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2章

閑話4。幸せの記憶

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ーー夢を、見ていた。


今見ている、猫や犬や兎が出てくるくせに、現実と錯覚してしまいそうなリアルな夢じゃなくて。

分かりやすく、“ああ、コレは夢だな”って気づかされる夢。



夢の中で目を開けると、見覚えのある…というか、とても懐かしい部屋のベッドに寝ていた。

むくりと起き上がると、シーツについた自分の手が目に入るーーちょうど、エリザと同じくらいの小さな手が。
この夢、子供の頃の記憶がベースになっているのね。

目を覚ましたのは、子供の頃住んでいた家の一室ーー父と母の寝室だ。
その部屋は父に止められてあまり大っぴらに入れない場所だった。

けれど別に鍵が掛かっているわけでもなかったから、探検ごっこと称して何度もこっそり忍び込んで遊んだ場所。
見つからないか、すごくドキドキしながら入ったっけ。

そんなことをボンヤリと思い出しながら、そっと後ろを振り返ってみる。

そこには膨らんだシーツと、上から覗く緩やかに波打つダークブロンドの髪。
ーー亡くなった母が気持ちよさそうに眠っていた。

「!……お母さーー」

掛けかけた声を、伸ばしかけた手を、途中で止める。
これは夢だ。だから……触れた瞬間に、消えてしまうかもしれない。


手を引っ込めながら寝ている母の向こう側を見ると、そこは崩れたシーツが寄っているだけで父の姿はなかった。
首を傾げていると、急に何処からか甘い匂いが漂って、ジュウッと水分の蒸発する音がしてくる。

ああ、今は。この夢の中は。日曜の朝なんだわ。


亡くなった母は自分の仕事をとても愛していて、平日は朝早くから夜遅くまで仕事に没頭する人だった。
その分日曜日だけは家でのんびり過ごすと決めていて、その日だけは朝もゆっくりと眠っていた。

母のことを愛していて同時に母の好きな仕事もそのやり方も尊重した父は、日曜の母を娘たちが起こすのを禁止していた。
そして日曜の朝ご飯は父親が母親の大好物のフレンチトーストを作ってから、まだ寝ている母を起こしにいくというのが我が家の風景で。

『厚めのパンに、ゆっくり焦らず液を染み込ませるのがコツなんだよ』と父が自慢していたフレンチトーストは、姉と私の好物でもあった。


この後のことなんか何も心配せず、今がどれだけ揃っているかなんて考えもせずに。
幸せだけを享受していた子供時代の甘い記憶。


ああーーなんて幸せな夢だろう。
ーーでも、必ず醒める夢だ。



……気づくと、さっきまで寝ていたはずの母の背中はなくて。
ぺしゃんこになったシーツの上に、以前飼っていた猫が寝ていた。

「……マーティ」
この子も、死んだはずなのに。血だらけで、私の腕の中で死んだのに。

すーすーと聞こえる寝息と一緒に、艶やかな黒い毛皮が上下してフワフワと揺れた。


いつの間にか元通りの大きさになっていた手を伸ばして、首元を撫でる。

ーー昔実際にそうした時は、すぐに目を覚まして嫌そうな顔で逃げられたものだけど。

どこまでも私に甘くて都合の良い夢の中では、かつての飼い猫は目を開けることもなく、小さくゴロゴロと喉を鳴らすだけだった。


夢なのに、あったかくて柔らかくて。
……こんな夢なら、ずっと覚めなくていいのに。


どこまでも甘ったれで、大人になりきれていない私は。
そこが確実に夢の中なのを良いことに、マーティのお腹に顔を埋めて泣いたのだった。
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