1 / 2
崩壊
しおりを挟む
26歳の春、俺、月宮奏夜は人生の頂点にいたはずだった。
愛する女性、星凪瑠璃と結婚し、幸せの輪郭がようやく明確になったと思っていた。
瑠璃は高校時代からの恋人で、俺の初めての彼女であり、彼女にとっても俺が初めての彼氏だった。
高校の図書室で出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
俺は目立たない文学少年で、いつも古い小説に埋もれていた。
埃っぽい本棚の間で、太宰治の『人間失格』を手にしていたとき、彼女がふいに話しかけてきた。
「その本、面白い?」と。
瑠璃は明るく、誰とでもすぐに打ち解けるタイプだったが、どこか繊細な影が瞳の奥に揺れていた。それが俺を引きつけた。
デートを重ね、告白を何度か断られても諦めず、高校卒業後にようやくOKをもらった。
あの日の桜並木、彼女の笑顔、頬に触れた春風の感触――全てが宝物だった。
それから互いの夢を応援しながら歩んできた。
瑠璃はイラストレーターを目指し、俺は小さな出版社で編集の仕事に就いた。
給料は多くないが、二人なら十分幸せだった。
結婚生活は順風満帆だった。
瑠璃はカフェでパートをしながらイラストの仕事を少しずつ増やし、俺は彼女の夢を支えることに喜びを感じていた。
月に2回ほど、照れながら子作りに励んだ。
瑠璃の笑顔が俺の全てだった。
だが、幸せは脆いものだ。
月宮刃。
俺の3歳上の兄貴だ。
一流企業に勤め、顔はモデル並み、運動神経は抜群で、学生時代はバスケ部のエース。
両親は刃を溺愛し、いつも俺と比べた。
「奏夜も刃のようになれたらな」と。
刃はそんな期待に応えるように完璧だった。そして、俺を徹底的に見下した。
子供の頃、俺が大事にしていたプラモデルを「子供っぽい」と笑いながら壊した。
高校時代、俺が文芸部で書いた小説を「ゴミ」と一蹴し、クラス中に晒した。
大学受験で第一志望に落ちたとき、「やっぱりお前じゃ無理だな」とニヤついた。
刃にとって俺は、身近で哀れで劣等な存在だった。
そんな兄貴が、結婚式以来、2年ぶりに俺の家に現れた。
理由は「近くに用があったから」だとか。
スーツ姿の刃は相変わらず自信に満ち、俺の狭いアパートを見回して「まだこんなとこ住んでんの?」と笑った。
瑠璃に極力会わせたくなかったが、たまたまその日は彼女が家にいて、顔を合わせることになった。
瑠璃は「せっかくの家族なんだから」と笑顔で対応した。それが間違いだった。
それから刃は週に一度、ふらっと家に顔を出すようになった。
瑠璃は最初、義兄として丁寧に接していたが、次第にその態度が変わった。
刃の自慢話に笑い、海外出張のエピソードに目を輝かせるようになった。
それと共に俺への態度も冷たくなった。
子作りを拒むようになり、夜は背を向けて寝るようになった。
会話も減り、瑠璃の笑顔は俺に向けられることがなくなった。
何かおかしい。
胸騒ぎが止まらなかった。
ある日、仕事を早めに切り上げ、瑠璃のパートが休みの日に家に帰った。
玄関を開けると、聞き慣れない声が響いた。瑠璃の声。
そして、男の声。
リビングのドアを開けた瞬間、世界が崩れた。
そこには瑠璃と刃がいた。
瑠璃は目を閉じ、涎を垂らし、気絶寸前の表情でソファに倒れていた。
刃は上半身裸で、汗に濡れた顔で俺を見た。そして、ニヤリと笑った。
「昔から言ってたろ。お前のものは俺のものだよ、奏夜」
悪びれることなく、刃はそう言った。
瑠璃は俺を見ても反応しなかった。
いや、彼女の目はもう俺を映していなかった。
頭が真っ白になった。
叫びたかったが、声が出なかった。
足が震え、膝から崩れ落ちそうだった。
俺はただ、呆然と床を見つめた。
10年間の愛が、たった数秒で粉々に砕けた。
俺は走ってその場から逃げ出した。
◇
家を飛び出し、気づけば近所の公園にいた。夕方の公園は静かで、ブランコの軋む音だけが響いた。
全ての気力を失っていた。
瑠璃との思い出が頭を巡る。
初めて手をつないだあの日のこと、初めてキスした冬の夜、結婚のプロポーズをした花見の公園。
あの笑顔はもう戻らない。
生きる意味すら見えなくなった。
冷たいベンチに座り、空を見上げた。
星一つない曇り空が、俺の心を映しているようだった。
気づくと辺りは真っ暗になっていた。
体は冷え切り、指先は感覚を失っていた。
どこへ行けばいい?
家には戻れない。
あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
何か飲んで落ち着こう。
そう思い、いつも使っているコンビニに向かった。
寂れた商店街の奥にひっそりと佇むコンビニ。
人気がなく、慎ましく建っている。
看板の蛍光灯がチカチカと点滅し、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。
店内に入ると、他にお客はいなかった。
ボーッとしながら、いつも飲んでいるカフェオレを手に取った。
レジに向かう途中、ふとタバコの棚に目が留まった。
瑠璃はタバコが嫌いだったから、最近は全く吸っていなかった。
でも、もうそんなことを気にする必要はない。レジに着くと適当に目についた銘柄を呟く。
「タバコ吸うんですね」
顔を上げると、そこには可愛らしい女の子が立っていた。
短い青髪が肩に流れている。
いつもレジにいる子だ。
瑠璃と出会ってから女性を意識することがなくなっていた俺にとって、多分彼女の存在はただの「コンビニの店員」だった。
「……色々あったので」
言葉が思わず漏れた。
彼女は少し驚いたように目を見開き、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「良かったらお話、聞きますよ?」
「いや…大丈夫」
「もうすぐ上がるので。少しだけ待っててください」
「いや、だから…」
「いえ、私も話があるので」
「…話?」
それから10分ほどすると、彼女が従業員出口から出てきた。
「話はあそこの公園で聞きます」と、小さな公園を指差した。
そして、公園に到着し、ベンチに腰を下ろす。
「それで?何があったんですか」
ここまできて話さないわけにもいかないか。
ほぼ初対面で、10歳近く年下だろう女の子に、俺はぽつりぽつりと今あったことを話し始めた。
瑠璃のこと、刃のこと、崩れ落ちた結婚生活のこと。
話すほどに胸の奥が締め付けられ、気づけば涙が溢れていた。
彼女は黙って聞き、話し終えた俺にそっとハンカチを差し出した。
「それは災難でしたね。どうぞ、使ってください」
ハンカチを受け取り、涙を拭う。
柔らかい布の感触が、なぜか少しだけ心を落ち着かせた。
彼女は俺を慰める言葉を並べた。
優しく、どこか大人びた口調で。
「私は結婚したことないですし、結婚の重みとかはよくわかってないですけど、気持ちはわかります。実は私も、つい昨日、一人暮らししてるんですけど、付き合っていた彼氏に貴重品を全部盗まれて、そのまま逃げられちゃって…。ちょっとお兄さんと境遇が似てるというか…。まぁ、彼氏と奥さんでは全然違うかもですけど、気持ちはわかります。自分の何が行けなかったのかなーとか…どうしてれば良かったのかなーとか。でも、そんなの考えてもこっちの意図を汲み取ってくれない限りは結果は変わらなかったと私は思ってたりするんですよね」
「そう…だね」
彼女の言葉に、俺はただ頷くことしかできなかった。
あの時俺がこうしていたら…で、別れを回避できていたかというときっとそんなことはない。
どこかで狂った歯車は一つ直しても、もうどうにもならないのだ。
「あっ、自己紹介を忘れてましたね夜凪《よなぎ》灯莉《とうり》と言います。お兄さんはなんて言うんですか?」
「…月宮奏夜」
「かっこいいお名前ですね」
「…ありがと。…そういえば、話しって?」というと、少し気まずそうな顔を浮かべる。
「あ、いえ…あれは…大丈夫です。家には帰ってないんですか?」
「…うん。あれから帰ってない」
「…じゃあ…奥さんはもしかしたら家にいますか?」
「…それはないでしょ。多分…もぬけの殻になってる」
「…なるほど…それで?
「…いえ、なんでもないです。あれは忘れてください」
「…いや、俺も話を聞いてもらったし、気になるんだけど」
「…えっと…さっき言った通り…お金を全部取られたので、家賃とか水道とかガスとか電気とかそこらへんの払うお金とかも全部取られちゃって…。なのでその…泊めてくれる人を探していたと言いますか…」と、苦笑いしながら言った。
「……え?」
突然の提案に、俺は目を丸くした。
「い、いえ!さっきの話を聞いたらその…そういう状況ではないのはわかりましたし、大丈夫です」
「…そっか。別にいいよ。どうせ、部屋は空いてるし…すぐに引越しとかの予定もないから。それまでなら…」
「ほ、本当ですか?…分かりました…ありがとうございます。でも、タダでは申し訳ないので、…それなら、手で一泊、お口で三泊、あそこで一週間でどうですか?」
「……はい?」
彼女は無邪気な笑顔でそう言った。
まるで冗談のような、でもどこか本気のような口調。
俺は言葉を失い、ただ彼女の顔を見つめた。
彼女の提案はあまりに突飛で、最初は冗談だとしか思えなかった。
だが、彼女の瞳にはどこか真剣な光が宿っていた。
俺は混乱しながらも、彼女の話を聞くことにした。
「冗談……だよね?」
「いえ、本気です。泊めてくれるなら、ちゃんと見返りがあるべきかと。料理も洗濯も得意ですし…。それに……月宮さん、今ひとりでいるの辛くないですか?」
「いや…そうじゃなくて…そもそも家族とかは?」
「父も母もいません。今の家は知り合いの人に契約してもらっているので住めてますけど、その人ともあまり仲良くなくて、多分こんなことがなくても家は追い出されてたと思うんですよね」
そんな状態だったのか。
だからこそ、見知らぬ俺を捕まえたということなのか。
けど、実際俺は生活能力とか全然ないし、正直不安しかないので、掃除とか洗濯とかしてくれる人がいるだけですげー助かるのは間違いなかった。
「…本当にいいの?」
「月宮さんがいいなら私はぜひお願いしたいです」
「…とりあえず…いいよ。けど、やっぱりそういう手でとか…そういうのは…やっぱり…いいよ」
「…分かりました。でも、いつでもしたかったら言ってください。私は本気ですし、ちゃんと泊まった分を記録しておくので」
そして、弾けるような笑顔を見せた。
連絡先を交換した後、彼女は荷物を取りに家に帰った。
夜の空気が冷たく、頬に刺さる。
彼女の笑顔が、なぜか頭から離れなかった。
そして、家で掃除をしていると、彼女は本当にアパートに来た。
制服の上に薄いカーディガンを羽織り、大きなキャリーケースと小さなリュックを背負っている。
部屋に入ると、彼女は興味津々で部屋を見回した。
「いいおうちですね。家賃とかすごそう…」
「そんなに大したことないよ。荷物はあっちの部屋に持っていっていいよ」と、空になった瑠璃の部屋を案内した。
家に帰ってくると、瑠璃の部屋にあった服や化粧品の私物はほとんどなくなっており、テーブルには離婚届と慰謝料と書かれた紙と共に200万円が置かれていた。
一般的な不貞行為の時の慰謝料の相場くらいの金額だった。
手切れ金ということなのだろう。
本当に…馬鹿げている。
裁判を起こしたところで、このお金を受け取った事実がわかれば慰謝料を取ることは難しいし、そもそもあいつにとって200万なんて端金なのだ。
けど、離婚ともなれば財産分与もあるから、この後さらに貯めていた分が折半されることになるだろう。
金に余裕はあっても、あまり心の安らぎにはならないが。
胸が締め付けられる思いだったが、彼女の明るい声がそれを遮った。
「ねえ、月宮さん、晩ご飯何がいいですか?材料買ってきたので、なんか作りますよ」
「……お任せでいいよ」
「じゃあ、オムライスで。私の得意料理なんです」
彼女はキッチンに立つと、手慣れた様子で卵を割り、ケチャップライスを作り始めた。
彼女の動きは軽快で、まるでこの家にずっと住んでいるかのようだった。
オムライスの香りが部屋に広がり、俺の胃が久しぶりに反応した。
そうして出来上がり、食卓に並んだオムライスは、素朴だが心温まる味だった。
彼女は向かいに座り、嬉しそうに俺の反応を見ていた。
「どうですか?美味しいですか?」
「……うん。うまい」
「ふふ、よかったです。明日も何か作ってあげますね」
その夜、彼女は瑠璃の部屋で寝て、俺は自分のベッドで眠ることにした。
家具とか大きなものは残されていたのは幸だった。
だが、眠れなかった。
瑠璃の匂いがまだ残るシーツ、彼女との思い出が頭を巡った。
俺の人生は一体どうなってしまうのだろう。
愛する女性、星凪瑠璃と結婚し、幸せの輪郭がようやく明確になったと思っていた。
瑠璃は高校時代からの恋人で、俺の初めての彼女であり、彼女にとっても俺が初めての彼氏だった。
高校の図書室で出会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。
俺は目立たない文学少年で、いつも古い小説に埋もれていた。
埃っぽい本棚の間で、太宰治の『人間失格』を手にしていたとき、彼女がふいに話しかけてきた。
「その本、面白い?」と。
瑠璃は明るく、誰とでもすぐに打ち解けるタイプだったが、どこか繊細な影が瞳の奥に揺れていた。それが俺を引きつけた。
デートを重ね、告白を何度か断られても諦めず、高校卒業後にようやくOKをもらった。
あの日の桜並木、彼女の笑顔、頬に触れた春風の感触――全てが宝物だった。
それから互いの夢を応援しながら歩んできた。
瑠璃はイラストレーターを目指し、俺は小さな出版社で編集の仕事に就いた。
給料は多くないが、二人なら十分幸せだった。
結婚生活は順風満帆だった。
瑠璃はカフェでパートをしながらイラストの仕事を少しずつ増やし、俺は彼女の夢を支えることに喜びを感じていた。
月に2回ほど、照れながら子作りに励んだ。
瑠璃の笑顔が俺の全てだった。
だが、幸せは脆いものだ。
月宮刃。
俺の3歳上の兄貴だ。
一流企業に勤め、顔はモデル並み、運動神経は抜群で、学生時代はバスケ部のエース。
両親は刃を溺愛し、いつも俺と比べた。
「奏夜も刃のようになれたらな」と。
刃はそんな期待に応えるように完璧だった。そして、俺を徹底的に見下した。
子供の頃、俺が大事にしていたプラモデルを「子供っぽい」と笑いながら壊した。
高校時代、俺が文芸部で書いた小説を「ゴミ」と一蹴し、クラス中に晒した。
大学受験で第一志望に落ちたとき、「やっぱりお前じゃ無理だな」とニヤついた。
刃にとって俺は、身近で哀れで劣等な存在だった。
そんな兄貴が、結婚式以来、2年ぶりに俺の家に現れた。
理由は「近くに用があったから」だとか。
スーツ姿の刃は相変わらず自信に満ち、俺の狭いアパートを見回して「まだこんなとこ住んでんの?」と笑った。
瑠璃に極力会わせたくなかったが、たまたまその日は彼女が家にいて、顔を合わせることになった。
瑠璃は「せっかくの家族なんだから」と笑顔で対応した。それが間違いだった。
それから刃は週に一度、ふらっと家に顔を出すようになった。
瑠璃は最初、義兄として丁寧に接していたが、次第にその態度が変わった。
刃の自慢話に笑い、海外出張のエピソードに目を輝かせるようになった。
それと共に俺への態度も冷たくなった。
子作りを拒むようになり、夜は背を向けて寝るようになった。
会話も減り、瑠璃の笑顔は俺に向けられることがなくなった。
何かおかしい。
胸騒ぎが止まらなかった。
ある日、仕事を早めに切り上げ、瑠璃のパートが休みの日に家に帰った。
玄関を開けると、聞き慣れない声が響いた。瑠璃の声。
そして、男の声。
リビングのドアを開けた瞬間、世界が崩れた。
そこには瑠璃と刃がいた。
瑠璃は目を閉じ、涎を垂らし、気絶寸前の表情でソファに倒れていた。
刃は上半身裸で、汗に濡れた顔で俺を見た。そして、ニヤリと笑った。
「昔から言ってたろ。お前のものは俺のものだよ、奏夜」
悪びれることなく、刃はそう言った。
瑠璃は俺を見ても反応しなかった。
いや、彼女の目はもう俺を映していなかった。
頭が真っ白になった。
叫びたかったが、声が出なかった。
足が震え、膝から崩れ落ちそうだった。
俺はただ、呆然と床を見つめた。
10年間の愛が、たった数秒で粉々に砕けた。
俺は走ってその場から逃げ出した。
◇
家を飛び出し、気づけば近所の公園にいた。夕方の公園は静かで、ブランコの軋む音だけが響いた。
全ての気力を失っていた。
瑠璃との思い出が頭を巡る。
初めて手をつないだあの日のこと、初めてキスした冬の夜、結婚のプロポーズをした花見の公園。
あの笑顔はもう戻らない。
生きる意味すら見えなくなった。
冷たいベンチに座り、空を見上げた。
星一つない曇り空が、俺の心を映しているようだった。
気づくと辺りは真っ暗になっていた。
体は冷え切り、指先は感覚を失っていた。
どこへ行けばいい?
家には戻れない。
あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。
何か飲んで落ち着こう。
そう思い、いつも使っているコンビニに向かった。
寂れた商店街の奥にひっそりと佇むコンビニ。
人気がなく、慎ましく建っている。
看板の蛍光灯がチカチカと点滅し、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。
店内に入ると、他にお客はいなかった。
ボーッとしながら、いつも飲んでいるカフェオレを手に取った。
レジに向かう途中、ふとタバコの棚に目が留まった。
瑠璃はタバコが嫌いだったから、最近は全く吸っていなかった。
でも、もうそんなことを気にする必要はない。レジに着くと適当に目についた銘柄を呟く。
「タバコ吸うんですね」
顔を上げると、そこには可愛らしい女の子が立っていた。
短い青髪が肩に流れている。
いつもレジにいる子だ。
瑠璃と出会ってから女性を意識することがなくなっていた俺にとって、多分彼女の存在はただの「コンビニの店員」だった。
「……色々あったので」
言葉が思わず漏れた。
彼女は少し驚いたように目を見開き、すぐに柔らかい笑顔を浮かべた。
「良かったらお話、聞きますよ?」
「いや…大丈夫」
「もうすぐ上がるので。少しだけ待っててください」
「いや、だから…」
「いえ、私も話があるので」
「…話?」
それから10分ほどすると、彼女が従業員出口から出てきた。
「話はあそこの公園で聞きます」と、小さな公園を指差した。
そして、公園に到着し、ベンチに腰を下ろす。
「それで?何があったんですか」
ここまできて話さないわけにもいかないか。
ほぼ初対面で、10歳近く年下だろう女の子に、俺はぽつりぽつりと今あったことを話し始めた。
瑠璃のこと、刃のこと、崩れ落ちた結婚生活のこと。
話すほどに胸の奥が締め付けられ、気づけば涙が溢れていた。
彼女は黙って聞き、話し終えた俺にそっとハンカチを差し出した。
「それは災難でしたね。どうぞ、使ってください」
ハンカチを受け取り、涙を拭う。
柔らかい布の感触が、なぜか少しだけ心を落ち着かせた。
彼女は俺を慰める言葉を並べた。
優しく、どこか大人びた口調で。
「私は結婚したことないですし、結婚の重みとかはよくわかってないですけど、気持ちはわかります。実は私も、つい昨日、一人暮らししてるんですけど、付き合っていた彼氏に貴重品を全部盗まれて、そのまま逃げられちゃって…。ちょっとお兄さんと境遇が似てるというか…。まぁ、彼氏と奥さんでは全然違うかもですけど、気持ちはわかります。自分の何が行けなかったのかなーとか…どうしてれば良かったのかなーとか。でも、そんなの考えてもこっちの意図を汲み取ってくれない限りは結果は変わらなかったと私は思ってたりするんですよね」
「そう…だね」
彼女の言葉に、俺はただ頷くことしかできなかった。
あの時俺がこうしていたら…で、別れを回避できていたかというときっとそんなことはない。
どこかで狂った歯車は一つ直しても、もうどうにもならないのだ。
「あっ、自己紹介を忘れてましたね夜凪《よなぎ》灯莉《とうり》と言います。お兄さんはなんて言うんですか?」
「…月宮奏夜」
「かっこいいお名前ですね」
「…ありがと。…そういえば、話しって?」というと、少し気まずそうな顔を浮かべる。
「あ、いえ…あれは…大丈夫です。家には帰ってないんですか?」
「…うん。あれから帰ってない」
「…じゃあ…奥さんはもしかしたら家にいますか?」
「…それはないでしょ。多分…もぬけの殻になってる」
「…なるほど…それで?
「…いえ、なんでもないです。あれは忘れてください」
「…いや、俺も話を聞いてもらったし、気になるんだけど」
「…えっと…さっき言った通り…お金を全部取られたので、家賃とか水道とかガスとか電気とかそこらへんの払うお金とかも全部取られちゃって…。なのでその…泊めてくれる人を探していたと言いますか…」と、苦笑いしながら言った。
「……え?」
突然の提案に、俺は目を丸くした。
「い、いえ!さっきの話を聞いたらその…そういう状況ではないのはわかりましたし、大丈夫です」
「…そっか。別にいいよ。どうせ、部屋は空いてるし…すぐに引越しとかの予定もないから。それまでなら…」
「ほ、本当ですか?…分かりました…ありがとうございます。でも、タダでは申し訳ないので、…それなら、手で一泊、お口で三泊、あそこで一週間でどうですか?」
「……はい?」
彼女は無邪気な笑顔でそう言った。
まるで冗談のような、でもどこか本気のような口調。
俺は言葉を失い、ただ彼女の顔を見つめた。
彼女の提案はあまりに突飛で、最初は冗談だとしか思えなかった。
だが、彼女の瞳にはどこか真剣な光が宿っていた。
俺は混乱しながらも、彼女の話を聞くことにした。
「冗談……だよね?」
「いえ、本気です。泊めてくれるなら、ちゃんと見返りがあるべきかと。料理も洗濯も得意ですし…。それに……月宮さん、今ひとりでいるの辛くないですか?」
「いや…そうじゃなくて…そもそも家族とかは?」
「父も母もいません。今の家は知り合いの人に契約してもらっているので住めてますけど、その人ともあまり仲良くなくて、多分こんなことがなくても家は追い出されてたと思うんですよね」
そんな状態だったのか。
だからこそ、見知らぬ俺を捕まえたということなのか。
けど、実際俺は生活能力とか全然ないし、正直不安しかないので、掃除とか洗濯とかしてくれる人がいるだけですげー助かるのは間違いなかった。
「…本当にいいの?」
「月宮さんがいいなら私はぜひお願いしたいです」
「…とりあえず…いいよ。けど、やっぱりそういう手でとか…そういうのは…やっぱり…いいよ」
「…分かりました。でも、いつでもしたかったら言ってください。私は本気ですし、ちゃんと泊まった分を記録しておくので」
そして、弾けるような笑顔を見せた。
連絡先を交換した後、彼女は荷物を取りに家に帰った。
夜の空気が冷たく、頬に刺さる。
彼女の笑顔が、なぜか頭から離れなかった。
そして、家で掃除をしていると、彼女は本当にアパートに来た。
制服の上に薄いカーディガンを羽織り、大きなキャリーケースと小さなリュックを背負っている。
部屋に入ると、彼女は興味津々で部屋を見回した。
「いいおうちですね。家賃とかすごそう…」
「そんなに大したことないよ。荷物はあっちの部屋に持っていっていいよ」と、空になった瑠璃の部屋を案内した。
家に帰ってくると、瑠璃の部屋にあった服や化粧品の私物はほとんどなくなっており、テーブルには離婚届と慰謝料と書かれた紙と共に200万円が置かれていた。
一般的な不貞行為の時の慰謝料の相場くらいの金額だった。
手切れ金ということなのだろう。
本当に…馬鹿げている。
裁判を起こしたところで、このお金を受け取った事実がわかれば慰謝料を取ることは難しいし、そもそもあいつにとって200万なんて端金なのだ。
けど、離婚ともなれば財産分与もあるから、この後さらに貯めていた分が折半されることになるだろう。
金に余裕はあっても、あまり心の安らぎにはならないが。
胸が締め付けられる思いだったが、彼女の明るい声がそれを遮った。
「ねえ、月宮さん、晩ご飯何がいいですか?材料買ってきたので、なんか作りますよ」
「……お任せでいいよ」
「じゃあ、オムライスで。私の得意料理なんです」
彼女はキッチンに立つと、手慣れた様子で卵を割り、ケチャップライスを作り始めた。
彼女の動きは軽快で、まるでこの家にずっと住んでいるかのようだった。
オムライスの香りが部屋に広がり、俺の胃が久しぶりに反応した。
そうして出来上がり、食卓に並んだオムライスは、素朴だが心温まる味だった。
彼女は向かいに座り、嬉しそうに俺の反応を見ていた。
「どうですか?美味しいですか?」
「……うん。うまい」
「ふふ、よかったです。明日も何か作ってあげますね」
その夜、彼女は瑠璃の部屋で寝て、俺は自分のベッドで眠ることにした。
家具とか大きなものは残されていたのは幸だった。
だが、眠れなかった。
瑠璃の匂いがまだ残るシーツ、彼女との思い出が頭を巡った。
俺の人生は一体どうなってしまうのだろう。
0
あなたにおすすめの小説
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる