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第34話 もう、黙らない
会談室に落ちた沈黙は、冬の湖の表面のようだった。
凍っている。
けれどその下では、まだ見えない流れが確かに動いている。
リュゼリアが最後の紙を置いたあと、両国の席のあいだには、しばらく誰の声も落ちなかった。高い窓の向こうは相変わらず白く、外の空は晴れるでもなく曇るでもない薄い光で満ちている。燭台の火が揺れ、その細い炎が机の上に並んだ帳簿と書簡の端を照らしていた。紙の白、革表紙の鈍い艶、封蝋の割れ目。そこに積み重なっているのは感情ではなく記録だ。改竄された命令書。偽署。備蓄の横流し。副帳。毒の経路。
それらを一つずつ示し終えた今、会談室の空気は明らかに変わっていた。
アルヴェリア側の者たちは、すぐには反論できない。できるはずがない。さきほどまでなら「怨恨だ」「お気の毒だが」と言葉の枠で押し返せたかもしれない。けれど今、机の中央には紙が並び、数字があり、日付があり、署名の形の違いまで広げられている。もう「静かな女の感情論」へ押し戻すだけでは済まないところまで来てしまったのだ。
エドリックはその沈黙の中に座っていた。
姿勢は崩れていない。王としての輪郭も保っている。だが目だけが以前より冷たく硬い。整った顔の奥で、計算が狂った時の苛立ちが静かに渦を巻いている。彼はこういう時、怒鳴らない。怒鳴れば負けだと知っているからだ。だからもっと厄介なやり方をする。冷静な声のまま、相手の立っている場所そのものを腐らせようとする。
その顔を、リュゼリアはもう知っていた。
そして今は、その顔に怯える自分だけではないことも知っている。
最初に沈黙を破ったのは、アルヴェリア側の外務補佐貴族だった。
「……仮に」
彼は乾いた咳払いをひとつしてから言った。
「仮に、今示された文書群の一部に不備があったといたしましょう」
ノルドグラン側の席にいる記録官が、何も言わずに筆を走らせる。
「ですが、それをもって直ちに、王妃としての適性の問題まで覆るわけではありますまい」
「適性」
ゼルヴェインが低く繰り返した。
その一語に、会談室の空気がまた少しだけ張った。
「ええ」
外務補佐貴族は続ける。
「王妃とは、帳簿を見る役目ではない」
「……」
「備蓄の袋数に目を光らせ、倉番に差し止めを命じ、薬草の配分へまで口を出す」
「……」
「それは宮廷を円滑に保つという意味では、必ずしも望ましい姿とは言えぬ」
「……」
「女主人としては気位が高く」
「……」
「王妃としては、人を和ませる柔らかさに欠け」
「……」
「結果として、宮廷内で軋轢を生んでいたこともまた、事実でしょう」
それは、ひどく聞き慣れた物言いだった。
違法も不正も否定できない時、彼らは必ずそこへ逃げる。
女としてどうだったか。
王妃として愛想が足りたか。
場を和ませたか。
人に愛されたか。
帳簿の偽署も、毒の経路も、横流しされた備蓄も、一度そこから目を逸らしてしまえば、あとは「結局あの女は王妃に向いていなかった」という話へすり替えられる。
ずっとそうやってきたのだ。
リュゼリアの進言を潰し、
不正をその名で覆い、
最後には「王妃失格」の一言で全てを片づけてきたように。
胸の奥に、何かがひどく静かに熱を持った。
昨夜までのリュゼリアなら、その熱はまず痛みに変わっただろう。自分の足りなさを責める方へ、条件反射のように向かったかもしれない。けれど今は違う。その熱は、痛みのまま沈まなかった。帳簿がある。書簡がある。偽署がある。自分の人生に何が行われてきたかを知ってしまった今、もう同じ場所へ戻れない。
「王妃とは」
今度は、王太后付きの老文官が口を開いた。
「宮廷の心を映す鏡でもあります」
「……」
「人を和ませ、夫である王を立て、継承を支え、王家の内側を穏やかに整える」
「……」
「その意味で申し上げれば」
彼は、あくまで静かな声で、リュゼリアを見た。
「あなたは、やはりアルヴェリアの王妃には向いておられなかった」
その言葉が落ちた瞬間、昔の宮廷の匂いがした気がした。
香油。
冷えた大理石。
王太后の扇。
侍女たちの押し殺した笑い。
夜会の後、鏡の前で自分の顔を見つめながら、「どうして私はこうなのだろう」と何度も思った夜。
向いていなかった。
失格だった。
足りなかった。
何度も浴びせられてきた言葉だ。
その言葉に、自分で自分の輪郭を削られてきた。痛みも怖さも、全部「私が足りないから」と処理してきた。
けれど今、机の中央には記録がある。
自分の名前で改竄された文書が。
握り潰された進言が。
横流しされた備蓄が。
そして、自分の体を削った毒の経路が。
それでもなお「向いていなかった」で片づけるのか。
その理不尽が、胸の奥でまっすぐ熱へ変わった。
リュゼリアは自分でも気づかぬうちに、椅子の肘から手を離していた。指先は冷たい。けれど震えていない。震えていないことに、次の瞬間初めて気づく。
私は、震えていない。
怖くないわけではない。
胸は速く打っている。
喉の奥も熱い。
けれど今、この場で、昔のように冷えて縮こまるだけの自分ではない。
それが分かった時、言葉はもう中に留まっていられなかった。
「違います」
会談室に、自分の声が落ちた。
静かな声だった。だが、ひどくよく通った。
老文官も、外務補佐貴族も、エドリックも、そこで初めて完全にリュゼリアへ視線を向けた。ノルドグラン側の席も動かない。ゼルヴェインは何も言わない。ただ、彼女の言葉がこれからどこまで届くかを見ている。
リュゼリアはもう一度、はっきりと言った。
「違います」
それだけで、何年も喉の奥へつかえていたものが少しだけ動く気がした。
「私は王妃失格だったのではありません」
その瞬間、会談室の空気が凍りついた。
言った。
ついに、自分で。
誰かに解釈してもらうのではなく、
帳簿の行間へ読み取ってもらうのでもなく、
ただ、真正面から。
リュゼリアは目を逸らさなかった。
エドリックを見た。
老文官を見た。
かつて自分を「王妃らしくない」と値踏みしたあの国の顔を、今はまっすぐに見ている。
「私は王妃失格だったのではありません」
もう一度、今度は少しだけゆっくりと言う。
「あなたたちにとって都合の悪い王妃だっただけです」
その一言は、刃だった。
鋭いのに、声は荒れていない。
叫びでもない。
だが、だからこそ深く刺さる。
自分の中の長い沈黙が、そこで初めて意味のある言葉になった瞬間だった。
都合が悪い。
だから偽署が必要だった。
都合が悪い。
だから進言は握り潰された。
都合が悪い。
だから横流しの責任を被せられた。
都合が悪い。
だから子を成せぬ体にされ、「失格」の烙印を押された。
その全部が、たった一言でつながる。
リュゼリアは続けた。
「王妃として笑わなかったから、ではありません」
「……」
「人を和ませるのが下手だったからでも」
「……」
「子を保てなかったからでもありません」
「……」
「私は」
彼女は机の上の帳簿へ視線を落とし、それから再び上げた。
「あなたたちの見えないところで開けた穴を塞ごうとした」
「……」
「数字の歪みに気づき」
「……」
「備蓄の不足に気づき」
「……」
「不正な横流しを止めようとした」
「……」
「だから、邪魔だった」
邪魔だった。
その一語が落ちた瞬間、アルヴェリア側の席で誰かが息を呑む音がした。あまりに静かな会談室では、それさえもはっきり聞こえる。
外務補佐貴族が言い返そうと口を開く。だがリュゼリアは、今度は相手に言葉を挟ませなかった。
「私の名前で命令を改竄し」
「……」
「私の進言を握り潰し」
「……」
「そのうえで、私を『気難しく無能な王妃』に見せる」
「……」
「それがあなたたちにとって、いちばん都合がよかった」
「……」
「違うのなら」
彼女は一枚の書類を持ち上げた。
「この偽署の説明をしてください」
次の帳面へ手を置く。
「この副帳の差し止め記録の説明を」
さらに別紙へ指を落とす。
「この薬の経路の説明を」
最後に、目を上げた。
「してください」
言い終えた時、胸の奥で何かが大きく崩れ、そして同時にまっすぐ立ち上がるのを感じた。
これは、記録の説明だけではない。
初めて、自分を守るために上げた声だ。
今までのリュゼリアは、誰かのためには動けた。
備蓄のために。
医務区画のために。
民の冬越しのために。
だが、自分自身を守るために、ここまでまっすぐな声を出したことはなかった。
それが今、ようやくできた。
会談室はしんと静まり返っていた。
老文官は言葉を失っている。
外務補佐貴族の顔は青ざめている。
医師代理は、もう先ほどのように「お気の毒ですが」とは言えない顔だ。
そしてエドリックだけが、リュゼリアを見ていた。
その目にあるものは、怒りとも驚きとも違っていた。もっと鈍く、もっと苦い、遅れてやってきた現実への狼狽に近い。彼はたぶん、彼女がこういう声を持っていたことを、今まで本当の意味で見たことがなかったのだ。静かで、従順ではなくても最終的には黙る女だと、どこかで信じていた。その女が、今、公の場で真正面から自分たちの都合を言い切った。
その事実だけで、すでに彼の負けだった。
ゼルヴェインはそこでようやく口を開いた。
「聞いたか」
低い声だった。短い。だがその一言で、リュゼリアの言葉が個人の叫びで終わらず、公的な場の真ん中へ定着する。
「これが」
ゼルヴェインは言った。
「本人の意思だ」
「……」
「感情論にしたいなら勝手にしろ」
「……」
「だがこちらは、記録と本人の言葉の両方で受ける」
それは、あまりに明確な後ろ盾だった。
リュゼリアの胸の奥に、熱いものがまた少し込み上げる。けれど今度は、泣きそうになる熱ではない。もっと静かで、もっと強い熱だ。自分の声が、誰かの好意で拾われるのではなく、正当なものとして場に置かれている熱。
アルヴェリア側は、もう「黙らせる」側には戻れない。
老文官が何かを言いかけ、やめる。外務補佐貴族が目を泳がせる。医師代理は手元の紙へ意味もなく視線を落とす。誰も、今のリュゼリアの言葉を「女の感情」にだけ押し込めることができない。なぜなら彼女自身が、先にその枠を壊してしまったからだ。
しばらくして、エドリックがようやく口を開いた。
「……随分と」
声は低く、乾いていた。
「向こうで、よく教え込まれたようだな」
最後の抵抗だった。
自分の声ではないとするための。
誰かに吹き込まれた言葉だと貶めるための。
リュゼリアは、その言葉に小さく首を振った。
「違います」
「……」
「ようやく、自分で言っただけです」
それは、今日の彼女にとって一番大事な真実だった。
誰かの代弁ではない。
ゼルヴェインの言葉を借りたのでもない。
帳簿の中から勝手に浮かび上がったわけでもない。
ようやく、自分で言った。
それがどれほど大きいことかを、たぶんこの場にいる誰よりも自分が知っていた。
会談はそのあとも続いた。
だがもう、空気の向きは変わっていた。
記録官の筆が走る。
証拠箱の封が改めて確認される。
ニコラが配分の数字について補足し、ヘルヴィル医師が薬の経路と身体への影響を淡々と述べる。
ラウルは横流しされた備蓄の流れを一点ずつ示し、外交文官がアルヴェリア側の返答の矛盾を整理する。
その全ての中心に、リュゼリアが言い切った一言が残り続けていた。
王妃失格ではない。
都合の悪い王妃だっただけ。
それはもはや、ただの個人の怒りではない。
積み重ねられた証拠の総括であり、
歪められた年月への反撃であり、
そして初めて自分を守るために上げた声そのものだった。
会談が一段落し、両国の文官たちが整理のために立ち上がり始めた時、リュゼリアはようやく、自分の手が少しだけ熱を持っていることに気づいた。冷えてはいない。震えてもいない。机の上に置いた指先が、自分のものとしてちゃんとそこにある。
戦ったのだ。
自分の言葉で。
公の場で。
もう黙らないと、自分のために言い切って。
それがどれほどのことかを思うと、胸の奥がひどく静かに満ちていく。快哉を叫びたいような派手な気分ではない。もっと深い、骨の内側がようやく正しい位置へ戻るような感覚だった。
かつて「王妃失格」と呼ばれた女は、今、公の場で、その言葉そのものをひっくり返した。
その瞬間が、静かに、だが確かに、彼女の人生の中心を塗り替えていた。
凍っている。
けれどその下では、まだ見えない流れが確かに動いている。
リュゼリアが最後の紙を置いたあと、両国の席のあいだには、しばらく誰の声も落ちなかった。高い窓の向こうは相変わらず白く、外の空は晴れるでもなく曇るでもない薄い光で満ちている。燭台の火が揺れ、その細い炎が机の上に並んだ帳簿と書簡の端を照らしていた。紙の白、革表紙の鈍い艶、封蝋の割れ目。そこに積み重なっているのは感情ではなく記録だ。改竄された命令書。偽署。備蓄の横流し。副帳。毒の経路。
それらを一つずつ示し終えた今、会談室の空気は明らかに変わっていた。
アルヴェリア側の者たちは、すぐには反論できない。できるはずがない。さきほどまでなら「怨恨だ」「お気の毒だが」と言葉の枠で押し返せたかもしれない。けれど今、机の中央には紙が並び、数字があり、日付があり、署名の形の違いまで広げられている。もう「静かな女の感情論」へ押し戻すだけでは済まないところまで来てしまったのだ。
エドリックはその沈黙の中に座っていた。
姿勢は崩れていない。王としての輪郭も保っている。だが目だけが以前より冷たく硬い。整った顔の奥で、計算が狂った時の苛立ちが静かに渦を巻いている。彼はこういう時、怒鳴らない。怒鳴れば負けだと知っているからだ。だからもっと厄介なやり方をする。冷静な声のまま、相手の立っている場所そのものを腐らせようとする。
その顔を、リュゼリアはもう知っていた。
そして今は、その顔に怯える自分だけではないことも知っている。
最初に沈黙を破ったのは、アルヴェリア側の外務補佐貴族だった。
「……仮に」
彼は乾いた咳払いをひとつしてから言った。
「仮に、今示された文書群の一部に不備があったといたしましょう」
ノルドグラン側の席にいる記録官が、何も言わずに筆を走らせる。
「ですが、それをもって直ちに、王妃としての適性の問題まで覆るわけではありますまい」
「適性」
ゼルヴェインが低く繰り返した。
その一語に、会談室の空気がまた少しだけ張った。
「ええ」
外務補佐貴族は続ける。
「王妃とは、帳簿を見る役目ではない」
「……」
「備蓄の袋数に目を光らせ、倉番に差し止めを命じ、薬草の配分へまで口を出す」
「……」
「それは宮廷を円滑に保つという意味では、必ずしも望ましい姿とは言えぬ」
「……」
「女主人としては気位が高く」
「……」
「王妃としては、人を和ませる柔らかさに欠け」
「……」
「結果として、宮廷内で軋轢を生んでいたこともまた、事実でしょう」
それは、ひどく聞き慣れた物言いだった。
違法も不正も否定できない時、彼らは必ずそこへ逃げる。
女としてどうだったか。
王妃として愛想が足りたか。
場を和ませたか。
人に愛されたか。
帳簿の偽署も、毒の経路も、横流しされた備蓄も、一度そこから目を逸らしてしまえば、あとは「結局あの女は王妃に向いていなかった」という話へすり替えられる。
ずっとそうやってきたのだ。
リュゼリアの進言を潰し、
不正をその名で覆い、
最後には「王妃失格」の一言で全てを片づけてきたように。
胸の奥に、何かがひどく静かに熱を持った。
昨夜までのリュゼリアなら、その熱はまず痛みに変わっただろう。自分の足りなさを責める方へ、条件反射のように向かったかもしれない。けれど今は違う。その熱は、痛みのまま沈まなかった。帳簿がある。書簡がある。偽署がある。自分の人生に何が行われてきたかを知ってしまった今、もう同じ場所へ戻れない。
「王妃とは」
今度は、王太后付きの老文官が口を開いた。
「宮廷の心を映す鏡でもあります」
「……」
「人を和ませ、夫である王を立て、継承を支え、王家の内側を穏やかに整える」
「……」
「その意味で申し上げれば」
彼は、あくまで静かな声で、リュゼリアを見た。
「あなたは、やはりアルヴェリアの王妃には向いておられなかった」
その言葉が落ちた瞬間、昔の宮廷の匂いがした気がした。
香油。
冷えた大理石。
王太后の扇。
侍女たちの押し殺した笑い。
夜会の後、鏡の前で自分の顔を見つめながら、「どうして私はこうなのだろう」と何度も思った夜。
向いていなかった。
失格だった。
足りなかった。
何度も浴びせられてきた言葉だ。
その言葉に、自分で自分の輪郭を削られてきた。痛みも怖さも、全部「私が足りないから」と処理してきた。
けれど今、机の中央には記録がある。
自分の名前で改竄された文書が。
握り潰された進言が。
横流しされた備蓄が。
そして、自分の体を削った毒の経路が。
それでもなお「向いていなかった」で片づけるのか。
その理不尽が、胸の奥でまっすぐ熱へ変わった。
リュゼリアは自分でも気づかぬうちに、椅子の肘から手を離していた。指先は冷たい。けれど震えていない。震えていないことに、次の瞬間初めて気づく。
私は、震えていない。
怖くないわけではない。
胸は速く打っている。
喉の奥も熱い。
けれど今、この場で、昔のように冷えて縮こまるだけの自分ではない。
それが分かった時、言葉はもう中に留まっていられなかった。
「違います」
会談室に、自分の声が落ちた。
静かな声だった。だが、ひどくよく通った。
老文官も、外務補佐貴族も、エドリックも、そこで初めて完全にリュゼリアへ視線を向けた。ノルドグラン側の席も動かない。ゼルヴェインは何も言わない。ただ、彼女の言葉がこれからどこまで届くかを見ている。
リュゼリアはもう一度、はっきりと言った。
「違います」
それだけで、何年も喉の奥へつかえていたものが少しだけ動く気がした。
「私は王妃失格だったのではありません」
その瞬間、会談室の空気が凍りついた。
言った。
ついに、自分で。
誰かに解釈してもらうのではなく、
帳簿の行間へ読み取ってもらうのでもなく、
ただ、真正面から。
リュゼリアは目を逸らさなかった。
エドリックを見た。
老文官を見た。
かつて自分を「王妃らしくない」と値踏みしたあの国の顔を、今はまっすぐに見ている。
「私は王妃失格だったのではありません」
もう一度、今度は少しだけゆっくりと言う。
「あなたたちにとって都合の悪い王妃だっただけです」
その一言は、刃だった。
鋭いのに、声は荒れていない。
叫びでもない。
だが、だからこそ深く刺さる。
自分の中の長い沈黙が、そこで初めて意味のある言葉になった瞬間だった。
都合が悪い。
だから偽署が必要だった。
都合が悪い。
だから進言は握り潰された。
都合が悪い。
だから横流しの責任を被せられた。
都合が悪い。
だから子を成せぬ体にされ、「失格」の烙印を押された。
その全部が、たった一言でつながる。
リュゼリアは続けた。
「王妃として笑わなかったから、ではありません」
「……」
「人を和ませるのが下手だったからでも」
「……」
「子を保てなかったからでもありません」
「……」
「私は」
彼女は机の上の帳簿へ視線を落とし、それから再び上げた。
「あなたたちの見えないところで開けた穴を塞ごうとした」
「……」
「数字の歪みに気づき」
「……」
「備蓄の不足に気づき」
「……」
「不正な横流しを止めようとした」
「……」
「だから、邪魔だった」
邪魔だった。
その一語が落ちた瞬間、アルヴェリア側の席で誰かが息を呑む音がした。あまりに静かな会談室では、それさえもはっきり聞こえる。
外務補佐貴族が言い返そうと口を開く。だがリュゼリアは、今度は相手に言葉を挟ませなかった。
「私の名前で命令を改竄し」
「……」
「私の進言を握り潰し」
「……」
「そのうえで、私を『気難しく無能な王妃』に見せる」
「……」
「それがあなたたちにとって、いちばん都合がよかった」
「……」
「違うのなら」
彼女は一枚の書類を持ち上げた。
「この偽署の説明をしてください」
次の帳面へ手を置く。
「この副帳の差し止め記録の説明を」
さらに別紙へ指を落とす。
「この薬の経路の説明を」
最後に、目を上げた。
「してください」
言い終えた時、胸の奥で何かが大きく崩れ、そして同時にまっすぐ立ち上がるのを感じた。
これは、記録の説明だけではない。
初めて、自分を守るために上げた声だ。
今までのリュゼリアは、誰かのためには動けた。
備蓄のために。
医務区画のために。
民の冬越しのために。
だが、自分自身を守るために、ここまでまっすぐな声を出したことはなかった。
それが今、ようやくできた。
会談室はしんと静まり返っていた。
老文官は言葉を失っている。
外務補佐貴族の顔は青ざめている。
医師代理は、もう先ほどのように「お気の毒ですが」とは言えない顔だ。
そしてエドリックだけが、リュゼリアを見ていた。
その目にあるものは、怒りとも驚きとも違っていた。もっと鈍く、もっと苦い、遅れてやってきた現実への狼狽に近い。彼はたぶん、彼女がこういう声を持っていたことを、今まで本当の意味で見たことがなかったのだ。静かで、従順ではなくても最終的には黙る女だと、どこかで信じていた。その女が、今、公の場で真正面から自分たちの都合を言い切った。
その事実だけで、すでに彼の負けだった。
ゼルヴェインはそこでようやく口を開いた。
「聞いたか」
低い声だった。短い。だがその一言で、リュゼリアの言葉が個人の叫びで終わらず、公的な場の真ん中へ定着する。
「これが」
ゼルヴェインは言った。
「本人の意思だ」
「……」
「感情論にしたいなら勝手にしろ」
「……」
「だがこちらは、記録と本人の言葉の両方で受ける」
それは、あまりに明確な後ろ盾だった。
リュゼリアの胸の奥に、熱いものがまた少し込み上げる。けれど今度は、泣きそうになる熱ではない。もっと静かで、もっと強い熱だ。自分の声が、誰かの好意で拾われるのではなく、正当なものとして場に置かれている熱。
アルヴェリア側は、もう「黙らせる」側には戻れない。
老文官が何かを言いかけ、やめる。外務補佐貴族が目を泳がせる。医師代理は手元の紙へ意味もなく視線を落とす。誰も、今のリュゼリアの言葉を「女の感情」にだけ押し込めることができない。なぜなら彼女自身が、先にその枠を壊してしまったからだ。
しばらくして、エドリックがようやく口を開いた。
「……随分と」
声は低く、乾いていた。
「向こうで、よく教え込まれたようだな」
最後の抵抗だった。
自分の声ではないとするための。
誰かに吹き込まれた言葉だと貶めるための。
リュゼリアは、その言葉に小さく首を振った。
「違います」
「……」
「ようやく、自分で言っただけです」
それは、今日の彼女にとって一番大事な真実だった。
誰かの代弁ではない。
ゼルヴェインの言葉を借りたのでもない。
帳簿の中から勝手に浮かび上がったわけでもない。
ようやく、自分で言った。
それがどれほど大きいことかを、たぶんこの場にいる誰よりも自分が知っていた。
会談はそのあとも続いた。
だがもう、空気の向きは変わっていた。
記録官の筆が走る。
証拠箱の封が改めて確認される。
ニコラが配分の数字について補足し、ヘルヴィル医師が薬の経路と身体への影響を淡々と述べる。
ラウルは横流しされた備蓄の流れを一点ずつ示し、外交文官がアルヴェリア側の返答の矛盾を整理する。
その全ての中心に、リュゼリアが言い切った一言が残り続けていた。
王妃失格ではない。
都合の悪い王妃だっただけ。
それはもはや、ただの個人の怒りではない。
積み重ねられた証拠の総括であり、
歪められた年月への反撃であり、
そして初めて自分を守るために上げた声そのものだった。
会談が一段落し、両国の文官たちが整理のために立ち上がり始めた時、リュゼリアはようやく、自分の手が少しだけ熱を持っていることに気づいた。冷えてはいない。震えてもいない。机の上に置いた指先が、自分のものとしてちゃんとそこにある。
戦ったのだ。
自分の言葉で。
公の場で。
もう黙らないと、自分のために言い切って。
それがどれほどのことかを思うと、胸の奥がひどく静かに満ちていく。快哉を叫びたいような派手な気分ではない。もっと深い、骨の内側がようやく正しい位置へ戻るような感覚だった。
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その瞬間が、静かに、だが確かに、彼女の人生の中心を塗り替えていた。
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※他サイト様にも掲載
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