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16 「正幸の不安」
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正幸は落ち着かなかった。
帰宅しても、あの女の視線が頭から離れない。
数日前、息子の友人、英太郎の隣にいた女性。
「桜川」という名に心当たりはないかと聞いてきた。
だが、自分は知らない。
あの時の会話で納得したのではなかったのか。
優一は昔から、女の話を家に持ち込まない。
それが“性格”なのか、“守り方”なのか。正幸はもう、触れないことにしてきた。
だからこそ、今日の光景が引っかかる。
人が集まる場所だ、偶然だったと思いたい。
だが、胸の奥の違和感は薄くならなかった。
じっと見ていた、もしかしてブースに寄って声をかけたのではないだろうか。
いや、それだけではない、もしかしたら連絡先、チラシなどを手に入れたとしたらどうだろう。
偶然だと思いながら、正幸は数日前の着信履歴から英太郎の番号を押した。
ブースに寄って声をかけたかもしれない。
――いや、それだけならまだいい。
連絡先、チラシや名刺など、手がかりになるものを、あの場で手に入れていたら?
考えすぎだ、偶然だ。
そう言い聞かせても、胸の奥の違和感だけが残る。
正幸は着信履歴を開き、数日前の番号を押した。
英太郎に話を聞かなければと思ったのだ。
その夜、英太郎のスマホに「正幸」の表示が浮かんだ。
「遅い時間にすまない。今日、フリマの会場で……君と一緒に来た女性を見かけた」
英太郎は驚いた。
「……どこで」
「大型モールの広場だ。フリーマーケットがあったんだ、里奈さんが友人夫婦と出店していてね」
正幸は淡々と続ける。
「偶然だと思おうとした。人が集まる場所だから」
その間が、妙に重い。
「だが、彼女は立ち止まったまま動かなかった。品物を見るでもない。視線が気になった」
英太郎の声が掠れた。
「里奈さんのブースを見ていた」
英太郎は、すぐには返事ができなかった。
「……里奈さんを、見てたってことですか」
通話を切ると同時に、英太郎は女へ発信した。
呼び出しは一度で繋がる。
「今日、モールのイベントにいたな」
呼び出しは一度で繋がる。
「今日、モールのイベントにいたな」
英太郎は声を落とした。
「里奈さんのブースを見てた。……否定するなら言え」
「作品、人気みたいだったし。サイトもあるって聞いたから」
――サイト。
名刺か、カードか。掴んだなら次は――会う。
「やめろ」
「里奈さんに触れたら、優一に伝わる。そこまで分かってて動くなら、もう止められない」
英太郎は言葉を続けた。
「里奈さんに触れたら、優一に伝わる」
「じゃあ、どうしろって言うの」
女の声が尖る。
「私は待てない」
英太郎は返せなかった。
反論の言葉がないわけじゃない。今ここで刺激すれば、踏み込む確率が上がる。
だから黙るしかなかった。
――まず確認する。外に出ている情報なのかどうか。
英太郎は深く息を吸い、もう一度、正幸へ発信した。
「正幸さん。確認だけ、させてください」
言葉を選んで、切り出す。
「里奈さん、名刺やカード、配ってましたか」
「名刺も渡してたな。客が多かった。かなり出たと思う」
迷いのない声。
英太郎の中で、最悪の線が太くなる。
「……里奈さんのサイトのアドレス、教えてもらえますか」
そこで英太郎は、「桜川」の名を飲み込んだ。
「今は詳しく言えません。ただ、外に出ている情報かどうかだけ、先に確認したいんです」
正幸は、しばらく黙ってから言った。
「……わかった。送る。だが――」
言葉が途切れる。
その“だが”だけで、英太郎は背筋を正した。
「……すみません」
「謝るな」
短い一言が、釘みたいに落ちた。
「送る。確認したら、また連絡しろ」
通話が切れた。
英太郎はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
女は暗い部屋で、ショップカードを指先で挟んだままスマホを開いた。
《お知らせ》
出店をきっかけに問い合わせが増えたため、一時休止します。
女はスクロールを止めた。
フリマが終わったばかりだ。
名刺を取ったのも、数時間前のはずなのに、もう“休止”になっている。
女はショップカードを握り直した。
入口が閉じたなら、別の入口を探すだけだ。
スマホの画面を閉じ、暗闇の中で息を吐いた。
英太郎は息を整え、ようやく発信した。
呼び出し音のあと、落ち着いた声が返ってくる。
「すみません、正幸さん。少し確認したいことがあって……」
言葉を慎重に選ぶ。核心に触れず、必要な部分だけを抜き出す。
「里奈さん、サイトの宣伝のために、チラシとか名刺って配ってましたか」
正幸は迷いなく答えた。
「チラシだけじゃない。名刺も渡してたな。客が多かったから、かなり出たと思う」
「里奈さんのサイトのアドレスを教えてもらえませんか」
一瞬の沈黙が落ちた。正幸の警戒が伝わってくる。
英太郎は、言いかけて止めた。
ここで桜川の名を出せば、女の狙いが里奈に向いていると知れば、正幸は守ろうとして動く。優一にも。
「……今、詳しいことは言えないんです」
説明できない、いや、今は、言わない方がいい。
「……わかった」
正幸の声は静かだ。問い詰めるでも、追い込むでもない。けれど、逃げ道だけは与えない落ち着きがある。
『アドレスは送る。だが――』
そこで言葉が途切れた。
英太郎は喉の奥で息を詰まらせ、掠れた声で呟く。
「……すみません」
顔は見えない。けれど英太郎には、正幸の“圧”がはっきり伝わった。
年上の男が、状況の端緒だけで輪郭を掴み、言葉少なに釘を打つときの圧だ。
『謝るな』
短い一言。だが軽くはない。
『今は言えないんだろう。』
英太郎は、返事をするより先に背筋を正していた。
叱責ではない。確認でもない。
守るためなのか、命令に近い口調だった。
『送る。確認したら、また連絡しろ』
正幸はそれだけ言って通話を切った。
英太郎はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
言えない事情を抱えたままでも、正幸には見抜かれている。
その事実が怖かった。
女はショップカードを指先で挟んだまま、暗い部屋でスマホの画面を見つめていた。
《お知らせ》
いつもご覧いただき、ありがとうございます――。
女の視線が、文字を追っていく。
出店をきっかけに問い合わせとアクセスが増えた。
一時休止。移行準備。共同運営。窓口の一本化。管理面。安心して利用できる形。個別返信は控える。
言葉の一つひとつが、淡々としているのに、確実に“入口”を閉めていく。
呼吸が浅くなる。
(……今?)
フリマが終わったばかりだ。
名刺を手に入れたのも、つい数時間前のはずなのに、もう「休止」と書かれている。偶然で済ませるには、切り替えが早すぎる。
女はスクロールを止めた。
指先が、わずかに震えているのがわかる。
窓口は一本化。管理面も整える。安心して利用できる形――。
それは言い換えれば、余計な接触を切り捨てるということだ。誰かが見知らぬ相手に踏み込
声はほとんど息だった。
里奈が自発的にここまで急いだのか。
それとも、里奈の周りの誰かが――。
女は画面をもう一度読み返す。丁寧な文章の隙間に、硬い意志だけが透けて見えた。
ただの手続きじゃない。これは“対策”だ。
入口が閉じられた。
その事実が、胸の奥に冷たく沈み、焦りがじわじわと広がっていく。
(……なら、別の入口)
女はショップカードを握り直した。
この程度で止まるつもりはない。
そう自分に言い聞かせるように、スマホの画面を閉じた。
帰宅しても、あの女の視線が頭から離れない。
数日前、息子の友人、英太郎の隣にいた女性。
「桜川」という名に心当たりはないかと聞いてきた。
だが、自分は知らない。
あの時の会話で納得したのではなかったのか。
優一は昔から、女の話を家に持ち込まない。
それが“性格”なのか、“守り方”なのか。正幸はもう、触れないことにしてきた。
だからこそ、今日の光景が引っかかる。
人が集まる場所だ、偶然だったと思いたい。
だが、胸の奥の違和感は薄くならなかった。
じっと見ていた、もしかしてブースに寄って声をかけたのではないだろうか。
いや、それだけではない、もしかしたら連絡先、チラシなどを手に入れたとしたらどうだろう。
偶然だと思いながら、正幸は数日前の着信履歴から英太郎の番号を押した。
ブースに寄って声をかけたかもしれない。
――いや、それだけならまだいい。
連絡先、チラシや名刺など、手がかりになるものを、あの場で手に入れていたら?
考えすぎだ、偶然だ。
そう言い聞かせても、胸の奥の違和感だけが残る。
正幸は着信履歴を開き、数日前の番号を押した。
英太郎に話を聞かなければと思ったのだ。
その夜、英太郎のスマホに「正幸」の表示が浮かんだ。
「遅い時間にすまない。今日、フリマの会場で……君と一緒に来た女性を見かけた」
英太郎は驚いた。
「……どこで」
「大型モールの広場だ。フリーマーケットがあったんだ、里奈さんが友人夫婦と出店していてね」
正幸は淡々と続ける。
「偶然だと思おうとした。人が集まる場所だから」
その間が、妙に重い。
「だが、彼女は立ち止まったまま動かなかった。品物を見るでもない。視線が気になった」
英太郎の声が掠れた。
「里奈さんのブースを見ていた」
英太郎は、すぐには返事ができなかった。
「……里奈さんを、見てたってことですか」
通話を切ると同時に、英太郎は女へ発信した。
呼び出しは一度で繋がる。
「今日、モールのイベントにいたな」
呼び出しは一度で繋がる。
「今日、モールのイベントにいたな」
英太郎は声を落とした。
「里奈さんのブースを見てた。……否定するなら言え」
「作品、人気みたいだったし。サイトもあるって聞いたから」
――サイト。
名刺か、カードか。掴んだなら次は――会う。
「やめろ」
「里奈さんに触れたら、優一に伝わる。そこまで分かってて動くなら、もう止められない」
英太郎は言葉を続けた。
「里奈さんに触れたら、優一に伝わる」
「じゃあ、どうしろって言うの」
女の声が尖る。
「私は待てない」
英太郎は返せなかった。
反論の言葉がないわけじゃない。今ここで刺激すれば、踏み込む確率が上がる。
だから黙るしかなかった。
――まず確認する。外に出ている情報なのかどうか。
英太郎は深く息を吸い、もう一度、正幸へ発信した。
「正幸さん。確認だけ、させてください」
言葉を選んで、切り出す。
「里奈さん、名刺やカード、配ってましたか」
「名刺も渡してたな。客が多かった。かなり出たと思う」
迷いのない声。
英太郎の中で、最悪の線が太くなる。
「……里奈さんのサイトのアドレス、教えてもらえますか」
そこで英太郎は、「桜川」の名を飲み込んだ。
「今は詳しく言えません。ただ、外に出ている情報かどうかだけ、先に確認したいんです」
正幸は、しばらく黙ってから言った。
「……わかった。送る。だが――」
言葉が途切れる。
その“だが”だけで、英太郎は背筋を正した。
「……すみません」
「謝るな」
短い一言が、釘みたいに落ちた。
「送る。確認したら、また連絡しろ」
通話が切れた。
英太郎はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
女は暗い部屋で、ショップカードを指先で挟んだままスマホを開いた。
《お知らせ》
出店をきっかけに問い合わせが増えたため、一時休止します。
女はスクロールを止めた。
フリマが終わったばかりだ。
名刺を取ったのも、数時間前のはずなのに、もう“休止”になっている。
女はショップカードを握り直した。
入口が閉じたなら、別の入口を探すだけだ。
スマホの画面を閉じ、暗闇の中で息を吐いた。
英太郎は息を整え、ようやく発信した。
呼び出し音のあと、落ち着いた声が返ってくる。
「すみません、正幸さん。少し確認したいことがあって……」
言葉を慎重に選ぶ。核心に触れず、必要な部分だけを抜き出す。
「里奈さん、サイトの宣伝のために、チラシとか名刺って配ってましたか」
正幸は迷いなく答えた。
「チラシだけじゃない。名刺も渡してたな。客が多かったから、かなり出たと思う」
「里奈さんのサイトのアドレスを教えてもらえませんか」
一瞬の沈黙が落ちた。正幸の警戒が伝わってくる。
英太郎は、言いかけて止めた。
ここで桜川の名を出せば、女の狙いが里奈に向いていると知れば、正幸は守ろうとして動く。優一にも。
「……今、詳しいことは言えないんです」
説明できない、いや、今は、言わない方がいい。
「……わかった」
正幸の声は静かだ。問い詰めるでも、追い込むでもない。けれど、逃げ道だけは与えない落ち着きがある。
『アドレスは送る。だが――』
そこで言葉が途切れた。
英太郎は喉の奥で息を詰まらせ、掠れた声で呟く。
「……すみません」
顔は見えない。けれど英太郎には、正幸の“圧”がはっきり伝わった。
年上の男が、状況の端緒だけで輪郭を掴み、言葉少なに釘を打つときの圧だ。
『謝るな』
短い一言。だが軽くはない。
『今は言えないんだろう。』
英太郎は、返事をするより先に背筋を正していた。
叱責ではない。確認でもない。
守るためなのか、命令に近い口調だった。
『送る。確認したら、また連絡しろ』
正幸はそれだけ言って通話を切った。
英太郎はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
言えない事情を抱えたままでも、正幸には見抜かれている。
その事実が怖かった。
女はショップカードを指先で挟んだまま、暗い部屋でスマホの画面を見つめていた。
《お知らせ》
いつもご覧いただき、ありがとうございます――。
女の視線が、文字を追っていく。
出店をきっかけに問い合わせとアクセスが増えた。
一時休止。移行準備。共同運営。窓口の一本化。管理面。安心して利用できる形。個別返信は控える。
言葉の一つひとつが、淡々としているのに、確実に“入口”を閉めていく。
呼吸が浅くなる。
(……今?)
フリマが終わったばかりだ。
名刺を手に入れたのも、つい数時間前のはずなのに、もう「休止」と書かれている。偶然で済ませるには、切り替えが早すぎる。
女はスクロールを止めた。
指先が、わずかに震えているのがわかる。
窓口は一本化。管理面も整える。安心して利用できる形――。
それは言い換えれば、余計な接触を切り捨てるということだ。誰かが見知らぬ相手に踏み込
声はほとんど息だった。
里奈が自発的にここまで急いだのか。
それとも、里奈の周りの誰かが――。
女は画面をもう一度読み返す。丁寧な文章の隙間に、硬い意志だけが透けて見えた。
ただの手続きじゃない。これは“対策”だ。
入口が閉じられた。
その事実が、胸の奥に冷たく沈み、焦りがじわじわと広がっていく。
(……なら、別の入口)
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