王妃失格と呼ばれた私を、敵国の王だけが抱きしめた

なつめ

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第36話 遅すぎた愛


 遅れてくる理解というものは、時に刃物より質が悪い。

 傷つけたその時には何も見えていなかったくせに、相手がもう戻らないところまで行ってから急に輪郭を持つ。失ったものが何だったのか。どれほど黙って支えられていたのか。どれほど多くを受け取りながら、それを当然として踏みつけていたのか。その全部が、もう手の届かぬ場所へ行ってからようやく見える。

 そして見えたからといって、過去が書き換わるわけではない。

 エドリックは、そのことを、その夜ようやく知り始めていた。

 ノルドグラン王宮の客室は、アルヴェリアのそれより簡素だった。

 豪奢でない、という意味ではない。布も木も石も、質そのものは高い。だが飾り立てることで格を示す類の部屋ではなかった。必要なものは過不足なくあり、灯りは落ち着き、暖炉はきちんと熱を回し、筆記のための机と、客として恥をかかぬ程度の椅子と、外套を掛けるための金具が、全部ちょうどよい位置にある。王を迎える客室でありながら、誇示より秩序を優先した部屋だ。

 そういう部屋に、いまのエドリックはひどく落ち着かなかった。

 会談は終わった。
 いや、終わったというより、切り落とされたという方が近い。

 ノルドグラン側は、リュゼリアの言葉と机の上の証拠をもって、寵姫派と王太后側の不正を組織的なものとして認定した。交易特権の停止、出入りの制限、資産の凍結、文書信用の切り下げ、全面公開の可能性。どれも戦場の勝ち負けのように派手ではない。だが冷たく、長く、しかも否定しようのない形で喉元を締めてくる。

 ゼルヴェインは怒鳴らなかった。
 勝ち誇りもしなかった。
 ただ、記録と金と権利の線を引き直し、その上に制裁を置いただけだ。

 それがどれほど恐ろしいことかを、エドリックはよく知っている。

 だからこそ腹立たしい。
 だからこそ、苛立ちより深いところで、別の感覚が静かに膨らみ始めていた。

 客室の机の上には、会談の控えと、ノルドグラン側から写しとして渡された照合表が広がっている。偽署、配分表、副帳、横流しの流れ、毒の経路。帰国後に王太后と寵姫派をどう処理するかを考えるには、もう一度これらを見直さねばならない。そう分かっているのに、エドリックの目は同じ場所で何度も止まった。

 王妃名義による緊縮指示。
 差し止めの走り書き。
 塩袋三袋。布を替えよ。
 薬草束、今週のうちに追加。
 王妃殿下による再確認あり。

 その字。
 その短い命令。
 大きな政治ではない。だが、王宮を冬の間きちんと回すには、こういう小さな手当ての方がよほど重要だということを、今のエドリックには否応なく理解できてしまう。

 理解したくなかった。
 だが理解せざるを得なかった。

 リュゼリアは、王妃として失格だったのではない。
 むしろ王宮の裏側を支える実務においては、あまりに優秀すぎた。
 優秀で、気づきすぎて、だから邪魔だった。

 その真実が、いまさら、あまりに遅く彼の中へ落ちていく。

 エドリックは椅子へ深くもたれなかった。疲れている。だが背を預けてしまうと、何かが一気に崩れそうな気がしたからだ。彼は机の上へ片肘をつき、指で額を押さえる。暖炉の火はちょうどよい。客室に不備はない。だが落ち着かない。何もかもが、ノルドグランの秩序ある静けさの中で、自分の王宮の歪みだけを際立たせているように思えた。

 扉が叩かれる。

「何だ」
 彼は答えた。

 入ってきたのはテオバルトだった。彼の顔も、ここ数日でずいぶん疲れて見える。だが目だけはいつも通り、必要なことを必要なだけ告げる文官の目だ。

「南の商会から、急ぎの報せです」
「置け」
「はい」

 差し出された紙には、王都内資産の一部がすでに動かしにくくなっていること、ノルドグラン側と縁の深い商人たちが慎重になり始めたこと、そして何より、寵姫派と結びついていた小貴族たちが、身の振り方を探り始めていることが記されていた。

 早い。

 当然だ、とエドリックは同時に思う。

 ゼルヴェインが会談室で制裁の形を告げた時点で、もうそれは半ば始まっているのだ。こういう話は、正式文書より先に空気で伝わる。誰の名が挙がったか。どの権利が止まりそうか。どこまでが巻き込まれるか。商人も貴族も、その気配を嗅ぐのが早い。

「王太后陛下は」
 テオバルトが言いかける。
「後でよい」
 エドリックは短く切った。
「今は、それより」
「……」
「リュゼリアについて、だ」

 その名を自分から口にしたことに、エドリックは自分で少しだけ眉を寄せた。最近の自分は、あまりに頻繁に彼女の名を考えている気がする。いや、名そのものではないのかもしれない。もっと正確に言えば、「いなくなって初めて分かった彼女の不在の形」を考え続けている。

 それは愛なのか。
 そう問われれば、少し前までの彼なら鼻で笑っただろう。恋慕の熱など自分にはないと。王とは、そういうものではないと。

 だが今は、その問いを鼻で笑い飛ばせない。

 彼女がいなくなってから、薬草が足りない。
 塩が湿る。
 帳簿が噛み合わない。
 王宮の見栄えの裏で、どこが崩れ始めているかを拾う手がなくなった。
 そして、自分がそれまでどれほど彼女の沈黙を当然のものとして消費していたかを、今さら見せつけられている。

 それを何と呼ぶのか。
 遅れてきた理解か。
 喪失感か。
 執着か。
 あるいは、愛のなりそこないか。

 エドリック自身、まだ分かっていなかった。

「……会いたい」
 ふいにそう言うと、テオバルトの顔がわずかに動いた。

「リュゼリア様に」
「そうだ」
「……」
「最後に、話をしたい」
「王としての」
「違う」

 その否定が、自分でも思った以上に早かった。

 王としての話なら、もう終わっている。返還要求は拒絶された。講和は別の段階へ入った。制裁も動き始めている。ここで改めて会うなら、それは王としてではない。

 なら何なのか。
 自分でも、まだ言葉が追いついていない。

 テオバルトは慎重に答えた。

「願い出ることは可能でしょう」
「……」
「ただし、ノルドグラン側が許せば」
「許させる」
「……」
「駄目か」
「いえ」
 テオバルトは一度だけ視線を落とした。
「ただ」
「何だ」
「もしお会いになれたとして」
「……」
「求める答えが返るとは」

 その先は言わなかった。だが、十分だった。

 求める答えが返るとは限らない。
 むしろ返らぬ可能性の方が高い。

 それでもエドリックは言った。

「それでいい」
「……」
「いや、よくはない」
「……」
「だが、会う」

 ノルドグラン側が、それを完全には拒まなかったのは、ある意味で意外だった。

 もちろん条件はついた。
 場所は東翼に近い、小さな談話室。
 扉は閉じるが、外には護衛と侍女が控える。
 ゼルヴェインが遠くない位置にいる。
 長居はさせない。
 そして何より、リュゼリア本人が「会う」と言ったからだ。

 その最後の条件が、エドリックには妙に重かった。

 会うかどうかを、彼女が決める。

 以前ならあり得なかった。
 以前の王宮では、王が会いたいと思えば、それはただの決定だった。妻がどう思うかは問題ではなかった。問題にする必要すらなかった。

 だがここでは違う。
 ノルドグランは最初から最後まで、リュゼリア本人の意思を先に置く。
 そのことが、エドリックには腹立たしくもあり、同時に、どうしようもなく彼女を遠く感じさせもした。

 談話室は、夕方の淡い光に沈んでいた。

 大きな部屋ではない。窓はひとつ。暖炉が小さく燃え、壁際に細い書棚があり、中央に低い卓と、向かい合うように二つの椅子が置かれている。王同士が交渉をする場ではない。親しい者が、他人に聞かせぬまま短く話すための部屋だ。だからこそ、ここへ入った瞬間、エドリックは自分が王の鎧の一部を剥がされたような心地になった。

 リュゼリアは、先にそこにいた。

 東翼で会う時の装いだ。華美ではない。だがあの国にいた頃より、逆に輪郭がはっきりして見えた。顔色は白い。最近泣いた跡が、目元にごく薄く残っている気もする。だがその白さは、以前のような「生気のなさ」ではない。もっと冷たい覚悟に近いものがある。

 エドリックは、それを見た瞬間に、遅れてきた理解がさらに深くなるのを感じた。

 自分はこの女を、ずっと見ていなかった。

 顔立ちを見ていなかったわけではない。
 隣に置いていた。
 同じ寝台にもいた。
 夜会では並び、儀礼では腕を組ませた。
 だが、人としての輪郭を、本当の意味では一度も見なかった。

 今、こうして向かい合って初めて、そのことが分かる。

「……会ってくれて」
 エドリックは口を開いた。
「ありがとう」

 言ってから、自分でその言葉の薄さに気づいた。ありがとう。まるで他人行儀だ。いや、実際、もう彼女は他人に近いのかもしれない。けれどその事実を、エドリックの心はまだ受け入れきれない。

 リュゼリアは静かに言った。

「用件を」
「……」
「長くは取りません」

 きっぱりした声だった。

 昔なら、このきっぱりした響きを「冷たい」と切り捨てていただろう。今は違う。ただ、自分へ向けられる距離の明確さに、ひどく苦いものが胸へ広がる。

 エドリックは椅子へ座らず、少しだけ立ったままでいた。座れば、もう逃げ道がなくなる気がしたからだ。だが結局、リュゼリアが何も言わずにこちらを見るだけなので、どうしようもなく向かいの椅子へ腰を下ろした。

 暖炉の火が鳴る。
 それ以外の音がない。

 静かな時間。
 かつて彼女が一番苦手だったと言った時間。
 そして今、苦しいのはむしろエドリックの方だった。

「……帳簿を見た」
 彼は言った。
「そう」
「薬庫も」
「ええ」
「備蓄の控えも」
「……」
「お前が」
 そこで、一度だけ言葉が止まる。
「お前が、どれだけ」
 情けない、と思う。だが言葉がうまく続かない。
「どれだけ、裏で支えていたか」
「……」
「ようやく、分かった」

 リュゼリアは答えなかった。否定も肯定もしない。ただ、その言葉が今になってようやく口にされたことを、そのまま見ている目だ。

 その目の前で、エドリックは初めて、自分が今何を言おうとしているのかを意識した。

 謝罪か。
 後悔か。
 執着か。
 あるいは。

「……私は」
 彼は低く言った。
「お前を」
「……」
「愛していた、のかもしれない」

 言った瞬間、その言葉の遅さが、自分自身へ鋭く返ってきた。

 愛していた。

 なんと遅いのだろう。
 どれほど遅く、どれほど不格好な言葉なのだろう。

 しかも「のかもしれない」と曖昧につけるあたりに、なおさら自分の浅さが滲む。断言できぬのなら言うな、と、どこかでもう一人の自分が言っている。だがそれでも、このまま何も言わずに帰れば、一生この言葉を口にせぬまま終わると思った。

 リュゼリアの睫毛が、そこでほんのわずかに動いた。

 昔の彼女なら、この言葉にどれほど揺れただろう。エドリックにも、それは分かる。いや、分かっているからこそ、今になってそれを言う自分の卑しさまで感じていた。彼女が欲しかったかもしれない言葉を、全部奪い尽くしたあとで、失ってからようやく言うのだから。

「……何を見て」
 リュゼリアが静かに訊いた。
「何を、愛していたと思うのですか」

 その問いは、ひどく平らだった。

 責めているようでいて、責める熱はない。
 ただ、本当に聞いている。
 あなたは、何を見ていたのかと。

 エドリックは答えに詰まった。

 何を。
 何を見て。

 沈黙の中で、自分の中に浮かぶものを確かめる。夜会の時の整った横顔。侍女たちが困った時にはもう片づいている細部。帳簿の数字が大きく乱れぬこと。王宮がきれいに回っていたこと。自分が面倒を見なくても、裏側がちゃんと整っていたこと。寝台の端で、何も言わずに背を向ける細い肩。子を失ったあとでも、泣き顔を見せずに座っていた静けさ。

 そのどれもが、いまになって思い返される。

 だが、そこでエドリック自身が気づいてしまう。
 その記憶の中心にあるのは、「自分がどう楽でいられたか」ばかりだと。

 自分を煩わせず、
 自分の体面を保ち、
 王宮の裏側を黙って整え、
 何も要求せず、
 静かでいてくれた王妃。

 それは、愛した相手というより、
 自分を支える機能に近い。

 その気づきは、ひどく鈍く、ひどく苦かった。

「私は」
 エドリックは言葉を選ぼうとした。
「お前が、そこにいることを」
「……」
「当然だと思っていた」
「……」
「王宮が滞りなく回るのも」
「……」
「余計な不安を表へ出さぬのも」
「……」
「私の足元が崩れぬのも」
「……」
「全部」
「……」
「お前が、黙って支えていたからだと」
「……」
「いなくなってから、分かった」

 言えば言うほど、その言葉が薄くなる。

 自分で聞いていても分かる。これは愛の告白ではない。失ってから機能を理解した者の告白だ。遅すぎる。あまりにも浅い。人を見ていたのではなく、自分がどれほど支えられていたかを今さら数えているに過ぎない。

 リュゼリアは、そのことをすでに見抜いている目をしていた。

「それは」
 彼女は静かに言った。
「愛ではありません」
「……」
「都合です」

 その一言が、ひどくまっすぐ胸へ落ちた。

 都合。
 そうだ。
 都合なのだ。

 エドリックは反射的に何か言い返そうとしたが、言葉が出ない。都合ではないと言うには、自分の中にあるものがあまりに貧しい。彼女の好きなものを、自分はどれだけ知っている。どんな茶を選ぶか。寒い夜に何の匂いで落ち着くか。静かな時間が怖かったこと。泣きたい時にどうやって唇を噛んでいたか。そういうことを、自分は何一つ知らなかった。

 知っていたのは、王宮が回るという結果だけだ。

 リュゼリアは続けた。

「あなたが欲しかったのは」
「……」
「私ではなく」
「……」
「黙ってあなたを支える王妃の形です」
「……」
「自分で穴を塞ぎ」
「……」
「不都合を飲み込み」
「……」
「笑わなくてもいいから、静かに座っていて」
「……」
「あなたの体面を崩さない女」

 その言葉は、正確だった。

 正確すぎて、エドリックには痛かった。

 だが痛いからこそ、否定できない。

「もし本当に」
 リュゼリアの声は穏やかだった。
「私を愛していたなら」
「……」
「私が怖いと言えなかった時に、気づいたはずです」
「……」
「痛かったと言えなかった時に、聞いたはずです」
「……」
「失ったあとではなく」
「……」
「失う前に」

 暖炉の火が小さく鳴る。

 それだけで、部屋はひどく静かだった。

 失う前に。

 その一言が、エドリックの胸の中へ深く沈む。そうだ。全てが遅い。後悔も、理解も、愛だったのではないかという言葉さえも。遅すぎる。あまりにも遅すぎて、相手の傷をもう何一つ変えられない。

 そして、その遅さ自体が、自分の浅さの証明でもある。

「……一度だけ」
 エドリックは、かすれた声で言った。
「もし、あの時」
「……」
「私が、違う見方をしていたら」
「……」
「お前は」
「変わりません」
 リュゼリアは即座に言った。

 その速さに、エドリックは目を上げる。

「過去は変わりません」
 彼女は言う。
「あなたが今そう思ったとしても」
「……」
「私が失ったものも」
「……」
「壊された体も」
「……」
「言えなかった痛みも」
「……」
「変わらない」

 その言葉に感情の高ぶりはない。
 だが、だからこそ残酷だった。

 感傷に流されない。
 可能性の話へ逃げない。
 「もしあの時」は、もう相手にしない。

 リュゼリアは、かつてなら縋ったかもしれない言葉を、今ここで自分の手で切り離しているのだ。

「私は」
 彼女は静かに続けた。
「昔なら、その言葉に縋ったかもしれません」
「……」
「愛していた、と」
「……」
「一度でも、ちゃんと聞けたなら」
「……」
「それだけで、何かを許してしまったかもしれない」
「……」
「でも、もう違います」

 その一文に、エドリックは息を詰めた。

 もう違います。

 簡潔なのに、そこにある距離は決定的だった。

「私は今」
 リュゼリアは言う。
「あなたに、ほしかった言葉を返してもらうために生きているのではありません」
「……」
「あなたが今さら理解したことのために」
「……」
「私の傷を、もう一度差し出す気もありません」
「……」
「だから、その言葉は受け取りません」

 受け取らない。

 愛していた。
 その、遅く、浅く、都合と執着の混ざった言葉を。

 リュゼリアは、もう受け取らないと言った。

 その響きの中には、怒りだけではないものがあった。もっと静かで、もっと大きな決別。自分の人生の軸を、もう相手の言葉の有無へ預けないという、深い覚悟。

 エドリックはそこで初めて、本当に手遅れなのだと理解した。

 いや、理解はもっと前からしていたのかもしれない。返還要求を拒絶された時から。会談室で証拠を突きつけられた時から。だがまだどこかで、自分が言葉さえ差し出せば、彼女の中の昔の女が振り向くのではないかと思っていたのだろう。

 その期待が、今ようやく完全に壊れた。

 壊したのはノルドグランでも、制裁でもない。
 リュゼリア自身だ。
 彼女が自分の声で、「もう受け取らない」と言い切ったからだ。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 暖炉の火は変わらず燃え、窓の外には白い光が鈍く残っている。談話室の静けさは、以前リュゼリアが苦手だった種類の静けさとは違う。今はむしろ、言葉がすべて出尽くしたあとの、切り離された静けさだった。

 やがてリュゼリアが立ち上がる。

「これで終わりにします」
 彼女は言った。
「……」
「もう、必要な話はありません」

 必要な話はない。

 それは、元夫に対する言葉としてはあまりに冷たく聞こえるかもしれない。だがエドリックには、今それが冷酷というより、ただ正しい距離として感じられた。

 彼は立ち上がらなかった。立ち上がる資格がない気がしたからだ。ただ椅子に座ったまま、リュゼリアが扉へ向かうのを見ている。

 扉の前で、彼女は一度だけ立ち止まった。
 だが振り返らない。

「……あなたが遅かったことも」
 静かな声。
「もう、私の責任ではありません」

 それだけ残して、彼女は出ていった。

 扉が閉まる。
 その音は小さいのに、ひどく決定的だった。

 エドリックはしばらく、その閉まった扉を見つめていた。

 遅すぎた愛。
 もしそれが本当に愛の名に値するものだったとしても、もう相手は受け取らない。
 受け取る必要がないところまで、自分で歩いて行ってしまったのだ。

 それを悲しいと呼ぶには、自分はあまりに多くを踏みつけてきた。
 悔しいと呼ぶには、都合の悪いことに今さら気づいただけだ。
 愛していたと言うには、あまりに見ていなかった。

 残るのは、遅すぎる理解と、
 それをもう相手に求める資格のなさだけだった。

 一方、談話室を出たリュゼリアは、回廊の冷たい空気を吸い込んで、初めて自分の胸の奥が思ったより静かなことに気づいた。

 泣いていない。
 震えてもいない。
 あの言葉を聞いたのに。

 昔なら、あれだけで縋ったかもしれない。
 たった一度でも「愛していた」と言われたなら、それで過去の痛みを薄く塗り潰そうとしたかもしれない。欲しかった言葉だったから。あまりにも長く、空白のまま欲しがっていた言葉だったから。

 けれど今は、違う。

 その言葉の中身が見えてしまった。
 何を見て、何を見ていなかったのかが。
 それが愛ではなく、自分を支えていたものへの遅れた執着に近いのだと、はっきり分かった。

 だからもう受け取らない。
 受け取ることで、自分の人生を再び相手の都合へ戻したくなかった。

 回廊の先には、東翼へ続く灯りが見える。
 その方へ歩きながら、リュゼリアは胸に手を当てた。

 痛みがないわけではない。
 かつて欲しかった言葉を、ようやく差し出されて、それでも拒むのだから。
 けれどその痛みは、昔のように自分を削る痛みではない。
 むしろ、自分の輪郭を取り戻すための痛みに近かった。

 もう受け取らない。
 そのことが、何より静かな自由だった。

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