「クズ夫と愛人にざまぁを。嫁が選んだのは“義父”でした」

木桜 春雨

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18 「桜川は女、の筈」

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 正幸は「事実だけをはっきりさせろ」と英太郎に言った手前、自分の胸の奥にも残る違和感を無視できなかった。
 桜川という女性が亡くなった――交通事故、飲酒運転の可能性。
 しかも英太郎は詳しくは知らないようだ。
 曖昧なまま動くなと言った。
 だが本音を言えば、英太郎がどこまで掘れるのか不安だった。
 息子の妻、里奈が何も知らないまま巻き込まれる未来だけは避けたい。
 正幸は短く文を打ち、確認のためだと自分に言い聞かせて送信した。

 件名:大学の同期の件
 優一、桜川という人物に心当たりはあるか。
 亡くなったという話を聞いた。
 知っていることがあればメールでいい。

 送信しても胸の奥は静まらなかった。
 夜は長い。画面を見直しても、既読にもならない。
 翌朝、通知が鳴った。
 正幸は指先で画面を開く。息を整える前に、文字が目に刺さった。

 桜川?男なら知ってる。ほとんど話したことない。
 男なのに俺に言い寄ってきた。気持ち悪い。
 関わらないほうがいい。

 正幸は読み終えても、すぐに画面を閉じることができなかった。
 桜川は女ではなかったのか、英太郎は言っていた。
 なのに、優一は、男と断定した。
 しかも、言い寄ってきたと。
 正幸は一度、深く息を吸い、要点だけを抜き取って英太郎へ転送した。
 余計な感情は付け足さない。付け足せば、状況はさらに歪む。

 宛先:英太郎
 優一に確認した。
「男なら知ってる。男なのに言い寄ってきた。気持ち悪い。関わるな」との返答。
 こちらが聞いている“亡くなった女性”の話と一致しない。

 その日、英太郎のスマートフォンが震えた。
 表示された名前に、瞬間だけ指が止まる。――正幸さん?

 夕方になり、正幸のスマートフォンが再び震えた。
 画面に浮かぶ差出人名を見た瞬間、胸の奥が嫌に沈む。

 ――優一。

 正幸は立ったまま端末を開いた。
 二通目。たったそれだけの事実で、何かが「まだ終わっていない」と告げてくる。
 指先で文面を表示した。

 正幸から転送された二通目のメールを読み、英太郎は声が掠れた。
 スマートフォンの画面には、優一の文面が短く並んでいる。短いのに、どれも重い。
 ストーカー。訴え。金で引っ込めさせた。
 亡くなったのも“事件”絡みじゃないのか。
 英太郎は、すぐに息を吸えなかった。
 優一は軽口を叩くタイプじゃない。
 少なくとも、こういう内容で冗談を言う男ではない。
 英太郎の視界に、あの女の顔が浮かぶ。
 自分と一緒に桜川を追っている、名前も素性も曖昧な女。
 彼女が話したのは“女性の桜川”だった。
 それなのに、優一の中には“男の桜川”がいて、しかもその男は、女にストーカーをしたという。

 ――同じ名前が二人いる?
 ――それとも、どちらかが偽っている?
 ――あるいは、最初から「そういうふうに見せる」ための情報?
 考えようとした瞬間、英太郎の喉が乾いた。

 夜の喫茶店は、昼間とは別の顔をしていた。
 照明は落ち着き、BGMは会話の輪郭を曖昧にする。客はまばらで、空席の方が多い。それでも“無人”ではない――英太郎にとっては、その程度がちょうどよかった。
 窓際ではない。入口から死角になる奥の席。
 背中を壁に預け、視線だけで店内を一周する。
 逃げ道は二つ。トイレの位置も確認した。
 テーブルの上にスマートフォンを置く。
 画面は暗いまま。
 飲み物の注文はまだしない。手元が忙しいふりをしたくなかった。
 英太郎は指先で軽く画面を叩き、メモアプリを開く。
 その下で、録音の開始を一度だけ確認する。
  音量は最小。通知音も切ってある。
  ――言った言わないを残さないためではない。残すためだ。
 正幸さんに聞かせる。
  曖昧な言葉を曖昧なまま渡さない。
 それが今の自分にできる最低限だった。
 時計を見る。約束の時間は過ぎている。
 遅れて来るのは想定内だ。女は主導権を渡さない。
 遅れてきて、こちらを待たせた事実で空気を握る。
 その通りに、女は現れた。


 英太郎は淡々と言った。
「優一に聞いたのは、俺じゃない」
 女が瞬きをした。
 一拍遅れて、目が細くなる。
「正幸さんだ。気になって、優一に“桜川”のことを確認した」
 女の表情から、わずかな余裕が抜け落ちた。
  怒りでもなく、怯えでもない。想定の崩壊だ。
  英太郎が動いたと踏んでいたのに、別の人物が先に手を伸ばしていた――そのズレが女の足場を奪う。
「……あなたが動いたんじゃないの」
「俺は報告を受けただけだ」
 英太郎はペンを置き、女をまっすぐ見た。
「その報告が、食い違っている」
 女は片手でカップに触れ、すぐに離した。熱かったのではない。落ち着くための癖だ。
「……食い違い?」
 英太郎は短く頷いた。
「優一が話していたのは、“男の桜川”だ」
 女の顔色が変わった。
 理解より先に拒否が出る。
「男? ……私が話してるのは」
「女性の桜川だろ」
 女は言葉を飲み込んだ。
 英太郎はその間を逃さず、続けた。
「正幸さんからのメールがある。見たいなら見せる」
 女の視線が鋭くなる。
 欲しい。けれど、欲しがった瞬間、主導権を渡す。
 その葛藤が目に出た。
「……見せて」
 英太郎はスマートフォンを持ち上げ、ロックを解除する。
 画面に映る文字を、女の側へ“寄せすぎない”距離で傾けた。
 読めるが、奪われない距離。
 女は文字を追い、唇の端がぴくりと動いた。
「……ほんとに、男って書いてある」
「優一はそう言い切った」
 英太郎は、ペンを取り直しながら言う。
「そして、嫌悪を混ぜた。『同性愛者で、自分に寄ってきた。気持ち悪い。関わるな』って」
 女の瞳が僅かに揺れた、それは驚きではない。
 その言い回しが、いかにも優一という男らしいと思ったのだ。
 英太郎は、もう一段だけ踏み込んだ。
「それで終わりじゃない」
 女が息を止めたのが分かった。
 英太郎は言葉を選ぶ。断定しない。だが、強さは落とさない。
「優一は二通目でこう言った。 『男の桜川は女に付きまとって問題を起こした。金を払って訴えを引っ込めさせたって話もある』――だから、深入りするなと」
 女の顔から血の気が引いた。
「……金?嘘でしょう」
 女は、言葉を飲み込んだ。
 英太郎はペンを握り、女を見た。
「“言うべき事実”だ。日付と場所」
 女は、笑わずに息だけを吐いた。
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