い染みが紙に広がる。

 彼女はそれを見て、少しだけ笑った。

 汚れた。

 でも、怒鳴るほどのことではない。
 紙はまだ使える。
 染みの横に書けばいい。

 こんな当たり前のことすら、以前の自分には難しかった。何かが少しでも思い通りにならないと、すべてが壊れたような気がした。小さな失敗を直す方法を知らなかったからだ。誰も教えず、笑うばかりだったからだ。

 今は、染みの横へ書く。

 ただ、それだけでいい。

 夜は深くなった。

 廊下の足音が少なくなり、遠くの時計が十時を告げた。ネリアメが一度、水差しを取り替えに来たが、ロザミュンダは扉越しに「置いておいて」とだけ言った。部屋へ入れなかった。ネリアメは少し間を置いて「かしこまりました」と答えた。

 ロザミュンダは書き続けた。

 十一時。
 蝋燭が一本短くなる。溶けた蝋が皿に溜まり、甘い匂いが強くなる。火の熱で目が乾く。肩が痛い。首を回すと、骨が小さく鳴った。

 彼女は立ち上がり、窓辺へ行った。

 外は暗い。庭の薔薇は影になり、噴水の水音だけが聞こえる。空には薄い雲が流れ、月は隠れていた。硝子に映る自分は、蝋燭の火に照らされて青白い。十五歳には見えない目をしている。

 戻ってきた。

 それは奇跡なのか、罰なのか、まだ分からない。

 けれど、戻った以上、同じ終わりには行かない。

 ロザミュンダは窓に映る自分へ、小さく言った。

「私はもう、知らないまま死なない」

 声は硝子に吸われ、部屋の中へ戻ってきた。

 机へ戻る。

 最後に、今日の教師たちについてまとめた。

 メルデン教師。外交史。基礎を飛ばす。質問に不快感。次回、婚姻関係図を要求。
 バルデス夫人。礼法。顎を上げる指導。身分別の礼を曖昧にする。次回、食卓作法と招待状の基礎を要求。
 ネリアメ。質問しすぎを心配という形で止める。雑誌を勧める。茶で休ませようとする。

 そこでペンを止めた。

 休ませようとする。

 それ自体は悪いことではない。
 本当に心配している可能性もある。

 ロザミュンダはしばらく悩み、横に小さく書き足した。

 意図は未確定。ただし、学習を止める方向の発言が多い。

 決めつけない。
 だが、忘れない。

 それが今の彼女にできる精一杯だった。

 時計が十二時を打つ頃、ロザミュンダの指は限界に近かった。ペンを握る手が震え、最後の文字が少し傾く。蝋燭は二本目も半分以下になり、三本目の火が一番明るく燃えていた。

 彼女は紙を乾かし、詩集の中へ挟み、さらに化粧棚の隠し場所へ一部を移した。記録を一か所に置かない。今日思いついた小さな用心だった。

 隠し板を戻す時、指先に木のささくれが刺さった。

「痛……」

 小さな声が漏れる。

 指を見ると、針の先ほどの赤が滲んでいた。ロザミュンダはそれをじっと見つめた。痛い。小さいが、確かに痛い。

 生きている痛みだった。

 彼女はハンカチで指を押さえ、寝台へ向かった。体は鉛のように重い。髪をほどく気力もほとんどなく、椅子の背にかけていたショールを肩へかけただけで、寝台に腰を下ろした。

 部屋は静かだった。

 蝋燭を消すと、闇が柔らかく降りてくる。暖炉の火だけが赤く残り、壁に小さな光を揺らしていた。外では風が止み、噴水の水音だけが続いている。

 ロザミュンダは横になった。

 目を閉じると、すぐにダリオルドの手が浮かびそうになる。だから彼女は、今日書いた文字を思い出した。東方三侯。塩路。徴税権。礼の角度。売却証明書。質問してよい。

 質問してよい。

 その言葉を胸の中で何度も繰り返す。

 知らないことは、罪ではない。
 知らないままでいろと囁く声こそ、疑うべきものだ。

 眠りに落ちる直前、ロザミュンダはもう一つだけ思った。

 明日も、聞こう。

 笑われても。
 嫌な顔をされても。
 当然だと言われても。

 基礎から説明してくださいませ、と。

 その言葉は、今日手に入れた最初の刃だった。

 怒鳴るための刃ではない。
 自分を切り開くための、細く静かな刃。

 ロザミュンダは、その刃を胸の奥に抱いたまま、ようやく眠りに落ちた。

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