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第二章:お忍び王女と城下の陰謀
第6話:王都の喧騒と初めての「常識」
しおりを挟む風が、季節の移ろいを告げていた。
水門都市アクアレスを出立した頃は、まだ春の名残を留めた柔らかな日差しが、水面にきらめいていた。しかし、馬車に揺られて街道を東へ進むにつれ、風は次第に熱を帯び、道端に咲き乱れる花々は、より一層色鮮やかにその生命力を謳歌し始める。萌えるような若葉だった木々の緑は、力強い深緑へとその姿を変え、降り注ぐ太陽の光を浴びて、濃い影を地面に落としている。季節は、春から初夏へ。生命が最も輝きを放つ季節へと、その舞台を移していた。
グランフェル王国へと続く主要街道は、驚くほど整備されていた。石畳が敷き詰められた道は、馬車の揺れを程よく吸収し、単調な旅の疲労を和らげてくれる。道の両脇には、等間隔に植えられた街路樹が続き、その葉擦れの音が、馬の蹄の音や車輪のきしむ音と混じり合って、心地よい旅のBGMを奏でていた。時折、風が強く吹くと、道沿いの草原に咲く名もなき白い花々が一斉に揺れ、甘く爽やかな香りが、開け放った馬車の窓からふわりと流れ込んでくる。
「……平和だな」
俺、アルスは、馬車の窓枠に肘をつきながら、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
五年前まで、俺の世界は薄暗い書庫の中だけだった。知識だけを貪り、現実から目を背けていた俺にとって、このどこまでも続く青い空と、生命力に満ち溢れた大地は、あまりに眩しく、そして新鮮だった。山を下り、セレスと出会い、旅を始めてからまだひと月も経っていない。しかし、その日々は、俺が書庫で過ごした五年という歳月よりも、遥かに濃密で、彩りに満ちていた。
隣の席では、セレスが静かに刺繍をしていた。彼女の白い神官服の袖口から伸びる、しなやかで白い指が、器用に針と糸を操る。時折、馬車が大きく揺れると、彼女はぴたりと手を止め、揺れが収まるのを待ってから、また正確に針を進めていく。その所作の一つ一つが、彼女の真面目で実直な性格を表しているようだった。
「アルス様、何か?」
俺の視線に気づいたのか、セレスが顔を上げた。澄んだ紫色の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。陽の光が彼女の銀色の髪を透かし、まるで光の糸で編んだかのようにきらきらと輝いていた。
「いえ、何も。ただ、セレスさんは器用だな、と」
「これくらい、神殿では皆が嗜みます。衣類の補修も、大切な務めの一つですから」
そう言って、彼女は少しだけはにかんだ。旅を始めた当初、彼女は常に緊張した面持ちで、感情をほとんど表に出さなかった。だが、共に旅を続けるうちに、こうして少しずつ、柔らかな表情を見せてくれるようになった。それは、俺が彼女に心を開き始めている証拠なのか、あるいは、彼女が俺という存在に慣れてくれた結果なのか。どちらにせよ、悪くない変化だった。
数日間の旅は、穏やかに過ぎていった。昼は街道を進み、夜は道沿いの小さな村や町に宿を取る。宿がない日は、森の開けた場所で野営をした。焚き火をおこし、携帯食料と、道中で手に入れた保存の利く野菜で簡単なスープを作る。火の粉が夜空に舞い上がり、満天の星が、まるでダイヤモンドを散りばめたかのように煌めく。そんな夜、俺たちは他愛もない話をした。俺が山で読んでいた本の種類のこと、セレスが神殿で過ごした日々のこと。お互いの過去に深く踏み込むことはなかったが、言葉を交わすたびに、俺たちの間の見えない壁が、少しずつ溶けていくのを感じていた。
そして、旅立ちから五日目の昼下がり。
緩やかな丘を越えた瞬間、それは、突如として俺たちの眼前に姿を現した。
「……あれが、王都グランヴェルか」
地平線の彼方まで続く広大な平原の、その中心。まるで大地から天へと突き上げた巨大な牙のように、巨大な城壁がどこまでも続いていた。城壁は、幾重にも連なって見え、その高さは、俺が住んでいた山の木々よりも遥かに高い。そして、その城壁に守られるようにして広がる街並みの、さらにその中心に、天を衝くかのように、白亜の城がそびえ立っていた。
城は、太陽の光を浴びて純白に輝き、その無数の尖塔は、まるで王の権威と威光を天に示しているかのようだった。あまりの壮大さと威容に、俺は言葉を失った。本で読んだ知識など、この圧倒的な現実の前では、色褪せた挿絵に過ぎなかった。
「……すごい」
隣から、セレスのか細い、感嘆の声が漏れた。彼女もまた、窓の外に広がる光景に心を奪われているようだった。その紫色の瞳は、憧憬と、ほんの少しの畏怖をたたえて、遥か彼方の王城を見つめていた。
王都に近づくにつれて、街道の往来は明らかに増えていった。屈強な傭兵たちに護衛された豪奢な貴族の馬車、山と荷物を積んだ商人の荷馬車、巡礼者と思しき一団、そして、俺たちのような旅人。様々な身分の、様々な目的を持った人々が、皆、同じ場所を目指していた。道の両脇には、王都で一儲けを狙う露店が並び始め、活気のある呼び込みの声が、あちこちから聞こえてくる。空気は、人々の熱気と期待で、わずかに震えているようだった。
そしてついに、俺たちの馬車は、王都の正門へとたどり着いた。
門は、岩山をくり抜いて作ったかのような、巨大な石造りの建造物だった。その高さは、見上げる首が痛くなるほどで、門の上には、グリフォンの石像が睨みをきかせている。分厚い鉄格子がはめ込まれた門扉は、それ自体が一つの要塞のようだった。門の両脇には、深紅のマントを羽織り、全身を鋼の鎧で固めた衛兵たちが、長い槍を手に直立不動で立っていた。彼らの視線は鋭く、その立ち姿には一分の隙もない。
「止まれ!身分を証明するものを提示せよ!」
衛兵の一人が、俺たちの馬車の前に進み出て、低く、しかしよく通る声で言った。御者が衛兵と何事か言葉を交わし、通行許可証のようなものを渡している。その間も、俺はただ、目の前の圧倒的な光景に気圧されていた。
やがて、許可が下りたのだろう。重々しい音を立てて、鉄格子がゆっくりと引き上げられていく。そして、俺たちの馬車は、巨大な城壁の門をくぐった。
その瞬間、俺は思わず足を止めた。
いや、思考が停止した、と言った方が正しいかもしれない。
門の外と内とでは、まるで世界が違っていた。
アクアレスが静謐な水の都なら、ここは荒れ狂う人の都だ。いや、人の洪水。その表現こそが、最も的確だった。
耳をつんざくような喧騒。
石畳で舗装された、馬車が五台はすれ違えそうなほど広い大通りを、数え切れないほどの人々が、まるで濁流のように行き交っている。色鮮やかな絹の服をまとった貴族、質素だが丈夫そうな服を着た職人、薄汚れた格好の物乞い、異国の言葉を話す商人、鎧を鳴らして歩く騎士。あらゆる人種、あらゆる身分の人間が、そこにはいた。
道の両脇には、天に向かって競い合うように、三階建て、四階建ての石造りの建物が、隙間なくひしめき合っている。建物の窓という窓からは、洗濯物がはためき、人々の話し声や笑い声が絶え間なく降り注いでくる。そして、その建物の屋根の遥か先、この喧騒の果てに、先ほど丘の上から見た白亜の王城が、静かに、そして絶対的な存在感を放ちながら、街を見下ろしていた。青空を突き刺すかのように鋭く尖ったその姿は、この混沌とした街の、唯一不変の支配者であることを示しているかのようだった。
「うっ…人が多い。気分が…山に帰りたい…」
五年間の引きこもり生活で、すっかり人混みへの耐性を失ってしまった俺の体は、この凄まじい情報の奔流を処理しきれずに、悲鳴を上げていた。人の波に酔い、頭がぐらぐらする。様々な匂いが混じり合ったむせ返るような空気と、絶え間なく耳に流れ込んでくる騒音。どこを見ても、人、人、人。俺は、大海に放り出された小舟のような無力感を覚えていた。
そんな俺の様子を見て、隣を歩くセレスが、くすりと小さく笑った。その笑い声は、この喧騒の中ではあまりに小さく、しかし、不思議と俺の耳にはっきりと届いた。
「大丈夫ですよ、アルス様。すぐ慣れます」
彼女はそう言うと、俺の袖を軽く引いた。その控えめな仕草に、少しだけ心が安らぐ。彼女と旅を始めてから、彼女がこうして微笑む回数が、ほんの少しだけ増えたような気がする。それはまあ、悪くない。非常に、悪くないことだった。
「…そうだといいんですけど。とりあえず、少し休める場所を探しましょう。それと…」
俺はセレスの服装に目をやった。彼女が着ているのは、神殿から着てきた純白の神官服だ。旅の汚れで少し色褪せ、袖口や裾には、彼女が丁寧に補修した跡が見える。それはそれで彼女の清廉さを際立たせているのだが、この王都の、華やかで雑多な雰囲気の中では、あまりにも浮いて見えた。道行く人々が、ちらちらと物珍しそうな視線を彼女に送っている。その視線は、やがて俺にも向けられ、「あの貧相な男は、神官様の護衛か何かか?」とでも言いたげな、憐れみを含んでいるように感じられた。
「とりあえず、セレスさんの服を新調しましょう。神官服も、少しほつれてきてますし、旅の間、洗濯も大変だったでしょう」
「えっ!? い、いえ、私はこれで十分です!まだ着られますし、それに…お金も、あまりありませんから…」
セレスは慌てて両手をぶんぶんと横に振った。その紫色の瞳が、不安げに揺れている。彼女の言う通り、俺たちの旅の資金は、決して潤沢ではなかった。だが、これは必要な投資だ。
「いいから。俺が好きでやることです。それに、これだけ目立つ格好をしていると、面倒事に巻き込まれかねない。二人でいても目立たない、普通の旅人の服を買いましょう」
そう。俺は優しい男なのだ。決して、彼女の純白の神官服だけがこの街の華やかさから浮いていて、その連れである俺まで貧乏旅をしているように見られるのが、死ぬほど嫌だとか、そういう利己的な理由では断じてない。うん、断じて。俺は自分にそう言い聞かせ、半ば強引にセレスの手を引いて歩き出した。
王都の大通りは、どこまで行っても人でごった返していた。俺たちは人の波をかき分けるようにして進み、やがて、ひときわ活気に満ちた一角へとたどり着いた。
そこは、市場(バザール)と呼ばれる区画だった。
アーチ状の屋根が架けられた通りに、無数の露店がひしめき合っている。大通りとはまた違う、猥雑で、しかし生命力に満ち溢れた熱気が、俺たちを包み込んだ。
一歩足を踏み入れると、様々な香りが鼻腔をくすぐる。東方から運ばれてきたというスパイスの、鼻の奥をツンと刺激する香り。石窯で焼かれたパンの、甘く香ばしい香り。なめした革の独特な匂いと、色とりどりの花々が放つ芳香。それらが渾然一体となって、市場特有の匂いを作り出していた。
「さあ、見てってよ!今朝獲れたばかりのピチピチの川魚だ!」
「綺麗な首飾りはどうだい、お嬢さん。あんたの美しさを、さらに引き立ててくれるぜ!」
「焼き立てのパイだよ!ハチミツと木の実がぎっしり詰まってるよ!」
人々の陽気な呼び込みの声が、あちこちから飛び交う。その合間を縫うように、広場の隅で吟遊詩人が奏でるリュートの軽快な音色が聞こえてくる。それは、この市場全体を包み込む、陽気な協奏曲のようだった。
セレスは、初めて見る光景に目を丸くしていた。きらびやかな装飾品、見たこともない形の野菜や果物、異国の文様が織り込まれた布地。彼女の視線は、好奇心に満ちて、あちこちへと忙しなく動いている。その様子は、まるで初めておもちゃ屋に連れてこられた子供のようで、見ている俺の口元も、自然と緩んだ。
「さて、仕立て屋はどこかな…」
俺は人の流れに逆らわないようにしながら、キョロキョロと辺りを見回した。服を売る店は数多くあるが、既製品ではなく、彼女の身体に合ったものを見立ててやりたい。そんなことを考えていた俺の耳に、何やら奇妙な、それでいてどこか聞き覚えのあるような甲高い声が、雑踏の中から飛び込んできた。
「だから!話がわからんな、店主!この議論の余地なく完璧な造形を持つ果実に対して、その評価はあまりに不当だと言っているのだ!」
声のした方へ視線を向ける。
そこは、色とりどりの果物が山と積まれた露店だった。リンゴ、オレンジ、ブドウ、そして南国から運ばれてきたのであろう珍しい果物などが、瑞々しい輝きを放っている。その店の前で、一人の小柄な少女が、仁王立ちで腕を組み、店主のオヤジと真正面から向き合っていた。
少女は、旅人風のくたびれたローブをまとい、フードを目深にかぶっているため、顔はよく見えない。しかし、その小さな体からは、その場の空気を支配するほどの、強烈な威圧感が放たれていた。
そして、その少女が熱弁している内容が、俺の足を完全に止めさせた。
「見ろ、この艶やかな深紅の肌!まるで磨き上げられた紅玉(ルビー)のようだ!そして、この芳醇な香り!燦々と降り注ぐ太陽の恵みを、その一身に受けた証であろう!これほど見事な我が国の至宝が、一つで銀貨5枚などと、あまりに安すぎる!ふざけているのか!?最低でも金貨1枚の価値はあって然るべきだ!作り手に対する敬意を、貴様は持ち合わせていないのか!」
……は?
俺は自分の耳を疑った。
聞き間違いか?いや、確かにそう言った。少女が、細くしなやかな指でビシッと指し示しているのは、どこからどう見ても、ただのリンゴだった。それも、市場の他の店で売られているものと比べても、むしろ小ぶりで、少し形のいびつな、何の変哲もないリンゴだ。
そのリンゴ一つに、金貨1枚?
金貨1枚と言えば、一般庶民が一ヶ月は裕福に暮らせる金額だ。平民が泊まる宿なら、何十泊もできる。俺たちが乗ってきた乗り合い馬車の料金も、確か銀貨数枚だったはずだ。
つまり、この少女は、リンゴ一つに馬車代の何倍もの価値があると主張しているのだ。
案の定、店の主人である、人の良さそうな、しかし今は額に青筋を浮かべたオヤジも、心底困惑した表情を浮かべていた。
「お、お嬢ちゃん、だからさっきから言ってるだろ!これはただのリンゴなんだって!王都の西にあるリンゴ農園で、普通に採れたリンゴ!銀貨5枚なんてとんでもない!うちじゃあ、これを一つ銅貨3枚で売ってんだっての!」
「だから!その価値を分かっていないと私は言っているのだ!作り手の丹精込めた努力と、この果実が持つ本来のポテンシャルを、お前は無きものにしている!それは作り手への、そして、この偉大なる大地への冒涜だ!」
「いや、冒涜とか言われてもなあ…」
オヤジは頭をガシガシと掻いている。完全にキャパシティを超えている顔だ。
少女は本気で怒っているらしかった。その声には、微塵の冗談も感じられない。どうやら、自分の常識が世界の常識だと信じて疑わず、このリンゴがとてつもない高級品であると固く信じ込んでいるらしい。そして、それを銅貨3枚で売ろうとする店主を、価値も分からない愚か者か、あるいは何か裏のある詐欺師か何かと勘違いしているようだ。
なんだこの地獄のような値上げ交渉は。
普通、客は値を下げようとするものだろう。店主が提示した価格より、さらに高い値段を払おうと客が必死になるなんて光景、生まれてこの方見たことも聞いたこともない。
周囲には、何事かと足を止めた野次馬たちが、小さな人だかりを作っていた。彼らも、このシュールな光景を、面白半分に、あるいは困惑した面持ちで眺めている。
「なんだいあのお嬢ちゃんは」
「貴族様かねえ。世間知らずにも程がある」
「いやいや、それにしちゃあ身なりが…」
ひそひそと交わされる会話が、風に乗って俺の耳に届く。
見ていて、じわじわと腹の底から笑いがこみ上げてくる。いや、これは面白すぎる。腹筋が痙攣しそうだ。同時に、哀れな店主のオヤジに、ほんの少しだけ同情した。
俺は、本来、面倒事には首を突っ込まない主義だ。特に、こういう訳の分からないトラブルは、触らぬ神に祟りなし、と相場が決まっている。セレスも、俺の袖をくいっと引き、「アルス様、行きましょう」と目で訴えかけてきている。彼女の判断は、百人が百人、正しいと答えるだろう。
だが、しかし。
見て見ぬふりをするには、この状況はあまりに奇妙で、滑稽で、そしてシュールすぎた。俺の心の奥底にある、悪戯心がむくむくと鎌首をもたげるのを感じた。それに、このままでは、少女は本当に金貨1枚を払って、銅貨3枚のリンゴを買ってしまいかねない。それはそれで面白いが、さすがに後味が悪い。
「……はあ」
俺は一つ、大きなため息をついた。セレスが「えっ」という顔で俺を見る。すまない、セレスさん。どうやら俺は、君が思うより、お人好しで、そして性格が悪いらしい。
俺は人混みをかき分け、騒動の中心へと歩みを進めた。
「お嬢さん」
俺は、できるだけ穏やかで、信頼できそうな声色を装って、二人の間に割って入った。
フードの少女と、困り果てた店主のオヤジの視線が、一斉に俺に突き刺さる。
「なんだ、貴様は?」
少女が、警戒心も露わに、鋭い声で問いかけてくる。フードの奥から覗く瞳が、俺を値踏みするように細められた。
俺は、そんな彼女の視線を真っ直ぐに受け止め、そして、隣の店主を軽蔑したような目つきでちらりと見た。
「そいつは悪質なぼったくりだ。お嬢さん、騙されちゃいけない」
「なに?」
「なにぃ!?」
少女と店主の声が、綺麗にハモった。店主のオヤジに至っては、「このガキ、何を言いやがる!」とでも言いたげな、憤怒の形相だ。
俺はそんな店主の反応は完全に無視して、芝居がかった仕草で、少女にしか聞こえないような声で囁いた。
「よく聞いてください。この辺りの市場じゃ、そのリンゴはもっと安く手に入る。例えば…そう、そこの角を曲がって、赤い幌(ほろ)が目印の店があるんだが、そこなら、同じものが銅貨2枚で売ってるぞ」
もちろん、そんな事実はどこにもない。完全な、100パーセントのデタラメだ。赤い幌の店があるかどうかも知らない。だが、俺は確信を持って、さも真実であるかのように言い切った。
俺の言葉を聞いた瞬間、少女の態度が劇的に変化した。
彼女はカッと目を見開き、その小さな体がわなわなと怒りに震え始めた。そして、先ほどまで困惑の表情を浮かべていた店主を、今度は憎悪と侮蔑に満ちた瞳で睨みつけ、ビシッと指を差した。
「な、なにっ!この不届き者めが!銅貨3枚でも不当に安いと心を痛めた私の優しさを踏みにじり、あまつさえ、さらに値を釣り上げて私を騙そうなどと…!万死に値するぞ!」
「いや、だから俺は銅貨3枚だって言ってんだろ!値上げしてんのはお嬢ちゃんの方だろうが!」
店主の悲痛な叫びも、もはや怒りに燃える少女の耳には届いていなかった。彼女は店主を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らし、くるりと俺の方を向いた。そして、フードの下から、キラキラと輝く感謝に満ちた瞳をのぞかせる。
「助かったぞ、旅の者!礼を言う!君がいなければ、危うくこの悪徳商人の言い値で買わされるところだった!君は私の恩人だ!」
「いや、どういたしまして。困ったときはお互い様ですから」
俺は全力で平静を装いながら、さも当然といった風に答える。背後から、「てめえ、人の商売の邪魔しやがって!覚えてやがれ!」という、店主のオヤジの地を這うような低い声が聞こえてくるが、知ったことか。自業自得、いや、俺が原因か。まあ、いい。
少女は満足げに一つ頷くと、俺たちの目の前で、不意にフードを少しだけ上げて、にこりと笑った。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
フードの影から現れたのは、磨き上げられた金貨のように輝く、艶やかな金色の髪。そして、初夏の空をそのまま閉じ込めたかのような、一点の曇りもない、澄み切った青い瞳。肌は、まるで上質な陶器のように白く滑らかで、その小さな顔のパーツ一つ一つが、神が丹精込めて作り上げた芸術品のように、完璧な配置で並んでいた。
そして、その唇が描いた笑顔は、市場の喧騒も、降り注ぐ太陽の光さえも霞ませるほどに、眩しく、そして圧倒的に可憐だった。
「私はアリ。君は?」
その笑顔は、王都の太陽よりも眩しく、そして、とてつもなく大きな面倒事の匂いを、強烈な芳香と共に運んでくるような気がした。俺の野生の勘が、警鐘を乱れ打っている。関わるな、逃げろ、と。
だが、時すでに遅し。
俺は、これから始まるであろう胃の痛い日々を予感し、頭の奥で鳴り響く警鐘を聞かないふりして、ぶっきらぼうに自分の名を告げた。
「……アルスだ」
これが、俺の、そしてセレスとの平穏な二人旅に、間違いなく嵐を呼ぶことになる少女との、運命的な出会いであった。
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