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第29話 泣いていいと言われた夜
その夜、東翼へ戻ったあとの記憶は、ところどころ水に濡れた紙のように滲んでいた。
北棟の書記室で真相を聞かされ、自分の身体と失われた子のことが、どれほど都合よく搾り取られていたのかを知って崩れたあと、どうやって部屋まで戻ったのか、細部はもう定かではない。回廊を歩いたはずだ。石床の冷たさも、燭台の灯りも、どこかで見た。けれどそれらはみな、薄い膜を一枚隔てた向こう側の景色みたいに遠かった。
ただ一つだけ、はっきり覚えていることがある。
自分が一人ではなかったこと。
歩幅を合わせてくれる足音が隣にあり、早すぎる呼吸を乱さぬようにと黙ったまま歩く気配があり、東翼の扉が開くその瞬間まで、自分が「抱えきれないものを抱えた人間」であることを、誰にも軽んじられずにいられたこと。
それだけが、細い糸みたいに切れずに残っていた。
部屋へ入ると、暖炉の火はすでに整えられていた。
ミレシュカが先回りしていたのだろう。火は大きすぎず、けれど冷えた身体へきちんと熱が届くように薪が組まれ、机の上には湯の入った小さなポットと、柔らかい布、それから薬湯ではない、ただ温かな湯気の立つ茶が置かれていた。夜咲草の鉢は窓辺にあり、鏡台の端には祭りの花冠の名残が小皿の上に残っている。
この部屋には、ここへ来てから少しずつ手渡されてきたものがある。
夜に香る草。
子どもたちからの花冠。
冬越し袋の配分表。
自分の字で書き込んだ帳簿の写し。
そして、泣いてもよいと許される空気。
それなのに、その夜のリュゼリアは、部屋に足を踏み入れた瞬間に、逆にどうしていいか分からなくなった。
北棟の書記室では、証拠が目の前にあった。帳面があり、薬があり、証言があった。だから崩れるにも、崩れる方向があった。悔しさも、悲しみも、怒りも、全部が一つの場所に向かって落ちていった。
けれど東翼へ戻ると、部屋は静かすぎた。
誰も責めない。
誰も説明を続けない。
ただ、火があり、湯気があり、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
その静けさの中で初めて、あの事実がじわじわと別の形で身体へ入ってきた。
自分の流産は、自然な不幸ではなかったかもしれない。
不妊と責められた体も、最初から「そうだった」のではない。
自分の体は、都合のために削られた。
失われた子は、もしかすると、最初から「育っては困る」と思われていた。
その事実が、書記室では言葉として落ちてきたのに、今は記憶として襲ってくる。
あの夜の血。
王太后の声。
侍女たちの慌ただしい手。
寝台の上で痛みに息もできず、喉の奥で声を噛み殺したこと。
泣くより先に、「王妃として」の顔を整えようとしたこと。
痛かった、と言えなかったこと。
誰にも最初に「怖かったでしょう」と言われなかったこと。
リュゼリアは暖炉の前まで歩き、そこでやっと立ち止まった。
座ればいいのに、座れない。
外套を脱げばいいのに、それすらうまくできない。
指先は冷えているのに、胸の奥は熱い。
泣いたはずなのに、まだ泣き足りないのかもしれないという、わけの分からない苦しさだけがある。
後ろで扉が閉まり、鍵のかかる小さな音がした。
それで初めて、リュゼリアは自分の後ろにまだゼルヴェインがいるのだと、ちゃんと意識した。
書記室からここまで、彼は何も言わなかった。急かしもせず、慰めの言葉を並べもせず、ただ歩調を合わせ、部屋へ入るところまで付き添っていた。その沈黙がありがたかったのに、部屋へ着いてからも何も言わないでいられると、今度は胸の奥の壁が、自分でも支えきれぬほど薄くなっていく。
リュゼリアは振り向かなかった。
振り向けば、たぶん、また崩れる。
それが分かっていたからだ。
「……リュゼリア」
低い声が、静かに名前を呼ぶ。
たったそれだけで、喉の奥が熱くなった。
「……っ」
何か返そうとした。けれど声にはならない。代わりに、肩が小さく震えた。
その震えが、自分で止められない。
次の瞬間、背後からではなく、横から、ゼルヴェインの気配が近づいた。視界の端へ、黒に近い濃紺の上衣が映る。彼はリュゼリアの前へ回り込まない。正面から覗き込むようなこともしない。ただ、隣へ来て立ち、彼女の呼吸の高さに自分を合わせるように少しだけ沈む。
それから、確認するように言った。
「抱くぞ」
「……」
短い言葉だった。けれど、それは命令ではない。触れる前に、必ずそこを確かめる人の声だ。嫌なら拒め。以前もそう言った。この人は、どれほどこちらが崩れていても、最後の一線だけは勝手に越えない。
リュゼリアは返事の代わりに、ほんの少しだけ目を閉じた。
拒まなかった。
それが答えだと、もう彼は分かっている。
次の瞬間、腕が回った。
今度の抱擁は、北棟の書記室でのそれよりも、もっと静かだった。崩れかけた身体を支えるためだけではなく、泣き切るまでここにいてよいと、体温そのもので告げるための抱擁だった。背に回る腕は強い。だが苦しくない。肩へ触れる掌は、過剰に撫でない。ただ、逃げ場を奪うのではなく、「もう自分を保たなくていい場所」を輪郭として作るような触れ方だった。
それだけで、リュゼリアの中の何かがまた決壊した。
北棟で涙は出た。悔しいとも、痛かったとも言った。けれどあれは、事実に打ちのめされて崩れた涙だった。今ここで零れ始めたものは、もっと長く奥に沈んでいた、名前のつかない感情の塊だった。
「……っ、あ……」
息が、泣き声になる前のところで何度もひっかかる。
胸が痛い。
苦しい。
悔しい。
悲しい。
全部がぐしゃぐしゃで、ひとつの言葉にまとまらない。
だから涙だけが先に出る。
目の奥から熱いものが次々にこぼれ、頬を伝い、彼の衣へ落ちる。止めようとすると余計に喉が痛くなる。呼吸のたびに肩が震え、腕の中の自分がひどく小さく、頼りないものに感じられる。昔なら、こんなふうに泣くことは許されなかった。泣く前に顔を整えろ、声を呑み込め、王妃たるものと、そういう言葉が先に来た。
けれど今は、そのどれも来ない。
ゼルヴェインは何も言わない。
「大丈夫だ」も、「可哀想に」も、「忘れろ」も、「もう終わった」も言わない。
ただ腕の強さだけが、今ここで崩れていいのだと示している。
そのことが、かえって涙を止めなくした。
「……私」
ようやく零れた言葉は、涙で細くほどけていた。
「私、ずっと……」
「……」
「我慢してたの」
「……」
「怖いのも、痛いのも、苦しいのも」
「……」
「全部……」
喉の奥が詰まる。言葉が続かない。けれどゼルヴェインは先を促さない。急かさない。リュゼリアが自分の中からやっと掘り起こし始めたものを、途中で奪わないようにしているのだと分かる。
「我慢している顔が」
リュゼリアは泣きながら言う。
「褒められたから」
「……」
「静かでいれば褒められて」
「……」
「泣かなければ偉いみたいに言われて」
「……」
「平気な顔をしてたら、それでいいことにされて」
その記憶は、あまりに染みついていた。
王太后の「ようやく見られる顔になったわね」という冷たい声。
侍女たちの「王妃殿下は取り乱されないので」という、どこか賞賛めいた囁き。
痛みを呑み込み、表情を消し、座っているだけで「立派でした」と言われた夜。
あれは褒め言葉ではなかった。
ただ、自分が都合のいいかたちで黙っていることへの報酬だったのだ。
そのことを、今なら分かる。
分かるからこそ、悔しい。
「……もう」
涙の中で、リュゼリアはうまく息を吸えずに言う。
「もう、分からない……」
「……」
「何を、我慢していいのか」
「……」
「何を、泣いていいのか」
自分でも、ひどく幼い言葉だと思った。だがそこまで剥き出しになってしまった心には、もはや体裁を整える余裕など残っていない。
その時、初めてゼルヴェインが言葉を落とした。
「もう我慢している顔を褒められなくていい」
低く、静かに。
けれど、ひどくはっきりと。
その一言が、リュゼリアの胸の真ん中へまっすぐ刺さった。
もう我慢している顔を褒められなくていい。
それは慰めではない。
許可でもある。
命令でもある。
呪いを解く言葉にも似ていた。
今までどれだけ「我慢している顔」を褒められてきたか。
静かな王妃。
取り乱さぬ妃。
痛みを見せない女。
そうあることでしか生き残れず、その顔が褒められるたびに、内側の自分は少しずつ押し潰されてきた。
それを、もうやめていいと言われる。
その瞬間、リュゼリアの中の壁が、本当に大きく音を立てて崩れた。
「……っ、いや……」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
「もう、いや……」
「……」
「私、あの時も……」
「……」
「泣きたかった……」
「……」
「怖かった……」
「……」
「痛かったの……!」
最後の一言は、泣き声のまま飛び出した。
それはたぶん、あの夜に言えなかった言葉だった。
血に濡れた寝台の上で、誰にも言えず、誰にも聞かれず、喉の奥で噛み殺したまま固まっていた言葉。
痛かったの。
怖かったの。
泣きたかったの。
たったそれだけのことを、今になってようやく言えた。
そうしてしまったら、涙はますます止まらなくなった。ゼルヴェインの衣を、リュゼリアはひどく情けない形で掴んでいた。美しくもない。静かでもない。王妃らしさなど欠片もない。あるのは、長いあいだ押し込めてきた痛みを、今ようやく外へ出している人間の醜いほど必死な姿だけだ。
けれど、ゼルヴェインはそのどこも正さない。
「落ち着け」とも言わず、「泣くな」とも言わず、ただ抱きしめている。
抱きしめるという行為そのものが、今は言葉より深い。慰めの言葉は、ときに人を急がせる。理解した気にさせる。だがこの人はそれをしない。泣き切るまで、ただそこにいて、腕の中の温度だけで「ここは崩れていい場所だ」と示す。
それが、どれほど救いになるか。
時間の感覚はなかった。
泣いて、息が乱れ、少し落ち着いて、また別の記憶が胸を刺して涙になる。その繰り返しだった。時々、ゼルヴェインの掌が背を一度だけゆっくりと滑る。撫でるというより、呼吸をここへ戻すための動きだ。大丈夫とは言わない。けれど、その一度だけの掌で、崩れすぎた呼吸がほんの少し整う。
泣き疲れて、声がかすれ、涙が少しずつ細くなってきた頃、リュゼリアはやっと自分がどれほど彼の衣を濡らしたのかに気づいた。
「……ごめんなさい」
かすれた声でそう言うと、ゼルヴェインは即座に返した。
「何に」
「こんな……」
「こんな、何だ」
「……」
「泣き顔か」
「……ひどいでしょう」
「そうかもな」
彼は平然と言った。
「だが、それでいい」
「……」
「今夜は、それでいい」
その返しに、リュゼリアは涙で濡れたまま、少しだけ目を閉じた。
ひどいかもしれない。
でも、それでいい。
美しくなくていい。
整っていなくていい。
泣き顔を隠さなくていい。
それはどれも、今の彼女にとっては簡単な言葉ではない。けれど、腕の中でそう言われると、少しだけ信じられる気がする。
泣き切る、というのは不思議なものだ。
涙が完全に止むわけではない。
痛みが消えるわけでもない。
真相を知った事実が軽くなるわけでもない。
それでも、あるところを越えると、呼吸の深さだけが少し変わる。胸に詰まっていたものが全部なくなるのではなく、もうこれ以上は同じ勢いで溢れ出ない、という種類の静けさが来る。
その静けさが、ようやくリュゼリアにも訪れた。
彼女はゼルヴェインの胸元へ顔を寄せたまま、少しずつ乱れた息を整えていく。肩の震えも、最初よりは弱い。目の奥はまだ熱い。頬も冷たい涙の跡でひりつく。けれど、崩れたままでも呼吸はできると、身体が遅れて理解し始めている。
「……もう」
ゼルヴェインが低く言う。
「泣き切ったか」
問いはやわらかくもなければ、ぶっきらぼうでもない。ただ、事実を確かめる声だった。
リュゼリアは小さく頷いた。完全ではない。けれど、さっきまでのようにはもう泣けない。涙の量が尽きたというより、ようやく心の奥の一番硬いところが崩れて、そこから先は別の痛みの形になったのだと思う。
ゼルヴェインはそこでやっと、腕の力を少しだけ緩めた。
離すのではない。自分で座れるかを確かめる余地を作る程度に。リュゼリアはその隙間の中で、ようやく少しだけ顔を上げた。視界がまだ少し曇る。けれど、目の前の男の顔ははっきり見えた。
彼の目には、怒りがある。
自分へ向けるものではない、冷たく深い怒り。
それと同時に、今泣き切った自分を見ている静かな目もある。
その二つが同時にあることが、リュゼリアには不思議なくらい安心だった。
「……私」
彼女は掠れた声で言った。
「今まで、泣いたら終わると思ってた」
「……」
「泣いたら、もう駄目になるって」
「……」
「弱いって、見捨てられるって」
ゼルヴェインは短く息を吐く。
「泣いて、終わるなら」
彼は言う。
「最初からそんなものはいらん」
「……」
「弱さを見て捨てるような関係なら」
「……」
「なおさらだ」
その言葉は、ひどく静かで、ひどく強かった。
リュゼリアはそれを胸の中で何度か繰り返した。泣いて終わるなら、最初からそんなものはいらない。あまりに簡潔で、あまりに厳しい。けれど厳しいからこそ、本物だと思える。
彼女はゆっくりと息を吸った。暖炉の熱、夜咲草の淡い匂い、涙で冷えた頬、そしてまだ残る彼の体温。その全部が、泣いた後の身体に少しずつ現実を戻していく。
今夜、自分は初めて、本当に泣いていいと言われたのだと思う。
「泣いてもいいよ」という軽い慰めではない。
「もう我慢している顔を褒められなくていい」という、もっと深い場所に届く言葉で。
それは、自分の中で長く「生き残るための顔」だったものを、もう手放してよいと告げる言葉だった。
その意味を、リュゼリアの心はたぶん一晩では消化しきれない。
けれど、壁は確かに大きく崩れた。
崩れた先に何があるのか、まだ見えない。
それでも、もう前のままではいられないのだと、彼女は静かに知っていた。
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