夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われたので、譲る代わりに全部置いていきます 〜行き先は老舗旅館。追いかけてきても、もう遅いです〜 

なつめ

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第1話 妻の座を譲れと言われました


 朝五時半。まだ空が完全には明るみきらない時間に、杠澄乃は目を覚ました。

 寝室の障子風のロールスクリーンの隙間から、薄い灰色の光が細く差し込んでいる。春先の朝は冷える。足先から這い上がってくる床のひやりとした冷たさに、澄乃は肩をすくめ、眠気の名残を喉の奥へ押し込むように小さく息を吐いた。

 隣を見る。

 久世昌親は、まだ眠っていた。仰向けで、眉間にうっすら皺を刻んだまま、整った顔を少しだけこちらと反対に向けている。寝ている時まで気難しそうな顔をする人だ、と昔は思った。今は、その顔に何か特別な感情が浮かぶことはない。ただ、ああ今日もこの人は起きたらコーヒーを欲しがって、卵は半熟すぎると箸を止めて、ネクタイが見つからないと不機嫌そうに呼ぶのだろうと、手順のように先が読めるだけだった。

 澄乃は布団をそっと抜け出し、音を立てないように寝室のドアを開けた。

 廊下は静かで、まだ人の気配が薄い。高価なフローリングはきれいに磨かれていて、どこか冷たい。家そのものが、住む人間を包み込むためではなく、見せるために整えられているような感触があった。素足で歩くたび、ひやりとした冷えが踵から膝まで上がってくる。

 キッチンに入ると、澄乃は真っ先に換気扇を回した。低い唸りが天井の奥で回り始める。冷蔵庫の扉を開けると、昨夜のうちに下拵えしておいた食材の匂いがひんやりとした空気とともに流れ出てきた。出汁を取るための昆布、薄切りにしておいた新玉ねぎ、義父が食べやすいよう下茹でした青菜、昌親用のヨーグルト、義母の好む果物。並び方まで揃った庫内を一瞥し、澄乃は鍋に水を張る。

 水道から落ちる水の音は、朝の家でいちばん最初に響く音だ。静かな家の中に、さらさらと透明な音が広がっていく。その音を聞きながら、澄乃は頭の中で今日の予定を順番に並べた。

 義母の通院の日程変更を病院へ連絡すること。

 義父が取引先の会長へ送る見舞いの花を手配すること。

 昌親が今夜会食に出る店へ、苦手食材について念のため一報を入れること。

 週末の親族の集まりに合わせて手土産を選ぶこと。

 会社の受付に飾る花の種類を、先方の社長夫人が好きな色味に合わせて変更すること。

 使用人を雇えば済むこともあるのかもしれない。だが久世家は、あからさまに他人の手を借りることを好まない家だった。家のことをきっちり回してこそ、嫁の質が問われる。義母は口にこそしないが、そういう空気を日々の端々に染み込ませていたし、昌親もまた、その上で澄乃がやっていることをあまり意識してはいなかった。

 当然に用意され、当然に整い、当然にうまくいく。

 そういうものだと思っている人の顔を、澄乃は何度も見てきた。

 鍋に火をつける。じわ、と鉄の底が温まっていく気配が掌に伝わる。出汁の香りが立ち始めるまでの、ほんの短い時間が好きだった。まだ誰にも乱されていない、台所だけの静けさがあるからだ。

 米の炊ける匂いがふくらみ、味噌汁に刻んだ葱を落とすと青い香りが湯気に混じった。出汁巻き卵は昌親のために甘さを控えめにし、義父の分は薄めに切る。義母の皿には果物を少し多く。食卓を整えていると、居間の大きな窓の外がようやく薄桃色を帯びてきた。

 庭の枝垂れ桜は、まだ満開には少し早い。蕾と花が混じった枝先が朝の風に揺れていた。その景色を見ながら、澄乃は一瞬だけ思う。

 この家で、季節を見ていたのは自分だけだったかもしれない。

 どの部屋にどの花を置けば義母の機嫌が良いか。どの茶葉なら義父が客前で満足げな顔をするか。昌親が忙しい時期には何を出せば箸が進むか。季節は景色ではなく、調整の目安だった。春だから筍を、夏だから涼やかな器を、秋だから香りの立つきのこを、冬だから体を温める根菜を。そうして家の空気をなだらかに整えてきた。誰かに褒められたいからではなく、荒れた空気の中に立ち尽くすのがしんどかったからだ。

 七時を少し回った頃、二階から足音がした。

 昌親だ。

 一定の速さで降りてくる足音は、今日も迷いがない。彼は眠そうな顔をしていても、髪ひとつ乱れていないように見える人だった。ワイシャツ姿のままダイニングへ入ってくると、澄乃の並べた朝食を一瞥し、いつもの席に座る。

「コーヒー」

「はい」

 それだけだった。

 ありがとう、も、おはよう、もない。だがそれは、今さら胸を刺すようなことではない。あまりに長く繰り返された無音は、痛みより先に生活になる。

 澄乃はカップを温め、昌親の前にコーヒーを置いた。湯気の向こうで、彼がスマートフォンに目を落とす。画面の青白い光が、朝の柔らかな光とは別の冷たさで彼の顔を照らしていた。

「今日、帰りは」

 澄乃が味噌汁を置きながら問いかけると、昌親は視線を上げないまま言った。

「少し早く戻る」

「そうですか」

「客が来る」

 客。

 その一言に、澄乃の指先がわずかに止まった。箸置きを整える動作の途中で止まった手を、すぐに何事もなかったように動かす。

「どなたですか」

「来れば分かる」

 短い声音だった。説明するのが面倒だと言っている顔だった。

 澄乃は頷いた。

「では、昼のうちに少し準備しておきます」

「大げさなことはしなくていい」

「かしこまりました」

 かしこまりました、と口にしながら、自分が誰に何を了承しているのか分からなくなる時がある。夫なのだから当然だ、と昔は思った。今はもう、それが礼儀なのか習慣なのか、少し曖昧だ。

 昌親は出汁巻き卵を一口食べ、特に何も言わなかった。文句が出ないなら問題ないということだ。義父も義母も、今日は家にはいない。二人とも昼から別件の予定があり、朝食だけ済ませて出ていくことになっていた。義父は澄乃の味噌汁を飲むと、ふ、と鼻から息を抜いた。

「薄味でいい」

「ありがとうございます」

 義母は果物の皿を眺めて、ひとつだけ口に入れた。

「今日の病院の件、先方に失礼のないようにね」

「はい。十時になったら、担当の方に直接お電話します」

「それから、今度の土曜の集まり。宮ノ脇さんのところには、もう何か考えているの」

「先月お孫さんがお生まれになったので、消えものよりも、少し長く残るもののほうがよろしいかと。今、候補を三つに絞っています」

「そう」

 義母はそれで満足したのか、それ以上は言わなかった。

 この人たちは、澄乃が何をしているかを知らないわけではない。ただ、その労力の重さに思いを巡らせないだけだ。水のように流れてくるものだと思っている。蛇口を捻れば出る程度の当然さで。

 朝食が終わり、義父母を送り出し、昌親のネクタイを手渡し、玄関で靴べらを揃えた。庭のほうから湿った土の匂いが微かに流れてくる。もう少しすれば日が高くなり、部屋の奥まで春の匂いが入ってくるだろう。

 靴を履いた昌親が、出かける間際に振り返った。

「昼過ぎには一度連絡する」

「はい」

「家にいろ」

 それだけ言い残し、彼は出ていった。

 車のエンジン音が門の向こうへ遠ざかっていく。残された玄関には、磨いた革靴の匂いと、かすかな香水の残り香が漂っていた。冷たい、乾いた香りだ。

 澄乃は静かにドアを閉めた。

 その瞬間、家の中はひどく広くなったように感じられた。誰もいない家というのは、不思議なものだ。静かになるのではなく、見えない音が浮かび上がる。壁掛け時計の秒針。冷蔵庫の低い唸り。遠くの道路を走る車の音。庭の枝が擦れる微かな気配。そういうものが急に存在感を持ち始める。

 澄乃はエプロンの紐を解きながら、昼の献立を考えた。客が来ると言うのなら、最低限の茶菓子は必要だろう。大げさにするなと言われても、何も出さないわけにはいかない。だが来客の素性も分からない。会社関係か、親戚か。女か男かも分からない。

 胸の奥に、小さな棘がある。

 それは不安というより、違和感だった。

 ここ最近、昌親はスマートフォンを伏せて置くことが増えた。帰宅が遅い日も増えた。食事を家で取らないことが多くなった。ワイシャツに微かに、自分の持っていない甘い香りが移っている夜もあった。問いただそうと思えば、できたのかもしれない。けれど澄乃は、問いただすことにどこか疲れていた。答えを知ってしまった後に何が変わるのかを、うっすら想像できていたからかもしれない。

 疑いの種は、気づいた瞬間から日常の隅に入り込む。

 洗濯物を畳む手元に。

 夜更けの物音に耳を澄ます時間に。

 夫の背中を見送る玄関に。

 食卓越しに向かい合う短い沈黙に。

 けれどそれでも、澄乃は今日まで暮らしてきた。

 洗面所を整え、客間に花を替え、義母の病院へ連絡を入れ、贈り物の候補を百貨店へ問い合わせ、受付用の花の色変更を会社へ伝え、茶器を選んだ。細い指先が一日中止まらない。家の中を歩くたび、裾がふくらはぎを擦る感触がする。窓を開けた時の少し冷たい風。茶葉を量る時の乾いた葉の香り。湯呑みに湯を注いだ時の白い湯気。

 忙しくしていれば、余計なことを考えなくて済む。

 そう思っていたのに、昼を少し過ぎた頃、昌親からの短いメッセージが届いた。

《四時に来る。応接ではなくリビングでいい》

 それだけ。

 名前も、用件もない。

 澄乃は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 四時。あと二時間弱。

 リビングでいい、という言い方が妙に引っかかった。応接ではなく、家族の空間であるリビング。相手は親しいのか。それとも、相手のほうがそうしたいと言ったのか。考え出すと、息が浅くなる。

 澄乃はスマートフォンを伏せ、ゆっくりと台所へ向かった。

 茶菓子は焼き菓子を数種。銀のトレイは磨いておく。コーヒーと紅茶の両方を用意。春らしい香りのものより、癖のないもの。来客の好みが分からない時は、誰にでも出しやすいものを選ぶ癖がついている。

 四時が近づくにつれ、家の空気が少しずつ張り詰めていく気がした。もちろん実際に空気が変わるわけではない。だが、人は予感があるだけで呼吸の仕方を変える。澄乃は自分の胸が浅く上下していることに、三時半を回った頃になってようやく気づいた。

 鏡を見る。

 濃い化粧はしていない。もともとそういう顔立ちではないし、昌親も派手な装いを好まない。淡い藤色のブラウスに、落ち着いた色のスカート。耳元には小さな真珠だけ。妻として無難で、義母の目にも障らず、来客の前に出ても失礼のない格好。それがいつの間にか、自分にとっての制服みたいになっていた。

 この格好のまま、何年過ごしたのだろう。

 ふとそんなことを考えたところで、チャイムが鳴った。

 澄乃の肩がわずかに跳ねる。

 時計は三時五十八分を指していた。

 早い。

 玄関へ向かう足が、思ったより重い。廊下の先にある玄関扉は、陽の光を受けて淡く白く見えた。ドアスコープを覗く前に、自分の手が少し冷えていることに気づく。指先が硬い。

 扉を開ける。

 そこに立っていたのは、見知らぬ若い女だった。

 二十代半ばだろうか。柔らかく巻いた明るい茶髪。唇には艶のある口紅。身体の線をきれいに見せるワンピースに、上等そうなヒール。甘い香水の匂いが、玄関の外気と一緒にふわりと流れ込んできた。その香りに、澄乃は記憶の底を軽く爪で引っかかれたような気持ちになった。何度か、昌親のシャツに微かに残っていた匂いに似ていた。

 女は澄乃を見ると、ほんの一瞬だけ値踏みするように目を細め、それからにこりと笑った。

「初めまして。汐見瑠璃花と申します」

 声は明るく、甘い。けれど語尾の柔らかさの奥に、どこか勝ちを確信している響きがあった。

 その背後から、昌親が姿を見せた。

「入れてくれ」

 あまりにも自然な口調だった。

 澄乃は一拍遅れて、脇へ身を引いた。

「どうぞ」

 自分の声が驚くほど平坦だった。

 汐見瑠璃花は、小さく頷いて家へ上がる。ヒールの先が玄関のたたきに触れる、硬い音。香水の匂いが家の中へ持ち込まれていく。その瞬間、澄乃はひどく不思議な感覚に襲われた。きれいに整えたはずの空間の中へ、見知らぬ色の液体を一滴落とされたような感覚だった。

 リビングへ案内し、ソファを勧める。瑠璃花は遠慮する様子もなく腰を下ろし、室内をさりげなく見回した。壁の絵、カーテンの色、花の位置、家具の質。その目つきは、客というより品定めに近い。

 昌親は彼女の隣に座った。

 その座り方が自然すぎて、澄乃は逆に少しだけ眩暈がした。人は、繰り返したことほど体に馴染む。距離の取り方、膝の向き、相手を見る角度。そこには初めて会うよそよそしさがなかった。

 澄乃はトレイをテーブルに置き、三人分のカップを並べた。磁器がソーサーに触れて小さな音を立てる。コーヒーの香りが立つ。いつもなら落ち着くはずの苦い香りが、今日は妙に遠く感じた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 瑠璃花はにこやかに礼を言った。所作は雑ではない。きちんとした場に慣れていないわけでもなさそうだった。だがその礼の軽さに、澄乃はかえって寒さを覚える。

 しばらく、誰も本題を切り出さなかった。

 時計の秒針の音がやけに大きい。窓の外では、風が枝を揺らしているらしく、時折かさりと桜の葉と花が擦れる音がする。カップから上る湯気は白く細い。瑠璃花は一口コーヒーを飲み、少しだけ眉を上げた。

「おいしいですね」

「ありがとうございます」

「昌親さん、いつもこういうの飲んでるんですね」

「そうね」

 そうね、と答えた自分の声が、ひどく他人行儀に聞こえた。

 昌親はコーヒーに手をつけたまま、黙っていた。目の前の会話に自分は関与しない、という態度だった。澄乃はその沈黙の意味を、ゆっくり理解し始めていた。

 この場は、彼が作ったのだ。

 そして彼は、自分では言わないつもりなのだ。

 瑠璃花が、膝の上で指を組み直した。淡いピンクのネイルが光る。

「今日は、澄乃さんにきちんとお話ししたくて来ました」

「……はい」

 澄乃は背筋を伸ばしたまま座っていた。ソファの布地越しに、腿の裏に少し熱がこもる。けれど手先だけが冷たい。

「こういうこと、曖昧にしたままってよくないと思うんです」

「何のお話でしょう」

 問うと、瑠璃花はまっすぐ澄乃を見た。

 若い。肌もつややかで、目元も明るい。自分にもこんな時期があっただろうかと、一瞬どうでもいいことが頭をよぎる。その瞳の中にあるのは、申し訳なさではなく確信だった。

「昌親さんの隣は、私のほうが似合います」

 空気が、そこで一度止まった気がした。

 外の風も、時計の音も、急に遠くなる。

 澄乃は瞬きひとつしなかった。聞き間違えたとは思わない。言葉ははっきり耳に届いた。けれど意味が形になるまでに、ほんのわずかな時間がかかった。

 瑠璃花は続ける。

「だから、妻の座を譲ってください」

 その言い方は、思っていたよりずっと柔らかかった。

 もっと露骨に攻撃されるのかと思っていた。嘲笑や侮蔑を含んだ、棘のある声で切りつけられるのかと思っていた。けれど瑠璃花は、まるで当然の相談でもするみたいに、その言葉を口にした。

 譲ってください。

 譲る。

 座。

 妻の。

 頭の中で一語ずつ分解された言葉が、少し遅れて胸の深いところへ落ちる。

 澄乃はゆっくりと昌親を見た。

 彼は視線を逸らさなかった。だが、こちらを庇う気配もなければ、瑠璃花を咎める気配もない。ただ少しだけ面倒そうに、眉間に皺を寄せている。

 ああ、と澄乃は思った。

 この人は、止めるつもりがないのだ。

 少なくとも、今この瞬間に自分の妻を守るつもりはない。

 胸の奥で、何かが静かに折れた。

 それは激しい音を立てるものではなかった。むしろ細い糸が一本、張り詰めたままぷつりと切れるような、あまりにも小さな感覚だった。長いあいだ持ちこたえていたものが、重さに耐えかねて静かにほどけていく。

「昌親さんも」

 瑠璃花が、少しだけ昌親の袖口に触れた。

「ちゃんと話したほうがいいって言ったんですけど、こういうの苦手みたいで」

 甘えるような声音だった。

 その仕草を見た瞬間、澄乃の中で不思議なほど感情が凪いでいくのが分かった。怒りより先に、ひどく冷えた理解が広がる。この人たちはたぶん、自分が怒鳴るか泣くか取り乱すか、そのどれかを少しは予想していたのだろう。そうすれば、若い愛人と冷えきった妻という分かりやすい構図になる。昌親は無言で逃げ、瑠璃花は勝者として立つ。

 けれど澄乃の中で今起きているのは、爆発ではなかった。

 剥離だった。

 長い時間をかけて、家のため、夫のため、義実家のため、会社のために自分の体と時間を差し出し続けてきたものが、ようやく元の位置から剥がれ始める感覚。痛みはあるのに、熱はない。むしろ妙に頭が澄んでいる。

「譲って、とは」

 澄乃は自分でも驚くほど静かな声で尋ねた。

「離婚してほしい、ということですか」

 瑠璃花は少しだけ唇を湿らせた。こんなに落ち着いて返されるとは思っていなかったのかもしれない。

「そうです。……だって、もう形だけじゃないですか」

 形だけ。

 その言葉に、澄乃はほとんど笑いそうになった。

 形だけに見えるよう整えてきたのは、ほかでもない自分だ。皺のないテーブルクロス、適温の味噌汁、失敗しない贈答、義母の機嫌を損ねない返事、義父の体調に合わせた食事、昌親の会食の手配、会社の裏で回していた細かな雑務。そういうものを積み上げて、表面だけは穏やかに見せてきた。瑠璃花には、それがただの形に見えるのだろう。

 見えないものは、ないのと同じだ。

 この家では、ずっとそうだった。

「澄乃」

 ようやく昌親が口を開いた。

 低い声だった。自分を宥めるでも、事情を説明するでもない、ただ面倒ごとが長引くのを嫌がる声音。

「感情的になるなよ」

 その一言で、澄乃の中の最後の何かが、きれいに冷え切った。

 感情的。

 誰が。

 この場を整え、客を迎え、コーヒーまで淹れて、いま目の前で夫の愛人に妻の座を譲れと言われている自分がか。

 思わず唇が震えそうになったのを、澄乃は舌先を軽く噛んで堪えた。鉄の味はしない。ただ、自分の口の中が乾いていることだけが分かる。

 怒鳴ってもよかったのかもしれない。

 カップを叩き割っても、二人を追い出しても、泣き叫んでもよかったのかもしれない。

 けれど、そうしたところで何かが戻るわけではない。むしろ、その反応すら二人にとって都合のいい材料になる気がした。妻が取り乱した。だからもう無理だ。そういう物語にされるのが、たまらなく嫌だった。

 澄乃は瑠璃花を見た。

 若い女は、ほんの少しだけ緊張している。勝ちを確信しているが、完全に余裕があるわけではない。膝の上で組んだ指先に力が入っている。昌親の隣に座るその姿は、確かに華やかだった。自分のように義母の好みに合わせて色を抑えることもなく、自分の魅力をちゃんと知っている女の顔をしていた。

 きっと、この子は本当に何も知らないのだろう。

 妻の座の中身を。

 朝一番に出汁を引くことも、義父の薬の置き場所も、義母が電話を嫌う病院の担当者の名前も、会食先で避けるべき話題も、親族の相関図も、香典の金額の相場も、昌親の機嫌が悪い朝に何を言わないほうがいいかも、会社で誰の奥さんが花粉症で何の花を避けるべきかも。

 そういうものを全部ひっくるめて、この家の妻だった。

 座などという軽い言葉で呼べるものでは、本当はなかった。

 その瞬間、澄乃は初めて、言われた言葉に対して怒るより先に、呆れていた。

 そして同時に、救われるようでもあった。

 譲れと言うのなら。

 そこまで言うのなら。

 譲ればいいのだ。

 中身ごと、全部。

 思考がそこへたどり着いた途端、不思議なことに呼吸が少し楽になった。胸を圧迫していた重い板が、わずかに外れたみたいだった。

 澄迫していた重い板が、わずかに外れたみたいだった。

 澄乃は背筋を崩さず、ゆっくりと口角を上げた。

 笑う、というより、表情を整える動作に近かった。長年、義母の前でも取引先の前でもやってきた、感情を表に出しすぎないための笑み。けれど今そこにあるのは従順さではない。どこか遠いところへ足をかけた人間の、静かな決意だった。

「ええ」

 声は驚くほど穏やかに出た。

 瑠璃花の目がわずかに見開かれる。

 昌親の眉が、ほんの少しだけ動く。

 澄乃は二人の顔をまっすぐ見たまま、もう一度、今度ははっきりと言った。

「かまいません」

 その一言は、敗北ではなかった。

 長く続いたものを終わらせるための、最初の合図だった。


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