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第3話 全部、置いていきます
朝から雨だった。
まだ本降りになる手前の、空全体に薄い灰色の布がかぶさったような天気で、窓の外は輪郭だけがやわらかく滲んでいた。庭の枝垂れ桜も、昨日までの淡い光の中で見る花とは違って、濡れた花びらを重たげに揺らしている。葉も枝も色を深め、空気には土と水の匂いが混じっていた。
澄乃は六時前に目を覚まし、いつものように寝室を出た。
いつものように、と言ってしまえる自分が少しだけ可笑しかった。胸の奥ではもう、ずいぶん前から何かが変わっている。なのに体は、朝になれば台所へ向かい、炊飯器の蓋を開け、味噌汁の鍋に火を入れ、出汁の香りの立ち具合で湯の温度を測る。その順番をひとつも間違えない。長年繰り返した手順というのは、意思より先に体へ染み込むのだと、ここ数日で澄乃は改めて思い知っていた。
だが今朝の自分は、昨日までの自分とは少し違う。
台所の引き出しを開けるたび、棚に手を伸ばすたび、その動作のすべてが「最後の確認」に変わっていくのが分かった。
冷蔵庫の上段には義父用の補助食品。右奥には義母が食後に好む薄い甘味。野菜室の手前には今日中に使い切るべき葉物。調味料棚の二段目には、義母だけが味の違いに気づく白醤油。左の吊戸棚には来客用の茶器。右の戸棚には慶弔用の包み紙と予備の水引。玄関脇の小さな収納には、外商担当の名刺の束。書斎の二段目には会社関係の贈答履歴。二階のウォークインクローゼットには、昌親のスーツを季節ごとに分けたクリーニング票の控え。
見渡せば、この家のどこを切り取っても、澄乃の手の跡があった。
それを誇らしいとは思わない。
ただ、ようやく正確に見えるようになっただけだ。
朝食の支度を終え、義父母と昌親を送り出したあと、澄乃は流し台を拭き上げた。濡れ布巾を絞ると、冷たい水が指の間を流れ落ちる。換気扇の低い音、炊飯器の保温の電子音、外の雨脚が少しだけ強くなる気配。家の中は静かだった。静かで、広い。人がいなくなると、この家は急に展示室みたいになる。磨かれた床も、高価な家具も、整えられた花も、住む人の温度より見栄えを優先しているように思える時がある。
澄乃はエプロンを外し、ダイニングテーブルへノートとファイルを運んだ。
昨夜のうちに、書斎の棚から使っていないクリアファイルと厚手の紙製フォルダを何冊か持ち出してある。色は地味なものばかりだ。灰、紺、薄茶。義母が見ても文句を言わない色を無意識に選んでしまう自分に、澄乃はファイルを並べながら小さく息をついた。
「最後まで、そういうのが抜けないのね」
誰もいない部屋で呟くと、声はすぐに湿った空気へ溶けた。
テーブルの上へ、昨日書き進めた引き継ぎノートを置く。その横に新しい見出し用の紙を重ね、ペンを持つ。まず必要なのは分類だ。頭の中に散らばっているものを、人が読める順番に直さなければ意味がない。
澄乃は一枚目の紙の上に丁寧な字で書いた。
『食材購入先・保存・献立の基本』
二枚目には、
『義父母対応』
三枚目には、
『昌親の生活管理』
四枚目には、
『親族・社交』
五枚目には、
『会社関係補助』
六枚目には、
『住居管理・業者連絡先』
書いて並べるだけで、まるでひとつの部署の業務分担表みたいだと思った。家の中にあるものなのに、家事という一言で片づけるにはあまりにも細かく、あまりにも量が多い。これを一人で、名前もなく担ってきたのだ。
澄乃は最初のフォルダへ、台所関係の情報から整理していくことにした。
買い物先の一覧。魚屋、青果店、精肉店、義母の好む和菓子屋、昌親が会食後でも少しだけ口にする焼き菓子の店、義父用の補助食品を置いている薬局。店名だけではなく、定休日、頼めばしてくれる下処理、電話注文の可否、店主の癖、急ぎの時に融通が利くかどうかまで書き込む。
『水上鮮魚店 火曜、金曜に白身の状態が安定。義父用は骨を抜いてもらうこと。店主は電話だとぶっきらぼうだが、対面で頼めば細かい要望にも応じる』
『駅前青果 義母は百貨店の野菜よりこちらを好む。葉物は午前中、根菜は午後でも可。長芋はここが一番質が安定』
『御園屋 義母用玉露、来客用煎茶。贈答包装の水引の色指定可』
ペン先が紙の上を滑る音が、雨音と混じって静かに続く。時々、書く手を止めて記憶を探る。いつからこういうことを自然に覚えるようになったのだろう。結婚した当初は、ただ義母に言われた通りに買っていただけだったはずだ。けれど一度でも不機嫌な顔を見れば、次からは先回りするようになる。誰かが困った顔をすれば、その原因を潰すようになる。そうして、気づけば自分の中に地図みたいなものが出来上がっていた。
義母が嫌う言い回しも、その地図の一部だ。
澄乃は別紙を引き寄せ、『義母対応 注意事項』と見出しを書いたあと、一瞬だけ笑ってしまいそうになった。こんなものまで文書化するのか、と自分で思う。けれど書かなければ、本当に誰も分からないのだ。
『「ついでに」「簡単に」は避ける。家のことを軽く扱われたと感じるため』
『体調を尋ねる際は「お加減」ではなく「今日はだるさはございませんか」と具体的に聞くほうが機嫌を損ねにくい』
『友人の宮ノ脇夫人の話題は先方から出るまでこちらから触れない。昨年秋の件が尾を引いているため』
『病院の日程変更は朝一番より十時以降。支度前の時間帯に電話が入ることを嫌う』
書いているうちに、笑いは消えた。
おかしいのは内容そのものではない。これほど細かく相手の地雷を覚え、そのたび言葉を選び、機嫌が悪くならないよう角を削り続けてきた自分のほうだ。もちろん、それが家族としての思いやりに近い時もあった。相手を快適に過ごさせたい、穏やかにしたいと思う気持ちが、最初からなかったわけではない。
けれど、いつからだろう。
思いやりが、予防へ変わったのは。
相手を大切にしたいではなく、荒れないようにしたいへ変わったのは。
昌親のフォルダを作る段になると、澄乃はしばらく手を止めた。
『昌親の生活管理』
そう見出しを書いた紙を見つめる。生活管理。まるで未成年の子の世話みたいだと、どこか冷めた気持ちが浮かぶ。けれど中身を考えれば、間違ってもいない。スーツのクリーニング周期、シャツの買い替え時期、靴の修理先、会食予定に合わせたネクタイの入れ替え、出張時の持ち物の不足確認、疲れて帰る週の胃にやさしい献立、朝機嫌が悪い日の話しかける順番。
書き出すほどに、妻というより管理者だと思えてくる。
『スーツ 春夏物は二週間に一度、秋冬物は着用回数を見て調整。汗をかいた日は即日ブラシ。クリーニングは京橋テーラー。昌親名義で伝票管理』
『ワイシャツ 襟の黄ばみが出やすいため、三回着用ごとに重点洗い』
『靴 黒の内羽根は右踵が減りやすい。修理は神谷靴店。急ぎは不可』
『会食前 香りの強い柔軟剤不可。ネクタイは濃紺と灰を基本、相手が年長重役の場合は派手な柄を避ける』
『朝、機嫌が悪い日は出社前に予定を詰めて聞かない。必要事項はメモにして玄関脇へ』
書いて、並べて、澄乃は思う。
これを愛だと思っていた時期が、自分にもあったのだろうか。
相手が気持ちよく働けるように、困らないように、快適に過ごせるように整えていくこと。それはたしかに優しさでもある。けれど優しさは、本来、片側だけが干からびるまで差し出し続けるものではないはずだ。いまテーブルに広がっているのは、優しさの名を借りて澄乃の時間を食い続けた記録にも見えた。
午前十時を回った頃、義母から電話がかかってきた。
画面に表示された名前を見て、澄乃は一度だけ深く息を吸ってから通話を取る。
「はい、澄乃です」
『あなた、昨日頼んでいた花だけど、白は少し冷たいわね。薄い桃色を混ぜてって伝えて』
「承知しました。受付用の花ですね」
『そう。それから、土曜の宮ノ脇さんのところ、手土産は決まったの』
「候補は二つに絞りました。お孫さんのことを考えると日持ちのする和菓子と、個包装の詰め合わせがよろしいかと」
『あなた、分かってるじゃない。包装は派手すぎないようにね』
「はい」
『あとね、来月の法事、仕出し屋さんの件も確認しておいて。前のところは味が濃かったのよ』
「承知しました」
いつもと変わらない会話だった。義母は受話器の向こうで忙しなく用件を並べ、澄乃は静かに受ける。その調子のまま電話を切りそうになった時、澄乃はふと口を開いた。
「お義母さま」
『なあに』
「仮に、私がいなくなった場合の連絡先一覧を作っておこうかと思うのですが」
一拍の沈黙が落ちた。
電話の向こうで、義母が意味を測りかねている気配がある。
『いなくなるって、何の話』
「念のためです。何かあった時に困らないように」
『大げさね。あなたがやってくれているんだから必要ないでしょう』
澄乃は受話器を握る指先に少し力を入れた。
あなたがやってくれているんだから。
それは感謝の言葉のようでいて、まるで蛇口を捻れば出てくる水を前提にしている響きだった。
「そうですね」
結局、それしか返さなかった。
電話を切ると、澄乃は受話器をそっと戻した。胸の中に小さな乾いた笑いが残る。必要ない。そう思うのだろう。この家の人たちは、澄乃がいるうちは必要ないと思う。だからこそ、いなくなった後にしか、自分たちの足元に何が敷かれていたか分からない。
だったらやはり、きちんと置いていくべきだ。
相手のためというより、自分のために。
奪われたのではないと、自分に示すために。
昼前、澄乃は二階のウォークインクローゼットへ上がった。扉を開けると、乾いた布と防虫剤の匂いがふわりと漂う。きれいに整えられたスーツが、色別、季節別に並んでいる。昌親は服に無頓着ではない。だが、何も考えずに着ていられるのは、後ろで全部揃えている人間がいるからだ。
澄乃はクリーニング店のタグを一枚ずつ確かめ、周期をメモに落としていく。ネクタイの収納位置、冠婚葬祭用の黒一式、予備のカフス、靴下の買い足し目安。小物類まで書き始めるときりがない。それでも、きりがないという事実そのものを残したかった。
引き出しの奥から、小さな箱が出てきた。昌親用の会食先名刺入れだ。どの会食にどの名刺入れを持っていくかまで、以前は澄乃が黙って入れ替えていた。革の色が相手や場所によって浮かないように。そんなところまで気にする妻が果たしてどれだけいるのか、自分でも分からない。けれど久世家では、それが自然と「できている状態」になっていた。
箱を閉じ、澄乃はクローゼットの床へしゃがみ込んだ。膝の裏にカーペットの柔らかい感触が当たる。しばらくそのまま動けなかった。
疲れた、と思った。
悲しいより先に、疲れた。
この家での七年は、たぶん最初からずっと、気の遠くなるような小さな管理の連続だった。誰かが派手に怒鳴るわけではない。露骨に殴られるわけでもない。ただ、自分がいないと回らないことが少しずつ増えていき、気づけばその全部が「妻なら当然」の中へ収められていた。文句を言わなかったのは、自分だ。言えば角が立つと思ったのも自分だ。うまく回るほうが楽だと思って、先に動き続けたのも自分だ。
だからこそ、これは奪われたのではない。
澄乃はその言葉を、胸の奥でゆっくり確かめた。
奪われたのではない。
手放すのだ。
自分の意思で。
そう思わなければ、悔しさに飲まれてしまいそうだった。若い女に「譲れ」と言われ、夫に黙って見下ろされ、その結果家を出る。字面だけを並べれば、あまりにも惨めに見える。けれど実際に自分がいまやっているのは、泣きながら追い出されることではない。出口を自分で作り、その鍵を自分の手で回すことだ。
澄乃は立ち上がり、クローゼットの扉を閉めた。
午後になると雨脚が少し強くなった。窓ガラスを細かな滴が流れ、外の景色がいっそうにじむ。昼食を簡単に済ませ、澄乃は書斎へ入った。ここには会社関係の裏方業務の記録がまとまっている。
デスクの引き出しには、贈答履歴のファイル。棚には取引先関係の慶弔メモ。受付用の花の注文先と、相手先の家族構成、避けるべき話題、祝いの時期、見舞いを送るタイミング。昌親自身はおそらく、その半分も把握していないだろう。義父でさえ、詳しい内容は澄乃が自然にやっているものとしてしか見ていなかった。
澄乃はファイルを机に積み上げ、順に整理していった。
『会社宛贈答 春夏』
『会社宛贈答 秋冬』
『慶弔記録』
『受付花手配』
『取引先家族情報』
見出しを書いていくだけで、まるで小さな総務課の引き継ぎみたいだ。自分の仕事ではないはずなのに、誰も困らないようにと整えてきたものがこんなにある。
その時、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、知らない番号からの着信だった。一瞬迷ってから取る。
「はい」
『あ、あの、澄乃さんですか。汐見瑠璃花です』
耳元へ、あの甘い声が届いた。
澄乃は立ったまま一瞬目を閉じる。今このタイミングで何を言うつもりなのか、少しだけ興味が湧いた。
「はい」
『突然すみません。昌親さんには、澄乃さんとちゃんと話したって聞いたんですけど……』
「ええ」
『その、私、昨日ちょっときつい言い方になっちゃったかなって思って』
思ってもいないのか、本当に少しは気にしているのか、声色だけでは判別しにくい。けれどその奥にあるのは謝罪そのものより、自分が悪者になりきりたくない甘さのように澄乃には聞こえた。
「そうですか」
『私、別に澄乃さんを傷つけたかったわけじゃなくて。ただ、曖昧なままって嫌なので。ちゃんと順番をつけたほうがいいと思ったというか』
順番。
澄乃は窓の外の雨を見ながら、その言葉を胸の中で転がした。愛人が、妻に、順番をつける。ひどく整った言い方だ。自分がしていることを汚く見せないための包装紙みたいだと思う。
「順番は、大事ですね」
『……はい』
「だから、きちんとお渡しする準備をしています」
電話の向こうで、瑠璃花が少し黙った。
『お渡しする、って』
「妻の座を譲るのなら、中身も必要でしょう」
『中身……ですか』
「食事のこと、義父母のこと、親族のこと、会社のこと。いろいろありますから」
今度は明確に、戸惑う気配が伝わってきた。たぶん彼女は、座席を入れ替えるみたいな感覚で言ったのだ。妻という肩書を自分に差し替えれば、それで終わると思っていた。けれど本体はそこではないのだと、いま初めて想像し始めているのかもしれない。
『あの、私、そういうのまでは……』
「でも必要です」
澄乃は淡々と遮った。
「知らないままで困るのは、あなたですから」
言いながら、自分の声に嫌味らしい熱が少しも混じっていないことに気づいた。本心だった。知らないままで飛び込めば困る。困った時、たぶん彼女は誰かを責めるだろう。昌親か、義母か、あるいは自分を。だったら最初から分かる形にしておいたほうがいい。
『……澄乃さんって、優しいんですね』
その言葉に、澄乃は初めてほんの少しだけ口元を歪めた。
優しい。
そう見えるのか。
違う。これは優しさではない。決別だ。もう自分が背負わないために、置いていく作業だ。
「そうでしょうか」
それだけ返して通話を切る。画面が暗くなったあともしばらく、耳には瑠璃花の声の甘さが残っていた。
デスクの前に立ったまま、澄乃はスマートフォンを伏せる。胸の奥がわずかにざらつく。あの子は、本当に分かっていないのだろう。分かっていないまま、自分が勝ち取るものを綺麗なものだと思っている。その無知に腹が立つより先に、澄乃は妙な遠さを感じていた。いずれ彼女も、この家の中身を知るのだろうか。知った上で、それでも欲しいと思えるのだろうか。
どちらでもいい、と澄乃は思った。
もう自分には関係がない。
夕方までかけて、ファイルは少しずつ形になっていった。
食材購入先の一覧。
義母が嫌う言い回し。
義父の通院スケジュール。
昌親のスーツのクリーニング周期。
会食で避けるべき話題。
会社宛て贈答の記録。
年末年始の挨拶状の出し先。
法事の仕出し屋の連絡先。
玄関花の交換曜日。
来客用茶菓子の安全牌。
庭師と清掃業者の電話番号。
雨の日の送迎手配先。
書斎の鍵の保管場所。
常備薬の補充タイミング。
冷蔵庫の見えない棚卸し。
細かなメモを挟み込んだファイルが、ダイニングテーブルの半分を占領している。きれいに揃えられた背表紙は、まるで小さな図書館みたいだった。自分がこの家に置いてきた時間が、本になったような景色だった。
澄乃は椅子に座り、そのファイル群をじっと見つめた。
こんなにも多い。
そして、まだ書ききれていないことがある。実際に顔を見なければ分からない空気。義母の機嫌の揺れ方。昌親の沈黙の意味。義父が疲れている日の声の低さ。取引先の夫人が本当に欲しいのは物ではなく名前を覚えられていることだという微妙な感触。そういうものまで文書にするのは難しい。
けれど、それでいいのかもしれない。
全部は渡せない。
全部渡してしまったら、また自分がここに残ってしまう。
文字にできるところまでを置いていく。それ以上の気配や勘や消耗は、もう置いていかない。誰かのために擦り減らした自分の感覚まで引き継ぐ必要はない。
そこまで考えた時、澄乃はようやく本当の意味で肩の力を抜いた。
そうか。
捨てるのは結婚ではない。
消耗する日々だ。
その言葉が胸の奥で、すとんと収まった。
結婚そのものが全部間違いだったわけではない。最初にこの家へ来た頃、自分なりに大切にしようと思った気持ちまで偽物だったとは思いたくない。義父に体調の良い日が増えた時、義母がたまに機嫌よくお茶を飲んだ時、昌親が疲れた顔で食卓に着いて少しだけ肩を緩めた時、自分のしたことが誰かの助けになっていると感じた瞬間は確かにあった。
けれど、いつの間にかそれは、自分を削り続けるだけの仕組みに変わっていた。
そこから出る。
それだけだ。
夕方、昌親が帰る前に、澄乃は出来上がったファイルを一つずつ整えた。背表紙の位置を揃え、クリップを付け直し、書斎机の上へ順番に並べる。まるで誰かへ業務を引き継ぐ退職前の机みたいだった。自分でそう思って、少しだけ笑った。退職。たしかに似ている。長く無償で働いてきた部署を、自分の意思で辞めるようなものだ。
玄関のほうで鍵の回る音がしたのは、七時少し前だった。
昌親が帰ってくる。
澄乃は書斎に立ったまま、机の上のファイルを見下ろす。整った背表紙が淡い照明を受けて静かに並んでいる。その光景は妙に静謐で、思ったよりもずっと綺麗だった。
足音が近づく。
「澄乃」
呼ばれて、澄乃は振り返った。
ドア口に立つ昌親が、机の上の光景に気づいて眉をひそめる。脱ぎかけた上着を片手に持ったまま、視線だけがファイルの列を追った。
「……何だ、これ」
「引き継ぎです」
昨日も言った言葉を、今日も同じ温度で返す。
昌親は書斎へ一歩入り、手近なファイルを取った。『昌親の生活管理』と書かれた背表紙を見て、露骨に嫌そうな顔をする。ぱらりと中をめくる。スーツ、靴、会食、クリーニング、持ち物。細かい字で整然と並ぶ項目を目で追ううちに、彼の顔つきが少しだけ変わった。
「こんなことまで書いてるのか」
「必要でしょう」
「必要って……」
言葉を濁す。必要ではないと断言できない顔だった。
澄乃はその様子を静かに見ていた。責める気持ちは、不思議なくらい湧いてこない。ただ、ああこの人もやっと少しだけ見始めたのだと思う。
「他にもあります」
澄乃は机の上を軽く示した。
「食材の購入先、義父母への対応、親族関係、会社宛ての贈答記録、会食で避ける話題、業者連絡先」
「会食で避ける話題って何だよ」
「相手によって違います。お父さまが以前失言をなさって以来触れないほうがいい話題もありますし、先方のご家族に病気の方がいる場合もあります」
昌親が黙る。
澄乃は続けた。
「受付の花も、先方の社長夫人が百合の香りをお嫌いなので避けています。宮ノ脇家への手土産はお孫さんの体質に合わせて選びます。お義母さまには、電話を入れる時間帯で機嫌が変わります」
「……そんなの、いちいち」
「いちいち、やってきました」
言葉は静かだったが、その場の空気はわずかに張った。雨の夜の湿った匂いが窓の隙間から入り込む。遠くで車のタイヤが水を踏む音がした。
昌親はファイルを閉じる。閉じ方が少し乱暴だった。
「俺は、ここまでしろなんて言ってない」
「ええ。言われていません」
「だったら」
「言われなくても、困る前にやっていたんです」
澄乃は一度だけ目を伏せ、それからまた彼を見た。
「あなたが困らないように。お義父さまたちが不機嫌にならないように。会社で恥をかかないように」
自分で口にしてみると、その積み重ねの年数が急に重くのしかかった。七年。短くはない。女の人生の七年を、こうして言葉にすると妙に生々しい。
昌親は何か反論したそうに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。澄乃はその沈黙を見て、胸の奥で静かに確信する。
この人は、やはり知らなかったのだ。
自分がどれだけのものの上で、ただ座っていただけなのかを。
「全部、置いていきます」
澄乃は机の上のファイルへ視線を落としながら言った。
「奪われたわけではありません。私が、自分で手放します」
昌親が息を呑む気配がした。
「……そんな言い方をしなくても」
「では、どう言えばいいですか」
問い返した声は、驚くほど穏やかだった。
「あなたが黙って見ている前で、愛人に妻の座を譲れと言われました。私は譲ると答えました。だから、座の中身も置いていきます。それだけです」
それだけ、と言い切った瞬間、澄乃は胸の内側が静かに整うのを感じた。まだ傷ついていないわけではない。悔しくないわけでもない。だが少なくとも、いま自分がしていることは、誰かに押し出されて転がることではなかった。自分の足で出口へ向かっている。その確認が欲しかったのだと、ようやく分かる。
昌親は何か言うべき言葉を探しているようだった。けれどこの人には、こういう時に相手の気持ちへ踏み込む語彙が少ない。ただ困った時、面倒な時、自分が悪く見えそうな時にだけ言葉が増える。
「澄乃。そんなに大仰にしなくても、話し合えば」
「話し合いは、もう終わっています」
「終わってないだろ」
「終わりました」
ぴたりと返すと、昌親は黙った。
澄乃は机の上の一番上のファイルを軽く撫でた。紙の角が指先に当たる。乾いた感触だ。ここにあるのは感情ではなく記録で、泣き言ではなく労働の痕跡だ。それが澄乃を支えてくれる気がした。
「夕食の用意はできています」
そう告げると、昌親はまだ納得しない顔のまま書斎を出ていった。背中に漂うのは怒りというより戸惑いだった。初めて、自分が足場だと思っていたものの厚みを知った人間の戸惑い。
足音が遠ざかる。
書斎に一人残され、澄乃は静かに息を吐いた。喉の奥に乾いた痛みがある。気を張っていたのだと分かる。椅子に腰を下ろし、窓の外を見る。雨は少し弱まっていた。ガラスに残った雫が細く流れ、庭の桜が濡れた花を揺らしている。
この家の春を見るのも、あと何度あるだろう。
そう思っても、胸は思ったより静かだった。未練がないわけではない。だが未練の先にあるのは、この家の美しさではなく、自分がすり減っていく未来だ。だったら置いていける。花も、家具も、名字も、役目も。置いていくのは空っぽの殻ではない。きちんと中身の説明書を付けて、机の上へ並べていく。
澄乃はもう一度、ファイルの列を見渡した。
全部、置いていきます。
その言葉は、脅しではなく決意として、ようやく自分の中に根を下ろしていた。
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