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15 「女の視線が見ていたもの」
正幸が立ち上がった。
「……力になれず、悪かったね」
深く頭を下げる。声は穏やかだったが、どこかに疲れが滲んでいた。
女は反射的に会釈を返したものの、喉に何かがつかえたように言葉が出なかった。
代わりに英太郎が一歩前に出る。
「いえ。本当に、ありがとうございました」
正幸は静かな足取りで暗がりのほうへ消えていった。
——残されたのは、二人だけ、英太郎が女に向き直った。
「……これで、ひとまず前に進めたはずだ」
女は顔を上げることができない。
「納得したかい」
声をかけられても、返事はない。
しばらくして、振り絞るような声がした。
「……納得、って……何を?」
女の言葉に、英太郎はわずかに眉を寄せた。
やはりと思ったのか、それとも呆れたのか、いや、両方かもしれない。
「正幸さんが桜川さんの名前を知らないって話だ。」
納得、できたのだろうか、自分は、女は思い出す。
正幸の話は筋が通っていた、嘘をついている様子もなかった。
英太郎が言うように、高校時代の出来事が優一を“話さない男”に変えたのだとしたら。
父親が桜川の名を知らないのも不思議ではない。
「少し時間を置いたほうがいい」
女は頷くしかできない。
正幸の言葉、高校時代の出来事も、父としての立場も理解できた。
このとき、ふと別の人物の顔が浮かんだ。
妻はどうか。
(夫婦なら……何か知っている可能性はある。でも、本当に知らなかった”としたら?)
自分は空回りばかりしていると思った。
答えにたどり着けないどころか、遠ざかっているような気がする。
日曜の朝、大型スーパーの広場はフリマイベントで埋まっていた。
キッチンカーの行列、呼び込みの声に賑やかな声、ちょっとした祭りだ。
女の頭の中には、昨夜の会話がまだ残っていた。
正幸は「桜川」を知らない。英太郎は納得した顔をした。
――だが、女はまだ、そこに降りられていない。
人の流れの外側を歩きながら、女は会場を“探す目”でなぞった。
そのとき、少し先の一角だけ空気が違うことに気づく。
若い女たちが固まっていて、笑い声が弾んでいる。スマホが何本も上がる。
「見て、これ……めっちゃかわいい」
「ピアスに変更できるって。早いし」
「革も縫い目も綺麗。普通に店レベルじゃん」
列の後ろからテーブルを覗いた瞬間、女の足が止まった。
ブースの販売、売り手の女性の顔が見えたのだ。
間違いない、里奈だ。
彼女は注文を聞き、会計を回し、袋詰めをしていく。
ブースにはもう二人いる。会計と梱包を分担し、客の流れを切らさない配置だ。
(……この場で踏み込む空気じゃない)
それでも女は、列に並んだ。
“客”として正面に立つ。それがいちばん安全で、いちばん近い。
女はサコッシュを手に取り、革の質感を確かめるふりをして里奈の顔を見た。
「これ、すごく綺麗ですね。縫い目が揃ってる」
「ありがとうございます。革は傷が目立ちにくいものを選んでます。」
里奈の笑顔は自然で、客あしらいも手慣れていた。
女は頷きながら、狙いの一段へ進む。
「オーダーって、相談できます?」
「はい。サイズや色、用途を聞いてから、できる範囲でご提案します」
女は、もう一歩だけ踏み込もうとした。
「こういうイベント、次も出られるんですか?」
里奈が答える前に、横から声が割り込んだ。
「すみません、お会計こちらでお願いしまーす」
列の流れを切らさないための声かけだ。
隣の客が身を乗り出す。
「ピアスに変更したいんですけど、今日できます?」
「できます。金具、こちらから選べますよ。」
里奈の意識はそちらへ移り、女の質問は宙に浮いたまま置き去りになる。
駄目だ、客が多すぎて会話が続かないと思った。
女は笑顔を崩さず、サコッシュをそっと戻した。
この場で必要なのは“答え”じゃない。次に繋がる入口だけだ。
視線を落とした先に、小さなカード立てがあった。
屋号とハンドルネーム、URL、連絡用のQR。
女はカードを指先で示した。
「これ、もらってもいいですか。あとでゆっくり見たいので。」
里奈は、ニッコリと笑った。
女はショップカードを一枚とると、その場を離れた。
里奈は忙しそうに笑い、手を動かし続けている。女の存在など、すでに意識の外だ。
昼前の広場は、想像以上に人で埋まっていた。
正幸は少し離れた場所に立ち、邪魔にならない距離から様子を眺めた。
ブースへ行って声をかけるつもりはない。今日は「見に来ただけ」で十分だ。
共同出店だと聞いていたし、里奈の手を止めるのも気が引けた。
それにしても、人が多い。女性客だけでなく、男性も目立つ。
正直、ハンドメイドでここまで集まるのかと正幸は驚いた。
背後で若い男たちの声が聞こえてきた。
「ユウキさんのシルバーだ。ネットだと秒で消えるじゃん」
「再販通知、来た瞬間に押しても負けるやつな」
「リング、サイズその場で見てくれるって。やばい、買う」
笑い声に混じって、「次いつ?」「今ある?」「これ一点?」と、熱のある言葉が飛ぶ。
買う前提の空気が、もう出来上がっていた。
「このサコッシュ、渋いな。タグが漢字って、ずるい」
「色も落ち着いてるし、服選ばないやつだ」
「え、イニシャル入れられるの? 刺繍とビーズ選べるって」
正幸は、そのざわめきを聞くだけで理解した。
ここは“見て終わり”じゃない。ちゃんと店だ。売り場だ。
最初は、フリマと聞いてもっとこぢんまりしたものを想像していた。
家の不用品や、趣味の延長の手作り品――そんなイメージだ。
だが目の前にあるのは、広い会場にぎっしり並ぶブースと、途切れない客の流れ。
値札も陳列も手元の動きも、素人っぽさがない。
妙に嬉しくて、正幸は人波の外へ、そっと足を向けた。
帰ろう、足の向きを変えたときだ。
人の波の向こう、視界の端を、すっと影が横切った。
女の姿に驚いた。見覚えがある。
数日前、英太郎の隣に立ち、「桜川」という名を口にした女性だ。
正幸は無意識に一歩、身体を引いた。
人影の陰へ、視線が交わらない角度へ。
(……ここはフリマ会場だけじゃない。モールもある。店も多い)
偶然だ、そう考えるほうが自然だ。
正幸は呼吸を整え、頭の中で同じ言葉をなぞった。
だが――女は動かない。
立ち止まったまま、視線だけを一定の方向へ固定している。
買い物客の目ではないと思った。
何を見ている。思わず視線の先を追った。
まさかと思う。女が見ていたのは、あるブースだ。
正幸は、気づいた。
里奈さんを見ている?
「……力になれず、悪かったね」
深く頭を下げる。声は穏やかだったが、どこかに疲れが滲んでいた。
女は反射的に会釈を返したものの、喉に何かがつかえたように言葉が出なかった。
代わりに英太郎が一歩前に出る。
「いえ。本当に、ありがとうございました」
正幸は静かな足取りで暗がりのほうへ消えていった。
——残されたのは、二人だけ、英太郎が女に向き直った。
「……これで、ひとまず前に進めたはずだ」
女は顔を上げることができない。
「納得したかい」
声をかけられても、返事はない。
しばらくして、振り絞るような声がした。
「……納得、って……何を?」
女の言葉に、英太郎はわずかに眉を寄せた。
やはりと思ったのか、それとも呆れたのか、いや、両方かもしれない。
「正幸さんが桜川さんの名前を知らないって話だ。」
納得、できたのだろうか、自分は、女は思い出す。
正幸の話は筋が通っていた、嘘をついている様子もなかった。
英太郎が言うように、高校時代の出来事が優一を“話さない男”に変えたのだとしたら。
父親が桜川の名を知らないのも不思議ではない。
「少し時間を置いたほうがいい」
女は頷くしかできない。
正幸の言葉、高校時代の出来事も、父としての立場も理解できた。
このとき、ふと別の人物の顔が浮かんだ。
妻はどうか。
(夫婦なら……何か知っている可能性はある。でも、本当に知らなかった”としたら?)
自分は空回りばかりしていると思った。
答えにたどり着けないどころか、遠ざかっているような気がする。
日曜の朝、大型スーパーの広場はフリマイベントで埋まっていた。
キッチンカーの行列、呼び込みの声に賑やかな声、ちょっとした祭りだ。
女の頭の中には、昨夜の会話がまだ残っていた。
正幸は「桜川」を知らない。英太郎は納得した顔をした。
――だが、女はまだ、そこに降りられていない。
人の流れの外側を歩きながら、女は会場を“探す目”でなぞった。
そのとき、少し先の一角だけ空気が違うことに気づく。
若い女たちが固まっていて、笑い声が弾んでいる。スマホが何本も上がる。
「見て、これ……めっちゃかわいい」
「ピアスに変更できるって。早いし」
「革も縫い目も綺麗。普通に店レベルじゃん」
列の後ろからテーブルを覗いた瞬間、女の足が止まった。
ブースの販売、売り手の女性の顔が見えたのだ。
間違いない、里奈だ。
彼女は注文を聞き、会計を回し、袋詰めをしていく。
ブースにはもう二人いる。会計と梱包を分担し、客の流れを切らさない配置だ。
(……この場で踏み込む空気じゃない)
それでも女は、列に並んだ。
“客”として正面に立つ。それがいちばん安全で、いちばん近い。
女はサコッシュを手に取り、革の質感を確かめるふりをして里奈の顔を見た。
「これ、すごく綺麗ですね。縫い目が揃ってる」
「ありがとうございます。革は傷が目立ちにくいものを選んでます。」
里奈の笑顔は自然で、客あしらいも手慣れていた。
女は頷きながら、狙いの一段へ進む。
「オーダーって、相談できます?」
「はい。サイズや色、用途を聞いてから、できる範囲でご提案します」
女は、もう一歩だけ踏み込もうとした。
「こういうイベント、次も出られるんですか?」
里奈が答える前に、横から声が割り込んだ。
「すみません、お会計こちらでお願いしまーす」
列の流れを切らさないための声かけだ。
隣の客が身を乗り出す。
「ピアスに変更したいんですけど、今日できます?」
「できます。金具、こちらから選べますよ。」
里奈の意識はそちらへ移り、女の質問は宙に浮いたまま置き去りになる。
駄目だ、客が多すぎて会話が続かないと思った。
女は笑顔を崩さず、サコッシュをそっと戻した。
この場で必要なのは“答え”じゃない。次に繋がる入口だけだ。
視線を落とした先に、小さなカード立てがあった。
屋号とハンドルネーム、URL、連絡用のQR。
女はカードを指先で示した。
「これ、もらってもいいですか。あとでゆっくり見たいので。」
里奈は、ニッコリと笑った。
女はショップカードを一枚とると、その場を離れた。
里奈は忙しそうに笑い、手を動かし続けている。女の存在など、すでに意識の外だ。
昼前の広場は、想像以上に人で埋まっていた。
正幸は少し離れた場所に立ち、邪魔にならない距離から様子を眺めた。
ブースへ行って声をかけるつもりはない。今日は「見に来ただけ」で十分だ。
共同出店だと聞いていたし、里奈の手を止めるのも気が引けた。
それにしても、人が多い。女性客だけでなく、男性も目立つ。
正直、ハンドメイドでここまで集まるのかと正幸は驚いた。
背後で若い男たちの声が聞こえてきた。
「ユウキさんのシルバーだ。ネットだと秒で消えるじゃん」
「再販通知、来た瞬間に押しても負けるやつな」
「リング、サイズその場で見てくれるって。やばい、買う」
笑い声に混じって、「次いつ?」「今ある?」「これ一点?」と、熱のある言葉が飛ぶ。
買う前提の空気が、もう出来上がっていた。
「このサコッシュ、渋いな。タグが漢字って、ずるい」
「色も落ち着いてるし、服選ばないやつだ」
「え、イニシャル入れられるの? 刺繍とビーズ選べるって」
正幸は、そのざわめきを聞くだけで理解した。
ここは“見て終わり”じゃない。ちゃんと店だ。売り場だ。
最初は、フリマと聞いてもっとこぢんまりしたものを想像していた。
家の不用品や、趣味の延長の手作り品――そんなイメージだ。
だが目の前にあるのは、広い会場にぎっしり並ぶブースと、途切れない客の流れ。
値札も陳列も手元の動きも、素人っぽさがない。
妙に嬉しくて、正幸は人波の外へ、そっと足を向けた。
帰ろう、足の向きを変えたときだ。
人の波の向こう、視界の端を、すっと影が横切った。
女の姿に驚いた。見覚えがある。
数日前、英太郎の隣に立ち、「桜川」という名を口にした女性だ。
正幸は無意識に一歩、身体を引いた。
人影の陰へ、視線が交わらない角度へ。
(……ここはフリマ会場だけじゃない。モールもある。店も多い)
偶然だ、そう考えるほうが自然だ。
正幸は呼吸を整え、頭の中で同じ言葉をなぞった。
だが――女は動かない。
立ち止まったまま、視線だけを一定の方向へ固定している。
買い物客の目ではないと思った。
何を見ている。思わず視線の先を追った。
まさかと思う。女が見ていたのは、あるブースだ。
正幸は、気づいた。
里奈さんを見ている?
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