無敵だけど平穏希望!勘違いから始まる美女だらけドタバタ異世界無双

Gaku

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第一章:旅の始まりと最初の仲間

第2話:方向音痴とギルドの依頼

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 陽光が石畳を温め、街全体が柔らかな琥珀色に染まる昼下がり。俺は、異世界に来て初めての、心からの安寧を味わっていた。

 五年。途方もなく長く、乾ききった歳月だった。灰色の壁に囲まれ、無機質な電子音だけが響く世界。感情は摩耗し、色彩は失われ、ただ生きるためだけに呼吸を繰り返す日々。そんな砂を噛むような生活に、ある日突然、終わりが訪れた。気づけば俺は、この見知らぬ街の広場に立っていたのだ。理由も、方法も、何もわからない。だが、そんなことはどうでもよかった。

 目の前に広がるのは、夢にまで見た光景。青い空、白い雲、そして生命力に満ち溢れた人々の喧騒。俺は、まるで渇ききったスポンジが水を吸い込むように、この世界のすべてを全身で吸収しようとしていた。

 そして今、俺の渇望を満たしてくれる最初の奇跡が、この手の中にある。

 街角の小さなパン屋。年季の入った樫の木の扉を開けると、甘く香ばしい小麦の香りが、記憶の奥底に眠っていた幸福感を呼び覚ました。白髪の柔和な店主が「焼きたてだよ」と笑って手渡してくれたのは、見事な黄金色に膨らんだ、大きな丸いパン。代金として渡された銅貨の重みすら、この世界が現実であることの確かな証左に思えた。

 そのパン屋の焼きたてパンは、五年間の乾いた生活に潤いを与える、まさに天国の味だった。

 俺は水路沿いに据え付けられた、年季の入った木製のベンチに座り、午後の柔らかな日差しを浴びながら、至福のひとときを噛みしめていた。パンの表面はパリッと小気味よい音を立て、中は驚くほどにふわふわで、湯気が立ち上る。一口頬張るごとに、小麦本来の優しい甘みと、ほのかな塩気が口いっぱいに広がっていく。うまい。うますぎる。あまりのうまさに、涙が滲みそうになるのを必死で堪えた。

 俺が腰を下ろしているのは、この水都「アクア・セレナ」を縦横に流れる大運河のほとりだ。運河の水は、春の雪解け水をたっぷりと含んでいるのか、あくまでも清らかで、空の青と白い雲を鏡のように映し出している。時折、優雅な装飾が施されたゴンドラが、船頭の朗々とした歌声と共に、ゆったりと水面を滑っていく。そのゴンドラが立てる波紋は、水面に映る太陽の光を乱反射させ、まるで無数のダイヤモンドダストが舞っているかのようにきらきらと輝いていた。

 運河を渡る風が、心地よく頬を撫でていく。その風は、単なる空気の移動ではなかった。対岸のカフェテラスに咲き乱れる、色とりどりの花々の甘い香りをたっぷりと含んでいる。赤、黄、ピンク、紫。名前も知らない花々が、石造りの花壇から溢れんばかりに咲き誇り、ミツバチたちが忙しそうに蜜を集めている。その花の香りに混じって、微かに運河の水の匂い、そして遠くの露店から漂ってくる果物の瑞々しい香りも感じられた。

 視線を上げれば、街の建物が織りなす美しいスカイラインが目に映る。白壁に木組みの梁が走る家々、赤茶色の瓦屋根が連なる風景、そして遠くには、街のシンボルである巨大な時計塔がそびえ立っている。その時計塔の鐘が、澄んだ音色で午後三時を告げた。ゴーン、ゴーン、ゴーン……。その響きは街全体に染み渡り、人々の営みの中に溶け込んでいく。

 完璧だ。これこそ俺が望んでいた平穏な異世界の日常……。喧騒も、熱気も、危険も、すべてが遠い。ただ、穏やかな時間が流れていくだけ。俺は残りのパンをゆっくりと味わい、この幸福な情景を目に焼き付けた。このまま、この街の片隅で、誰にも知られず、ひっそりと生きていきたい。大それた望みじゃないはずだ。

「よし、次はギルドだな」

 腹ごしらえも済み、心も満たされたところで、俺は名残惜しげにベンチから腰を上げた。この世界で生きていくには、身分証代わりにもなるギルドカードが必須らしい。広場の親切な果物屋の主人が教えてくれた。面倒だが、こればかりは避けて通れない。平穏な生活のためには、まず最低限の社会的地位を確保しなければならないのだ。

 幸い、ギルドは街で一番大きな建物らしく、あの致命的な方向音痴で有名な赤毛のリーダー殿――先ほどゴンドラ乗り場で、船頭相手に「北へ向かえ!」と叫びながら南行きの船に乗り込もうとしていた、やかましい女戦士だ――でもない限り、間違うことはなさそうだ。俺は運河に背を向け、街の中心部へと続く石畳の道を踏みしめた。

 道は、先ほどの静かな水辺とは打って変わって、活気に満ち溢れていた。道行く人々の服装は様々で、質素な旅人風の者から、豪華なドレスをまとった貴婦人まで、まさに多種多様だ。時折、尖った耳を持つエルフや、屈強な体つきのドワーフと思しき人影もすれ違い、ここが紛れもないファンタジーの世界であることを実感させる。

 道の両脇には、様々な店が軒を連ねていた。武具屋の店先には、鈍い光を放つ剣や鎧が並べられ、薬屋からは独特の薬草の匂いが漂ってくる。吟遊詩人がリュートを奏で、その周りには人だかりができていた。すべてが新鮮で、俺の目を楽しませてくれる。

 やがて、ひときわ大きく、周囲の建物を見下ろすかのような威容を誇る石造りの建物が見えてきた。あれが冒険者ギルドに違いない。建物の前には、見るからに歴戦の猛者といった風体の者たちがたむろし、何やら大きな声で談笑している。俺は少しだけ気圧されながらも、意を決してその巨大な木の扉に手をかけた。

「冒険者ギルド」と彫られた重厚な扉を開けると、汗と、エール(ビールに似た酒だろう)の匂い、そして微かな、しかし間違いなく嗅ぎ慣れない血の匂いが混じった熱気が、むわっと顔に吹き付けてきた。

 内部は、外から見た以上に広大で、そして混沌としていた。高い天井を支えるのは、丸太をそのまま使ったかのような太い梁。その梁には、討伐されたであろう巨大なモンスターの頭蓋骨などが飾られている。床は頑丈な石張りだが、長年の使用でところどころがすり減り、無数の傷が刻まれていた。

 そして何より、人でごった返している。屈強な鎧姿の戦士たち、怪しげなローブを纏った魔法使いたち、軽装の斥候らしき者たち。彼らが思い思いの場所でパーティを組み、あるいは一人で酒を飲み、大声で武勇伝を語り合っている。エールジョッキが豪快にぶつかる陽気な音が、あちこちから響き渡っていた。

 壁という壁には、おびただしい数の依頼書(クエストボード)が、隙間なく貼られている。羊皮紙に書かれたそれらは、一枚一枚に、人々の切実な願いや、この世界の脅威が記されているのだろう。「ゴブリンの巣討伐:報酬銀貨三枚」「鉱山までの護衛:報酬銀貨十枚」「迷子の猫探し:報酬銅貨十枚」……。その膨大な情報量が、俺の脳の処理能力を遥かに超えていた。

(うわ、情報量が多い……。人の熱気もすごい。帰っていいか?)

 早くも心が折れそうになるのを必死に堪える。平穏のためだ、平穏のため。俺は自分にそう言い聞かせ、人波をかき分けるようにして、奥にある受付カウンターへと向かった。

 カウンターの中には、数人の職員が忙しそうに働いていた。俺の前に立ったのは、意外にも眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性だった。もっと厳ついおっさんが出てくると思っていたので、少し拍子抜けする。

「ご用件は?」
「あ、えっと、登録を……」
「新規ですね。こちらの用紙に必要事項を記入してください。名前と、何か特技があれば」

 渡された羊皮紙と羽ペンに、俺は少し戸惑った。特技、と言われても。元の世界でのスキルなど、ここで役に立つとは思えない。プログラミング? サーバー構築? 意味不明だろう。

 結局、俺は名前だけを書き、特技の欄は空白のまま突き出した。

「特技はなしか。まあ、最初はそんなものだろう。では、こちらの水晶に手を」

 女性職員に促され、カウンターに置かれた青白い水晶玉にそっと手を触れる。すると、水晶は淡い光を放ち、目の前の羊皮紙に、俺のステータスらしきものが自動的に浮かび上がった。

【名前】ユウジ
【職業】一般市民
【レベル】1
【スキル】なし

 ……潔いほどの凡人っぷりだ。女性職員はそれを見て、特に驚くでもなく、淡々と手続きを進めていく。

「はい、完了です。これがあなたのギルドカード。紛失しないように。それと、あなたはレベル1のFランク冒険者となります。最初は簡単な依頼から受けることをお勧めしますよ。薬草採取とか、街の掃除とかね」

 手渡されたのは、一枚の薄い金属プレートだった。これさえあれば、俺もこの街の一員として認められる。まあ、冒険者として活動する気はまったくないが。目的は達成した。さあ、一刻も早くこの熱気の渦から脱出しよう。

 俺が安堵のため息をつき、カウンターを離れようとした、まさにその時だった。

「で、ギルドマスター! 『水路の怪物』の依頼、あたしたちに任せなさいって!」

 その声だ。甲高くて、妙に自信に満ち溢れた、張りのある声。俺が今、世界で一番聞きたくない声が、すぐ隣のカウンターから聞こえてきた。

 恐る恐る視線を向けると、案の定、そこにいたのは、燃えるような赤い髪をポニーテールにした、あのリーダー殿だった。彼女は、カウンターの中に鎮座する、元冒険者然とした厳つい、まるで熊のような大男――ギルドマスターだろう――に向かって、見事なまでに胸を反らせていた。

 ギルドマスターは、その太い腕を組み、威圧的な目で彼女を見下ろしている。
「ほう、リリアか。お前さん、まだFランクに毛が生えた程度だろう。こいつは危険度Bの大物だぞ。東地区の景観水路を荒らしまわってる厄介な奴で、並のパーティじゃ歯が立たん。お前さんたちのパーティで大丈夫か?」

 その言葉には、侮りというよりも、純粋な心配の色が滲んでいた。しかし、リリアと名乗られた赤毛の女戦士は、その心配をまるで意に介していない。

「失礼ね! あたしはもうすぐEランクに上がる逸材よ! それに、このあたしと、歴戦の魔法使いグラン、鉄壁の僧侶バルガスがいれば、怪物なんてメじゃないわ!」

 リリアがそう言って親指で示した先には、二人の男が立っていた。一人は、腰の曲がった小柄な老人。使い古されたローブを纏い、その顔には深い皺が刻まれている。長い白髭を蓄えた彼は、いかにも魔法使いといった風体だが、その表情は不安げに揺れていた。歴戦の、というには少々頼りなげに見える。彼がグランさんか。

 もう一人は、背の高い寡黙そうな男だった。全身を覆う僧衣は清潔に保たれているが、その表情は能面のように固まっている。ただ、そのがっしりとした体格と、首から下げた聖印の輝きが、彼が「鉄壁」と称される所以なのだろうことを物語っていた。彼がバルガス。

「おいリリア、ちと大物すぎんか…? 危険度Bじゃぞ。ワシらの手に余るやもしれん」
 老魔法使いのグランさんが、枯れた声で真っ当な心配をしている。しかし、自信満々のリーダーの耳には、その懸念は一ミリも届いていないらしい。

「大丈夫だって! チャンスは掴みに行かなきゃ! これをクリアすれば、一気にCランク昇格も夢じゃないわ!」
「しかしだな……」
「バルガスもそう思うでしょ!?」

 リリアに話を振られたバルガスは、何も答えず、ただ静かにこめかみを押さえた。その沈黙が、何より雄弁な答えだった。

(よし、関わる前に退散だ)

 嵐の予感しかしない。俺は彼らに背を向け、気配を殺してその場を離れた。目指すは、壁際のクエストボード。一番隅っこにある、誰にも見向きもされないような、地味で平和な依頼書だ。

 人々の熱狂から逃れるようにボードの前に立つと、俺は丹念に依頼書一枚一枚に目を通し始めた。「オークの集落偵察:危険度C」「リザードマンの討伐:危険度D」。ダメだ、ダメだ。死の匂いしかしない。俺が求めているのはそういうものじゃない。

 そして、ついに見つけた。ボードの一番下の、ほとんど剥がれかかった羊皮紙の切れ端を。

「薬草採取:近くの森でポポロ草を10本。報酬銅貨5枚」

 これだ! これこそ俺の求める異世界ライフ! 危険度ゼロ、競争率ゼロ、達成感もたぶんゼロ。最高じゃないか。ポポロ草がどんな草かも知らないが、まあ何とかなるだろう。俺は満面の笑みを浮かべ、その世界一平和そうな依頼書に、そっと手を伸ばした。

 俺がその依頼書を剥がそうとした、まさにその瞬間だった。

「あなたも見込みがあるわね! 一緒にどう!?」

 背後から伸びてきた手に、ガシッと力強く腕を掴まれた。驚いて振り返ると、そこには太陽のような、一点の曇りもない笑顔を浮かべたリリアがいた。その笑顔は、夏の向日葵のように眩しいが、俺にとっては死神の微笑みにしか見えない。

 なんで俺なんだ。ギルドにはもっと屈強で、やる気に満ち溢れた冒険者が、掃いて捨てるほどいるだろうに。俺は、さっき登録したての、ステータスオール平凡の「一般市民」だぞ。

「いや、俺は遠慮しとく。見ての通り、戦闘能力皆無のただの一般市民なんで。それより、そこの薬草採取が俺を呼んでいる」
 俺は必死に腕を振りほどこうとしながら、穏便に、かつ断固として断りの意思を示した。しかし、女戦士の握力は凄まじく、まるで万力で締め付けられているかのようにびくともしない。人権侵害だ、これは。

「またまたー。謙遜しちゃって! さっきゴンドラ乗り場で見たわよ、あたしたちのピンチ(?)を冷静に分析するその眼! 只者じゃないわね!」

 分析なんかしてない。ただ、地図を逆さまに見て船頭に絡んでいる君たちを、呆れて見ていただけだ。ピンチでもなんでもない、ただの日常コントだった。

「人違いでは……」
「それに、今もそう! この膨大なクエストの中から、一番効率のいい依頼を瞬時に見つけ出すなんて、優れた洞察力の持ち主でしょ!」
「いや、一番安全そうなのを選んだだけで……」
「その謙虚さも気に入ったわ! 私のパーティに必要なのは、あなたみたいな冷静な頭脳を持った軍師タイプなのよ!」

 ダメだ、会話が成立しない。俺の言葉は、彼女のポジティブ変換フィルターを通過することで、すべてが賞賛の言葉に変わってしまうらしい。

 俺が絶望に打ちひしがれ、必死の抵抗を続けていると、騒ぎを聞きつけたギルドマスターが、カウンターから身を乗り出して豪快に笑った。

「まあまあ、リリアがいいって言うなら、腕は確かだろう。こいつの眼力は、時々、本質を捉えることがあるからな! ま、十中八九は外れるが!」

 そのフォローになっているようでなっていない言葉は、鶴の一声ならぬ、ゴリラの咆哮となってギルド内に響き渡った。

「若いうちの苦労は買ってでもしろってな! よし、特別に共同依頼(パーティクエスト)として受理してやる! 報酬は山分けだ、感謝しろよ!」

 ギルドマスターが、ガハハと笑いながら、依頼受理のスタンプを羊皮紙に叩きつける。その乾いた音が、俺の平穏な未来に死刑宣告を下した。

「「「はぁ!?」」」

 俺と、いつの間にか隣に来ていたグランさんの声が、絶望のハーモニーとなって綺麗にハモった。バルガスは、無言で天を仰いでいた。

 こうして、俺の意思も、人権も、平穏な未来も、そのすべてがギルドの熱気の中に飲み込まれ、強制的に「水路の怪物退治」に参加させられることが決定した。俺の手には、握りしめようとしていた「薬草採取」の依頼書ではなく、リリアから無理やり渡された「水路の怪物」の詳細が書かれた、禍々しい依頼書が握られていた。

 ◇

 ギルドの重い扉を背に、俺は初夏の強い日差しに目を細めた。中と外とでは、まるで別世界だ。ギルドの中が混沌とした熱気と喧騒に満ちていたのに対し、外の世界は相変わらず穏やかで、きらきらと輝いている。ああ、早くあちら側の、平穏な世界に戻りたい。

「よし、こっちね!」

 俺の絶望的な願いを打ち砕くように、リリアの元気な声が響いた。彼女はギルドマスターから渡された、目的地の水路を示す地図を一瞥(いちべつ)すると、自信満々に東地区とは真逆の西地区へと歩き出した。しかも、その手に持たれた地図は、見事に上下が逆さまだ。

 もうダメだ。終わってる。このパーティは、クエストを開始する前に遭難するタイプだ。

「リリアよ、そっちは西じゃ。日が沈む方角じゃぞ…。依頼書には、東地区の高級街にある景観水路と書いてあったはずじゃが」

 グランさんが、年長者として、そしてこのパーティ唯一の良心として、か細い声で指摘する。しかし、我らがリーダーは、そんな常識的な指摘などものともしない。

「大丈夫よグラン! これは『近道』なの! 街の構造は頭に入ってるから!」

 彼女は振り返り、ニカッと笑って見せた。その根拠のない自信はどこから来るのだろうか。

「……(深いため息と共に、バルガスががっくりと肩を落とす)」

 俺の隣で、世界の真理を悟ったかのような表情の二人が続く。俺もそれに倣い、これ以上の抵抗は無意味だと悟り、思考を放棄することにした。もはや、この流れに身を任せるしかない。

 一行は、本来向かうべきだった東地区の、華やかな大通りを横目に、どんどん寂れた裏路地へと進んでいく。東地区は、まさに光の世界だった。運河沿いにはお洒落なカフェテラスが並び、白いパラソルの下で貴婦人たちが楽しそうにお茶を飲んでいる。ショーウィンドウには最新のデザインのドレスや、きらびやかな宝石が飾られた高級ブティックが軒を連ね、道行く人々の服装も洗練されている。風に乗って運ばれてくるのは、焼き菓子の甘い香りと、上質な香水の香り。あちらこちらから、楽しげな音楽や笑い声が聞こえてくる。俺が行きたかったのは、あっちの世界だ。

 しかし、俺たちが進んでいる西地区は、まるでその光から生まれた影のような場所だった。

 リリアが「近道」と称して選んだ道は、人通りもまばらな、狭く薄暗い裏路地だった。石畳はところどころが剥がれ、水たまりができている。建物の壁は煤で汚れ、漆喰が剥がれ落ちていた。窓ガラスが割れたまま放置された空き家も目立つ。

 日の光は、密集して立つ高い建物に遮られ、昼間だというのにまるで夕方のような薄暗さだ。運河の水も、東地区の輝くような清流とは違い、心なしか淀んで見えた。水面には得体のしれないゴミが浮かび、よどんだ水の匂いが鼻をつく。爽やかだった風は、ここでは湿っぽく、カビ臭い空気を運んでくるだけだった。

「リリアよ、本当にこっちで合っておるのか? だんだん雰囲気が悪くなってきたが…」
 グランさんが、不安そうに周囲を見回しながら言う。
「大丈夫、大丈夫! 冒険っていうのは、こういう道を通ってこそスリルがあるのよ!」
 リリアは、そんな陰鬱な風景すら、冒険のスパイスとして楽しんでいるようだった。そのポジティブさは、もはや一種の才能だ。

 俺は、隣を歩くバルガスに、そっと話しかけてみた。
「…いつも、あんな感じなんですか?」
 バルガスは、俺の方に視線を向けると、ゆっくりと一度だけ頷き、そして再び深くため息をついた。その一連の動作だけで、彼のこれまでの苦労が手に取るようにわかった。

 そして、十分ほど歩いただろうか。いや、体感時間では一時間にも感じられた。ついに俺たちは、袋小路の突き当たりで足を止めた。
 そこにあったのは、巨大な鉄製のマンホールだった。錆びつき、緑色の苔が生えたそれは、長い間開けられていないことを物語っている。そして、そのマンホールの隙間から、鼻を突き刺す強烈な悪臭と、じっとりとした湿気が、まるで瘴気のように立ち上っていた。ヘドロの腐った匂い、生活排水の匂い、そして何か動物の死骸のような匂い。それらが混じり合った、筆舌に尽くしがたい悪臭だった。

 リリアは、目的の場所(と勘違いしている場所)に到着し、不思議そうに首を傾げた。彼女は手に持った地図――未だに逆さまだ――と、目の前の陰惨なマンホールを交互に見比べている。

「おかしいわね。地図だと、綺麗な水が流れる景観地のはずなのに……。噴水とか、花壇とかがあるって書いてあるんだけど」

 その純粋な疑問に、背後からグランさんが、もはや魂の抜け殻のような力ない声で、静かに、だが的確にツッコミを入れた。

「……お前の頭が、おかしいんじゃ」

 その言葉は、悪臭漂う裏路地に、虚しく響き渡った。俺は、これからの自分の運命を思い、静かに天を仰いだ。平穏な異世界ライフは、どうやら俺が思っていたよりも、ずっと遠い場所にあるらしい。
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