18 / 19
18 「桜川は女、の筈」
しおりを挟む
正幸は「事実だけをはっきりさせろ」と英太郎に言った手前、自分の胸の奥にも残る違和感を無視できなかった。
桜川という女性が亡くなった――交通事故、飲酒運転の可能性。
しかも英太郎は詳しくは知らないようだ。
曖昧なまま動くなと言った。
だが本音を言えば、英太郎がどこまで掘れるのか不安だった。
息子の妻、里奈が何も知らないまま巻き込まれる未来だけは避けたい。
正幸は短く文を打ち、確認のためだと自分に言い聞かせて送信した。
件名:大学の同期の件
優一、桜川という人物に心当たりはあるか。
亡くなったという話を聞いた。
知っていることがあればメールでいい。
送信しても胸の奥は静まらなかった。
夜は長い。画面を見直しても、既読にもならない。
翌朝、通知が鳴った。
正幸は指先で画面を開く。息を整える前に、文字が目に刺さった。
桜川?男なら知ってる。ほとんど話したことない。
男なのに俺に言い寄ってきた。気持ち悪い。
関わらないほうがいい。
正幸は読み終えても、すぐに画面を閉じることができなかった。
桜川は女ではなかったのか、英太郎は言っていた。
なのに、優一は、男と断定した。
しかも、言い寄ってきたと。
正幸は一度、深く息を吸い、要点だけを抜き取って英太郎へ転送した。
余計な感情は付け足さない。付け足せば、状況はさらに歪む。
宛先:英太郎
優一に確認した。
「男なら知ってる。男なのに言い寄ってきた。気持ち悪い。関わるな」との返答。
こちらが聞いている“亡くなった女性”の話と一致しない。
その日、英太郎のスマートフォンが震えた。
表示された名前に、瞬間だけ指が止まる。――正幸さん?
夕方になり、正幸のスマートフォンが再び震えた。
画面に浮かぶ差出人名を見た瞬間、胸の奥が嫌に沈む。
――優一。
正幸は立ったまま端末を開いた。
二通目。たったそれだけの事実で、何かが「まだ終わっていない」と告げてくる。
指先で文面を表示した。
正幸から転送された二通目のメールを読み、英太郎は声が掠れた。
スマートフォンの画面には、優一の文面が短く並んでいる。短いのに、どれも重い。
ストーカー。訴え。金で引っ込めさせた。
亡くなったのも“事件”絡みじゃないのか。
英太郎は、すぐに息を吸えなかった。
優一は軽口を叩くタイプじゃない。
少なくとも、こういう内容で冗談を言う男ではない。
英太郎の視界に、あの女の顔が浮かぶ。
自分と一緒に桜川を追っている、名前も素性も曖昧な女。
彼女が話したのは“女性の桜川”だった。
それなのに、優一の中には“男の桜川”がいて、しかもその男は、女にストーカーをしたという。
――同じ名前が二人いる?
――それとも、どちらかが偽っている?
――あるいは、最初から「そういうふうに見せる」ための情報?
考えようとした瞬間、英太郎の喉が乾いた。
夜の喫茶店は、昼間とは別の顔をしていた。
照明は落ち着き、BGMは会話の輪郭を曖昧にする。客はまばらで、空席の方が多い。それでも“無人”ではない――英太郎にとっては、その程度がちょうどよかった。
窓際ではない。入口から死角になる奥の席。
背中を壁に預け、視線だけで店内を一周する。
逃げ道は二つ。トイレの位置も確認した。
テーブルの上にスマートフォンを置く。
画面は暗いまま。
飲み物の注文はまだしない。手元が忙しいふりをしたくなかった。
英太郎は指先で軽く画面を叩き、メモアプリを開く。
その下で、録音の開始を一度だけ確認する。
音量は最小。通知音も切ってある。
――言った言わないを残さないためではない。残すためだ。
正幸さんに聞かせる。
曖昧な言葉を曖昧なまま渡さない。
それが今の自分にできる最低限だった。
時計を見る。約束の時間は過ぎている。
遅れて来るのは想定内だ。女は主導権を渡さない。
遅れてきて、こちらを待たせた事実で空気を握る。
その通りに、女は現れた。
英太郎は淡々と言った。
「優一に聞いたのは、俺じゃない」
女が瞬きをした。
一拍遅れて、目が細くなる。
「正幸さんだ。気になって、優一に“桜川”のことを確認した」
女の表情から、わずかな余裕が抜け落ちた。
怒りでもなく、怯えでもない。想定の崩壊だ。
英太郎が動いたと踏んでいたのに、別の人物が先に手を伸ばしていた――そのズレが女の足場を奪う。
「……あなたが動いたんじゃないの」
「俺は報告を受けただけだ」
英太郎はペンを置き、女をまっすぐ見た。
「その報告が、食い違っている」
女は片手でカップに触れ、すぐに離した。熱かったのではない。落ち着くための癖だ。
「……食い違い?」
英太郎は短く頷いた。
「優一が話していたのは、“男の桜川”だ」
女の顔色が変わった。
理解より先に拒否が出る。
「男? ……私が話してるのは」
「女性の桜川だろ」
女は言葉を飲み込んだ。
英太郎はその間を逃さず、続けた。
「正幸さんからのメールがある。見たいなら見せる」
女の視線が鋭くなる。
欲しい。けれど、欲しがった瞬間、主導権を渡す。
その葛藤が目に出た。
「……見せて」
英太郎はスマートフォンを持ち上げ、ロックを解除する。
画面に映る文字を、女の側へ“寄せすぎない”距離で傾けた。
読めるが、奪われない距離。
女は文字を追い、唇の端がぴくりと動いた。
「……ほんとに、男って書いてある」
「優一はそう言い切った」
英太郎は、ペンを取り直しながら言う。
「そして、嫌悪を混ぜた。『同性愛者で、自分に寄ってきた。気持ち悪い。関わるな』って」
女の瞳が僅かに揺れた、それは驚きではない。
その言い回しが、いかにも優一という男らしいと思ったのだ。
英太郎は、もう一段だけ踏み込んだ。
「それで終わりじゃない」
女が息を止めたのが分かった。
英太郎は言葉を選ぶ。断定しない。だが、強さは落とさない。
「優一は二通目でこう言った。 『男の桜川は女に付きまとって問題を起こした。金を払って訴えを引っ込めさせたって話もある』――だから、深入りするなと」
女の顔から血の気が引いた。
「……金?嘘でしょう」
女は、言葉を飲み込んだ。
英太郎はペンを握り、女を見た。
「“言うべき事実”だ。日付と場所」
女は、笑わずに息だけを吐いた。
桜川という女性が亡くなった――交通事故、飲酒運転の可能性。
しかも英太郎は詳しくは知らないようだ。
曖昧なまま動くなと言った。
だが本音を言えば、英太郎がどこまで掘れるのか不安だった。
息子の妻、里奈が何も知らないまま巻き込まれる未来だけは避けたい。
正幸は短く文を打ち、確認のためだと自分に言い聞かせて送信した。
件名:大学の同期の件
優一、桜川という人物に心当たりはあるか。
亡くなったという話を聞いた。
知っていることがあればメールでいい。
送信しても胸の奥は静まらなかった。
夜は長い。画面を見直しても、既読にもならない。
翌朝、通知が鳴った。
正幸は指先で画面を開く。息を整える前に、文字が目に刺さった。
桜川?男なら知ってる。ほとんど話したことない。
男なのに俺に言い寄ってきた。気持ち悪い。
関わらないほうがいい。
正幸は読み終えても、すぐに画面を閉じることができなかった。
桜川は女ではなかったのか、英太郎は言っていた。
なのに、優一は、男と断定した。
しかも、言い寄ってきたと。
正幸は一度、深く息を吸い、要点だけを抜き取って英太郎へ転送した。
余計な感情は付け足さない。付け足せば、状況はさらに歪む。
宛先:英太郎
優一に確認した。
「男なら知ってる。男なのに言い寄ってきた。気持ち悪い。関わるな」との返答。
こちらが聞いている“亡くなった女性”の話と一致しない。
その日、英太郎のスマートフォンが震えた。
表示された名前に、瞬間だけ指が止まる。――正幸さん?
夕方になり、正幸のスマートフォンが再び震えた。
画面に浮かぶ差出人名を見た瞬間、胸の奥が嫌に沈む。
――優一。
正幸は立ったまま端末を開いた。
二通目。たったそれだけの事実で、何かが「まだ終わっていない」と告げてくる。
指先で文面を表示した。
正幸から転送された二通目のメールを読み、英太郎は声が掠れた。
スマートフォンの画面には、優一の文面が短く並んでいる。短いのに、どれも重い。
ストーカー。訴え。金で引っ込めさせた。
亡くなったのも“事件”絡みじゃないのか。
英太郎は、すぐに息を吸えなかった。
優一は軽口を叩くタイプじゃない。
少なくとも、こういう内容で冗談を言う男ではない。
英太郎の視界に、あの女の顔が浮かぶ。
自分と一緒に桜川を追っている、名前も素性も曖昧な女。
彼女が話したのは“女性の桜川”だった。
それなのに、優一の中には“男の桜川”がいて、しかもその男は、女にストーカーをしたという。
――同じ名前が二人いる?
――それとも、どちらかが偽っている?
――あるいは、最初から「そういうふうに見せる」ための情報?
考えようとした瞬間、英太郎の喉が乾いた。
夜の喫茶店は、昼間とは別の顔をしていた。
照明は落ち着き、BGMは会話の輪郭を曖昧にする。客はまばらで、空席の方が多い。それでも“無人”ではない――英太郎にとっては、その程度がちょうどよかった。
窓際ではない。入口から死角になる奥の席。
背中を壁に預け、視線だけで店内を一周する。
逃げ道は二つ。トイレの位置も確認した。
テーブルの上にスマートフォンを置く。
画面は暗いまま。
飲み物の注文はまだしない。手元が忙しいふりをしたくなかった。
英太郎は指先で軽く画面を叩き、メモアプリを開く。
その下で、録音の開始を一度だけ確認する。
音量は最小。通知音も切ってある。
――言った言わないを残さないためではない。残すためだ。
正幸さんに聞かせる。
曖昧な言葉を曖昧なまま渡さない。
それが今の自分にできる最低限だった。
時計を見る。約束の時間は過ぎている。
遅れて来るのは想定内だ。女は主導権を渡さない。
遅れてきて、こちらを待たせた事実で空気を握る。
その通りに、女は現れた。
英太郎は淡々と言った。
「優一に聞いたのは、俺じゃない」
女が瞬きをした。
一拍遅れて、目が細くなる。
「正幸さんだ。気になって、優一に“桜川”のことを確認した」
女の表情から、わずかな余裕が抜け落ちた。
怒りでもなく、怯えでもない。想定の崩壊だ。
英太郎が動いたと踏んでいたのに、別の人物が先に手を伸ばしていた――そのズレが女の足場を奪う。
「……あなたが動いたんじゃないの」
「俺は報告を受けただけだ」
英太郎はペンを置き、女をまっすぐ見た。
「その報告が、食い違っている」
女は片手でカップに触れ、すぐに離した。熱かったのではない。落ち着くための癖だ。
「……食い違い?」
英太郎は短く頷いた。
「優一が話していたのは、“男の桜川”だ」
女の顔色が変わった。
理解より先に拒否が出る。
「男? ……私が話してるのは」
「女性の桜川だろ」
女は言葉を飲み込んだ。
英太郎はその間を逃さず、続けた。
「正幸さんからのメールがある。見たいなら見せる」
女の視線が鋭くなる。
欲しい。けれど、欲しがった瞬間、主導権を渡す。
その葛藤が目に出た。
「……見せて」
英太郎はスマートフォンを持ち上げ、ロックを解除する。
画面に映る文字を、女の側へ“寄せすぎない”距離で傾けた。
読めるが、奪われない距離。
女は文字を追い、唇の端がぴくりと動いた。
「……ほんとに、男って書いてある」
「優一はそう言い切った」
英太郎は、ペンを取り直しながら言う。
「そして、嫌悪を混ぜた。『同性愛者で、自分に寄ってきた。気持ち悪い。関わるな』って」
女の瞳が僅かに揺れた、それは驚きではない。
その言い回しが、いかにも優一という男らしいと思ったのだ。
英太郎は、もう一段だけ踏み込んだ。
「それで終わりじゃない」
女が息を止めたのが分かった。
英太郎は言葉を選ぶ。断定しない。だが、強さは落とさない。
「優一は二通目でこう言った。 『男の桜川は女に付きまとって問題を起こした。金を払って訴えを引っ込めさせたって話もある』――だから、深入りするなと」
女の顔から血の気が引いた。
「……金?嘘でしょう」
女は、言葉を飲み込んだ。
英太郎はペンを握り、女を見た。
「“言うべき事実”だ。日付と場所」
女は、笑わずに息だけを吐いた。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
今さらやり直しは出来ません
mock
恋愛
3年付き合った斉藤翔平からプロポーズを受けれるかもと心弾ませた小泉彩だったが、当日仕事でどうしても行けないと断りのメールが入り意気消沈してしまう。
落胆しつつ帰る道中、送り主である彼が見知らぬ女性と歩く姿を目撃し、いてもたってもいられず後を追うと二人はさっきまで自身が待っていたホテルへと入っていく。
そんなある日、夢に出てきた高木健人との再会を果たした彩の運命は少しずつ変わっていき……
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
【完結】愛する人はあの人の代わりに私を抱く
紬あおい
恋愛
年上の優しい婚約者は、叶わなかった過去の恋人の代わりに私を抱く。気付かない振りが我慢の限界を超えた時、私は………そして、愛する婚約者や家族達は………悔いのない人生を送れましたか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる