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28.初めての夜

この心が揺らがないうちに

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***


 そう結葉ゆいはに衝撃の告白をしていた丁度その頃――。

 タワーマンションの一室で、偉央いおは一人、まんじりともせず暗闇に溶け込むように静寂をまとって座っていた。

 偉央いおにとっては結葉ゆいはがこの家を出て行って初めての夜だ。

 偉央いおは冷蔵庫のモーター音と、自分の吐息ぐらいしか聴こえてこないひっそりと静まり返った部屋の中、電気も付けずにスツールに腰掛けていた。

 昼休みに帰宅した時、結葉ゆいはが部屋からいなくなっていることに気が付いて、山波やまなみそうと話して。

 電話口、そうから明確に結葉ゆいはかくまっていると聞かされたわけではなかった偉央いおだったけれど、相手の口ぶりから結葉ゆいはそうを頼っていることは明白だと思った。

 それと同時、そうが、結葉ゆいはが家出をするに至った経緯いきさつ――偉央いお結葉ゆいはにした非人道的な数々の仕打ち――を知っていることも確信したのだ。


 だからこそ、偉央いおは意を決してそうに言ったのだ。
『――でしたら話は早い』
 と。



***


 開けっぱなしのカーテンから淡い月光が部屋の中に差し込んでいる。
 満月が近いのか、それは結構な明るさだった。

 月明かりとは別に、部屋のあちこちでテレビの主電源を表す赤いランプや、DVDデッキの時計表示、ウォーターサーバーが稼働していることを示す電源ランプなどなど、様々な家電の待機ランプがほのかな明かりを周囲にもたらしていて、照明を付けていなくても案外部屋にある物の造形などが薄らと見えていた。

 キッチンカウンター前のスツールに腰掛けた偉央いおの手元、結葉ゆいはを繋いでいた足枷あしかせくさりが無機質な光を放っている。

「……結葉ゆいは

 返事などないと分かっていてもつい愛しい妻の名を呼んでしまう偉央いおだ。

 ギュッと足枷を握り締めると、それじゃなくてもエアコンの効いていない室内で冷え切った偉央いおの体温を、鉄の輪っかが更に奪ってしまう。
 偉央いおは、そこから全ての熱が流出してしまうような錯覚を覚えた。

 それならそれでいい、と思ってしまうのは自暴自棄になっているんだろうか。


「……きっとこれで良かったんだよね?」

 誰にともなくつぶやいた偉央いおの低音ボイスが、仄白い月光に滲むように溶ける。

 あのまま結葉ゆいはと共にいたら、自分は恐らく結葉ゆいはあやめてしまっていた。

 偉央いおは、愛する結葉ゆいはを傷付けたいわけでも――ましてや殺したいわけでもない。

 ただ、健やかに自分のそばで笑っていて欲しかったのだ。

 だけど結葉ゆいはを殺してしまう以外に、自分が安心できるすべはないとも思う自分がいて。

 気が付くと、いつも結葉ゆいはに酷いことをして怯えさせ、身体的にも肉体的にも苦痛を強いてしまっていた。

 ふと冷静になったとき、偉央いおはいつも後悔の念に駆られるのと同時、今のままではダメだという焦燥感にさいなまれ続けていた。

 自分の中の〝魔〟から結葉ゆいはを守るには、結葉ゆいはを、自分の手が届かないところに逃すしかない。

 分かっているのに、偉央いおはずっとそれが出来ないでいた。


結葉ゆいは、僕をひとりにしないで?)
 と思う自分と、
結葉ゆいは、僕のそばから一刻も早く逃げて!)
 と、真逆なことを願う自分とが、心の中でずっとせめぎ合っていた。


 今すぐ草の根をかき分けてでも結葉ゆいはを探し出して連れ戻さねば、と思う一方で、このまま逃げ切って欲しいともこいねがってしまう。

 相反する二つの思いで、偉央いおの心はぐちゃぐちゃに乱れていた。


 足枷をはめてしまったことで、結葉ゆいはは両足首に大きな傷を負ってしまった。

 それが、普通にしていればそこまで付くことはない傷だと言うのは、獣医師とは言え医学を学んだ偉央いおには分かっていて。

 それなのに結葉ゆいはを問い詰めることをしなかったのは、自分を傷付けてでも、彼女が偉央いおの元を離れたいと願っているのだと、薄々勘付いていたから。

 だからこそ、今日、偉央いおは敢えて足枷を外して結葉ゆいはが逃げられる〝隙〟を作ったのだ。

 結葉ゆいはを自由にしてやりたいと思う自分と、彼女を手放したくないと執着する自分との攻防の中で、足枷を外しておきながらも、服を取り上げるという暴挙に出た偉央いおだ。

 それで諦めて結葉ゆいはが大人しくしていたなら、そのまま彼女を一生閉じ込めて飼い殺しにしてしまおう。

 もしそういう困難を乗り越えて結葉ゆいはが逃げてなら、彼女の意思を尊重して追うことはすまい。

 そう心に決めていた。

 もぬけのカラになった部屋を見た時、結葉ゆいはに逃げて欲しいと思っていた自分を押さえつけるようにして、嘘であってくれと泣き叫ぶ自分が強く出てしまって、気が付けば取り乱すように結葉ゆいはの影を追い求めてしまっていた。

 だけど――。


 置き去りにされたバスタオルとキッズ携帯を見た時、偉央いおの中でやっと――。

 答えが出せた気がしたのだ。


 偉央いおはいつかこう言う日が来た時のために、と仕舞っておいたものをいつも持ち歩いているカバンから取り出した。

 山波やまなみそうに約束した通り、これを彼宛に送らねばならない。


 この心が揺らがないうちに――。
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