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第十三章 英雄の喧騒と誓いの言葉
第231話 混沌の種子
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怒りは何の解決にもならない。この男――怪物を前にしては、特に。
背後でレオナルドとセリスが激昂し、剣の柄に手をかけているのが気配で分かる。張り詰めた殺気が、今にも爆発しそうだ。
だが、俺はそれを視線だけで強く制した。
この男に感情で挑んでも意味がない。瞬きする間に首を飛ばされて終わりだ。
(……こいつに俺たちの正義や倫理など何の意味もなさない。間に合わなかった。……なら、今は次の手だ)
俺は心の奥底で燃え上がりかけたドス黒い怒りを理性で無理やりねじ伏せた。そして思考を冷徹に切り替える。
この男は以前、『混沌の使徒』を「醜悪だ」と断じた。ならば、交渉の余地はある。
「……マルヴェス」
俺は声のトーンを落とし、交渉相手として彼に向き直った。
「お前の言う『熱病』の本当の正体について、俺たちは情報を掴んだ。お前にとっても無関係な話ではないはずだ。……その情報を提供しよう」
その提案に、マルヴェスは愉快そうに口の端を吊り上げた。
「ほう? 取引か。……いいだろう、聞こうか」
俺は『学術都市』で掴んだ情報を、淡々と、しかし正確に告げた。
筆頭神官セイオンの存在、人の心を操る理式、そして、世界に意図的に『混沌』を生み出し、強制的な進化を促そうとする、奴らの歪んだ思想について。
俺の話を聞き終えたマルヴェスは、しばらく黙していた。
やがて、その口元に、これまでとは質の違う、深く、知的な笑みが浮かんだ。
「……混沌の使徒、か。面白い。実に、面白い脚本だ。世界を恣意的にざわつかせ、進化を促すなど、愚かで、そしてあまりにも人間らしい発想だ。……その『熱病』は私が思っていたよりも、ずっと根が深いらしい」
彼は俺の情報を認め、そして、取引の対価を支払うかのように、その真紅の瞳を細めた。
「土産話の礼に、賢者カインよ。一つ、忠告をやろう」
マルヴェスの視線が、俺たちの足元――いや、俺たちのパーティの後方へと、ゆっくりと向けられる。
「世界の熱病は、お前たちが思うより巧妙に、そして身近な場所に巣食うものだ。……お前たちの足元にも、すでに新たな病巣が生まれているやもしれんぞ?」
その言葉は呪いのように俺たちの心に突き刺さった。
身近な場所。足元。新たな病巣。その視線の先にあるものに、俺たちは気づかざるを得なかった。
俺たちの視線が自然と、パーティの後方で身を寄せ合っている、リナとセリシアへと吸い寄せられる。
二人はマルヴェスの放つ圧倒的な「死」の気配に当てられ、ただ腰を抜かさんばかりに震えているだけだ。その姿はどこからどう見ても、ただの力のない哀れな被害者にしか見えない。
だが、マルヴェスの警告は、その「無害に見える純粋さ」こそが、最も巧妙な病巣なのだと、冷徹に告げていた。
「せいぜい、私を退屈させないでくれよ、賢者カイン」
マルヴェスはそう言い残すと、夜の闇に溶けるように、音もなくその姿を消した。
後に残されたのは完全な静寂と、そして、互いへの拭い切れない疑念だけだった。
エルンとセリス、レオナルドの視線が、リナとセリシアへと、切っ先のように鋭く突き刺さる。
そこにはもはや同情の色はなく、「やはりか」という確信めいた敵意だけがあった。
カズエルでさえ、眼鏡の奥で感情を消し、冷徹な分析者の目で二人を見つめている。
俺は『混沌の使徒』の、その本当の恐ろしさを、ようやく理解した。
奴らは俺たちの「人の善意を信じたい」という心そのものを、最大の弱点として突いてきているのだ。
救うべき魂は、もういない。
そして、今共にいる仲間は、もはや信じられない。
死と静寂に支配された『嘆きの谷』で、俺たちは希望の全てを打ち砕かれた。
背後でレオナルドとセリスが激昂し、剣の柄に手をかけているのが気配で分かる。張り詰めた殺気が、今にも爆発しそうだ。
だが、俺はそれを視線だけで強く制した。
この男に感情で挑んでも意味がない。瞬きする間に首を飛ばされて終わりだ。
(……こいつに俺たちの正義や倫理など何の意味もなさない。間に合わなかった。……なら、今は次の手だ)
俺は心の奥底で燃え上がりかけたドス黒い怒りを理性で無理やりねじ伏せた。そして思考を冷徹に切り替える。
この男は以前、『混沌の使徒』を「醜悪だ」と断じた。ならば、交渉の余地はある。
「……マルヴェス」
俺は声のトーンを落とし、交渉相手として彼に向き直った。
「お前の言う『熱病』の本当の正体について、俺たちは情報を掴んだ。お前にとっても無関係な話ではないはずだ。……その情報を提供しよう」
その提案に、マルヴェスは愉快そうに口の端を吊り上げた。
「ほう? 取引か。……いいだろう、聞こうか」
俺は『学術都市』で掴んだ情報を、淡々と、しかし正確に告げた。
筆頭神官セイオンの存在、人の心を操る理式、そして、世界に意図的に『混沌』を生み出し、強制的な進化を促そうとする、奴らの歪んだ思想について。
俺の話を聞き終えたマルヴェスは、しばらく黙していた。
やがて、その口元に、これまでとは質の違う、深く、知的な笑みが浮かんだ。
「……混沌の使徒、か。面白い。実に、面白い脚本だ。世界を恣意的にざわつかせ、進化を促すなど、愚かで、そしてあまりにも人間らしい発想だ。……その『熱病』は私が思っていたよりも、ずっと根が深いらしい」
彼は俺の情報を認め、そして、取引の対価を支払うかのように、その真紅の瞳を細めた。
「土産話の礼に、賢者カインよ。一つ、忠告をやろう」
マルヴェスの視線が、俺たちの足元――いや、俺たちのパーティの後方へと、ゆっくりと向けられる。
「世界の熱病は、お前たちが思うより巧妙に、そして身近な場所に巣食うものだ。……お前たちの足元にも、すでに新たな病巣が生まれているやもしれんぞ?」
その言葉は呪いのように俺たちの心に突き刺さった。
身近な場所。足元。新たな病巣。その視線の先にあるものに、俺たちは気づかざるを得なかった。
俺たちの視線が自然と、パーティの後方で身を寄せ合っている、リナとセリシアへと吸い寄せられる。
二人はマルヴェスの放つ圧倒的な「死」の気配に当てられ、ただ腰を抜かさんばかりに震えているだけだ。その姿はどこからどう見ても、ただの力のない哀れな被害者にしか見えない。
だが、マルヴェスの警告は、その「無害に見える純粋さ」こそが、最も巧妙な病巣なのだと、冷徹に告げていた。
「せいぜい、私を退屈させないでくれよ、賢者カイン」
マルヴェスはそう言い残すと、夜の闇に溶けるように、音もなくその姿を消した。
後に残されたのは完全な静寂と、そして、互いへの拭い切れない疑念だけだった。
エルンとセリス、レオナルドの視線が、リナとセリシアへと、切っ先のように鋭く突き刺さる。
そこにはもはや同情の色はなく、「やはりか」という確信めいた敵意だけがあった。
カズエルでさえ、眼鏡の奥で感情を消し、冷徹な分析者の目で二人を見つめている。
俺は『混沌の使徒』の、その本当の恐ろしさを、ようやく理解した。
奴らは俺たちの「人の善意を信じたい」という心そのものを、最大の弱点として突いてきているのだ。
救うべき魂は、もういない。
そして、今共にいる仲間は、もはや信じられない。
死と静寂に支配された『嘆きの谷』で、俺たちは希望の全てを打ち砕かれた。
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