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第三章
閑話 転移前 ――由里香・芽衣編 前編――
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「よおし、武田っ! 最近調子が良いようだなっ!」
女子陸上部顧問、奥津重明の声がグラウンドの響き渡る。
時間はそろそろ夕方六時を迎えようとしていたが、暗くなるにはまだ時間がもう少し必要な季節。
そろそろ梅雨を迎え始めるであろうこの時期を、由里香は好きではなかった。
今日はグラウンドでの練習をすることが出来たが、雨が降ってしまうと室内練習しかできなくなってしまう。
それは走り回る事が好きな少女にとっては苦痛そのものだった。
「はい、由里香ちゃん。タオルだよ~」
百メートル走を終えた直後で息を荒げている由里香の元に、芽衣が吸水性抜群のスポーツ用のタオルを手に駆け寄っていく。
「ハァ……ハァ……。ありがと、芽衣ちゃん」
芽衣からタオルを受け取った由里香は、吹き出た汗を拭い始める。
走る事が大好きな由里香は、基本的に短距離走よりも長距離走を好んでいる。
だが、陸上選手としては短距離走の方がスコアは良く、最近は奥津や周りの部活仲間からの勧めもあって、主に短距離走向けの練習メニューをこなしていた。
最初はそこまで乗り気ではなかった由里香も、徐々に徐々に伸びていくタイムを見ていく内に、大分短距離走にも身が入るようになってきていた。
とはいえ、由里香にとっての陸上競技は「思う存分走る場を用意してくれるもの」であって、タイム自体は気にしてはいたが、それだけに拘っている訳でもない。
「それで……ふうぅう。さっきのフォームは、どうだった?」
最初はただ走るだけで満足していた由里香だったが、腕の振り方や足を上げる角度、一歩でどれだけの距離を詰めるかの配分、など陸上選手に必要な技術や知識も吸収していっている。
そうした日々の努力によって、県大会レベルでは上位入賞の筆頭候補となる位には陸上選手として熟成してきていた。
努力だけではなく、生まれ持っての資質もあったのだろう。
「ん~、そうだなあ。由里香ちゃんは最初はいいんだけど、走っていく内にフォームが乱れがちになるかな~」
それは奥津からも再三言われていた事であった。
走る事自体を楽しんでいる由里香は、走っていく内に無意識に自分の走りたいように走り始めてしまい、徐々にフォームが崩れていく傾向にあった。
しかし、それで自己記録を更新したりすることもあって、由里香本人にとってはそれが一番走りやすいスタイルなのかもしれない。
だが、現代の陸上選手のフォームとしては余りよろしいものではなかった。
特に短距離ならともかく長距離になるとこのフォームの乱れは大きく響いてくるだろう。
由里香自身もその事は認めているので、今はフォームの矯正というのが彼女の目下の目標であった。
「んー、やっぱそうかあ。意識しようとはしてるんだけど、どうも上手くいかないんだよねー」
一つの物事に集中すると他の者が一切見えなくなってしまう由里香にとって、フォームの修正というものはなかなかの難題のようだ。
「んー、武田ぁ。そこでちょっと立ってみろ」
二人が話していると、顧問の奥津がやって由里香へと支持を出す。
奥津の指示を受けてその場で佇立する由里香。
「うむ。そうしたらやや胸を張るような感じで、背筋を伸ばせ。上半身がリラックスした状態になるように心掛け、腰が曲がらないようにケツを後ろに突き出すような感じだ!」
言われた通りの事を実行する由里香。
その様子をジロジロと舐めるように観察していた奥津は、新たな指示を加える。
「よおし。そうしたら最後に人体で一番重い頭部を背骨に乗せるようにイメージしろ。そうすれば体が一本の棒のように感じるはずだ。その姿勢を日ごろ意識して、普段歩くときもその態勢を維持していけば、自然とフォームも改善されていくだろう」
「はいっ! わかりましたっす!」
そう言って早速その態勢のままそこいらを歩き始める由里香は、奥津のねめつけるような視線に気づいてはいなかった……。
▽△▽△
それから幾日か過ぎた頃、徐々に雨模様の日が増えてきてグラウンドの使えない日が増え始めた。
そうなると陸上部の活動そのものが中止になる日も増え、今日も大雨によって中止された陸上部の練習の代わりに、由里香は芽衣の家へと訪れていた。
芽衣の家には本格的なプロ選手が使うようなものではないが、ランニングマシンが一台設置されている。
そのランニングマシンの上で汗を切って走っている由里香は、フォームの乱れを重点的に意識しながら走り続けていた。
奥津から受けた指示を今までこなしていた由里香は、以前に比べて若干……ほんの僅かではあるがフォームが乱れにくくなっている事に気付く。
「どう、かなっ?」
インターバルのため一度走るのをやめた由里香が感想を求める。
「ん~、前より良くなってるかも~?」
芽衣も専門家ではないため、はっきりと具体的なことは言えない。
しかし、今までずっと見てきた由里香の姿だ。
以前とは若干変わってきている事には気づいていた。
「そっかあ! これも奥津先生の指導のお陰かなっ?」
明るい声で話す由里香だが、その言葉を聞いた芽衣の表情は暗い。
そしてどう言葉をかけようか、珍しく迷っているような仕草を見せたあと、芽衣は由里香へと話しかける。
「え~とね、由里香ちゃん。周りに人がいる時に先生の指導を受けるのはいいんだけど~、個人指導だとか言われても付いていっちゃだめだよ~?」
「え、なんでー? 芽衣ちゃん」
疑うという事を知らない無垢な少女の問いかけに、然しもの芽衣も思わず言葉につっかえてしまう。
「それは~……。ええっと、大人の男の人の中には危ない人もいるの」
しどろもどろな芽衣の返答に納得できない由里香は反論をする。
「え、でもお父さんだって大人の男の人だけど危ないなんてことはないよ? それに奥津先生以外にも男の先生はいっぱいいるでしょ?」
芽衣が何を言いたいのか理解できていない由里香。
由里香に何といって伝えればいいのか迷っている芽衣。
素直に性的な目で見られている、と伝えられればいいのだが、その方面の知識に疎い由里香に伝えても余り理解はできないだろう。
――あの、おぞましく、汚らしい情欲を実際に向けられた者でなければ。
それにそういった事を知らない無垢なままの由里香には、そのままでいてほしいという芽衣の思惑もあった。
そういった事情もあって、由里香へと上手いこと伝える事が出来ない芽衣。
「だから~、奥津先生は危ないの~!」
「芽衣ちゃん、なんでそんなこというの! おとーさんやおかーさん。先生からも教わったでしょ! 人を悪くいうのはよくないって」
両親の夫婦仲が物心つく前からすでに冷めきっており、温かい家庭というものを知らずに育った芽衣にとって、由里香の言っている事はただの綺麗事としか映らなかった。
しかしそれでも大事な大事な親友である由里香の言葉をそのまま否定する事は芽衣にはできなかった。
「もう、いい! 今日はもう帰るねっ!」
「あっ……」
要領のつかない事を言ってくる親友に対して、背を向けて立ち去っていく由里香。
その後ろ姿に追いすがるように、本人にも聞こえないように小さく呟く芽衣。
結局手を取って引き留める事もできず、芽衣は茫然と立ち尽くしたまま由里香が帰っていくのと見届ける事しかできなかった。
▽△▽△▽
そして翌日の昼休み。
芽衣は視線の先、遠くを歩いている由里香に声を掛けられずにいた。
普段なら由里香の隣、というポジションにいるはずの芽衣の姿はそこにはなく、代わりにそのポジションにいたのは同じ陸上部の女子生徒だ。
芽衣とは同じクラスなのだが、余り話したことはない。
最初は由里香に会って謝ろうと思っていた芽衣だったが、二人が楽し気に話す様子を見てその足は止まってしまう。
翻って、それはその日の朝のこと。
毎日待ち合わせて登校していた二人だったが、芽衣が暗澹たる気分のまま待ち合わせ場所に向かうも、そこに由里香の姿はなかった。
それから二十分。
待ち人現れず、すでに遅刻確定の時間になって、ようやく芽衣は学校へと向かい始めた。
教室へと向かう前に直接職員室へと向かい、遅刻届を出した芽衣は、その足で教室へと向かう。
幸い、というべきか。芽衣と由里香は別のクラスだ。
いつもならその事を不満に感じていたのに、今日だけはクラスが違う事に芽衣は少しだけホッとしていた。
今までもちょっとした喧嘩なら何度かしたことはあった。
中学生になってからは喧嘩の回数も減ってほとんどしなくなってはいたが、翌日にはすぐに仲直り出来ていたのだ。
しかし今回だけは違っていた。
由里香も何時ものちょっとした事が原因の喧嘩だったら、今日も同じように待ち合わせの場所に現れていただろう。
しかし今回に限っては、由里香は芽衣の言い分が全く理解できていなかった。
人を一方的に悪者扱いする芽衣に、失望すら感じていた。
その結果、次の日に意図的に待ち合わせを守らずに接触を拒んだ。
そして一度そうやってすれ違ってしまうと、互いに接触しづらい心境へとなっていく。
これが逆の立場だったならば、とっくに仲直りは出来ていただろう。
つまり由里香が何か理不尽な事を言って、それに芽衣が反応したケースだ。
由里香自身がその理不尽さに気付くこともあるし、芽衣は由里香の多少の理不尽などは気にしない位の精神的な余裕があった。
しかし芽衣が理不尽な事を言ってきた今回の場合、真っすぐな由里香の性格としてはとても受け入れることはできなかった。
結果、両者のすれ違いはその後も続き、三日が過ぎていった。
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