続・偽りとためらい

立石 雫

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第5章 9月-旅行(7)

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「藤代」
 チェックインを終えた茂に呼ばれ、ぶらぶらとエントランス横の小さな土産物コーナーを見ていた高志は振り向いた。
「銀杏の間だって」
 部屋の鍵を持った茂に続いて廊下を進む。部屋は二階なので階段を昇り、『銀杏』と書かれた部屋に入った。
「飯は19時な。下の大広間で」
「あ、この部屋で食うんじゃないのか」
「そういうのは一泊何万円もするような宿の話だろ」
 それもそうか、と高志は頷く。まあ、食事の場所がどこであろうが別に構わない。
 買った飲み物を冷蔵庫に入れ、いったん座卓の前に座った。お茶道具一式が入っているらしき蓋つきの桶があり、横の小さな籠の中にお茶請けのお菓子が入っている。
「すぐ風呂行く?」
 茂はクローゼットを開けて中を物色していたが、そこから浴衣を取り出した。
「そうだな。やることないし」
 ん、と茂が浴衣を手渡してくるのを受け取る。茂はそのまま着替え始めた。高志も受け取った浴衣に着替える。貴重品を金庫に入れ、タオルを持って部屋を出た。
 大浴場に行くと、更衣室に並んだ木製のロッカーはほぼ鍵が付いたままで、おそらく他にはまだ誰も入っていないと思われた。壁に設置された扇風機だけが、規則的に首を振りながら回っている。
 浴衣を脱いで中に入ると、そこは思ったよりも広く、左側にある湯船はいくつかに分かれていて、右側には洗い場があった。そしてつきあたりに露天風呂へと続く扉が見える。
 高志は先に全身を洗い、それから内風呂には入らずにそのまま露天風呂へと出た。岩でできている湯船は写真で見たよりはこぢんまりとしている。中に入り、熱めのお湯の中に腰を下ろす。背中に岩の硬い感触がする。目の前には林が見えていた。葉が風に揺れるような、水が流れているような、自然の立てる音が聴こえてくる。風が顔を撫でる感触は露天風呂ならではのもので、それら全てが心地良くて、高志は自然と目を閉じた。
 やがて引き戸が開く音がして、茂が入ってきた。濡れた髪をかき上げているせいで額が見えている。そのまま岩風呂の中に入ってきて、高志から少し離れたところに座った。
「熱いな」
 お湯の温度は少し高めだった。「うん」と高志も頷く。
「露天風呂って気持ちいいよな。体が熱くて、顔だけ涼しくてさ」
「そうだな」
 そのお湯で既にかなり温まっていた高志は、いったん熱を逃がすために上半身だけお湯から上がり、岩の縁に座った。その高志の体を見て、茂が聞いてくる。
「お前、まだ柔道やってんの?」
「いや、今はやってない。やりたいんだけどな」
「へえ。全然衰えないな」
「たまにジムに行ってる」
「ああ。筋トレ?」
「うん。最近多いだろ、小規模で二十四時間営業のところ。近くにあるから」
「ああ、あるな。うちの近所にもあった」
 9月頭のこの時期は、昼間はまだまだ残暑が厳しいが、日が落ちた後は少し涼しくなってきていた。ある程度体の熱が逃げた後、高志はまたお湯に身を沈めた。茂はその横で、後ろの岩に後頭部を預けて気持ち良さそうに目を閉じている。
「お前って、家で風呂に浸かる?」
 ふと高志が問いかけると、茂が目だけ開けて高志を見る。
「いやー、ほとんどシャワーだけだな。藤代は?」
「実家だと毎日入ってたけど、家出てからはやっぱシャワーばっかになった」
「分かる。たまに浸かると気持ちいいんだけどな。何か面倒だよな」
 しばらく浸かっているとやはり熱くなったのか、今度は茂が軽く水音を立てて立ち上がる。そのまま高志と同じように岩の縁に座った。
 高志は少しだけそちらを見て、すぐにまた目の前の林に視線を戻した。本当は、変な意味ではなくもう少し見たかったのだが、昼間のこともあり、やめておいた。目を逸らしながらの一瞬で無意識に名残惜しく思い、一拍遅れてその自分自身の感想を認識する。何を気にしているんだ。男の体なのに。でも茂の痩躯はしなやかで高志の目に快く映った。全てがすらりと細くて無駄な肉がない。自分と同じなのに全然違う体。
 ふと、その体を目でも肌でも思うままに堪能しているであろう年上の女上司のことを思い出す。今、茂の体に触ることが許される唯一の人間。そして、高志自身も昔その体に触れたことがあったことを思い出した。しかしそれはただ事実として思い出しただけで、リアルな感覚はほとんど思い出せなかった。その時は特に何かを感じたこともなかった気がする。ほとんど見なかったし、触ることもなかった。
「お前って、実は割と引き締まってるよな」
 おかしな思考を振り切るように、何気ない口調でそう言ってみた。言いながら茂を見上げると、「お前に言われてもな」と苦笑が返ってくる。
「単に脂肪がないからそう見えるんだろうけど」
「でも、全然筋肉ないって訳でもないだろ」
「まあでも、今はインドアだけど、子供の頃は外でばっか遊んでたし、畑の手伝いとかもしてたからなー」
「部活は?」
「中学では野球部だったよ」
「まじで?」
「はは、意外? まあ田舎だったし、友達と一緒に何となく入った感じかな」
「高校ではやってなかったのか?」
「高校は帰宅部だった。兄ちゃんが家出てたから家の手伝いしないといけなくてさ。……っていう言い訳で遊んでたけど」
 茂が笑いながら話す。
「中学の頃に兄ちゃんからゲームのおさがり貰って、それではまったんだ。ほら、俺の部屋にゲームたくさんあっただろ。あれ、兄ちゃんが卒業して実家に帰る時にそのまま置いていったやつがほとんど」
「ああ。丸ごと引き継いだのか」
「うん。俺が高校の時も、帰省してくる時に持って帰ってきてくれたりしてた」
「仲いいんだな」
「そうだな。ちょっと年が離れてるから、割と面倒見てくれたかな」
「お前、子供の頃からそんな感じだった?」
「そんな感じって?」
「よく笑ってた?」
 小さな子供の茂が、にこにこと笑って無邪気に話しているところが目に浮かぶ。そんな弟を可愛がらない方が難しいだろう、と高志は思った。そして、そうやって周りに可愛がられて育った子供は、ますます可愛げのある人間になってますます周りから好かれるようになるのだ。今の茂のように。
「笑ってた? まあ笑ってたかな? 分からないけど。俺、そんなに笑ってる?」
「めちゃめちゃ笑ってるだろ、いつも」
 本人に自覚がないことに驚いて、高志は思わず声を上げる。
「まじか」
 言うそばからまた笑う茂を見て、その美点が長年の生育過程で身に付いたのなら、他人が付け焼き刃で真似できるものではないな、と高志は思った。

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