戦国乱世は暁知らず~忍びの者は暗躍す~

綾織 茅

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第三章―護り人は今

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 最後に侵入者達の相手をした日から十日が過ぎた。
 敵は不気味なほど沈黙を保っている。まるで嵐の前の静けさと言わんばかりの状態に、八咫烏やたがらす達も気が抜けない。非番の日も身体を休めるのはそこそこに、庭や山中など自主的に回る日々が続いていた。

 そんな日の晩。夜間の哨戒しょうかい担当の者達以外寝静まり、満月が南東の方角に昇った頃。ひな達が寝泊まりする長屋の一室の戸がそっと開いた。顔を出した小さな影は左右を確認し、もう一度部屋の中を見る。部屋の中では友人がいびきをかいてぐっすりと寝ている。はぁっと悲しそうな溜息ためいきをついた影は、そのまま外に出てそっと戸を閉じた。

 意を決して出てきたものの、月明りがあるとはいえ、やはり辺りは暗い。そしてなにより、今にも廊下の前や後ろ、そして庭から何かが出てきそうな気がしてくる。
 いくら優秀な八咫烏やたがらす達であっても、実体がないものをどうこうすることまではできない。だからこそ、影──以之梅の藤兵衛は俗に“幽霊”と言われるものが一番恐ろしいと感じるし、今のこの状況も何とかして早く済ませたかった。

「……うぅっ」

 本当は、同じ部屋の三郎についてきてくれないかと声をかけたのだが、彼はすっかり深い眠りの中。起きる兆しすらなかった。

 目的のかわやまでは各部屋の前の廊下を通り、庭へ下りて踏段石を辿たどってすぐ。
 昼間は全く気にならないというのに、この暗闇だといつもの倍の時間がかかっているように感じてしまうほど怖い。そのせいで、部屋で眠っている皆を起こさないよう忍び足で行かなければと頭では分かっているのに、自然と小走りになっていく。
 長い廊下の真ん中辺りにある庭に降りるためのくつ脱ぎ石の前まで着くと、急いで草履を履き、半ば飛び込むようにしてかわやに駆け込んだ。

 用を足している間も、どこからか手が伸びてきそうで気が気ではない。
 そして、こういう時に思い出してしまうのが、先輩達が聞かせてくれた怖い話。怪談だ。しかも、まったくうれしくないことに今の状況に完全に合致していた。なんでも、暗闇の中、かわやに入っていると、背後から聞こえてくるカタカタと震え笑う人形がこちらに動いてやってくる、とか。

「……こ、こわくないっ。こわくないっ」
「何がだ?」

 かわやから出てきた藤兵衛がそうつぶやいて膝が震える己を鼓舞していると、突然どこからか若い男の声で声をかけられた。
 本当に怖い時ほど声は上がらず、藤兵衛は寝着のまま地面に尻餅をついてしまった。これでかわや辿たどり着く前であれば、失禁までしてしまっていただろう。

 普通に考えれば、こんな夜中に起きているのは巡回中の八咫烏やたがらすの誰かなのだから怖がる必要はないのに、突然だったこと、そして怖い話を思い出していたことが、藤兵衛のまだまだもろい精神にとどめを刺したのだ。

 一方、それだけ驚かれるとは思っていなかったのか、声の主は非常に慌てていた。

「だ、大丈夫か!? そんなに驚くとは思わなかったんだ。許せ」

 心配そうにしてくる声の主──男の顔を、顔を涙でまみれさせた藤兵衛がじっと仰ぎ見る。怖がる必要がないと分かると、安堵あんど感も加わり、余計に次から次へと涙があふれてきた。

 藤兵衛に手を伸ばしかけた男の手が、宙をかいて寸前の所で止まる。そのままその手は拳を握り、男の身体の横へ下ろされた。

「ほら、泣くな。井戸に連れて行ってやるから、手を洗って涙を拭け」
「……は、はいっ」

 藤兵衛は男の後をついて井戸まで歩いていった。

 名前も顔も知らない男だったが、一人だった藤兵衛にとって、親切にも一緒に連れていってくれるありがたい人だ。誰だろうと不思議に思う気持ちよりも、置いて行かれたくないという気持ちの方が勝った。

 そして、視界が涙でぼやけていたせいもあるだろう。

 藤兵衛は、とある重要なことに気づいていなかった。

 カラカラと音をさせ、おけが滑車を利用して井戸の中に下りていく。藤兵衛が縄をうまく動かして水をみ、また縄を引いておけを引き上げた。そして、んだ水で手を洗い、手を振って水を切る。手拭いを持ってきていなかったので、夜着の裾でそっと拭いた。
 一緒について来てくれた男は、井戸を雨風から守る屋根の柱にもたれかかるように後ろに立ち、黙ってそれを見守っていた。

「部屋へ戻ったら夜着を着替えて、明日、陽が昇ってから洗うんだぞ?」
「は、はい」
「よし。じゃあ、長屋へ戻れ」
「……でも、そのぅ」

 藤兵衛の言葉が尻すぼみになったのには理由がある。というのも、ここから長屋までは建物を回り込むようにして戻る必要があるのだ。その際、月明りがあっても陰になる場所を一カ所だけ通らなければいけない。怖がりの藤兵衛にとってはかわやに行くよりも勇気がいる。

 その方向へ視線をやる藤兵衛に、察した男がふっと笑みを漏らした。

「仕方ないな。……今回だけだぞ?」
「ありがとうございますっ」

 男が再び藤兵衛の前を歩き、藤兵衛は離れないようにしっかりとその後ろをついて歩いた。

 陰になる場所を通る時はいつもの癖で思わず男の服に手を伸ばしそうになるが、男の身体がまるで避けるようにすっと先に行ってしまう。手を伸ばすことよりも追いつくことに専念させられたせいで、気づいたらその場所を通り過ぎていた。

 ほっと一息つく間もなく、長屋が見えてくる。

「ほら、着いたぞ。後は部屋まで一人で行けるな?」
「はい。その、おしごとのおじゃましてごめんなさい」
「ん? あぁ、気にするな」

 藤兵衛がくつ脱石で草履を脱ぎ、部屋に戻ろうと廊下に上がる。そこでもう一度振り返った。

「じゃあ、おやす……あれ?」

 後ろを振り返ると、さっきまでいた男の姿はもうなかった。辺りを見渡してもそれらしき姿はどこにも見えない。

 すると、長屋のそばの茂みがガサガサと揺れているのが聞こえてきた。
 藤兵衛は肩をびくりと震わせたが、少し考え、これは先程まで一緒にいた男が立てたものだろうと、半ば無理にでも自分を納得させた。

 気にするなとは言ってくれたが、本当は忙しかったのかもしれない。今日みたいな月明りがある晩は侵入してくるようなやからもそういないとはいえ、それでも見回る箇所は多いのだろう。

 そして、男が去ったと分かった瞬間、再び一人で外にいるという恐怖が襲いかかってくる。折しも、月に雲がかかり、薄明かりすらなくなってしまった。

「そ、そんなっ」

 こうしてはいられないと、藤兵衛は廊下を早足で歩き、部屋の戸を開けた。
 部屋の中では三郎が変わらずいびきをかきながらぐっすりと寝ている。掛け布団がめくれ、横に敷いている藤兵衛の空いた布団に片足を投げ出してしまっているのはご愛敬あいきょうというべきか。

 それでも、三郎のいびきの音があれば怖いのも少しは薄れる。他の三人にはうるさいと言われがちな彼のいびきだが、藤兵衛にとっては安心できるものだったから、この部屋割りは正解だったのだろう。

 そろりそろりと忍び足で部屋の中を歩き、部屋の隅に置いておいた行李こうりの蓋をそっと開けた。中には替えの着物等衣類や必需品などが詰められている。その行李の中から男に言われた通り、着替えるために夜着を一枚取り出した。

 着ている夜着のひもを緩めると、何かがかさりと音を立てて下に落ちた。見ると、その音の正体は小さく折り畳まれた文であった。

 こんなものを夜着の内袋に入れた覚え、藤兵衛にはない。もちろん着る時にはなかった。そうなると、思い当たる人物は先程まで一緒にいた男しかいない。

 恐る恐るその文を開き、目を凝らして見てみると、藤兵衛にも読めるように分かりやすく、丁寧な字が連ねられていた。
 そこには、まず忍びの三病のうちの一つ、“恐れ”が暗闇を通してお前に当てはまる、と。そして、その恐れの対象である暗闇を克服するためにするべきことがいくつか挙げられていた。

【お前なら克服できると信じている】

 そういう励ましの言葉で文は終わっている。
 だが、文の内容は助言という形を取りながらも、藤兵衛に現実を突きつけた。

 藤兵衛にだって、今のまま暗闇を恐れ続けることがいけないということは、誰に言われずとも自分が一番分かっている。ただ、分かってはいるが、怖いものは怖い。それに、本当は怖いものは暗闇だけではない。幽霊だって怖いし、怒っている人も怖い。他にもまだまだ沢山ある。そういう状態で、今までずるずるとここまで来た。

 だがしかし。
 恐いものの中でも暗闇に関しては、これから先、いつかは必ず夜間鍛錬を当たり前にこなさなければならなくなる。先輩達に聞いた話では、夜にどれだけ起きていられるかをまず行うらしいが、その後は夜の山中に出る実習もあるとか。そうなった時、きっと前に皆と別行動を取った時のように遅れてしまう。今度は体力でなくて、恐怖で。

(こわいけど……みんなにおいていかれるほうが、ぜったいいやだ)

 並べ書かれている言葉のうち、いくつかはすぐにはできそうもない。
 でも、少しずつなら。恐いものを減らせるように、自分にできることからでも。

 一人、密かにそう決意を固めた藤兵衛は、失くさないようにと行李こうりの中にその文をそっとしまった。

 中途半端になっていた着替えをささっと済ませ、布団に潜り込む……前に三郎の足を退かし、掛け布団の下に入れてやる。それからようやく布団に横になった。

 そういえば、これだけ親切にしてもらったのに名を聞いていないということに、今更ながら藤兵衛は気づいた。

(こんどあったとき、もういっかいあやまって、おれいをいおう。なまえは、そのときに)

 隣からは三郎のいびきが規則正しく聞こえて来る。単調なそれは聞き慣れてしまった藤兵衛の目蓋をもゆっくりと重くしていく。それからしばらくして、部屋の中に藤兵衛の寝息もかすかに響くようになった。

 藤兵衛が眠りに落ちてすぐ。木枠の窓から漏れる月明かりの筋に招かれるように、二人の枕元に座る男の姿があった。

 そっと伸ばす手は、二人の髪に触れそうで触れない。そして、男は立ち上がり、藤兵衛がしまった文を行李こうりから取り出す。それからもう一度二人の寝顔を見た後、すうっとかすみが晴れるように消えていった。

 残念ながら、藤兵衛に男との次の再会の機会は与えられなかった。

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